上 下
90 / 125
第二部

23,宰相の仕事〔1〕

しおりを挟む
 宰相になってからの仕事量は、ソーランド公爵領主の比ではなかった。最初の2,3ヶ月の平均睡眠時間はたぶん3、4時間程度だった。
 日本でいう首相やいくつかの大臣の仕事を兼ねているようなものである。
 だから、あらゆる部署に顔を出す必要があった。

 これまでバカラはこの国の土建業関連と農業関連の総責任者という立場だった。
 それは多分に土の大精霊との契約者に適していたからなのだろう。ソーランド公爵領だけでなく、この王都に来てからもたくさんの建築物をガンガン建てていけたのはいわばこういうツテがあるからである。


 この国には下水処理システムが貫通している。つまり、王都の地下にはそういう施設がある。ソーランド領もそうである。
 それは先々代よりも前のソーランド家の人間や土の精霊との契約者たちが中心になって代々作りあげてきたものである。
 地球では糞尿で臭かった時代があったが、この国には少なくともそういう臭いはない。さすがにゲームでヒロインがこの国にやってきて臭いというのは致命的だったからでもあるのだろう。

 そして、カーサイト公爵家のザマスはこうした下水や汚水をできる限り綺麗にする、そういう仕事を地味にやっている。
 もちろん、ザマス本人がわざわざ行っているのではなく、その部下がやっているのだが、それでもザマスは全て丸投げしているわけではない。ザマスは嫌みで皮肉屋だが、最低限の仕事はしていた。
 まあ、今さらだが上下水道システムがあっても、人が使用する石けんがないというのは奇妙な話ではある。

 先々代になってからは王都のインフラ整備は落ち着いていたのもあったため、バカラが家の中にいて王宮にほとんど行かなくても良かったのはこういう特殊な職にあったからである。まあ、バカラ自身、あまり王宮に行きたくないと考えていたところはある。
 それでも日本でもそうだったように、老朽化は免れ得ないわけであり、適度に改修をしている。ただ、物質が異なるせいなのか、耐用年数は地球よりも遙かに長いものが多いような印象を受ける。天変地異がこの大陸では稀なことも要因なのだろう。


 一転して宰相の職に就いてからは、経済や軍備や外交、国内の安全保障、魔物対策、各領地からの税金、輸出入の関税、法令、教育、式典等々、範囲が広くて、とても細かいところまでは見ていられなかったが、できる限りより望ましいものになるように進言や決定をした。
 どれが効率か非効率かというのはすぐには判断できないものだが、明らかにこれは非効率的であると思われるものには現場の意見を取り入れながらざっくりとメスを入れていった。
 あのゲス・バーミヤンがまともに仕事を行っていたとは思えない。
 もしかして知らなかっただけで、ゲスは有能だったのか。いや、それは到底考えられない。

 そのことと関係があるのか、各部署の責任者はどうも私に対して当たりが強い。
 私が根掘り葉掘り訊いたり、「それは却下だ」と言ったり、予算申請もやり直しをさせたりと、簡単にハンコを押さなかったからだろうと思う。もちろん、まだ第一王子派もいたという理由もある。


 先日は会議で王都のスラム街対策で一悶着あった。
 いろいろな会議があるが、多くの要人が集まる会議は定期的に週1回行われる。参加しない場合は代理人を立てるか、出席する誰かに委任する。
 バカラと、そして私がこの世界にやってきてからの数年間は参加しなかったが、マース侯爵家のドナンや他の穏当な人間に委任していた。
 時にはカーサイト公爵家のザマスにも頼んでいたこともあったのは意外だが、ゲス・バーミヤンにだけは絶対に委任はしなかった。

 さて、王都のスラム街はソーランド領とは比較にならないほど深刻である。

 王領があり、その中心部である王都は王城から扇状に広がっていくのだが、近い順に貴族たちの家々が並び、次に住民街や商業地、工業地などが区域毎に分けられているが、これは大まかな区分けであり、実際には混雑している。そして、それらを全体的に囲うように高い塀がある。

 これはかつて魔物がやってきた時の名残だと言われていて、立てこもって魔物を追い払ってきたようである。魔物を定期的に間引くことがなかった昔は、しょっちゅう魔物がやってきたという。

