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2男装とドキドキ
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その日まで、私は結構本気で悩んでいた。
「ねえレティ、私さ……ちょっと男になろうと思うんだけど、どう思う?」
「……パードゥン?」
友人の実家アドレア公爵邸での昼下がりの午後だった。
友人のレティシアに男装を頼まれた一件以来、私は時々じゃなく結構よく男装するようになった。
勿論、少年騎士エドウィンになるために。
それもこれも以前にも増してレティシアがお茶会や夜会に招待されるようになったせいだ。
「お願いエマ、今回もまた男装して一緒に来てほしいの」
「はいはーいお安い御用だよ」
昼下がりの午後の少し手前、公爵家に招かれて絵になる窓辺の丸いテーブルでレティシアと二人でのティータイムの最中、彼女からそう懇願された私は上機嫌で二つ返事した。
だってここで出させる最高級茶葉の紅茶は美味しいし、ここのコックお手製の焼き菓子も絶品なんだもん。
美味いもの > 男装の面倒
まあ私の脳内じゃ上記のような図式が成り立っている。
レティシアってば、お願い事があっても土下座はやめてねって諭してからこっち、頼み事がある日にはこうやって接待してくるようになった。今日も確信を抱いて待っていたら案の定。
お洒落で流行りのお菓子だったり公爵家お抱えのコックの美味しい手料理が食べられるし、そもそも私としても頼まれてしまえば断る理由はなかった。
だって、暇だし。
小貴族兼社交界に顔出ししていない私には誰からも招待状なんて送られてこないから、レティシアみたいに予定が詰まっていて日常的に忙しいなんて事がない。
別にそこは馬術だったり剣の練習にたっぷりと時間を費やせるからいいんだけど、師匠は毎日いるわけじゃないしそもそも大抵がもう自主トレだから都合に融通がきく。レディとしての教養云々は家庭教師達からはいざとなったら野生の勘で何とかなると匙を投げられていた。
ほとんど苦労せず友人の予定に合わせられるから仮に断りたくても断るのに適した理由がない。まあ断りたいと思った事はないんだけどね。
そんなわけで最近の私は専ら腐友人の嘘の延長に協力していた。
「ねえレティ、だけど毎回毎回それこそお嬢様ばかりのお茶会に私が必要なの? わざわざ近くに控えなくても危険はなさそうだよね」
何なら馬車て待っていようかって訊ねたら、レティシアはやんわりと首を横に振った。
シャラララーンと彼女の美しい銀髪が揺れて光の粒子を振り撒く。実際に光が出たわけじゃなくて窓からの陽光を反射しただけなんだけど、それくらいの幻覚が見えるくらいにレティシアは美人だ。
彼女はまさに誰もが思い描く理想のお姫様像、いや女神像そのもの。
……かなり激しい腐令嬢って点を除けばね。
でもそれも公になってからは着々と同志を増やしていて凄いなって思う。実は耽美な男の子達のあれやこれやを好きだってお嬢さん方は密かに結構いたみたい。
社交界で批判されてハブられる可能性もあったから、騎士として付いていった集まりで腐仲間と腐トークで楽しそうにしている姿を見て杞憂だったってわかって安心した。まあ盛り上がり過ぎて令嬢達皆がはあはあしちゃった時はさすがに別の意味で心配だったけど。
一方、私と違ってライバル令嬢達はレティシアBL党の台頭を苦々しく思っているみたい。ただ、思い切り腐に傾いているのは問題じゃなく要はレティシアの取り巻きが増えるのが面白くないんだろう。
その筆頭たる令嬢セーラは貴族の集まりじゃ会えば未だにレティシアに絡んでくる。
因みに彼女は数少ない侯爵令嬢だ。侯爵家って実はこの国に十家もない。
一方のレティシアはレティシアで、国でたった一つの公爵家の令嬢だったりする。
基本的に爵位の上下は上から公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵ってなっていて、私の家も含めた大多数の貴族は爵位が伯爵位以下なのがこの国の貴族の図式だ。でも爵位が必ずしも上下確定ってわけでもなく、歴史の長い貴族の家は爵位に限らず一目置かれていたりもする。
話を戻すと、侯爵令嬢セーラの専属騎士たるボブさんだかジムさんだかもまだ私への弟子入りを諦めていないのか、顔を合わせると期待に満ちた目で突撃してくる。セーラ嬢の騎士を辞職していなくて良かったよ。彼の無職の責任を取れないから少し心配してたんだよね。
そのセーラ嬢もセーラ嬢で自分の騎士になれってまだしつこく勧誘してくる。
しかもここ最近は絡んでおいて気に食わないレティシアを無視する戦法で嫌がらせを試みているのか、私にばっかりしつこく話しかけてくる。不本意なのに嫌がらせのために敢えて我慢しているのか顔を赤くして矢鱈と腕を組んでくるから正直引っぺがすのに苦労している。
「招待してくる相手の中には、未だにエマが本当にわたくしの専属騎士なのかを確認したくてそうしてくる方がいるの。たぶん招待状の半数近くはそうだと思うわよ。ほらわたくしって案外恨みを買うタイプだし」
「恨み? セーラ嬢みたいな執念深い例外は一部いるけど社交界のほとんどはレティを好きでしょ」
「……エマは本当にいつでもエマよねえ。うふふふ大好き!」
レティシアは極上スマイルを浮かべて優雅に紅茶を一口。ああいつ見ても様になる。
「それとは別の理由も多いわね。皆はエマに――凄腕騎士のエドウィンに会いたくて私を招待するのよ。あわよくばあなたを自分の所に引き抜こうって魂胆でね」
「はい? 私を? ……何故に?」
「あらそんなの若くて強くてカッコいいからでしょ」
「……物好きだよね」
「エマ、恋に憧れる乙女はいつだって物好きなのよ。大体、素敵な男性とお近づきになりたいと思うのは世の乙女の常じゃない」
「素敵な男性……。男性、か」
「エマ?」
急に考え込むようにする私にレティシアが訝りを浮かべる。
この際彼女に思い切って訊いてみようか。ここのところ男装する度に思っていたとある事を。
まだ少し紅茶の入ったティーカップをテーブルに置くと、至極真面目な面持ちで指を組む。
「ねえレティ――」
そして冒頭の台詞に続くってわけ。
パードゥンって訊き返してきたきり、急に意味不明な話をされて話を飲み込めない人のようにって言うかまさにその通りにレティシアは暫し困惑していた。
「エマ、今日は熱でもあったの? それを無理して来てくれたの?」
「まさか。至って健康だよ。私が十歳くらいから今まで風邪一つ引いたことないって知ってるでしょ」
「でも……」
まだ心配そうな顔でテーブルに身を乗り出してくる友人に私はからりと笑って返す。
「私が言いたいのは、男装してる時だけ姿変化の魔法で男になってた方が、もし万が一服を脱げって言われても対処できるかなって思ったからだよ」
「そんな破廉恥な事態になんてならないわよ! もしも不埒な輩がいたとしても、わたくしのエマには指一本触れされないんだから!」
レティシアってばもう、テーブルに両方の拳を叩き付けたから紅茶がこぼれそうだよ。
指一本って、それはこっちの台詞だよって思いつつ自然と笑みが浮かぶ。
「ありがとレティ。私も不埒な輩には指一本触らせないよ。嘘んこ専属騎士だけどレティを護りたいって気持ちだけは本物の騎士にも負けないよ」
「ありがとうエマ。でもあなたもわたくしや他の誰かにとって大事な人なんだって事を忘れないでね。自愛して。危険に身を晒すだけが護るって意味じゃないんだから。まあとにかく、わざわざ男になる魔法なんて体に負担をかけるものは必要ないわ。エマはエマのままでいいんだから」
「レティ……! 嬉しい言葉をありがとう」
「……ああでも男になってはだけたエマにお兄様と組んず解れつしてもらうのはありかもしれないわね、ふふふふ。お兄様だってまずは男のエマで予行練習して耐性をつければ、本番ではきっとテンパらず冷静にリードできるはず」
「……ええとレティ? 急にクラウスさんがどうかしたの? 男の私で予行練習……?」
ハッと我に返ったレティシアが何でもないわとパタパタと手を振って取り繕った。何でもなくない顔付きだったけど?
