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第五集 永遠の命は羨まず
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建安二十一年(西暦二一六年)、鄴。
南匈奴が帰順。単于と左賢王が入朝。
その日も蔵書復元に精を出していた蔡琰は、その知らせを聞いて筆を取り落とした。
もう会う事はないと思っていた多羅克が、この同じ城市にいる……。
北地で別れたあの時から、数えれば既に十年が過ぎようとしていた。
筆を落とし震えている妻を見て、董祀はどうしたのかと聞いた。
心配そうに見つめる夫の顔を見て我に返った蔡琰。そうだ、自分はもう三度目の人生を歩んでいる。目の前にいる董祀にも良くしてもらっている。今更あの頃に戻る事などできない。そんな不義は働けない。
かつて北地に曹操からの使者がやってきた時、なぜ多羅克と出会う前の長安で、この助けが来なかったのかと天を呪ったものだったが、今度もまた同じであった。なぜ今になって、と。
そんな蔡琰の動揺も、南匈奴の入朝と言う話を聞いた途端の事である。匈奴の地で暮らしていた蔡琰には何か思う所があるのかと、目の前の夫でなくとも、誰でも思い至る事である。
それゆえに、蔡琰は叫んだ。
「北地は恐ろしい所なのです! 匈奴は野蛮で、来る日も来る日も漢に帰る事を願い、夢にまで見ていたのです! あの時の事は、もう思い出したくないのです!!」
蔡琰は涙を流して叫んだ。
そう自分に言い聞かせないと、当時の事を思い出してしまうから。青い空、緑の草原、そしてあの笑顔を……。
両の目からボロボロと涙を流して震える蔡琰。董祀はそんな妻を見たのは初めての事であった。北地で蛮族の妾として辛い思いをした妻。それを知った上で、守り支えると心に決めて婚姻を申し込んだのだ。
董祀は妻を抱きしめて言う。
「心配ない。何があっても守る。もしまた蛮族どもが来たとしても、絶対に手は出させんからな!」
そう言って抱き寄せてきた董祀を、蔡琰は抱き返す。そんな彼女は、心の中で謝り続けていた。ごめんなさい、ごめんなさい、と。それは決して口に出す事が許されぬ謝罪。
目の前にいる愛する夫と、かつて愛し合った草原の王子への……。
曹操から蔡琰との再会を拒絶された多羅克は、独り呆然と鄴の宮城から庭を眺めていた。
かつて蔡琰から聞かされていた漢の都の風景。想像していた物より、ずっと美しい。
そんな多羅克に歩み寄った曹操が声をかける。
「全ては……、わしのせいよ。済まぬ事をしたな……」
多羅克は首を振って微笑んだ。
「良いのです……。今の彼女が幸せならば、それで……」
それが多羅克の精一杯の強がりであると曹操も理解していたが、二人の仲を裂いてしまった張本人である自分自身からは、かける言葉が見当たらなかった。
「あ……」
多羅克が小さく声を上げ、曹操もその視線の先に目をやる。庭の木の枝に、二羽の小鳥が寄り添っていた。
「ただ鴛鴦を、羨みて……」
多羅克がポツリと、詩を詠むように呟いた。曹操がそれに合わせて続ける。
「永遠の命は、羨まず……」
しばらく後、多羅克は曹操に頼み事があるとして、再び正式に謁見を申し込んだ。大勢の文官や武官が立ち並ぶ中、曹操に対して膝を折って包拳する多羅克。
「今日はどうしたのだ。先日の願いなら、どうあっても聞き入れられぬぞ」
曹操に釘を刺された多羅克であるが、どこか晴れやかな顔で言う。
「いえ、本日は丞相に、私の名を付けていただきたく参った次第」
「名とな?」
「漢朝に降ったのです。私に、漢人としての名を」
それは匈奴としての、多羅克という名を捨て、漢人の名に改名するという事であった。周囲の高官たちが騒めく中、曹操は笑みを浮かべて言う。
