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第二部
25 想いを合わせる光の道
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鬱々悶々としたまま人しか通れないような石の階段を下って、馬を停めてある場所まで辿り着いた素流は、注意していた足元から顔を上げ、目を見開いた。
「これ、何……?」
目の前の暗闇には下り坂に沿って、色取り取りの沢山の光がぼんやりと浮かび上がっていた。
赤や黄色や緑など、色彩鮮やかな提灯が近くの木に吊るされたり、或いは地面に灯籠が置かれていたりしている。
「これも宿の方の演出なの? だけど昨晩はなかったわよね」
困惑しながらも馬に跨ると、護衛の一人が教えてくれた。
護衛と言っても彼は一翔に仕える宦官の一人だ。
「淑妃様、これらは陛下が本日急遽準備させたものですよ」
「陛下が?」
「はい。ご自身で街を見て回りご依頼しておられました。昼間少し喧嘩のような雰囲気のまま出てきてしまったと落ち込まれておりまして、温泉を満喫した後に少しでも淑妃様を喜ばせたい、と仰っておりましたね」
「そう、なんですか……」
一翔の昼餉後の行動を知って、素流は胸が詰まった。
てっきり怒って放っておかれたと思っていた。
それなのにずっと素流の事を考えてくれていたという。
説明を受け、悔恨を胸に素流は馬でゆっくりと坂道を下って行く。
素流のためだと宦官から聞いた通り、行きは立っていた侵入者対策用の宿側の見張りたちも、景色の中では無粋かと下がらせているようだった。
おそらく秘湯の幽霊の正体が猿だけだと思ったからそうさせたのだろう。
直接龍靖には確かめはしなかったが、目撃例が出始めた時期からみて、彼を目撃してそう思った者もきっと中にはいるはずだ。
素流としても龍靖の存在は本気で想定外だった。
(私、馬鹿だ。一人でイジけて出て来ちゃった。きっと陛下は一緒にこれを見たかったんだよね……。凹んでる、よね……?)
それだけではなく、拒絶する形になって傷付けたに違いない。
(私の幼稚さが台無しにした。陛下は私を想ってくれてたのに……!)
このままこれを一人で眺めて帰っていいのだろうか、と素流は目に美しい光を眺める。
光が少しだけぼやけて滲んだ。
素流は咄嗟に馬の手綱を引いて絞って馬首を返した。
「淑妃様?」
彼女の突然の行動に驚いた護衛たちへと肩越しに叫ぶ。
「ごめんなさい。陛下の所に戻るわ!」
慌てて素流の後を追いかけてくるだろう皆を置いて、一足先に馬を急がせる。
引き返す中、色取り取りの灯りたちが視界の横を過ぎていく。
(早く、早く、早く、陛下……一翔の所に……!)
一翔と呼べと言われていたのに、まだまだ全然恥ずかしくて呼べずにいた。
平地程勢いよくとはいかないが馬を急がせる素流の目に、周囲の仄灯りに浮かび上がるようにして、裾を靡かせて坂を下ってくる何者かの馬影が映る。
(ちょっとこんな暗い下り坂を危ないわよ! でも、誰?)