「えー何だか怪しいなあ。でもそれだとクラウスさんって、そうなのかな……」
「エマ?」
今度はレティシアから疑問顔をされて、我知らず少し俯いていた私は慌てて気を取り直した。
「魔法でまでなりきってくれようとするエマには大いに感謝するけれど、本当にそこまでしなくても大丈夫よ。万が一服を脱げなんて言われたら、きっとお兄様が許さないでしょうしね。お兄様ならどんな手を使ってでもエマを護ってくれるわ」
「クラウスさんが? 彼もレティ同様心配性だもんね。でも私は大丈夫だよ。並の男よか強いから」
「ええと、まあそうよねとは思うけれど、言いたいのはそう言う事じゃなくて……」
レティシアは小さな溜息を落とすと控えめな眼差しを向けてくる。
「エマはお兄様のこと……ううん、エマも誰かに、それこそあなたを想ってくれる男に護ってもらいたいって思ったりはしないの?」
「う~~~んないなあ……――あ、でも師匠になら!」
その護りの手法を間近で見れれば技を盗めるからね。レティシアは何故かがっくりとした。
「くっ、まさかの年の差……! 確かあの方はもうとっくに齢七〇を超えていたわよね。経験豊富な人生の大先輩じゃないの。体付きもあれは絶対七〇歳代の体じゃないわ。筋肉にくにくで絶大な包容力というか完全ホールドされたら若造じゃとても勝ち目はないけれど、どうにかお兄様頑張って頂戴!」
「レティ……?」
実は早口過ぎて半分以上は聞き取れなかった。クラウスさんに関係あるのかな?
あ、そっかレティシアは誤解してるんだ。
「レティレティ、変な勘違いはしないでよ。師匠の一挙一動の観察が鍛練でもあるんだって意味だから。まあでも恋愛すると仮定したら、私なら例えば対等に剣を打ち合えるようなそんな相手がいいかな。打ち合いの中で互いを理解していけそうでしょ。ほら剣筋ってその人の性格が出るって言うしさ」
「……はあ、エマは本当に恋愛にはストイックよねえ。むしろそれって恋の相手って言うより仕事上のバディ、相棒じゃない」
「えーとあはは、そうかなあ……?」
トボけてみたけど自分でもそう思う。少し苦笑いを浮かべたところで少し速い拍子のノックが聞こえた。
「レティシア、レティ、入ってもいいか? エマが来ているって聞いたんだけど」
廊下からの入室を問う声。私を知るこの声は。
「あらあらお兄様ったら耳が早いわね。はいはいどうぞ」
レティシアが本気じゃない困り声で促すと、すぐさまドアの向こうの相手が姿を現した。
「やあ、ごきげんようエマ!」
「クラウスさんもごきげんよう。それからお疲れ様です」
「ははっ、エマの顔を見たら疲れなんて吹き飛んだよ」
「あははどうも、それは良かったです」
「あー冗談じゃないぞ。本当にエマを見ると回復するんだよ」
「……全く、お兄様ってば浮かれて顔が弛みすぎ弛みすぎ」
入ってくるなり妹にも劣らない麗しの微笑を浮かべるのは、レティシアの兄のクラウスさんだ。
さらりとした彼の銀髪がいつもより乱れているし、どことなく息が弾んでいる気もするけど走ってでもきたのかな。まだ仕事が忙しいのかもしれない。今日私がここに来た時彼は用事で出掛けていて不在だったもの。一時的に帰ってきただけの可能性もある。
次代の公爵たる彼は日々現公爵の補佐をしている。
だからここ数年は小さい頃のように頻繁に一緒に過ごしたりはできなくなっていた。
それでも時間のある日は私とレティシアと一緒に行動する事が多い印象かな。この前みたいに貴族の舞踏会に同行したりとかね。
「忙しいでしょうに律儀に顔を出しに来てくれたんですよね。ありがとうございます。こっちの事は気にしないでお仕事に戻って下さいね」
座ったままで失礼かとは思ったけどそのままで気遣えば、彼はちょっと慌てたようにこっちに来て一つ空いていた席にトスンと腰かけた。不満そうな表情までする。
「エマはお茶の一杯すら付き合ってくれないのか?」
「うん? いえ別にそんなつもりはないですよ。クラウスさんの時間が大丈夫なら是非ご一緒してほしいです。私もその方が嬉しいですしね。ね、レティもいいよね」
彼とは少し久しぶりだったのもあってついついウェルカム感満載に応じた私だけど、ふと見たレティシアはやけににやにやしていた。彼女も歓迎しているのは明確なのに何かが違う。どうかしたのか訊ねようとした矢先、視線を外していたクラウスさんから咳払いが上がってそっちを見やる。
彼は何かを窘めるように妹をジト目で見たけど何事もなかったようにして私の方を向いた。
「ふふ、じゃあエマもそう言ってくれたことだし、心置きなく休んで行こうかな」
メイドが温かい紅茶を運んでくるまでの間、彼は口寂しさを感じたのか焼き菓子へと手を伸ばした。
「あ、そのマドレーヌ、オレンジピールが効いててとっても美味しかったですよ」
「そうなんだ。じゃあマドレーヌにするよ。エマはもう一個どう?」
「んー、そうですね、食べようかな」
頷いて手を伸ばそうとすると、目の前にそのマドレーヌを差し出された。
まるで餌付けのようにクラウスさんが口元まで持ってきてくれている。ふんわりとオレンジ主体の爽やかでいて甘く香ばしい香りが鼻先を擽って食欲を刺激したけど些か戸惑った。
「ついさっき手は拭いたし綺麗だよ」
「いえそこは全然気にしてないですけど、私よりも先にクラウスさんが食べないと」
「大事なお客様にご奉仕するのはこの家の者として当然だろう?」
「え、ええと……」
困惑が大きくなる。家の格は遥かに下の私に冗談でも恭しくもそんな言葉を掛けてくる男性なんて彼くらいのものだ。今度は私が咳払いをした。
「クラウスさん、こういうことは例の意中の相手にして下さいよ。この場は三人しかいませんけど、もしもその人がいたら大きな誤解をされちゃいますからね」
「こういうの昔はよくしていたのに、エマは冷たいなあ」
「まあ確かにそうでしたけど……」
もっと子供の頃、よく三人でお菓子の食べさせ合いっこをしたのは事実だ。
渋っていると彼が眉尻を下げた。
「……まあ俺はエマにこそ誤解されたくないんだけど」
「え、はい?」
「ああ~腕が疲れてきたな~あ?」
さも憐れそうに顔を歪める彼の傍ではレティシアがくすくすと笑っている。
「エマ、折角なんだし食べてあげたら? 近頃のお兄様ってこういうとこでは変に頑固でしょう。あなたが食べるまで絶対に動かないと思うわよ」
その通りだ。先日、男装した私をクラウスさんは見事に利用して女除けを半ば成功させたわけだけど、彼は騎士のエドウィンをつまりは男を好きだと公言したも同然だった。
そしてその事実を自ら広めようと、彼は私の協力を得て別の集まりでも男装の私に親しげなスキンシップをしてくるようになった。
こっちが照れて少し控えめにってこそっと訴えても、遠慮を知らないように必要だからって譲らない。一応は『エマがどうしても嫌ならやめるけど……』ってしょげた犬みたいな顔でその都度許可を求めてくるんだけど、私はどうしてだか駄目だなんて言えなかった。
更にはセーラ嬢とジムさんがいる時は牽制さえして私に近付かせないようにする。とは言えセーラ嬢達も隙を見て私にくっ付いてくるんだけど。
クラウスさんとのスキンシップは別段嫌じゃないし、むしろ昔に戻ったと思えば無邪気に彼の傍らを駆け回っていた頃を思い出して懐かしさだって感じる。
でも、本音を言えばその協力関係が始まって今はちょっと躊躇いがある。
ある時期、始まりはいつからだったかすらわからないうちに段々と遊ぶ機会が減っていって彼と疎遠になった。レティシアとは何も変わらなかったのに。
理由は公爵令息としての彼の多忙さだけじゃなかったように思う。
だってそことは別に彼から敬遠されていると感じていた。
こっちの勝手な思い込みだったのかな?