「そうだな……、狩猟民族として育ってきた、そのしなやかな体だ。豹、と名乗れ」
多羅克は包拳して礼を述べた。
「ありがとうございます。して、姓の方は……」
それが重要であった。個人を示す諱とは違い、姓とは生まれた一族を指すからだ。
曹操はニヤリと不敵に笑って言った。
「劉……」
周囲の高官たちが、先ほどとは比べ物にならぬほどに騒めいた。それは当然だ。劉は漢王朝の皇族の姓なのだから。
だが曹操は笑みを崩さずに周囲の者を制止する。
「何を驚く。考えてもみよ。匈奴は前漢の頃より皇族の姫を幾度か娶っているのだ。この者にも遠縁とは言え漢の皇族の血が流れている以上、劉を名乗っても不思議はなかろう」
匈奴の王位継承者に、漢の皇族の姓を名乗らせた曹操。これにどんな意図があったのか、後世に至るまで謎に包まれている。
いずれにしても南匈奴の左賢王・多羅克は、この時よりその名を捨てて劉豹と名乗る事になったのである。
曹操はそれから数年の後に死去した。当代の覇者となりながら、天下は三国鼎立のまま、中華統一を成す事は無かった。そして同時に死ぬまで漢王朝の臣下であり続けた。
「我は周の文王たればよい」
曹操自身の言葉である。それは遥か昔、暴虐な殷の紂王に幽閉され、その嫡子を処刑されながらも、自身は最後まで殷の臣下であり続けた周の文王の事を自身に投影させた言葉だ。
そんな周は文王亡き後、彼の子である武王が殷を滅ぼしたわけだが、曹操の息子である曹丕は、まさにその言葉通り献帝に禅譲(帝位を譲る事)を迫って自身が皇帝となる。漢王朝は終わりを迎え、魏王朝が誕生したのである。
あの言葉は予言であったのか、曹操の遠回しな指示のようなものであったのか。恐らくはどちらでも無かろう。自分の後を継いだ者が決めれば良い。それが当代の覇者の選択であった。
蔡琰は、父・蔡邕の蔵書復元事業を完遂し、四百を超える書簡には一文字の誤字すら無かったと言われている。これにより戦火で失われたはずの多くの文献が後世に伝わる事となった。
また蔡琰は書家としても父の筆法を受け継いでおり、衛夫人、王羲之など、後世の書家に多大な影響を与えている。
更に晩年には、幼くして親を失った甥を引き取って養育し、文武に精通する秀才に育て上げた。その子の名は羊祜。後に魏晋を支える将として、幾度となく戦場で相対した呉の将・陸抗から「諸葛孔明をも超える」とまで讃えられた名将である。
このように蔡琰は、数多くの事績を歴史に刻んだ才女として語られる事になる。字である昭姫が、時の権力者であった司馬昭の諱と重なる事から避諱され、史書では蔡文姫と呼ばれる事となった。
そして劉豹は、晩年になって親子以上に年の離れた若い娘を娶って子を成した。単于である呼廚泉が没し、既に形式だけの物とは言えその王位を継いだ以上、後継ぎは作らねばならなかったからだ。
そうして生まれた曾孫ほど年の離れた子にもまた漢風の名を与え、漢人と同じように教育を受けさせた。その中でも文武両道を備え特に優秀だった劉淵は、時の権力者であった司馬昭から厚遇を受けるほどであった。
しかしそんな劉淵は後年、魏を事実上簒奪した晋に対し、匈奴の勢力を集めて反乱、これを滅ぼすに至る。漢人の統一王朝を匈奴の手で滅ぼす。これは父の意思に反したのかと言えば、決してそうでは無いだろう。
晋王朝はその成立から三十年以上の間、骨肉相食む政争を続けていたのだ。かつて父が愛した漢人文化を、漢人自身の手で腐敗させていく様を劉淵は見続けたのである。
晋を滅ぼした時、既に老齢だった劉淵は叫ぶ。
「我こそ漢王朝の正統後継者なり!」
そして建国された匈奴の国。その国号は「漢」であった。
漢人文化を愛した劉豹の魂は、その息子・劉淵へと確かに受け継がれていた。後に永嘉の乱と呼ばれた匈奴の反乱は、その魂の叫びであったとも言えるだろう。