どこかで淡い期待を抱いた。
上から下りてくる人間など限られている。
一翔の護衛たちか、或いは――……。
「――素流!」
(この声)
驚いている間にも影が近付いて、それが確かに思い浮かべた通りの人物、楊一翔のものだと明らかになる。
互いの馬が適度に近付いた所で双方馬を止め、まるで打ち合わせたように揃って鞍から飛び降りると脇目も振らずに駆けた。
「素流!」
「陛下!」
必死さを滲ませた一翔の様子には気付いたが、内心どうしてと不思議に思いつつ、素流は会いたかった男の胸に躊躇なく飛び込んだ。
一翔は感情的だった自らの失言同然の発言に気付き、加えてそれまでの経緯を省み慌てて追いかけてきたのだが、避けられるかもしれないと思っていた最愛の少女から逆に抱き付かれて、意外感で目を白黒させた。
「素流、先刻は済まなかった」
それでも謝罪の言葉だけは先に口にする。
素流は無言で頭をふるふると横に振って、まるでそうすれば一翔エキスが染み出すとでも言うように、ぎゅううう~っと彼を抱きしめる腕に力を込める。
さすがに彼も驚きのほかに困惑を滲ませた。
「素流……? どうしたのだ?」
「私もごめんなさい! あと、ありがとうございます。準備してくれていたから上まで遅れたんですね。この景色、すごくすっごく綺麗で感動してます!」
胸の中で顔を上げた素流から真っ直ぐに屈託ない笑みを向けられて、一翔はそれまでの失敗に冷え込んでいた心がじんわりと温まり解れていくのを感じた。
愛おしさが込み上げる。
「朕も、済まなかった。言葉足らずだった。そなたが居なければ子など到底望めぬが、そなたのことをそのために好意的に思っているわけではないのだ。そなただから朕は……」
「大丈夫ですわかってます。さっきはちょっと私の方が愚かで短気過ぎました。あなたが私を大切にしてくれているのはちゃーんと伝わってます」
素流は爪先を上げ、一翔の口に口付けた。
「陛下……一翔、大好きですからね」
予期せず向こうから口付けられて一翔呼びまでされて、彼は提灯や灯篭などの比ではなく、大輪の花火が夜空で開いたかのような心境に陥った。
今までも今夜も散々色々と辛い我慢を強いられてきた一翔だ。しかも今夜は愛する妻の肌を少しとは言え他のいけすかない男にまで見られてしまったのだ。
半ば嫉妬に狂う程、独占欲の強さでもこの国至高かもしれない彼に火が付かないわけがない。
「素流」
「へぃ……っ……ッ!?」
お返しに今度は一翔の方から口付けて、何度も何度も唇の表層を啄ばむように悪戯っぽく攻めた。
先の秘湯以上に段々と深く口腔を犯した。
さすがに素流がこんな山道でこれ以上はまずいと悟って胸を叩いたが、彼は息を切らす湯上りの彼女の姿に益々そそられて、もう少しくらいは……と攻めの口付けを緩めなかった。
そんな彼は意地悪くも素流が腰砕けた所でようやく止めた。
その頃には上と下から護衛たちが追い付いてきていて、二人の無事を視認して、自分たちに気付かず濃厚にイチャ付き合う様を見て、この国はきっと安泰だと一様に胸を撫で下ろしたという。
その後空気を読んで黙って待機していた彼らに気付いた素流が、恥ずかしさの余り泣き事を叫ぶのは必至だった。
素流は一翔と一緒の馬に乗り、彼が宿まで用意させたという幻想的な光を眺め顔を綻ばせる。
ただ、彼のおかげですぐには馬を操れる自信のなかった素流を自分の前に乗るように促した一翔の確信犯的な顔を見て、彼女はしてやられたと悔しくも思ったものだった。
(ホントもう、この人ってば接吻一つでこんなに腰砕けにさせるなんて、狡い……っ)
「続きは宿の部屋でたっぷり、な」
「そそそっ、そうですか、わ、わかってますわかってますわかってます」
この甘い誘いは絶対だ。
「よくよくわかっているようで何よりだ。それとも、もう一度秘湯に入りに行くか? まだ時間ならあるだろうしな」