そう思うくらいに今ではすっかり感じていた壁もなくなって、前よりも近い気がしている。本当に私の勘違いなのかも知れないとは思うけど、心のどこかではまだ引っ掛かっていた。
BL仕様の始まりになった舞踏会までは昔みたいな気安い触れ合いはほぼ皆無で節度ある距離感だったのに、舞踏会前後を皮切りにしてここ数ヶ月って比較的短期間にすごく距離が近くなったから、そこも正直かえって戸惑ってもいた。
そして今日濃厚になった新たな気付きもあって、本当に私が昔みたいにしてもいいのか疑問が湧いてお菓子をもらうのを遠慮していたんだけども……。
「あ~腕が~」
「…………はあ、わ~かりました」
観念と言うかこっちから折れてやってぱくりとオレンジマドレーヌに齧り付く。そのまま体を背凭れまで引いてもぐもぐした。うんやっぱり美味しいね。
「ふっ、ふふっ、……可愛い」
クラウスさんが何か言葉を満足そうに呟いてくすりとして水色の両目を細めた。レティシアも。
……どこに笑う要素があったっけ? 美形兄妹は思考回路や感性も似るのかもしれない。
「もう、私のこと餌付けされる小動物みたいだとか思ってます?」
食べ終えて恨めし顔をしてやれば、クラウスさんは笑いの余韻を残したような面持ちで自身の分のマドレーヌを口に運ぶところだった手を止める。
「まさか。いつ見てもエマはエマだなあと安心したとこ」
「どういう意味ですかそれは」
半眼になる私へと彼は一口二口でマドレーヌを自身の口の中に押し込むと、むぐむぐと咀嚼しながらこっちに少し身を乗り出した。
親指と人差し指で私の口回りにくっ付いていた菓子くずをつまむ。思わぬ世話焼きに私はぱちくりと瞬いた。知らず菓子くずを付けっぱにしていた自分に少しの羞恥も感じた。
だけど、羞恥よりも疑問が大きくなる。身内でもない女子に大丈夫なんだろうか。
「えっと、ありがとうございます。けど……こんな風にして大丈夫なんですか?」
「何が?」
「私今は普通にドレス姿ですよ?」
「うん? そうだな、ドレス姿だ。ドレスだと何か不都合があるのか?」
「ええとだってその……」
「わたくしもエマが何を言いたいのかよくわからないんだけれど」
クラウスさんのみならずレティシアも怪訝にする。
二人して何で。困惑したいのはこっちだよ。彼女だってさっきちらっとそれっぽい事を臭わしていたのに。
「だって、今は私男装中じゃないんですよ」
兄妹は首を傾げて互いの麗しい顔を見合わせる。
「いえですから、クラウスさんは女の格好のままの私に男装の時みたいなベタベタは気乗りしないんじゃないんですか?」
「ええと、どういう意味……?」
「どういうって、クラウスさんは――男性が好きなんですよね」
「「…………パードゥン?」」
さすがは兄妹、息ピッタリだ。
クラウスさんが目を点にして、レティシアが両手で口元を覆って肩を震わせ始める。
「男装している私じゃないのに、無理しなくていいですよ」
「は? え? ちょっと待って何それ無理って!?」
愕然とする兄の横で、数秒のタイムラグを伴ってブフーッとレティシアが噴き出して腹を抱えて大爆笑した。彼女が紅茶を口に含んでいなくて良かったと思う。
しばらく室内には三者三様の沈黙が訪れていた。
私は困惑、レティシアはどうにかそれ以上の笑いを堪えようと必死で、クラウスさんは物凄くショックを受けた顔で項垂れている。
そのうち彼の分の温かい紅茶をメイドが運んで来てくれて、私達は各自気を取り直した。
「エマ、俺が騎士のエドウィンを好きだってのはあくまでも振りだから。俺は別に男が好きってわけじゃない。意中の相手がいると言っただろう」
「え、ですからその相手が男性でしょう?」
クラウスさんは溜息をついた。撃沈したような面持ちのままだ。
「女性だよ。まあ、その子が男でも好きになっていたとは思うけど」
「へえ、凄く好きなんですねその人が」
彼がゆっくりと顔を上げ、次の瞬間私の目はチカチカした。
「――ああ、好きだよとっても」
一瞬にして満面に彼の恋慕の想いが咲いていた。
…………何だろう。
知らない間に彼は誰かのためにこんな風に幸せを蕩けさせた顔で笑む男になっていた。
仲良く遊んで親しく過ごしてきたのは子供時代の何でもない過去なんだと感じてしまえば、何故か心の中に一抹の不安のようなゆらゆらした感情が浮かんできて胸が締め付けられる。
大好きな兄を取られたような気持ちになったのかもしれない。妹分としての独占欲から出たジェラシーだ。
でもレティシアが腐友達を増やしても似たような気持ちにはならない。
だからそこは自分でもまだよくわからなかった。
「そ、そうなんですね……。クラウスさんからそこまで想われているその人は、果報者です」
「……エマはそう思う?」
「はい」
そこは素直に思ったまましかと頷けば、彼は照れたのか紅茶をイッキ飲みしようとして熱くて間抜けにも噎せた。口内火傷が酷くないといいんだけど。社交界じゃ優雅な貴公子として人気のある彼のこんな姿は他じゃ絶対に拝めない。ついでに言えばレティシアの転げるような大爆笑も。彼がこんなにも自然体なのは妹の前ってのと私が妹同然の幼馴染みだからなんだろう。……嬉しいはずなのに微かに胸の奥がチクリとした。
「ところで、エマはどうしてそんな風に思ったんだ? 俺が男を好きって。男装したエマ以外とはその……ベタベタしてないのに」
「わたくしもそこは知りたいわ」
頓珍漢な勘違いを申し訳なく思いつつ、私は説明を少し躊躇った。
クラウスさんが気まずい思いをするかもしれないからだ。仮に彼自身自らの嗜好に無自覚だったなら尚悪い。
「エマ、教えてくれないか?」
「エマ、わたくしも是非……ぷぷっ」
思い出し笑いをする妹へと兄が面白くなさそうな目を向ける。
本当にいいのかな。でも本人からも催促されたんだし話すべきだよねえ。
「えっとですね、いつも、男装の私にベタベタして同性愛者のふりをする時にクラウスさんの心臓が凄くドキドキしてるからです」
「……――んんんなっ!? え、ドキドキって、ききき気付いて……!?」
彼は一瞬の空白を置いてから、盛大に狼狽して顔を思い切り真っ赤にした。
「え、だって密着してくるじゃないですか、その時にどうしたってわかるので……。不可抗力ですよ。とにかく、少年騎士な私にドキドキしてるからその理由を考えた末そうなんだって思ったわけです」
「……」
「そうじゃなかったみたいですけど、ならあれは人前で演技することへの緊張ですか? 何であれ、私クラウスさんの恋を応援しますね!」
「……」
「あ、要らないですか、私なんかの応援は」
「……応援の内容による」
「内容? えーと?」
一旦ティーカップの中身をじっと見つめて無言でいた彼は、徐にこっちを向いた。
その目にはどこか真剣な光がある。
彼のよく響く声でゆっくりと言葉が紡がれる。
「エマは、俺がその時だけだと思ってるの?」
「へ?」
言わんとしている事が掴めずに場の空気にそぐわないような声を出してしまったけど、彼は一切彼の持つ空気を緩めなかった。
レティシアは少し驚いた顔をしたけど、空気を読んで気配を潜めた。
「クラウスさん?」
「エマ、俺がエマの男装にドキドキしてるのは事実だよ。緊張も。でもそれが全部じゃない」
クラウスさんは席を立ってすぐ傍まで来ると身を屈め、何を思ったのか私の片方の手を握って彼の心臓の上に当てさせた。
トクントクンと掌に鼓動が伝わって、服越しなのに些か速くて強いなと思う。
これじゃあ凄くドキドキバクバクしているみたいだ。
って、ううん、してるんだ。思い切り早鐘を打っている。
でも何で?