それはかつて、戦乱の長安で若き男女が出会ったその日に、始まっていたのかも知れない……。
南匈奴が帰順。単于と左賢王が入朝。
その日も蔵書復元に精を出していた蔡琰は、その知らせを聞いて筆を取り落とした。
もう会う事はないと思っていた多羅克が、この同じ城市にいる……。
北地で別れたあの時から、数えれば既に十年が過ぎようとしていた。
筆を落とし震えている妻を見て、董祀はどうしたのかと聞いた。
心配そうに見つめる夫の顔を見て我に返った蔡琰。そうだ、自分はもう三度目の人生を歩んでいる。目の前にいる董祀にも良くしてもらっている。今更あの頃に戻る事などできない。そんな不義は働けない。
かつて北地に曹操からの使者がやってきた時、なぜ多羅克と出会う前の長安で、この助けが来なかったのかと天を呪ったものだったが、今度もまた同じであった。なぜ今になって、と。
そんな蔡琰の動揺も、南匈奴の入朝と言う話を聞いた途端の事である。匈奴の地で暮らしていた蔡琰には何か思う所があるのかと、目の前の夫でなくとも、誰でも思い至る事である。
それゆえに、蔡琰は叫んだ。
「北地は恐ろしい所なのです! 匈奴は野蛮で、来る日も来る日も漢に帰る事を願い、夢にまで見ていたのです! あの時の事は、もう思い出したくないのです!!」
蔡琰は涙を流して叫んだ。
そう自分に言い聞かせないと、当時の事を思い出してしまうから。青い空、緑の草原、そしてあの笑顔を……。
両の目からボロボロと涙を流して震える蔡琰。董祀はそんな妻を見たのは初めての事であった。北地で蛮族の妾として辛い思いをした妻。それを知った上で、守り支えると心に決めて婚姻を申し込んだのだ。
董祀は妻を抱きしめて言う。
「心配ない。何があっても守る。もしまた蛮族どもが来たとしても、絶対に手は出させんからな!」
そう言って抱き寄せてきた董祀を、蔡琰は抱き返す。そんな彼女は、心の中で謝り続けていた。ごめんなさい、ごめんなさい、と。それは決して口に出す事が許されぬ謝罪。
目の前にいる愛する夫と、かつて愛し合った草原の王子への……。
曹操から蔡琰との再会を拒絶された多羅克は、独り呆然と鄴の宮城から庭を眺めていた。
かつて蔡琰から聞かされていた漢の都の風景。想像していた物より、ずっと美しい。
そんな多羅克に歩み寄った曹操が声をかける。
「全ては……、わしのせいよ。済まぬ事をしたな……」
多羅克は首を振って微笑んだ。
「良いのです……。今の彼女が幸せならば、それで……」
それが多羅克の精一杯の強がりであると曹操も理解していたが、二人の仲を裂いてしまった張本人である自分自身からは、かける言葉が見当たらなかった。
「あ……」
多羅克が小さく声を上げ、曹操もその視線の先に目をやる。庭の木の枝に、二羽の小鳥が寄り添っていた。
「ただ鴛鴦を、羨みて……」
多羅克がポツリと、詩を詠むように呟いた。曹操がそれに合わせて続ける。
「永遠の命は、羨まず……」
しばらく後、多羅克は曹操に頼み事があるとして、再び正式に謁見を申し込んだ。大勢の文官や武官が立ち並ぶ中、曹操に対して膝を折って包拳する多羅克。
「今日はどうしたのだ。先日の願いなら、どうあっても聞き入れられぬぞ」
曹操に釘を刺された多羅克であるが、どこか晴れやかな顔で言う。
「いえ、本日は丞相に、私の名を付けていただきたく参った次第」
「名とな?」
「漢朝に降ったのです。私に、漢人としての名を」
それは匈奴としての、多羅克という名を捨て、漢人の名に改名するという事であった。周囲の高官たちが騒めく中、曹操は笑みを浮かべて言う。
「そうだな……、狩猟民族として育ってきた、そのしなやかな体だ。豹、と名乗れ」
多羅克は包拳して礼を述べた。
「ありがとうございます。して、姓の方は……」
それが重要であった。個人を示す諱とは違い、姓とは生まれた一族を指すからだ。