「さ、猿と一緒になりますよ?」
狼狽の色を見せた素流へと一翔はくすりとした。
「冗談だ。猿を逃げの理由にせずともわかっておる。昨晩の様子からするに、そなたは脱衣から入浴まで朕と終始一緒はまだ無理だろうからな」
「そんなことは……」
「本当に?」
「確かに恥ずかしいですけど、でも、い、嫌ではないのでそこはもう何と言うか別にその……頑張りたいと思っていましたけども」
最後までは未遂だったが博風池ボチャの日、一度は直接胸にだって触れられた経験もあるのだし、つい先ほども際どかったしで、今更恥ずかしがっても……と頭から湯気が出そうな記憶を引き合いに出して照れていると、一翔がふと柔らかな笑い声を立てた。
「まあそういうのは追々、な」
「……ですけど、陛下は…」
「一翔。何故にまた陛下呼びに戻すのだ。実を言うとそろそろその点を指摘しようと思っていた。本音を言えば敬語の方も私的な場ではやめて欲しいが、そこまではまだ無理は言わぬ」
まだと言う事は後々ため口も催促されるというわけだろう。
将来的にという意なのでそこは気にしないようにした素流は、彼が呼称の変化に気付いていたと悟り言葉なく大人しく素直に首肯した。
「一翔は、その、宿で……でいいんですか?」
「まあな。大逸れない初夜の基本から入ろうと思ってな」
「はあ……」
基本?と素流は小首を傾げたが、今までに読破してきた春画本たちがまざまざと脳裏を過ぎる。
(そっか、あの指南書たちの通りの体勢を試すってことよね。一部は大変そうだけど……)
「そなた、またズレたことを考えておるな? 言っておくが春画本は関係ない」
「えっ!? あれにない基本姿勢があるんですか?」
驚く妃に皇帝陛下は微苦笑したが、その笑みをすぐにしたり顔へと変化させるや素流のうなじに唇を寄せた。
「ひゃっ!?」
「そうではない。最初は普通の閨の方が良かろう? 薄々思ってはいたが、そなたは結構……」
次は耳元に口を寄せられて囁かれる。
――感じやすいようだからな。
「はいい!?」
この上なく破廉恥な台詞を耳元でこっそりとは言え指摘されて、耳を押さえる素流はもう赤面以外の何をすればいいのか……。
「そっそんなこと訊かれても自分じゃどうだかわかりませんよ! あなたがご自分で確かめて下さい!」
耳まで熱くしての可愛い抗議を受けて、一翔は前に腰かける少女の肩に顎を乗せる。
「ではご要望に添いたく存じるな。早く宿に着くように急がせるか」
「あっそこは折角の景色を楽しみたいです。……駄目ですか?」
一翔は妃がねだる物としては実に健気な申し出に、快く応じた。
用意させた一翔としても彼女に見て喜んでほしくてそうしたのだ。こういう一点を取っても素流は一翔を嬉しくさせる。
彼はこの景素流という娘が自分の傍に居てくれる僥倖を、しみじみと噛みしめた。
ゆったりと下る馬上から、素流は色彩豊かな星の海を渡るのにも似た仄かな色灯りに囲まれて、その幻想的な光景を満喫した。
「素流覚えておいてくれ。俺は誰にもそなたを掻っ攫わせなどせぬ。そなたは未来永劫俺だけの女人だ」
一国の皇帝陛下も蓋を開ければ一人の男だ。
そんな男の愛は何て身勝手で傲慢だろう。
けれど偏執や執着とも言える情愛に心が囚われそうになる自分も大概だと、素流は内心では苦笑した。
「私だって世継ぎを産んで自分の足で出て行く以外、誰にも掻っ攫われるつもりはありませんから安心して下さい」
「……そなたはよくもまあぬけぬけと。良い性格をしておるな」
「ふふっ、簡単には出宮を諦めませんもん」
「俺自らでその頑固さに引導を渡してやろう」
「できるならどうぞ」
より甘美さを伴った意地との戦いの幕が上がる。
それでも今は周囲に目を向けきらきらと星以上に目を輝かせる少女と、そんな彼女を柔らかい双眸で見守る青年率いる隊列は、麓へと静かに移動していくのだった。