どうしてこんな?
「ク、クラウスさん……?」
掴まれて胸に押し当てられていた手を持ち上げられて、よりにもよって掌側に唇を埋めるようにちゅっと口付けされた。
手の甲へする淑女への挨拶と似ていて非なる、キス。
「ククククラウスさん!?」
ぎょっとして見やった彼の顔はどこまでも優しい男のそれだった。
綻んで仄かに赤い。
彼のこんな顔を初めて見た。
それが私に向けられている。
言葉が出てこない。
「俺はエマが目の前にいるといつでもこうだよ。知らなかっただろ」
我知らず大きく目を見開いていた。
それって……私起因なの?
ドキドキの理由が、私?
それってやっぱりつまり――……。
妙な緊張がじわじわと増していく。
クラウスさんは依然綺麗な笑みを浮かべている。
さすがに悟った。
彼の緊張に上がる心拍数、火照る顔、だけどそれでも頑張って笑って接してくれるその心。
私もそういう人同士を見かけた事がある。
彼の思いやりに感動にも似たものが込み上げる。
そっか、薄々思っていたけど、やっぱり本当にそうだったんだ。だから疎遠にもなった。
そう実感すると正直少し切ない。
「――クラウスさんは、実は緊張する程私が苦手だったんですね……っ」
「「……は?」」
兄妹は揃ってボカンと口を開けた。
「きっと私が幼馴染でレティの仲良い友人だったから露骨にそう言えなくて、場の空気を悪くしたくなくて、ずっとにこにこしてくれていたんでしょう? 無理させてて我慢させててごめんなさい!」
人によっては嫌いじゃないけどどことなく苦手な相手っているものだ。彼にとっては私がそうなんだと思う。でなければ変な緊張なんてしないもの。気を遣って誤魔化すように過剰なスキンシップだってしてこないと思う。
「な、何でそうなる……」
愕然となるクラウスさんは私に図星を指されて弁明の言葉も浮かばないのかもしれない。
「ふう、まさかエマがここまでとは……。お兄様、世の中には打てば響く鉄とは対極の所にいる人間も存在するのよ」
一度眉間を揉んだレティシアが珍しくも慈母のような面差しを兄へと向けて小さく頷いてやっている。ええとどんな状況? しかしその目には次第に涙が薄らと滲み出してうるうる目になった。
直後。
「ぶふーーーーッ、あーっはっはっはっ! おっお兄様……っ、お気の毒うぅ~っ、ふふふあはははははっ、はーっははははーっ!!」
堪え切れなくなったように噴き出して、最後には椅子から滑り落ちて床上で笑い転げた。
「だっ大丈夫レティ!?」
クラウスさんに握られていた手を振りほどいてびっくりして駆け寄れば、彼はそれすらも傷付いたような顔をした。えっとでもレティシアを起こさないといけないしね。
「立てるレティ? いきなりどうしたの? 笑い出すほど具合が悪くなった?」
「ううん、少し悲嘆して涙が出ただけよ」
「悲嘆? よくわからないけど忙しくて疲れてるんだねきっと。今日はもう帰るよ。次の男装の話は追ってまたしよう、ね?」
「ええそうね」
レティシアと一緒に立ち上がって一度クラウスさんに帰りの挨拶をと振り返る。
「クラウスさん、私は気にしないですから無理しないでいいんです。嫌いじゃないけど苦手ってありますしね。ええと、私そろそろ帰りますので……。ごきげんよう。あっ、そうだ、男装での協力は今まで通りしますから安心して下さいね!」
わかってみれば仲良しだと思っていたのは私だけで、まるで片想いみたいでちょっぴり胸が痛かったけど、それも人生の修練だと思って気持ちをぐっと強く保った。
形だけでも微笑んで見せて踵を返す。
その際レティシアはじっと何かの試金石でも見るようにクラウスさんを見つめた。
「レティ……?」
彼女の横顔に戸惑った刹那。
「まっ……、待って待って待ってくれエマ! 俺はエマを苦手じゃないっ! 断じて苦手なんかじゃないっ!」
まるで世界中に訴えるみたいな必死かつやけに焦った声が追ってきて、その叫び主たるクラウスさんに腕を引かれ回れ右で彼の真正面に向かされる。
声同様彼の顔も凄く焦っているように見えた。
「へ……そ、うなんですか?」
「ああ、これだけは絶対誤解してほしくない。苦手なわけないだろ。昔からずっとずっと俺はエマが好きなんだから!」
「好き……」
放心気味に小さく呟けば、彼はうっかり失言でもしたように「あっ」と狼狽の声を上げた。その様が何だか可愛く見えてふふっと笑声が漏れる。
気付いたら嬉しくて破顔していた。
「良かった……気にしないなんて言ったのに、私ってば現金です。何だかとてもすごくホッとしちゃいました。だって私もクラウスさんがずっとずっと大好きなんですもん!」
「え? エマも俺を好き……。これは夢か?」
手品みたいに背後で大輪の花が咲き乱れたクラウスさんはごくりと唾を飲み込んで、自分の頬をつねった。夢じゃないとか呟くとそっと手を私の頬に沿わせる。
「エマ……」
「レティと同じに!」
「……え?」
「二人は私にとって大事な大事な大好きな幼馴染です。勿論今までもこれからも!」
「…………はは、は、そう……か」
それではまた、と退室の前にペコリと頭を下げる私へと、彼はへらりと力ない笑みを浮かべて見送ってくれた。こっちのテンションに疲れたのかもしれない。
でも少し涙を堪えていたように見えたのは私の気のせいかな?
「あっ待ってエマ、わたくしも玄関まで行くわ。……とりあえず良かったわね、お兄様。あわや後退する所で全然進展はしていないけれど」
凄くイイ顔のレティシアが兄の肩に手を置いて、最後の部分を何故か耳打ちしてから駆けてくる。何て声をかけたんだろう。廊下に出てから訊いてもまだ内緒って雅な仕種で人差し指を自らの唇に当てるだけで教えてくれなかった。
――俺はエマが好きなんだから!
