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1章

32,王都脱出

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 食堂を出た瞬間から、吉野と橘は駆け足で外へと向かっていった。途中に誰もいなかったのが気になっていたが、外に出ると多くの兵たちが待ち構えていた。

「ここにだけ兵がいるんですかね」
「どうだろ。でも、ここを抜けたらあとは街へ行くだけよね」

 城門前にずらっと並んでおり、やがて背後にも兵が回ってきた。

「先生、プランCで!」
「プランCね。了解!」

 練習場で手合わせをした人たちの姿が見える。遠くにはジーノの姿もある。戸惑いの表情を浮かべているのを見るのがやはりせつなかった。

「王への無礼を働いた罪人よ、大人しくしろ!」

 吉野も橘も初めて見る人間だったが、この集団の指揮をしている人間なのだろう。大柄な男である。

「無礼など働いておりません。客人に対するこのもてなしの方が無礼なのでは?」
「口の回る咎人め。捕まえよ!」

 男の声で戦いが始まろうとしている。

「思ってたよりも暗いな」

 夜であっても城内は明るさがあったはずだが、今はそうなってはいない。吉野がそう言うと、すぐに橘が詠唱を始めた。

「ちょっと目立つけど、いいですよね? 無知蒙昧に蝕まれる者は必定の戦捷に為す術もなく我等の前途を言祝ぐ頌歌を知るだろう、光あれ! ……ま、こんなもんでしょ」

 詠唱後にゴミを払うかのようにパンパンと軽い音を鳴らすと、上空に煌めく一筋の光が城内を照らし出す。昼間ならともかく今は闇の時間帯である。それはあの黒竜のごとく、王都の人々からも見える光となっていた。
 新たな照明によって闇から引きずり出されて一人残らず映し出された兵たちは存外多く潜んでいたことがわかる。さらに加えて、その兵たちの動きが鈍くなった。耳障りな音が彼らを密かに侵食していった。

「明るすぎるけど、仕方ないね。それじゃあ行こうか」

 奇妙なことに武器を持っている兵と持っていない兵がいた。武器を手にしていない兵が吉野に飛びかかったが、軽くかわして足をひっかけて転がした。

(ちょっと痛かったかな。ごめんね)

 相手を気遣う余裕はあった。吉野はクリスの身体強化の修行で、すでに並の兵士が対応できないほどの強さを身につけていたのだった。また、どうやら橘の詠唱魔法により兵たちの相当数が鈍化するデバフ効果が発生しているらしかった。したがって、迂回せずに一直線に城門を目指していった。

「先生、こっち!」

 何人かの兵を蹴散らした後、橘の声を聞き、すぐに橘のもとへと駆け寄ってさっと姿勢を低くして、その場に膝を突いた。

「軽挙妄動して圏套に入る者たちよ、戒めの鎖に愚鈍なるを悟れ!」

 橘が何度も練習した時のように、なめらかに言葉を紡いでいった。
 すると、橘と吉野を中心として発光した糸が広がっていった。その光景はさながら蜘蛛の巣であり、兵はエサである。

「なんだこれは。外れないぞ」
「くそ、こざかしい」
「なぜ斬れないのだ」

 相手を傷つけず、動きを止める役割の魔法として作ったのがこの魔法である。中心を除き、四方八方へと広がって相手を捕縛していく圏套、つまり罠である。橘がイメージとして生み出した蜘蛛の糸の太さは2センチだった。一度でも絡め取られると最後まで抜け出ることができない。当然、斬れるわけがなかった。
 糸に触れないように慎重に飛び越えて、二人は城門へと近づいていく。それでも全ての兵が捕まったわけではなかった。

「跋扈する愚かなる者たちに一時の氷塊の足枷を与えん!」

 今度は吉野が唱えた。吉野の前方に氷が出現し、やがて兵達のもとに辿り付くと、足に氷がまとわりついていった。足をとられた兵たちはその場に転がり、身動きがとれなくなった。
 その後も、いくつかの魔法を使い、ついに残すところは二人の人間だけとなった。
 吉野の前にはジーノ、そして橘の前にはグネリアが立っている。グネリアの目は橘に集中しており、自然とどちらが誰を相手にするかが決まった。


「通しては、くれないのよね?」

 後方からは誰もついてきていなかった。兵たちは動きのとれぬまま、こちらを見ているだけに過ぎなかった。

「私もこの国の兵です。お相手願います」

 最後にジーノと訓練をしたのはいつだったか。最初は衝突から始まったが、その後は良い関係であると思っていた。練習ではいくつかのフェイントを入れても上手くかわすようになっていった。
 この戦いでジーノが武器を使わないのも事情があるのだろう。もしジーノが武器を手にしていたとしたら吉野は魔道具をためらいなく使うつもりだった。