曹操はニヤリと不敵に笑って言った。
「劉……」
周囲の高官たちが、先ほどとは比べ物にならぬほどに騒めいた。それは当然だ。劉は漢王朝の皇族の姓なのだから。
だが曹操は笑みを崩さずに周囲の者を制止する。
「何を驚く。考えてもみよ。匈奴は前漢の頃より皇族の姫を幾度か娶っているのだ。この者にも遠縁とは言え漢の皇族の血が流れている以上、劉を名乗っても不思議はなかろう」
匈奴の王位継承者に、漢の皇族の姓を名乗らせた曹操。これにどんな意図があったのか、後世に至るまで謎に包まれている。
いずれにしても南匈奴の左賢王・多羅克は、この時よりその名を捨てて劉豹と名乗る事になったのである。
曹操はそれから数年の後に死去した。当代の覇者となりながら、天下は三国鼎立のまま、中華統一を成す事は無かった。そして同時に死ぬまで漢王朝の臣下であり続けた。
「我は周の文王たればよい」
曹操自身の言葉である。それは遥か昔、暴虐な殷の紂王に幽閉され、その嫡子を処刑されながらも、自身は最後まで殷の臣下であり続けた周の文王の事を自身に投影させた言葉だ。
そんな周は文王亡き後、彼の子である武王が殷を滅ぼしたわけだが、曹操の息子である曹丕は、まさにその言葉通り献帝に禅譲(帝位を譲る事)を迫って自身が皇帝となる。漢王朝は終わりを迎え、魏王朝が誕生したのである。
あの言葉は予言であったのか、曹操の遠回しな指示のようなものであったのか。恐らくはどちらでも無かろう。自分の後を継いだ者が決めれば良い。それが当代の覇者の選択であった。
蔡琰は、父・蔡邕の蔵書復元事業を完遂し、四百を超える書簡には一文字の誤字すら無かったと言われている。これにより戦火で失われたはずの多くの文献が後世に伝わる事となった。
また蔡琰は書家としても父の筆法を受け継いでおり、衛夫人、王羲之など、後世の書家に多大な影響を与えている。
更に晩年には、幼くして親を失った甥を引き取って養育し、文武に精通する秀才に育て上げた。その子の名は羊祜。後に魏晋を支える将として、幾度となく戦場で相対した呉の将・陸抗から「諸葛孔明をも超える」とまで讃えられた名将である。
このように蔡琰は、数多くの事績を歴史に刻んだ才女として語られる事になる。字である昭姫が、時の権力者であった司馬昭の諱と重なる事から避諱され、史書では蔡文姫と呼ばれる事となった。
そして劉豹は、晩年になって親子以上に年の離れた若い娘を娶って子を成した。単于である呼廚泉が没し、既に形式だけの物とは言えその王位を継いだ以上、後継ぎは作らねばならなかったからだ。
そうして生まれた曾孫ほど年の離れた子にもまた漢風の名を与え、漢人と同じように教育を受けさせた。その中でも文武両道を備え特に優秀だった劉淵は、時の権力者であった司馬昭から厚遇を受けるほどであった。
しかしそんな劉淵は後年、魏を事実上簒奪した晋に対し、匈奴の勢力を集めて反乱、これを滅ぼすに至る。漢人の統一王朝を匈奴の手で滅ぼす。これは父の意思に反したのかと言えば、決してそうでは無いだろう。
晋王朝はその成立から三十年以上の間、骨肉相食む政争を続けていたのだ。かつて父が愛した漢人文化を、漢人自身の手で腐敗させていく様を劉淵は見続けたのである。
晋を滅ぼした時、既に老齢だった劉淵は叫ぶ。
「我こそ漢王朝の正統後継者なり!」
そして建国された匈奴の国。その国号は「漢」であった。
漢人文化を愛した劉豹の魂は、その息子・劉淵へと確かに受け継がれていた。後に永嘉の乱と呼ばれた匈奴の反乱は、その魂の叫びであったとも言えるだろう。
それはかつて、戦乱の長安で若き男女が出会ったその日に、始まっていたのかも知れない……。
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