帰りの馬車の中、一度思い出してしまえば、私の頭にはどうしてだかずっと彼の必死な台詞の断片がリフレインしていて頬の熱が取れなかった。ドキドキドキと高鳴る心臓がうるさかった。
「うー、次の男装の時に平気な顔でクラウスさんの演技に合わせられるかな」
協力するとは言ったけど、ベタ甘スキンシップを想像すればいつになく落ち着かない気分になる。
「うへえええ~~~、何でどうして急にこんなあ~?」
こんなのまるで、まるで……恋する可愛い女の子みたいだ。
あ、可愛いは余計か。でも私の感覚じゃ恋する女の子は可愛い扱いなんだよね。
「はあ、最近気を抜きすぎなのかも。もっと鍛練に打ち込まないとなあ」
押さえていた両頬から手を離して脱力する。
かつて邪悪なドラゴンを駆逐した師匠のように剣の道を極めるには余所見をしている暇はない。
ただ、そうやって突っ走っていたら結婚を忘れていたって師匠は言っていた。
えっ嘘でしょって思ったけど、それくらいの心意気が必要ってわけだよね。まあ、私の場合は家のために誰かと結婚するだろうけど、そこに恋愛感情はないと思う。それでいいんだ。
「恋にのめり込むと、ろくなことにはならないって言うし。そもそも私ってば自意識過剰じゃない?」
私の中性的な容姿は女子としては些かカッコ良すぎるらしいから、クラウスさんが恋愛感情を抱くとは思えない。それなのに告白されたみたいに感じてしまうだなんて呆れる。
こんな事身近な誰にも、レティシアにだって話せない。むしろ彼の妹のレティシアだからこそ話せない。家に着くまでの間、冷静に冷静にって自分に言い聞かせて何とか感情を落ち着けた。
その夜、師匠が出先でぎっくり腰になって動けないって彼の孫を名乗る青年から連絡が入った。
おかげで昼間の悩みは完全に吹き飛んだっけ。
何と、師匠ってば正式な結婚をしていなかっただけで、ちゃっかり孫までいたんだってのを初めて知った。
内縁の妻はいたってわけだ。
水臭いなあもう。でもそれは有事の際の弱味にならないよう家族を護るためでもあったらしい。師匠の若い頃は大切な人を人質にされて望まない仕事をさせられるなんて卑劣な話は結構あったんだとか。騎士として優秀だった師匠だからこそそう言う狙いで近付いてくる悪い奴もいたんだろうね。秘密を守ると徹底していた彼はだからこそ家族と離れて生きてきた。故にこれまで私だけじゃなく世間の誰も知らなかったってわけだ。
わざわざうち、ロビンズ男爵家宅を訪れてくれた彼の孫から直接そう聞いた。
師匠にはその地の病院で暫く静養してもらう方向で手短に話をして、孫だって言う男性は帰っていった。その他の諸々の決め事は後日改めてする運びにもなった。
師匠が私の師匠を続けるか否かも含めてね。
何故なら師匠の家族は彼に一緒に暮らしてほしいみたい。年齢も年齢だしそれは同意できる部分も大きい。
だけど、師匠が師匠じゃなくなるのはやっぱり寂しいって思う。
どことなく師匠に似た顔の去っていく若い背中を見送ってふと気付く。
「腰に剣……あの人も剣士なんだ」
そう言えば自己紹介の折に彼も騎士って言っていたような気がする。師匠がぎっくり腰!?って仰天のあまりすっかり頭から抜けていた。
さすがは祖父と孫。血なのか、同じ道を選んで同じ武器を極めようとしている。
「私だって、負けてられない」
そう気合いを入れた。
「ねえレティ、私さ……ちょっと男になろうと思うんだけど、どう思う?」
「……パードゥン?」
友人の実家アドレア公爵邸での昼下がりの午後だった。
友人のレティシアに男装を頼まれた一件以来、私は時々じゃなく結構よく男装するようになった。
勿論、少年騎士エドウィンになるために。
それもこれも以前にも増してレティシアがお茶会や夜会に招待されるようになったせいだ。
「お願いエマ、今回もまた男装して一緒に来てほしいの」
「はいはーいお安い御用だよ」
昼下がりの午後の少し手前、公爵家に招かれて絵になる窓辺の丸いテーブルでレティシアと二人でのティータイムの最中、彼女からそう懇願された私は上機嫌で二つ返事した。
だってここで出させる最高級茶葉の紅茶は美味しいし、ここのコックお手製の焼き菓子も絶品なんだもん。
美味いもの > 男装の面倒
まあ私の脳内じゃ上記のような図式が成り立っている。
レティシアってば、お願い事があっても土下座はやめてねって諭してからこっち、頼み事がある日にはこうやって接待してくるようになった。今日も確信を抱いて待っていたら案の定。
お洒落で流行りのお菓子だったり公爵家お抱えのコックの美味しい手料理が食べられるし、そもそも私としても頼まれてしまえば断る理由はなかった。
だって、暇だし。
小貴族兼社交界に顔出ししていない私には誰からも招待状なんて送られてこないから、レティシアみたいに予定が詰まっていて日常的に忙しいなんて事がない。
別にそこは馬術だったり剣の練習にたっぷりと時間を費やせるからいいんだけど、師匠は毎日いるわけじゃないしそもそも大抵がもう自主トレだから都合に融通がきく。レディとしての教養云々は家庭教師達からはいざとなったら野生の勘で何とかなると匙を投げられていた。
ほとんど苦労せず友人の予定に合わせられるから仮に断りたくても断るのに適した理由がない。まあ断りたいと思った事はないんだけどね。
そんなわけで最近の私は専ら腐友人の嘘の延長に協力していた。
「ねえレティ、だけど毎回毎回それこそお嬢様ばかりのお茶会に私が必要なの? わざわざ近くに控えなくても危険はなさそうだよね」
何なら馬車て待っていようかって訊ねたら、レティシアはやんわりと首を横に振った。
シャラララーンと彼女の美しい銀髪が揺れて光の粒子を振り撒く。実際に光が出たわけじゃなくて窓からの陽光を反射しただけなんだけど、それくらいの幻覚が見えるくらいにレティシアは美人だ。
彼女はまさに誰もが思い描く理想のお姫様像、いや女神像そのもの。
……かなり激しい腐令嬢って点を除けばね。
でもそれも公になってからは着々と同志を増やしていて凄いなって思う。実は耽美な男の子達のあれやこれやを好きだってお嬢さん方は密かに結構いたみたい。
社交界で批判されてハブられる可能性もあったから、騎士として付いていった集まりで腐仲間と腐トークで楽しそうにしている姿を見て杞憂だったってわかって安心した。まあ盛り上がり過ぎて令嬢達皆がはあはあしちゃった時はさすがに別の意味で心配だったけど。
一方、私と違ってライバル令嬢達はレティシアBL党の台頭を苦々しく思っているみたい。ただ、思い切り腐に傾いているのは問題じゃなく要はレティシアの取り巻きが増えるのが面白くないんだろう。
その筆頭たる令嬢セーラは貴族の集まりじゃ会えば未だにレティシアに絡んでくる。
因みに彼女は数少ない侯爵令嬢だ。侯爵家って実はこの国に十家もない。
一方のレティシアはレティシアで、国でたった一つの公爵家の令嬢だったりする。
基本的に爵位の上下は上から公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵ってなっていて、私の家も含めた大多数の貴族は爵位が伯爵位以下なのがこの国の貴族の図式だ。でも爵位が必ずしも上下確定ってわけでもなく、歴史の長い貴族の家は爵位に限らず一目置かれていたりもする。
話を戻すと、侯爵令嬢セーラの専属騎士たるボブさんだかジムさんだかもまだ私への弟子入りを諦めていないのか、顔を合わせると期待に満ちた目で突撃してくる。セーラ嬢の騎士を辞職していなくて良かったよ。彼の無職の責任を取れないから少し心配してたんだよね。
そのセーラ嬢もセーラ嬢で自分の騎士になれってまだしつこく勧誘してくる。
