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1章

29,身体強化

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「身体強化?」
 橘が吉野に身体強化についての話をきいていた。
「はい。僕は先生と違って肉体派じゃないですけど、もしもの時を考えたら使えた方がいいかなと」
「肉体派って何よ。せめて武闘派と言ってよ。私も意識的に使ってるわけじゃないからなぁ。それに前にグレンくんが言った説明に従えば、橘くんも魔素が身体全体によどみなく漂っているんでしょ? 多少はできてるんじゃないかな」

 身体強化についてグレンが少しだけ教えて、魔力操作についても学んだが、何か特別に行ったわけではない。それでも、ずいぶん動きが速くなったり、力が強くなったという実感はある。些細な怪我なら傷の治りも早い、という話もあった。

「光速で動く、みたいなことをやってみたくて」
「本当に光速で動いたら肉体が耐えきれずに損傷するんじゃないかな」
 そう会話をしながら、カーニスの方をちらっと見た。
「なんじゃ? こんな老いぼれにそんな動きができると思っとるんか?」
「さすがに難しいですよね」
「できんこともないが、そうじゃな。クリス様の方が教え方も上手じゃろう。わしは見ての通り、知的労働を好むからのう」
「クリスさんが?」
 何度か手合わせをした時にも感じたクリスの強さは、身体強化込みの強さだったということなんだろうか。

 クリスは地下室には立ち寄ろうとはしなかった。かといって店番をしているわけでもないので、店内で過ごしているようだった。いつも「私はここでいい」と遠慮して、さすがに毎回それだと心苦しい気持ちが吉野にはあった。
 カーニスも滅多なことでは地下室に降りてくることはなかった。必要がある時に二人の呼びかけに応じるのであった。
「まあ、駄目元で頼んでみましょうよ、先生」
「そうね」
 店へと吉野と橘が戻ると、「今日は早いのだな」とクリスが言った。「いえ、実は……」と身体強化について訊いたのだった。

「それでは始めよう」
 意外にも不満一つ漏らさずに承諾してくれた。フードを脱ぎ去り、練習場でよくみる姿のクリスが立っていた。双剣はテーブルの上に置いている。
「身体強化ってそもそもどういう原理なんです?」
「水の中で早い動きができないのと同じように、空気中でも何らかの力が作用している。身体の動きに対して抵抗する力が働くと言った方がいいか。その抵抗する力を魔素が中和する、という考えだな」
 クリスがまるで部下達に教えたであろう説明を二人に行った。

「魔素が中和する、ね。水の中だと水分子があるから動きづらいって考え方なんだっけ? 現役高校生?」
「空気抵抗よりも水の抵抗の方が大きいってことですよね。あとは水中は浮力や水圧があるから、なんてのも関係があるのかな、現役の先生?」
 昔、理科の授業でそういうことを習ったことを吉野は思い出した。
「魚が身体のわりに動きが速いのは、その形と動きに秘密があるわけだが、比喩的にいえば移動する際に抵抗をなくすというのは、魔素を媒介にして動きやすい形に自分の身体を再構築する、という説明で伝わるだろうか?」
「うん、わかります。それなら光速で動けるのかも。クリスさん説明上手です。ねえ、先生?」
「うん……、うん? 魔素を媒介にして身体を再構築?」
 吉野にはまだ難しい説明だった。
「実際に見せた方がいいだろう。今言っていた光速ほどは無理でも……」
 二人が瞬きをしたら、前に立っていたクリスの姿が消えていた。クリスが立っていた場所には二つの穴があり、砂埃が舞っている。
「このくらいであれば不可能ではない」
 すると、二人の背後にクリスが立っていた。

「おお、これですよ、これ!!」
「すごい……」
 実際に光速ではないにせよ、光速の動きのように感じられ、見えたのは瞬く間に目の前から人が消えた姿だった。動体視力には多少の自信のあった吉野も、動きを掴むことができなかった。
「とはいえ、これには相当な訓練も必要となる。私が立っていた場所に穴があるだろうが、力の加減を間違えば移動をする際の足の力が強すぎて大穴を開けて躓くことになる。地面の場合、木材の場合、石材の場合、それぞれの足場にはそれぞれの堅さとしなやかさがあるため、いろいろな場所で訓練をするのが一般的だ。もちろん、移動の前だけではなく、移動後も考える必要がある。ただ、魔素の応用で足下の硬くすることもできるが、それは今の段階では難しいだろう」
 そう言い終えたクリスの足下を見ると、動きを受け止めた跡らしく、穴が開いていた。
 すごいな、と思って地面を見ていたら、クリスが少しばかり呼吸が荒くなっているように吉野は感じた。もしかしてと思い、足下を見ると、靴から血が滲み出ていた。

「クリスさん、それ、怪我をしてるんじゃないですか?」
 慌ててクリスの足下に駆け寄る。
「ああ。私もまだまだということだ……。おい、何をしている!」
「何をって、手当をするんです。このままじゃいたたまれません」
「気にしないでいい」
「これは気にする傷です」