 王都といっても、この塀に囲まれた場所だけを言うのではなく、実際には王領と呼ぶべきであって、その周辺の街や村なども含んでいるのだが、塀に囲まれた場所を王都と呼ぶ人間も貴賤を問わず多くいる。
 これは貴族たち以外の庶民たちも一種の選民思想に染まっているようなところがある。この大陸でバラード王国が盛り上がるとこういう勘違いを助長させることになってしまったのは、なんともいえない気持ちの悪さがある。

 周辺の街や村は多くは工業に従事しており、ドジャース商会やアリ商会などの商会の下請けの工場などがある。
 ただ、それらの街や村には高い塀はなかった。

「ソーランド公爵様のお手を煩わせることなど、もったいないことです」

「よい。私の仕事だ。それより他に気になるところはないか? 何度も来られることじゃないので一度にやっておきたい」

 治安の心配があったので、私がこの王都にやってきた際にはソーランド領で行ったようにそれぞれに土壁を作って外敵からの侵入を防ぐことにしたり、住民たちの声を聞いていくつか不便な場所には手を加えた。
 ある意味では技術が集結している場所なので、この地で過ごす際の不安の芽は全て摘み取ってしまいたい。


 スラム街はそうした街や村にあるのではなく、みなが王都と呼ぶ場所の中にあり、その数は1000人はくだらないと言われている。
 戦災はないが、たとえば親が冒険者や護衛となって命を落とした場合や失業して首が回らなくなったらこういう場所に移り住んでいくことがある。おそらくゲームの中には出てこなかったのだろう。かなり離れた場所に独自の街を作っているかのようである。

 今ではもうなくなったがまるで九龍城のような要塞とでも言ってもいい景観だった。それだけ長い年月をかけてここも作られたということなのだろうと思う。
 まあ、九龍城ほど人口密度は高くはなさそうだし小さいが、違法建築が横行しているかというとそうでもなさそうである。この世界の建築技術は不思議と高い。

 ただ、迷いの森に面した塀近くにあるので、もし森から魔物がやってきて高い塀を乗り越えられたり、壊されたりしたら一番に被害を受けるのはこのスラム街だろうと思う。

 そのスラム街が犯罪の温床となっていることは随分前から言われていて、そうまでしなければ生活ができない実態があることは明らかだった。実際の犯罪者が一時的に姿を隠すために住んでいることもあると聞いている。

 ここの人々は他の王都民に比べて賃金がべらぼうに安いことも言われていて、不当な扱いを受けているとしか言いようがない。ただ、そのことが政治の場で問題視されることはどうやらなかったようである。
 一応、スラム街には元締めではないが、そのような人間がおり、本当に好き勝手をやっているわけでもないようだ。

 スラム街対策は国としては特に何もしていない。
 税は免除されているようだし、仮に税を取ったとしても微々たるものだと思っているらしかった。
 このことについて会議が行われた。スラム街住人の犯罪率の高さが問題となっていた。


「犯罪者どもめ、せっかく住まわせてやってるのに忌々しいことだ」

 ゲス・バーミヤンである。
 この男は宰相の座を退いても、だいたい最初に意見を言う。
 このゲスの意見を先に聞いた他の人間たちがゲスの意向に沿うように忖度して発言をしていくことがこれまで行われてきたことだった。
 「窓開けて」とは言わずに「暑いな」と言って、周りの人間が窓を開けるようなものである。


「では、みなはスラム街の民たちにそこで死ねと命じているようなものだな」

「いや、宰相。今の言葉は聞き捨てなりませんぞ」

 ゲス・バーミヤンがさっそく私の発言に噛みついてきた。
 この男は私が何かを発言する度に逐一「いや」とか「でも」とか反論してくる。いやでもだって、こうした否定的な接続詞を使うのが若者ならまだ理解ができるが、40歳を越えて50歳にもなろうとする人間から発せられると、不快感しかない。

「なぜだ? 王都内に場所だけ与えてただ見ているのだろう。それがそこで死ねということ以外であれば、いったい何を意味するのだ?」

「ふん、場所を与えているだけましじゃないか」

「はは、それでは我々貴族たちの処遇と変わらないじゃないか」

 この発言にはみなが不満の色を強くした。第二王子派の人間も嫌な顔をする。

「今の言葉は取り消されよ。陛下の御前でなんたる暴言を吐くのか!」

 その国王は、ただ私とゲスのやりとりを聞いているだけである。隣にはアベル王子も臨席している。第一王子はこんな会議に興味などないのだろう。

「では、ゲス殿は我々とスラム街の住人との違いはどこにあるとお考えなのか?」

「私たちはきちんと王へ税を納めている。何も生産性のない人間たちとは違うのだ」

 その割にバーミヤン公爵領では税率は高くして、私腹を肥やすことにしか使っていないだろう、とは言わなかった。この男にはそんなことを言っても何も痛みは感じない。
 それにしても「生産性」なんて嫌な言葉を吐くものだ。どの口で言うのか。それにお前など何もせずとも勝手に納税されるシステムじゃないか。「生産性」という言葉を生きている人間に対して用いる権力者にまともな人間はいない。