しかもここ最近は絡んでおいて気に食わないレティシアを無視する戦法で嫌がらせを試みているのか、私にばっかりしつこく話しかけてくる。不本意なのに嫌がらせのために敢えて我慢しているのか顔を赤くして矢鱈と腕を組んでくるから正直引っぺがすのに苦労している。
「招待してくる相手の中には、未だにエマが本当にわたくしの専属騎士なのかを確認したくてそうしてくる方がいるの。たぶん招待状の半数近くはそうだと思うわよ。ほらわたくしって案外恨みを買うタイプだし」
「恨み? セーラ嬢みたいな執念深い例外は一部いるけど社交界のほとんどはレティを好きでしょ」
「……エマは本当にいつでもエマよねえ。うふふふ大好き!」
レティシアは極上スマイルを浮かべて優雅に紅茶を一口。ああいつ見ても様になる。
「それとは別の理由も多いわね。皆はエマに――凄腕騎士のエドウィンに会いたくて私を招待するのよ。あわよくばあなたを自分の所に引き抜こうって魂胆でね」
「はい? 私を? ……何故に?」
「あらそんなの若くて強くてカッコいいからでしょ」
「……物好きだよね」
「エマ、恋に憧れる乙女はいつだって物好きなのよ。大体、素敵な男性とお近づきになりたいと思うのは世の乙女の常じゃない」
「素敵な男性……。男性、か」
「エマ?」
急に考え込むようにする私にレティシアが訝りを浮かべる。
この際彼女に思い切って訊いてみようか。ここのところ男装する度に思っていたとある事を。
まだ少し紅茶の入ったティーカップをテーブルに置くと、至極真面目な面持ちで指を組む。
「ねえレティ――」
そして冒頭の台詞に続くってわけ。
パードゥンって訊き返してきたきり、急に意味不明な話をされて話を飲み込めない人のようにって言うかまさにその通りにレティシアは暫し困惑していた。
「エマ、今日は熱でもあったの? それを無理して来てくれたの?」
「まさか。至って健康だよ。私が十歳くらいから今まで風邪一つ引いたことないって知ってるでしょ」
「でも……」
まだ心配そうな顔でテーブルに身を乗り出してくる友人に私はからりと笑って返す。
「私が言いたいのは、男装してる時だけ姿変化の魔法で男になってた方が、もし万が一服を脱げって言われても対処できるかなって思ったからだよ」
「そんな破廉恥な事態になんてならないわよ! もしも不埒な輩がいたとしても、わたくしのエマには指一本触れされないんだから!」
レティシアってばもう、テーブルに両方の拳を叩き付けたから紅茶がこぼれそうだよ。
指一本って、それはこっちの台詞だよって思いつつ自然と笑みが浮かぶ。
「ありがとレティ。私も不埒な輩には指一本触らせないよ。嘘んこ専属騎士だけどレティを護りたいって気持ちだけは本物の騎士にも負けないよ」
「ありがとうエマ。でもあなたもわたくしや他の誰かにとって大事な人なんだって事を忘れないでね。自愛して。危険に身を晒すだけが護るって意味じゃないんだから。まあとにかく、わざわざ男になる魔法なんて体に負担をかけるものは必要ないわ。エマはエマのままでいいんだから」
「レティ……! 嬉しい言葉をありがとう」
「……ああでも男になってはだけたエマにお兄様と組んず解れつしてもらうのはありかもしれないわね、ふふふふ。お兄様だってまずは男のエマで予行練習して耐性をつければ、本番ではきっとテンパらず冷静にリードできるはず」
「……ええとレティ? 急にクラウスさんがどうかしたの? 男の私で予行練習……?」
ハッと我に返ったレティシアが何でもないわとパタパタと手を振って取り繕った。何でもなくない顔付きだったけど?
「えー何だか怪しいなあ。でもそれだとクラウスさんって、そうなのかな……」
「エマ?」
今度はレティシアから疑問顔をされて、我知らず少し俯いていた私は慌てて気を取り直した。
「魔法でまでなりきってくれようとするエマには大いに感謝するけれど、本当にそこまでしなくても大丈夫よ。万が一服を脱げなんて言われたら、きっとお兄様が許さないでしょうしね。お兄様ならどんな手を使ってでもエマを護ってくれるわ」
「クラウスさんが? 彼もレティ同様心配性だもんね。でも私は大丈夫だよ。並の男よか強いから」
「ええと、まあそうよねとは思うけれど、言いたいのはそう言う事じゃなくて……」
レティシアは小さな溜息を落とすと控えめな眼差しを向けてくる。
「エマはお兄様のこと……ううん、エマも誰かに、それこそあなたを想ってくれる男に護ってもらいたいって思ったりはしないの?」
「う~~~んないなあ……――あ、でも師匠になら!」
その護りの手法を間近で見れれば技を盗めるからね。レティシアは何故かがっくりとした。
「くっ、まさかの年の差……! 確かあの方はもうとっくに齢七〇を超えていたわよね。経験豊富な人生の大先輩じゃないの。体付きもあれは絶対七〇歳代の体じゃないわ。筋肉にくにくで絶大な包容力というか完全ホールドされたら若造じゃとても勝ち目はないけれど、どうにかお兄様頑張って頂戴!」
「レティ……?」
実は早口過ぎて半分以上は聞き取れなかった。クラウスさんに関係あるのかな?
あ、そっかレティシアは誤解してるんだ。
「レティレティ、変な勘違いはしないでよ。師匠の一挙一動の観察が鍛練でもあるんだって意味だから。まあでも恋愛すると仮定したら、私なら例えば対等に剣を打ち合えるようなそんな相手がいいかな。打ち合いの中で互いを理解していけそうでしょ。ほら剣筋ってその人の性格が出るって言うしさ」
「……はあ、エマは本当に恋愛にはストイックよねえ。むしろそれって恋の相手って言うより仕事上のバディ、相棒じゃない」
「えーとあはは、そうかなあ……?」
トボけてみたけど自分でもそう思う。少し苦笑いを浮かべたところで少し速い拍子のノックが聞こえた。
「レティシア、レティ、入ってもいいか? エマが来ているって聞いたんだけど」
廊下からの入室を問う声。私を知るこの声は。
「あらあらお兄様ったら耳が早いわね。はいはいどうぞ」
レティシアが本気じゃない困り声で促すと、すぐさまドアの向こうの相手が姿を現した。
「やあ、ごきげんようエマ!」
「クラウスさんもごきげんよう。それからお疲れ様です」
「ははっ、エマの顔を見たら疲れなんて吹き飛んだよ」
「あははどうも、それは良かったです」
「あー冗談じゃないぞ。本当にエマを見ると回復するんだよ」
「……全く、お兄様ってば浮かれて顔が弛みすぎ弛みすぎ」
入ってくるなり妹にも劣らない麗しの微笑を浮かべるのは、レティシアの兄のクラウスさんだ。
さらりとした彼の銀髪がいつもより乱れているし、どことなく息が弾んでいる気もするけど走ってでもきたのかな。まだ仕事が忙しいのかもしれない。今日私がここに来た時彼は用事で出掛けていて不在だったもの。一時的に帰ってきただけの可能性もある。
次代の公爵たる彼は日々現公爵の補佐をしている。
だからここ数年は小さい頃のように頻繁に一緒に過ごしたりはできなくなっていた。
それでも時間のある日は私とレティシアと一緒に行動する事が多い印象かな。この前みたいに貴族の舞踏会に同行したりとかね。
「忙しいでしょうに律儀に顔を出しに来てくれたんですよね。ありがとうございます。こっちの事は気にしないでお仕事に戻って下さいね」
座ったままで失礼かとは思ったけどそのままで気遣えば、彼はちょっと慌てたようにこっちに来て一つ空いていた席にトスンと腰かけた。不満そうな表情までする。
「エマはお茶の一杯すら付き合ってくれないのか?」
「うん? いえ別にそんなつもりはないですよ。クラウスさんの時間が大丈夫なら是非ご一緒してほしいです。私もその方が嬉しいですしね。ね、レティもいいよね」
