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2章 星夜と名付けて

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 海をこんなにも近くで見るのは初めてだ。それどころか、海を見たことすら今まであっただろうか……あまり記憶にない。ひょっとしたら初めて見るかもしれない。潮風と言うのだろうか、風が心地よい。そして匂いが、これが海の匂い? 初めて嗅ぐ匂い。
 そうなのだ、星夜はこうしてのんびり海を見るのは初めての経験だった。波打つさまが、珍しくそして面白い。子供のようにワクワクした気持ちになる。
 髪を切り、靴も革靴のかっちり感がない。体ごと軽やかになった気分。目を閉じた。潮の香と共に、波の音が静かに聞こえる。このままでいたい。もう、決してあの場所には戻りたくない。
 彰吾さんは親切な人。お金も持たない見ず知らずのわたしの面倒を見てくれる。このまま、もう少し置いてくれるだろうか? 例えしばらく置いてもらえても、永遠とはいかない。いずれ出なければならない。その時はどこへ行く……。どこにも無いのが現実。
 結局その時は死ぬしかないのか……目をつぶって、そう考えていたら、無性に悲しくなる。そして涙がこみ上げる。星夜は、涙を流した。
「どうしたんだ?」
 星夜の涙を見た彰吾が、驚いて声を掛ける。
 泣いてはだめだ、星夜はそう思ったが、思いと裏腹に涙は止まらない。彰吾はそんな星夜を抱きしめた。星夜は、彰吾の胸に抱かれたまま涙を流した。
 星夜が落ち着くように、彰吾は星夜の背中を優しく撫でる。何も言わない。星夜が落ち着くのを待っている。
 彰吾の胸も、手も温かい。星夜に何も求めない。何も奪わない。それが星夜を安心させた。星夜は顔を上げて彰吾を見上げる。優しい微笑みだ。
 彰吾は星夜の涙を指で拭ってくれる。そして、額に口付けられた。優しい柔らかな口付け。
 
「ご、ごめんなさい」
「謝ることは何もない。泣きたい時は泣けばいい。俺の胸ならばいつでも貸してやる」
「とても気持ち良くて、このままここにいられたらと思ってら、なんだか涙が出て」
「ここが気に入ったのならまた連れてきてやる」
 いや違う。涙が出たのはそれじゃない。
「どうした? まだ何かあるのか? あるなら言え。聞いてやるぞ」
「見ず知らずのわたしを置いてもらい申し訳ないと……」
「そんなことを心配したのか。そんな心配なぞいらない。俺は一人暮らしだから、気を遣う人間は誰もいない。安心していればいい」
 それはそうかもしれないけど、赤の他人の面倒を、医者の使命感を超えているのでは? 世間からずれている星夜でもそれは分かる。
「あ、あの……どうしてそこまで親切に……お医者様は皆そうなんですか?」
「それはどうだろうなあ。最初に言ったが医者は人の命を救うのが仕事だからな、総じて面倒見はいいかな。まあ、医者も色々ではあるがな」
 彰吾の応えは、星夜の欲することとはずれがある。それでも、星夜はなんとなく納得した。先のことまで今考えても仕方ない。先のことはその時考えればいい。
 彰吾の家を出ることになったら、その時こそどこかから、飛び降りればいい。そう、それだけのこと。
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