 しばらく二人の押し問答が続き、橘がクリスに諦めるように言った。
「クリスさん、これは先生に従った方がいいですよ。こうなったら梃子でも動きませんから」
 やれやれとため息をついたクリスは、やがて観念をして吉野に足の傷を見てもらうことにした。
 クリスが地べたに座り、靴を脱いで素足をさらした。30㎝くらいはありそうな足のサイズである。
「ああ、もう足の裏の皮が酷いことになってますよ。どうしてこういうことになるって言ってくれなかったんですか。こんなことになるなら教わらなかったのに」
「まあ、それはじゃな。クリス様をしてここまでの傷を負わせるほどの身体強化ということなんじゃよ。並の戦士だともっと酷い傷になるじゃろう。下手をすると足先もなくなるからの」

 カーニスの言葉の通り、求めすぎる身体強化には相応のリスクがある。だからこそ、二人に身体強化を適切に教えようと考えたのだろう。
「お願いですから、こういうことになるなら先に言ってくださいね。あら……? この傷」
 右の足首のところに明らかに今の傷とは異なる傷がある。左足も同じだった。
「それは昔の傷だ」
 短くクリスは答えた。傷は塞がっているとはいえ、アキレス腱を深く痛めているように見える。
「もしかして、この傷って痛かったんじゃないですか?」
 クリスと手合わせをした時に、どこか足をかばっているように見えたことがあった。吉野以外に稽古をつける様子を見学していた時にもそれが見えた。それはほとんど瞬間的なもので軽い違和感程度のことしかなかった。相手はその段階で投げられていたからである。

「傷があっても戦わなければならないからな」
 言い訳もせず、淡々と答える。極度の強がりなのか、まったく気にしていないほどの鈍感ぶりなのか、不思議な人だなと吉野は思う。
「うーん、この怪我は傷薬どころじゃないなあ。ねえ、橘くん?」
 どうだろう?という合図を送った。
「はい、先生の考えている通りでいいと思いますよ」
 意味を受け取った橘は笑顔で返す。
「よし。それじゃあ、治してみますよ」
 そう言うと、吉野は腕輪を外した。そして、橘と考えた回復の詠唱魔法をクリスの足に触れて使った。

 吉野と橘が指の傷を治した時のように、クリスの足は血の跡だけを残して、元の足の状態に戻った。その後、清潔な布で足の血を拭き取ると、綺麗な足が現れた。
「まさか、今のが回復魔法か?」
 さすがのクリスにも動揺が見られたが、すぐに立ち上がり、足の具合を確認した。
「はい。私と橘くんで考えた魔法です。カーニスさんにもお見せしたのは初めてですね。この世界の回復魔法だと物足りないので、かなり詠唱文を変えてみたんですが、お二人の率直な感想をうかがいたいです」
「あ、この靴もちょっとだけ修復してみましたよ」
 橘も仕事が早いのか、クリスの傷んでいた靴を新品に近い形に直してしまっていた。靴を受け取り、それを履いたクリスは、一つひとつの変化を確認するかのように動いていた。

「これなら……」
 そう言うと、先ほどと同じように、目の前から消えて、気づけば後ろに立っていた。
「うわ、クリスさん、そんな動きをしちゃまた怪我をしますよ……って、何ともないんですか?」
「ああ、元々の足の傷のせいで変なところに力が加わっていたのだ。その傷をもあなたの魔法は治したようだ」
 古傷で力の均衡が崩れていたため、クリスの身体強化による移動は負担が大きかったが、障害のなくなった今は新たな血を流すこともなく行使ができるようになったのだった。
「本当にお前さんらは末恐ろしい若者じゃのう。ここまでの治癒効果のある魔法なぞ、とうの昔に失われたと思うとったぞ」

 カーニスの反応からも、回復魔法の効果は特別なものだとわかる。
「回復魔法は昔に使われたことがあったが、流血を防ぐ程度のものだと思っていて期待していなかった。が、極めるとこれほどまでの効果になるのだな。それに足だけではないようだ」
 全てを語ったわけではなかったが、戦いの場に身を置くことの多いクリスには生傷が絶えず、古傷もあったのだろう。それらが治されたということだった。指先だけを治したつもりが、吉野のふくらはぎの擦り傷も治した時と同じだった。
「私たちも傷が治るというのは血が止まることではないと考えて、それだったら傷ついたところを埋めていくというか、もっといえばその古い部分を交換して新品に変える、という発想で回復魔法を考えてみたんです」
「なるほど、新しい足であり、新しい肉体であるということか。気持ちの問題かもしれないが、少し若返った気もする」
「またまた」

 最後のはクリスの気の利いた冗談だと吉野も橘も考えて笑っていたが、この時実際に肉体は若返っていたのであった。身体が武器であり資本であるクリスの偽りのない率直な言葉に、二人とも気づかないでいた。この事実を二人が知るのはもっと後になってからである。
 その後、クリスの指導に熱が入ったのか、練習場の時よりも的確で厳しい言葉を吐き、吉野と橘は身体強化の練習をすることになった。

「せ、先生、クリスさんを水を得た魚の状態にしちゃったのかも」
「こ、後悔はもうやめましょう」
 泣く泣く訓練をすること十数日、早くに移動ができる程度には身体強化を学ぶことができた。

「このくらいであれば少々の追っ手がきても、走って逃げることくらいはできるだろう。だが、私が見せたような動きだけは今は絶対に辞めた方がいい。二人にはまだ使いこなせない」
「えっ、それじゃあ、いつかは使えるんですか?」
 橘が尋ねた。
「試してみるか?」
「いえ、もう結構です」
 二人とも遠慮して全力で断ったのを見て、クリスは機嫌を良くしたのか、珍しく声を出して笑った。
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