彼とは少し久しぶりだったのもあってついついウェルカム感満載に応じた私だけど、ふと見たレティシアはやけににやにやしていた。彼女も歓迎しているのは明確なのに何かが違う。どうかしたのか訊ねようとした矢先、視線を外していたクラウスさんから咳払いが上がってそっちを見やる。
彼は何かを窘めるように妹をジト目で見たけど何事もなかったようにして私の方を向いた。
「ふふ、じゃあエマもそう言ってくれたことだし、心置きなく休んで行こうかな」
メイドが温かい紅茶を運んでくるまでの間、彼は口寂しさを感じたのか焼き菓子へと手を伸ばした。
「あ、そのマドレーヌ、オレンジピールが効いててとっても美味しかったですよ」
「そうなんだ。じゃあマドレーヌにするよ。エマはもう一個どう?」
「んー、そうですね、食べようかな」
頷いて手を伸ばそうとすると、目の前にそのマドレーヌを差し出された。
まるで餌付けのようにクラウスさんが口元まで持ってきてくれている。ふんわりとオレンジ主体の爽やかでいて甘く香ばしい香りが鼻先を擽って食欲を刺激したけど些か戸惑った。
「ついさっき手は拭いたし綺麗だよ」
「いえそこは全然気にしてないですけど、私よりも先にクラウスさんが食べないと」
「大事なお客様にご奉仕するのはこの家の者として当然だろう?」
「え、ええと……」
困惑が大きくなる。家の格は遥かに下の私に冗談でも恭しくもそんな言葉を掛けてくる男性なんて彼くらいのものだ。今度は私が咳払いをした。
「クラウスさん、こういうことは例の意中の相手にして下さいよ。この場は三人しかいませんけど、もしもその人がいたら大きな誤解をされちゃいますからね」
「こういうの昔はよくしていたのに、エマは冷たいなあ」
「まあ確かにそうでしたけど……」
もっと子供の頃、よく三人でお菓子の食べさせ合いっこをしたのは事実だ。
渋っていると彼が眉尻を下げた。
「……まあ俺はエマにこそ誤解されたくないんだけど」
「え、はい?」
「ああ~腕が疲れてきたな~あ?」
さも憐れそうに顔を歪める彼の傍ではレティシアがくすくすと笑っている。
「エマ、折角なんだし食べてあげたら? 近頃のお兄様ってこういうとこでは変に頑固でしょう。あなたが食べるまで絶対に動かないと思うわよ」
その通りだ。先日、男装した私をクラウスさんは見事に利用して女除けを半ば成功させたわけだけど、彼は騎士のエドウィンをつまりは男を好きだと公言したも同然だった。
そしてその事実を自ら広めようと、彼は私の協力を得て別の集まりでも男装の私に親しげなスキンシップをしてくるようになった。
こっちが照れて少し控えめにってこそっと訴えても、遠慮を知らないように必要だからって譲らない。一応は『エマがどうしても嫌ならやめるけど……』ってしょげた犬みたいな顔でその都度許可を求めてくるんだけど、私はどうしてだか駄目だなんて言えなかった。
更にはセーラ嬢とジムさんがいる時は牽制さえして私に近付かせないようにする。とは言えセーラ嬢達も隙を見て私にくっ付いてくるんだけど。
クラウスさんとのスキンシップは別段嫌じゃないし、むしろ昔に戻ったと思えば無邪気に彼の傍らを駆け回っていた頃を思い出して懐かしさだって感じる。
でも、本音を言えばその協力関係が始まって今はちょっと躊躇いがある。
ある時期、始まりはいつからだったかすらわからないうちに段々と遊ぶ機会が減っていって彼と疎遠になった。レティシアとは何も変わらなかったのに。
理由は公爵令息としての彼の多忙さだけじゃなかったように思う。
だってそことは別に彼から敬遠されていると感じていた。
こっちの勝手な思い込みだったのかな?
そう思うくらいに今ではすっかり感じていた壁もなくなって、前よりも近い気がしている。本当に私の勘違いなのかも知れないとは思うけど、心のどこかではまだ引っ掛かっていた。
BL仕様の始まりになった舞踏会までは昔みたいな気安い触れ合いはほぼ皆無で節度ある距離感だったのに、舞踏会前後を皮切りにしてここ数ヶ月って比較的短期間にすごく距離が近くなったから、そこも正直かえって戸惑ってもいた。
そして今日濃厚になった新たな気付きもあって、本当に私が昔みたいにしてもいいのか疑問が湧いてお菓子をもらうのを遠慮していたんだけども……。
「あ~腕が~」
「…………はあ、わ~かりました」
観念と言うかこっちから折れてやってぱくりとオレンジマドレーヌに齧り付く。そのまま体を背凭れまで引いてもぐもぐした。うんやっぱり美味しいね。
「ふっ、ふふっ、……可愛い」
クラウスさんが何か言葉を満足そうに呟いてくすりとして水色の両目を細めた。レティシアも。
……どこに笑う要素があったっけ? 美形兄妹は思考回路や感性も似るのかもしれない。
「もう、私のこと餌付けされる小動物みたいだとか思ってます?」
食べ終えて恨めし顔をしてやれば、クラウスさんは笑いの余韻を残したような面持ちで自身の分のマドレーヌを口に運ぶところだった手を止める。
「まさか。いつ見てもエマはエマだなあと安心したとこ」
「どういう意味ですかそれは」
半眼になる私へと彼は一口二口でマドレーヌを自身の口の中に押し込むと、むぐむぐと咀嚼しながらこっちに少し身を乗り出した。
親指と人差し指で私の口回りにくっ付いていた菓子くずをつまむ。思わぬ世話焼きに私はぱちくりと瞬いた。知らず菓子くずを付けっぱにしていた自分に少しの羞恥も感じた。
だけど、羞恥よりも疑問が大きくなる。身内でもない女子に大丈夫なんだろうか。
「えっと、ありがとうございます。けど……こんな風にして大丈夫なんですか?」
「何が?」
「私今は普通にドレス姿ですよ?」
「うん? そうだな、ドレス姿だ。ドレスだと何か不都合があるのか?」
「ええとだってその……」
「わたくしもエマが何を言いたいのかよくわからないんだけれど」
クラウスさんのみならずレティシアも怪訝にする。
二人して何で。困惑したいのはこっちだよ。彼女だってさっきちらっとそれっぽい事を臭わしていたのに。
「だって、今は私男装中じゃないんですよ」
兄妹は首を傾げて互いの麗しい顔を見合わせる。
「いえですから、クラウスさんは女の格好のままの私に男装の時みたいなベタベタは気乗りしないんじゃないんですか?」
「ええと、どういう意味……?」
「どういうって、クラウスさんは――男性が好きなんですよね」
「「…………パードゥン?」」
さすがは兄妹、息ピッタリだ。
クラウスさんが目を点にして、レティシアが両手で口元を覆って肩を震わせ始める。
「男装している私じゃないのに、無理しなくていいですよ」
「は? え? ちょっと待って何それ無理って!?」
愕然とする兄の横で、数秒のタイムラグを伴ってブフーッとレティシアが噴き出して腹を抱えて大爆笑した。彼女が紅茶を口に含んでいなくて良かったと思う。
しばらく室内には三者三様の沈黙が訪れていた。
私は困惑、レティシアはどうにかそれ以上の笑いを堪えようと必死で、クラウスさんは物凄くショックを受けた顔で項垂れている。
そのうち彼の分の温かい紅茶をメイドが運んで来てくれて、私達は各自気を取り直した。
「エマ、俺が騎士のエドウィンを好きだってのはあくまでも振りだから。俺は別に男が好きってわけじゃない。意中の相手がいると言っただろう」
「え、ですからその相手が男性でしょう?」
クラウスさんは溜息をついた。撃沈したような面持ちのままだ。
「女性だよ。まあ、その子が男でも好きになっていたとは思うけど」
「へえ、凄く好きなんですねその人が」
彼がゆっくりと顔を上げ、次の瞬間私の目はチカチカした。
「――ああ、好きだよとっても」
一瞬にして満面に彼の恋慕の想いが咲いていた。
…………何だろう。
知らない間に彼は誰かのためにこんな風に幸せを蕩けさせた顔で笑む男になっていた。