「そうだ。私たちは領地を賜り、それに見合う形でそれぞれが貢献をしている。税という形に限らない。この義務を絶えず果たしているからこそ我々はこの国の貴族であり続けられている。そして、国民もそうだ。だが、スラム街の住人にはそれが一切免除されている」

「それが陛下の御慈悲である。なぜそのことを理解せぬのか」

「御慈悲? それはスラム街の住人から義務を免除することであり、その義務を御慈悲という形で永久的に取り上げているかぎりこの国の住人とは異なるということを意味する。だから、その義務を適切に果たすようにさせることがまずもって必要な処置である」

「論点がズレている。その義務を果たせないからあのような場所にいるのだぞ」

「論点がズレると言えば反論できるとお思いか。何もズレてもぶれてもいない。因果関係が逆だ。あのような場所にいるから義務が果たせないのだ。その義務を果たせないようにしてきたのは、いったい誰だ?」

「義務を果たせたからってあいつらが何の役に立つのだ」

「それでは、あなたは人を見ただけで最初からどのような役に立つのかがわかるのか? はは、なんとも稀有で素晴らしい人相にんそうだ。一度ぜひその力をこの国に役立てるといい。民を『あいつら』呼ばわりするあなたに何が見えようか」

 この発言はさすがにゲスの逆鱗に触れたようである。

「この、な、なにを馬鹿なことを申すのだ!!」

「お二人とも、感情でおっしゃいますな。会議の場ですぞ!」

 口を挟んだのは騎士団長のドナン・マースだった。
しおりを挟む
感想 178

あなたにおすすめの小説

前世軍医だった傷物令嬢は、幸せな花嫁を夢見る

花雨宮琵
恋愛
侯爵令嬢のローズは、10歳のある日、背中に刀傷を負い生死の境をさまよう。 その時に見た夢で、軍医として生き、結婚式の直前に婚約者を亡くした前世が蘇る。 何とか一命を取り留めたものの、ローズの背中には大きな傷が残った。 “傷物令嬢”として揶揄される中、ローズは早々に貴族女性として生きることを諦め、隣国の帝国医学校へ入学する。 背中の傷を理由に六回も婚約を破棄されるも、18歳で隣国の医師資格を取得。自立しようとした矢先に王命による7回目の婚約が結ばれ、帰国を余儀なくされる。 7人目となる婚約者は、弱冠25歳で東の将軍となった、ヴァンドゥール公爵家次男のフェルディナンだった。 長年行方不明の想い人がいるフェルディナンと、義務ではなく愛ある結婚を夢見るローズ。そんな二人は、期間限定の条件付き婚約関係を結ぶことに同意する。 守られるだけの存在でいたくない! と思うローズは、一人の医師として自立し、同時に、今世こそは愛する人と結ばれて幸せな家庭を築きたいと願うのであったが――。 この小説は、人生の理不尽さ・不条理さに傷つき悩みながらも、幸せを求めて奮闘する女性の物語です。 ※この作品は2年前に掲載していたものを大幅に改稿したものです。 (C)Elegance 2025 All Rights Reserved.無断転載・無断翻訳を固く禁じます。

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

婚約破棄ですね。これでざまぁが出来るのね

いくみ
ファンタジー
パトリシアは卒業パーティーで婚約者の王子から婚約破棄を言い渡される。 しかし、これは、本人が待ちに待った結果である。さぁこれからどうやって私の13年を返して貰いましょうか。 覚悟して下さいませ王子様! 転生者嘗めないで下さいね。 追記 すみません短編予定でしたが、長くなりそうなので長編に変更させて頂きます。 モフモフも、追加させて頂きます。 よろしくお願いいたします。 カクヨム様でも連載を始めました。

断罪イベント返しなんぞされてたまるか。私は普通に生きたいんだ邪魔するな!!