 何度か接近し、そして離れていく。そのような攻防が続いた後、ジーノが左腕を前方に出してきた。が、咄嗟の判断で右腕の方に変えて前に出してきた。ジーノにはデバフ効果はないようだった。

(ジーノに対しては左腕をとって投げたことが多かったよね)

 そんなことを思い出すと、吉野はジーノの右腕をがっちりと固定し、そして勢いをつけたまま綺麗に投げた。身体の重みを一切感じなかった。
 ジーノの大きな身体は弧を描き、そしてジーノの目には月が見えていた。
 ガチャンという鎧の鈍い音がした。

「私ね……」

 吉野はつぶやくように言った。

「実は相手の右腕を投げる方が強いのよ」
「……ははは、乾杯です」

 そして、小さく「ありがとうございました」とつぶやき、ジーノは気を失った。


 一方、橘は嫌な印象しかないグネリアの相手をしていた。

「くっ、ジーノめ、手加減などしおって!」

 少し目を離した隙に、橘はグネリアに接近していた。慌てて、グネリアは周囲に火を張って距離を取った。

「まさか身体強化か? なぜ貴様が!」

 グネリアが子どものようにわめいている。錯乱していると言ってもよかった。
 高位の貴族から、二人を捕縛せよという命令が下された。今この場にいる兵はその命令に従っているにすぎない。
 だが、グネリアは特別に利用価値のない人間をなぜ捕まえるのかという疑問よりも、あのグレンと一緒にいることが許せず、その積み上げられた怒りをぶつけるのに良い機会だと考えていたのだった。
 ただ、グネリアはこの橘が黒竜を生み出した本人であることを知らなかった。認めなかったといっていい。当時、王都にはいなかったからである。それほどまでの箝口令だったが、それでも耳には入ってきていた。しかし、転移者が強い魔法を使えるのは歴史的な英雄だけであり、吉野も橘もただの魔法の使える人間でしかないと思っていた。

 橘はすでに腕輪を外している。したがって、橘の詠唱の言葉はグネリアには通じていない。

「魔術士対策その1、近づく、だね」

 グネリアも例外ではなく、魔法の濫用は相手が近づきすぎると自身にもダメージを受ける危険性があることがわかっている。

「くそっ! 何を話しているんだ!」
「我が化生の姿を以て……欺……夢幻の如く」

 続けて橘は即座に詠唱する。もちろん、グネリアには声の意味を聴きとることができなかった。

(なぜこいつがこんな魔法を……)

 グネリアが反撃をする間も与えず、橘は攻撃の手を緩めない。橘は魔法袋から粉の入った袋をグネリアの周りにまき散らした。そして、すっと胸元の魔道具に言葉を加えると、グネリアの周りには粉を含んだ風が発生した。

「くっ、げほっげほっ、声が!」
「魔術士対策その2、しゃべらせない。かの者が踏みたる大地に汚泥の呪いを与えよ!」

 グネリアの周辺の土が盛り上がり、土砂がグネリアに襲い掛かる。それとともにグネリアの足下がぬかるんだ泥に変わっていく。

「くそ、動きが……」

 グネリアはこちらに飛び出して空中から攻撃をしようとする橘の姿をその目で捉えた。

(こうなれば致し方ない)

「雷よ、かの者に落ちよ!」

 辛うじて唱えたグネリアの魔法は、空中にいた橘に当たった。

(これで終わりだ)

 そのまま受身もとれずに橘はグネリアの目の前に無惨にも倒れていった。
 小さな雷とはいえ、致命傷にもなる魔法である。運が悪ければ死ぬことだって珍しくない。それほどまでグネリアが追い詰められていたということであった。
 まだ足が自由に動かせずにいたグネリアは、必死に土中から足を抜こうとしていた。しかし、汚泥はグネリアの半身を呑み込んだままである。

「忌々しいやつだ。こんな魔法を!」

 すると、目の前で倒れていた橘がむくっと起き上がる。驚くほどのっぺりとした無表情にグネリアの心が冷えた。

「ば、馬鹿な、あの魔法が効かなかったというのか!」
「いやあ、痛かったと思うよ」

 橘の声が聞こえる。しかし、目の前から聞こえてきた声ではなかった。それどころか、目の前の橘は、形が崩れて霧散してその姿が背景に重なっていく。

「ああ、そうか。さっきは影を作っていたんだな……」

 横にはグレンが立っていた。

「グ、グレン様!」

 グネリアはなんとか首だけ後ろに回すと、橘が笑顔で立っていた。皮膚も服も雷を受けたとは思えないほど、綺麗なものだった。すでに腕輪も付けている。その姿を見たのを最後にグネリアは意識を失った。