二人の宿の部屋は、宿の主人を筆頭に従業員総出で雰囲気作りをしてくれたらしく、ちょっと本気を出し過ぎていた。
「「…………」」
揉み手をして帰りを待ちわびていた宿の主人から案内され戸を開けたこの部屋の宿泊者二人が、暫し言葉を失ったのも頷ける。
宿の主人は絶句する二人が感動したからだと勝手に思い込み「ではごゆっくりどうぞ~」と上機嫌で去っていった。
ギラギラし過ぎて逆に萎えた、とは後日一翔が語っていた言葉だ。
「ええと、何だか無駄に煌びやかですけど、それなのに変に薄明るいですよね……」
「そうだな。一体どうやったらこんなになるのだ……」
寝台に腰かけて、甲斐甲斐しくもまだ生乾きの素流の髪を拭いて、更には梳いてやっている一翔は困ったように室内を見回す。無駄に飾り付けられていて目に痛い。
「ええと、あの、折角用意してくれたのに申し訳ないとは思いますけど、灯りを全部消してきてもいいですか? 変に落ち着かなくて……」
「異論はないな」
どこかホッとした素流は一翔の手を止めさせて、一つ一つ提灯や蝋燭の火を消していく。
最後は寝台近くの卓子の上の手燭だったが、卓子の前に立った彼女が消す前に、一翔が彼女の傍に立ってじーっと彼女を見下ろした。
「一翔? あ、そっか多少なりとも視界が利かないと困りますよね。これだけは残しておきますか」
「いや、これを消す前に生娘のそなたをしっかりと観察しておこうと思って」
「はっ……!?」
恥ずかしい言葉を平然と言ってのける夫に瞠目し、素流はちょっと恨めしくなって睨んだが、ぶつけたそんな眼差しすらも甘い熱で返されてしまうのだとわかっている。
いつも動揺させられるばかりなのがちょっと悔しい。
何だかんだでまだな自分たちは今夜こそ本当に互いを知るのかもしれない。
知りたいような知りたくないような期待とも不安ともつかない心地の中、胸が高鳴る。
それでもなけなしの仕返しに素流は頬を染めて膨らませて夫の胸を叩いた。
「もうっあなたって本当に……――」
文句が最後まで唇に上る前に一翔の手により蝋燭がふっと消え、責めの言葉もあえかな吐息に埋没した。
どこまでも甘い闇の中、二人の息遣いだけが濃くなった。
「これ、何……?」
目の前の暗闇には下り坂に沿って、色取り取りの沢山の光がぼんやりと浮かび上がっていた。
赤や黄色や緑など、色彩鮮やかな提灯が近くの木に吊るされたり、或いは地面に灯籠が置かれていたりしている。
「これも宿の方の演出なの? だけど昨晩はなかったわよね」
困惑しながらも馬に跨ると、護衛の一人が教えてくれた。
護衛と言っても彼は一翔に仕える宦官の一人だ。
「淑妃様、これらは陛下が本日急遽準備させたものですよ」
「陛下が?」
「はい。ご自身で街を見て回りご依頼しておられました。昼間少し喧嘩のような雰囲気のまま出てきてしまったと落ち込まれておりまして、温泉を満喫した後に少しでも淑妃様を喜ばせたい、と仰っておりましたね」
「そう、なんですか……」
一翔の昼餉後の行動を知って、素流は胸が詰まった。
てっきり怒って放っておかれたと思っていた。
それなのにずっと素流の事を考えてくれていたという。
説明を受け、悔恨を胸に素流は馬でゆっくりと坂道を下って行く。
素流のためだと宦官から聞いた通り、行きは立っていた侵入者対策用の宿側の見張りたちも、景色の中では無粋かと下がらせているようだった。
おそらく秘湯の幽霊の正体が猿だけだと思ったからそうさせたのだろう。
直接龍靖には確かめはしなかったが、目撃例が出始めた時期からみて、彼を目撃してそう思った者もきっと中にはいるはずだ。
素流としても龍靖の存在は本気で想定外だった。
(私、馬鹿だ。一人でイジけて出て来ちゃった。きっと陛下は一緒にこれを見たかったんだよね……。凹んでる、よね……?)