ファンタジー
「ミレイユ・ギルマン!」 ミレヴン国立宮廷学校卒業記念の夜会にて、突如叫んだのは第一王子であるセルジオ・ライナルディ。 「お前のような性悪な女を王妃には出来ない! よって今日ここで私は公爵令嬢ミレイユ・ギルマンとの婚約を破棄し、男爵令嬢アンナ・ラブレと婚姻する!!」 そう宣言されたミレイユ・ギルマンは冷静に「さようでございますか。ですが、『性悪な』というのはどういうことでしょうか?」と返す。それに反論するセルジオ。彼に肩を抱かれている渦中の男爵令嬢アンナ・ラブレは思った。 (やっべえ。これ前世の投稿サイトで何万回も見た展開だ!)と。 ※pixiv、カクヨム、小説家になろうにも同じものを投稿しています。

婚約破棄されたので、論破して旅に出させて頂きます!

桜アリス
ファンタジー
婚約破棄された公爵令嬢。 令嬢の名はローザリン・ダリア・フォールトア。 婚約破棄をした男は、この国の第一王子である、アレクサンドル・ピアニー・サラティア。 なんでも好きな人ができ、その人を私がいじめたのだという。 はぁ?何をふざけたことをおっしゃられますの? たたき潰してさしあげますわ! そして、その後は冒険者になっていろんな国へ旅に出させて頂きます! ※恋愛要素、ざまぁ?、冒険要素あります。 ーーーーーーーーーーーーーーーーー 文章力が、無いのでくどくて、おかしいところが多いかもしれません( ̄▽ ̄;) ご注意ください。m(_ _)m

婚約破棄ですか? ありがとうございます

安奈
ファンタジー
サイラス・トートン公爵と婚約していた侯爵令嬢のアリッサ・メールバークは、突然、婚約破棄を言われてしまった。 「お前は天才なので、一緒に居ると私が霞んでしまう。お前とは今日限りで婚約破棄だ!」 「左様でございますか。残念ですが、仕方ありません……」 アリッサは彼の婚約破棄を受け入れるのだった。強制的ではあったが……。 その後、フリーになった彼女は何人もの貴族から求愛されることになる。元々、アリッサは非常にモテていたのだが、サイラスとの婚約が決まっていた為に周囲が遠慮していただけだった。 また、サイラス自体も彼女への愛を再認識して迫ってくるが……。

【完結】妃が毒を盛っている。

ファンタジー
2年前から病床に臥しているハイディルベルクの王には、息子が2人いる。 王妃フリーデの息子で第一王子のジークムント。 側妃ガブリエレの息子で第二王子のハルトヴィヒ。 いま王が崩御するようなことがあれば、第一王子が玉座につくことになるのは間違いないだろう。 貴族が集まって出る一番の話題は、王の後継者を推測することだった―― 見舞いに来たエルメンヒルデ・シュティルナー侯爵令嬢。 「エルメンヒルデか……。」 「はい。お側に寄っても?」 「ああ、おいで。」 彼女の行動が、出会いが、全てを解決に導く――。 この優しい王の、原因不明の病気とはいったい……? ※オリジナルファンタジー第1作目カムバックイェイ!! ※妖精王チートですので細かいことは気にしない。 ※隣国の王子はテンプレですよね。 ※イチオシは護衛たちとの気安いやり取り ※最後のほうにざまぁがあるようなないような ※敬語尊敬語滅茶苦茶御免!(なさい) ※他サイトでは佳(ケイ)+苗字で掲載中 ※完結保証……保障と保証がわからない! 2022.11.26 18:30 完結しました。 お付き合いいただきありがとうございました!

聖女は2人もいらない!と聖女の地位を剥奪されました。それならば、好きにさせてもらいます。

たつき
恋愛
世界でも有数の国家【アルカディア王国】 戦の女神を宿すブレイズ家 守護の女神を宿すエターニア家 そして、この国の始祖であるアルカディア王家 この三軸がこの国を支え強大な国へと発展させてきた。 アルカディア王国は国の始まり以降、魔物による甚大な被害は起きておらず、もっとも安全な国と言われている。 しかし、長い年月は三家のバランスを少しずつ狂わせる。 そしてとうとう崩壊を迎えた。 「テレサ。ブレイズ家はもう聖女として認めない。ルーカス・アルカディアの名の下に聖女としての権利を剥奪する」 テレサはルーカス皇太子によって聖女としての立場を剥奪されてしまった。

処理中です...