「これだけやれば、もう大丈夫でしょ?」
「はあ、グネリアはこれでも優秀な魔術士なんだぞ。それをこんな泥で汚しちまいやがって。嫁入り前の女なのに手厳しいな」
「僕は男女問わずフェアでありたいと思ってるからね」
「そうか。……本当に行くんだな?」

 悔しいのか、呆れているのか、哀しいのか、はたまた違う感情か、グレンの中には粛然とこみ上げるものがある。それは橘も同じであった。

「うん。またね……」

 橘はそっとグレンに抱擁し、「ありがとう」とだけ言って別れた。
 周囲が盛り上がった土に覆われていたため、王宮側に控えていた兵には二人の姿は見えない。
 ただ一人、吉野だけが二人の別れを静かに眺めていた。


「それじゃ、行きますか」
「なかなかあの子には苦戦したんじゃないの?」
「いやですね。僕の魔術士対策があれば完勝ですよ。それこそ先生の一本背負いはやばいでしょ」
「手加減したよ。腕輪もつけたままだったし。それに気絶した後、ジーノには回復魔法をきちんと使ったよ」
「いやいや、そういう問題じゃなくてですね……」

 こうして、城門のところまで辿り付き、さらに速度をあげて二人は町へと消えていった。


「兄さん、駄目だったよ」
「そうか」

 グレンがマルクスのもとに帰ってきて、一部始終を伝える。

「グレン、お前にも負担をかけてしまったな」

 マルクスが兄としての責務であるかのように、弟をいたわった。
 死者数ゼロ、負傷者も皆無です、と別の兵が報告にやってきた。全体を指揮していた大男である。犠牲者はいなかったが、この男は屈辱ともいえる表情を浮かべている。報告だけをすると、すぐにこの場から去って行った。

「きっと兵たちには怪我を負わすまいと、配慮なさったのでしょう」

 マルクスがしみじみと王に伝えた。

「あやつらにも困ったものだ。せっかくの転移者、強引に引き込もうなどできぬとわからぬほど愚鈍であるか。力も理も我らとは違うというのに」

 王家の存続というより、この国の安定のためにつまらぬ内紛の火をすぐに消し去りたいと考えていたのがこの王である。吉野と橘が話をしていたように、この国も一枚岩ではなく、小国ながらもほとんど国民に不満がないのはひとえにこの王の器にあった。
 しかし、名臣も少ない時代に、しかも国内に大きな影響力を持つ臣下が虎視眈々と転移者を利用しようとしているのはマルクスやグレンの調査によって明らかになっていた。特に黒竜の騒ぎは、アルム国を拡げられると嬉々とした者たちがいた。
 この度の失敗で、非難がそれらの者たちに向かえば、多少なりとも静かになるかもしれないが、それでも代償は大きいと王は考えていた。

(やはりあやつらを強引にでも説き伏せるべきだったか)

 しかし、それはできなかった。なぜならかつて王と臣下との間に諍いが生じ、内乱が起き、少なくない数の国民が犠牲になった記憶が思い出されたからである。したがって、些細な不和が火種になり、あるいは王家をも蝕むことがある、その可能性を排除しきれなかったのである。
 王の選択は覆せない。慎重に判断をした結果、吉野たちを追うという臣下の言には「よい」と声を発した。
 しかし、臣下は違った。この度のことは、臣下の暴走であり、王命を無視したということに他ならない。

 臣下の作戦については知っていた。転移者をこの国内に閉じ込めるという話だった。
 ただ、それは失敗するだろうという予測も立ち、今宵の晩餐が執り行われた。最初はあくまでも王としては転移者はこのままで、という態度を崩さなかった。予想通り、転移者は薬入りのスープなどという手ぬるい罠にもかからず、臣下が用意した兵たちをも軽々と乗り越えて城を去った。
 このまま国内に閉じ込めるより、世界に明け渡した方がよいと王は考えていたのである。
 これには、臣下の問題以外にも実は他国からの干渉もあった。「なぜいつまでも転移者を抱え込んでいるのか」「すでにアルム国には膨大な資源があるはず」等々、転移者を国内に居続けさせることへの非難でありやっかみである。

 救いがあるとすれば、吉野が「逃げる」ではなく、自らの意思でこの国を去ると明言したことだった。実際、吉野も橘もアルム国については悪い印象を抱くことはなく、むしろ感謝しているらしかった。そのため、この後二人がいなくなっても、転移者から捨てられた国という不名誉な噂は立たなかった。さらに、今回の件の責任は、王命を無視した臣下がとることになる。

「あとはあの二人の自由だ。この国から去ったのだ。わしらは静かに行く末を見守ろうではないか」

 王は手に持っていたグラスを上に掲げ、二人の幸いを祈ったのだった。

 突如この国に舞い降りた二人の転移者が、この日、王都を確かに去ったのである
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