それだけではなく、拒絶する形になって傷付けたに違いない。
(私の幼稚さが台無しにした。陛下は私を想ってくれてたのに……!)
このままこれを一人で眺めて帰っていいのだろうか、と素流は目に美しい光を眺める。
光が少しだけぼやけて滲んだ。
素流は咄嗟に馬の手綱を引いて絞って馬首を返した。
「淑妃様?」
彼女の突然の行動に驚いた護衛たちへと肩越しに叫ぶ。
「ごめんなさい。陛下の所に戻るわ!」
慌てて素流の後を追いかけてくるだろう皆を置いて、一足先に馬を急がせる。
引き返す中、色取り取りの灯りたちが視界の横を過ぎていく。
(早く、早く、早く、陛下……一翔の所に……!)
一翔と呼べと言われていたのに、まだまだ全然恥ずかしくて呼べずにいた。
平地程勢いよくとはいかないが馬を急がせる素流の目に、周囲の仄灯りに浮かび上がるようにして、裾を靡かせて坂を下ってくる何者かの馬影が映る。
(ちょっとこんな暗い下り坂を危ないわよ! でも、誰?)
どこかで淡い期待を抱いた。
上から下りてくる人間など限られている。
一翔の護衛たちか、或いは――……。
「――素流!」
(この声)
驚いている間にも影が近付いて、それが確かに思い浮かべた通りの人物、楊一翔のものだと明らかになる。
互いの馬が適度に近付いた所で双方馬を止め、まるで打ち合わせたように揃って鞍から飛び降りると脇目も振らずに駆けた。
「素流!」
「陛下!」
必死さを滲ませた一翔の様子には気付いたが、内心どうしてと不思議に思いつつ、素流は会いたかった男の胸に躊躇なく飛び込んだ。
一翔は感情的だった自らの失言同然の発言に気付き、加えてそれまでの経緯を省み慌てて追いかけてきたのだが、避けられるかもしれないと思っていた最愛の少女から逆に抱き付かれて、意外感で目を白黒させた。
「素流、先刻は済まなかった」
それでも謝罪の言葉だけは先に口にする。
素流は無言で頭をふるふると横に振って、まるでそうすれば一翔エキスが染み出すとでも言うように、ぎゅううう~っと彼を抱きしめる腕に力を込める。
さすがに彼も驚きのほかに困惑を滲ませた。
「素流……? どうしたのだ?」
「私もごめんなさい! あと、ありがとうございます。準備してくれていたから上まで遅れたんですね。この景色、すごくすっごく綺麗で感動してます!」
胸の中で顔を上げた素流から真っ直ぐに屈託ない笑みを向けられて、一翔はそれまでの失敗に冷え込んでいた心がじんわりと温まり解れていくのを感じた。
愛おしさが込み上げる。
「朕も、済まなかった。言葉足らずだった。そなたが居なければ子など到底望めぬが、そなたのことをそのために好意的に思っているわけではないのだ。そなただから朕は……」
「大丈夫ですわかってます。さっきはちょっと私の方が愚かで短気過ぎました。あなたが私を大切にしてくれているのはちゃーんと伝わってます」
素流は爪先を上げ、一翔の口に口付けた。
「陛下……一翔、大好きですからね」
予期せず向こうから口付けられて一翔呼びまでされて、彼は提灯や灯篭などの比ではなく、大輪の花火が夜空で開いたかのような心境に陥った。
今までも今夜も散々色々と辛い我慢を強いられてきた一翔だ。しかも今夜は愛する妻の肌を少しとは言え他のいけすかない男にまで見られてしまったのだ。
半ば嫉妬に狂う程、独占欲の強さでもこの国至高かもしれない彼に火が付かないわけがない。
「素流」
「へぃ……っ……ッ!?」
お返しに今度は一翔の方から口付けて、何度も何度も唇の表層を啄ばむように悪戯っぽく攻めた。
先の秘湯以上に段々と深く口腔を犯した。
さすがに素流がこんな山道でこれ以上はまずいと悟って胸を叩いたが、彼は息を切らす湯上りの彼女の姿に益々そそられて、もう少しくらいは……と攻めの口付けを緩めなかった。
そんな彼は意地悪くも素流が腰砕けた所でようやく止めた。
その頃には上と下から護衛たちが追い付いてきていて、二人の無事を視認して、自分たちに気付かず濃厚にイチャ付き合う様を見て、この国はきっと安泰だと一様に胸を撫で下ろしたという。
その後空気を読んで黙って待機していた彼らに気付いた素流が、恥ずかしさの余り泣き事を叫ぶのは必至だった。
素流は一翔と一緒の馬に乗り、彼が宿まで用意させたという幻想的な光を眺め顔を綻ばせる。
ただ、彼のおかげですぐには馬を操れる自信のなかった素流を自分の前に乗るように促した一翔の確信犯的な顔を見て、彼女はしてやられたと悔しくも思ったものだった。
(ホントもう、この人ってば接吻一つでこんなに腰砕けにさせるなんて、狡い……っ)
「続きは宿の部屋でたっぷり、な」
「そそそっ、そうですか、わ、わかってますわかってますわかってます」
この甘い誘いは絶対だ。
「よくよくわかっているようで何よりだ。それとも、もう一度秘湯に入りに行くか? まだ時間ならあるだろうしな」
「さ、猿と一緒になりますよ?」
狼狽の色を見せた素流へと一翔はくすりとした。
「冗談だ。猿を逃げの理由にせずともわかっておる。昨晩の様子からするに、そなたは脱衣から入浴まで朕と終始一緒はまだ無理だろうからな」
「そんなことは……」
「本当に?」
「確かに恥ずかしいですけど、でも、い、嫌ではないのでそこはもう何と言うか別にその……頑張りたいと思っていましたけども」
最後までは未遂だったが博風池ボチャの日、一度は直接胸にだって触れられた経験もあるのだし、つい先ほども際どかったしで、今更恥ずかしがっても……と頭から湯気が出そうな記憶を引き合いに出して照れていると、一翔がふと柔らかな笑い声を立てた。
「まあそういうのは追々、な」
「……ですけど、陛下は…」
「一翔。何故にまた陛下呼びに戻すのだ。実を言うとそろそろその点を指摘しようと思っていた。本音を言えば敬語の方も私的な場ではやめて欲しいが、そこまではまだ無理は言わぬ」
まだと言う事は後々ため口も催促されるというわけだろう。
将来的にという意なのでそこは気にしないようにした素流は、彼が呼称の変化に気付いていたと悟り言葉なく大人しく素直に首肯した。
「一翔は、その、宿で……でいいんですか?」
「まあな。大逸れない初夜の基本から入ろうと思ってな」
「はあ……」
基本?と素流は小首を傾げたが、今までに読破してきた春画本たちがまざまざと脳裏を過ぎる。
(そっか、あの指南書たちの通りの体勢を試すってことよね。一部は大変そうだけど……)
「そなた、またズレたことを考えておるな? 言っておくが春画本は関係ない」
「えっ!? あれにない基本姿勢があるんですか?」
驚く妃に皇帝陛下は微苦笑したが、その笑みをすぐにしたり顔へと変化させるや素流のうなじに唇を寄せた。
「ひゃっ!?」
「そうではない。最初は普通の閨の方が良かろう? 薄々思ってはいたが、そなたは結構……」
次は耳元に口を寄せられて囁かれる。
――感じやすいようだからな。
「はいい!?」
この上なく破廉恥な台詞を耳元でこっそりとは言え指摘されて、耳を押さえる素流はもう赤面以外の何をすればいいのか……。
「そっそんなこと訊かれても自分じゃどうだかわかりませんよ! あなたがご自分で確かめて下さい!」
耳まで熱くしての可愛い抗議を受けて、一翔は前に腰かける少女の肩に顎を乗せる。
「ではご要望に添いたく存じるな。早く宿に着くように急がせるか」
「あっそこは折角の景色を楽しみたいです。……駄目ですか?」
一翔は妃がねだる物としては実に健気な申し出に、快く応じた。
用意させた一翔としても彼女に見て喜んでほしくてそうしたのだ。こういう一点を取っても素流は一翔を嬉しくさせる。
彼はこの景素流という娘が自分の傍に居てくれる僥倖を、しみじみと噛みしめた。
ゆったりと下る馬上から、素流は色彩豊かな星の海を渡るのにも似た仄かな色灯りに囲まれて、その幻想的な光景を満喫した。
「素流覚えておいてくれ。俺は誰にもそなたを掻っ攫わせなどせぬ。そなたは未来永劫俺だけの女人だ」
一国の皇帝陛下も蓋を開ければ一人の男だ。
そんな男の愛は何て身勝手で傲慢だろう。
けれど偏執や執着とも言える情愛に心が囚われそうになる自分も大概だと、素流は内心では苦笑した。
「私だって世継ぎを産んで自分の足で出て行く以外、誰にも掻っ攫われるつもりはありませんから安心して下さい」
「……そなたはよくもまあぬけぬけと。良い性格をしておるな」
「ふふっ、簡単には出宮を諦めませんもん」
「俺自らでその頑固さに引導を渡してやろう」
「できるならどうぞ」
より甘美さを伴った意地との戦いの幕が上がる。
それでも今は周囲に目を向けきらきらと星以上に目を輝かせる少女と、そんな彼女を柔らかい双眸で見守る青年率いる隊列は、麓へと静かに移動していくのだった。
二人の宿の部屋は、宿の主人を筆頭に従業員総出で雰囲気作りをしてくれたらしく、ちょっと本気を出し過ぎていた。
「「…………」」
揉み手をして帰りを待ちわびていた宿の主人から案内され戸を開けたこの部屋の宿泊者二人が、暫し言葉を失ったのも頷ける。
宿の主人は絶句する二人が感動したからだと勝手に思い込み「ではごゆっくりどうぞ~」と上機嫌で去っていった。
ギラギラし過ぎて逆に萎えた、とは後日一翔が語っていた言葉だ。
「ええと、何だか無駄に煌びやかですけど、それなのに変に薄明るいですよね……」
「そうだな。一体どうやったらこんなになるのだ……」
寝台に腰かけて、甲斐甲斐しくもまだ生乾きの素流の髪を拭いて、更には梳いてやっている一翔は困ったように室内を見回す。無駄に飾り付けられていて目に痛い。
「ええと、あの、折角用意してくれたのに申し訳ないとは思いますけど、灯りを全部消してきてもいいですか? 変に落ち着かなくて……」
「異論はないな」
どこかホッとした素流は一翔の手を止めさせて、一つ一つ提灯や蝋燭の火を消していく。
最後は寝台近くの卓子の上の手燭だったが、卓子の前に立った彼女が消す前に、一翔が彼女の傍に立ってじーっと彼女を見下ろした。
「一翔? あ、そっか多少なりとも視界が利かないと困りますよね。これだけは残しておきますか」
「いや、これを消す前に生娘のそなたをしっかりと観察しておこうと思って」
「はっ……!?」
恥ずかしい言葉を平然と言ってのける夫に瞠目し、素流はちょっと恨めしくなって睨んだが、ぶつけたそんな眼差しすらも甘い熱で返されてしまうのだとわかっている。
いつも動揺させられるばかりなのがちょっと悔しい。
何だかんだでまだな自分たちは今夜こそ本当に互いを知るのかもしれない。
知りたいような知りたくないような期待とも不安ともつかない心地の中、胸が高鳴る。
それでもなけなしの仕返しに素流は頬を染めて膨らませて夫の胸を叩いた。
「もうっあなたって本当に……――」
文句が最後まで唇に上る前に一翔の手により蝋燭がふっと消え、責めの言葉もあえかな吐息に埋没した。
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