仲良く遊んで親しく過ごしてきたのは子供時代の何でもない過去なんだと感じてしまえば、何故か心の中に一抹の不安のようなゆらゆらした感情が浮かんできて胸が締め付けられる。
大好きな兄を取られたような気持ちになったのかもしれない。妹分としての独占欲から出たジェラシーだ。
でもレティシアが腐友達を増やしても似たような気持ちにはならない。
だからそこは自分でもまだよくわからなかった。
「そ、そうなんですね……。クラウスさんからそこまで想われているその人は、果報者です」
「……エマはそう思う?」
「はい」
そこは素直に思ったまましかと頷けば、彼は照れたのか紅茶をイッキ飲みしようとして熱くて間抜けにも噎せた。口内火傷が酷くないといいんだけど。社交界じゃ優雅な貴公子として人気のある彼のこんな姿は他じゃ絶対に拝めない。ついでに言えばレティシアの転げるような大爆笑も。彼がこんなにも自然体なのは妹の前ってのと私が妹同然の幼馴染みだからなんだろう。……嬉しいはずなのに微かに胸の奥がチクリとした。
「ところで、エマはどうしてそんな風に思ったんだ? 俺が男を好きって。男装したエマ以外とはその……ベタベタしてないのに」
「わたくしもそこは知りたいわ」
頓珍漢な勘違いを申し訳なく思いつつ、私は説明を少し躊躇った。
クラウスさんが気まずい思いをするかもしれないからだ。仮に彼自身自らの嗜好に無自覚だったなら尚悪い。
「エマ、教えてくれないか?」
「エマ、わたくしも是非……ぷぷっ」
思い出し笑いをする妹へと兄が面白くなさそうな目を向ける。
本当にいいのかな。でも本人からも催促されたんだし話すべきだよねえ。
「えっとですね、いつも、男装の私にベタベタして同性愛者のふりをする時にクラウスさんの心臓が凄くドキドキしてるからです」
「……――んんんなっ!? え、ドキドキって、ききき気付いて……!?」
彼は一瞬の空白を置いてから、盛大に狼狽して顔を思い切り真っ赤にした。
「え、だって密着してくるじゃないですか、その時にどうしたってわかるので……。不可抗力ですよ。とにかく、少年騎士な私にドキドキしてるからその理由を考えた末そうなんだって思ったわけです」
「……」
「そうじゃなかったみたいですけど、ならあれは人前で演技することへの緊張ですか? 何であれ、私クラウスさんの恋を応援しますね!」
「……」
「あ、要らないですか、私なんかの応援は」
「……応援の内容による」
「内容? えーと?」
一旦ティーカップの中身をじっと見つめて無言でいた彼は、徐にこっちを向いた。
その目にはどこか真剣な光がある。
彼のよく響く声でゆっくりと言葉が紡がれる。
「エマは、俺がその時だけだと思ってるの?」
「へ?」
言わんとしている事が掴めずに場の空気にそぐわないような声を出してしまったけど、彼は一切彼の持つ空気を緩めなかった。
レティシアは少し驚いた顔をしたけど、空気を読んで気配を潜めた。
「クラウスさん?」
「エマ、俺がエマの男装にドキドキしてるのは事実だよ。緊張も。でもそれが全部じゃない」
クラウスさんは席を立ってすぐ傍まで来ると身を屈め、何を思ったのか私の片方の手を握って彼の心臓の上に当てさせた。
トクントクンと掌に鼓動が伝わって、服越しなのに些か速くて強いなと思う。
これじゃあ凄くドキドキバクバクしているみたいだ。
って、ううん、してるんだ。思い切り早鐘を打っている。
でも何で?
どうしてこんな?
「ク、クラウスさん……?」
掴まれて胸に押し当てられていた手を持ち上げられて、よりにもよって掌側に唇を埋めるようにちゅっと口付けされた。
手の甲へする淑女への挨拶と似ていて非なる、キス。
「ククククラウスさん!?」
ぎょっとして見やった彼の顔はどこまでも優しい男のそれだった。
綻んで仄かに赤い。
彼のこんな顔を初めて見た。
それが私に向けられている。
言葉が出てこない。
「俺はエマが目の前にいるといつでもこうだよ。知らなかっただろ」
我知らず大きく目を見開いていた。
それって……私起因なの?
ドキドキの理由が、私?
それってやっぱりつまり――……。
妙な緊張がじわじわと増していく。
クラウスさんは依然綺麗な笑みを浮かべている。
さすがに悟った。
彼の緊張に上がる心拍数、火照る顔、だけどそれでも頑張って笑って接してくれるその心。
私もそういう人同士を見かけた事がある。
彼の思いやりに感動にも似たものが込み上げる。
そっか、薄々思っていたけど、やっぱり本当にそうだったんだ。だから疎遠にもなった。
そう実感すると正直少し切ない。
「――クラウスさんは、実は緊張する程私が苦手だったんですね……っ」
「「……は?」」
兄妹は揃ってボカンと口を開けた。
「きっと私が幼馴染でレティの仲良い友人だったから露骨にそう言えなくて、場の空気を悪くしたくなくて、ずっとにこにこしてくれていたんでしょう? 無理させてて我慢させててごめんなさい!」
人によっては嫌いじゃないけどどことなく苦手な相手っているものだ。彼にとっては私がそうなんだと思う。でなければ変な緊張なんてしないもの。気を遣って誤魔化すように過剰なスキンシップだってしてこないと思う。
「な、何でそうなる……」
愕然となるクラウスさんは私に図星を指されて弁明の言葉も浮かばないのかもしれない。
「ふう、まさかエマがここまでとは……。お兄様、世の中には打てば響く鉄とは対極の所にいる人間も存在するのよ」
一度眉間を揉んだレティシアが珍しくも慈母のような面差しを兄へと向けて小さく頷いてやっている。ええとどんな状況? しかしその目には次第に涙が薄らと滲み出してうるうる目になった。
直後。
「ぶふーーーーッ、あーっはっはっはっ! おっお兄様……っ、お気の毒うぅ~っ、ふふふあはははははっ、はーっははははーっ!!」
堪え切れなくなったように噴き出して、最後には椅子から滑り落ちて床上で笑い転げた。
「だっ大丈夫レティ!?」
クラウスさんに握られていた手を振りほどいてびっくりして駆け寄れば、彼はそれすらも傷付いたような顔をした。えっとでもレティシアを起こさないといけないしね。
「立てるレティ? いきなりどうしたの? 笑い出すほど具合が悪くなった?」
「ううん、少し悲嘆して涙が出ただけよ」
「悲嘆? よくわからないけど忙しくて疲れてるんだねきっと。今日はもう帰るよ。次の男装の話は追ってまたしよう、ね?」
「ええそうね」
レティシアと一緒に立ち上がって一度クラウスさんに帰りの挨拶をと振り返る。
「クラウスさん、私は気にしないですから無理しないでいいんです。嫌いじゃないけど苦手ってありますしね。ええと、私そろそろ帰りますので……。ごきげんよう。あっ、そうだ、男装での協力は今まで通りしますから安心して下さいね!」
わかってみれば仲良しだと思っていたのは私だけで、まるで片想いみたいでちょっぴり胸が痛かったけど、それも人生の修練だと思って気持ちをぐっと強く保った。
形だけでも微笑んで見せて踵を返す。
その際レティシアはじっと何かの試金石でも見るようにクラウスさんを見つめた。
「レティ……?」
彼女の横顔に戸惑った刹那。
「まっ……、待って待って待ってくれエマ! 俺はエマを苦手じゃないっ! 断じて苦手なんかじゃないっ!」
まるで世界中に訴えるみたいな必死かつやけに焦った声が追ってきて、その叫び主たるクラウスさんに腕を引かれ回れ右で彼の真正面に向かされる。
声同様彼の顔も凄く焦っているように見えた。
「へ……そ、うなんですか?」
「ああ、これだけは絶対誤解してほしくない。苦手なわけないだろ。昔からずっとずっと俺はエマが好きなんだから!」
「好き……」
放心気味に小さく呟けば、彼はうっかり失言でもしたように「あっ」と狼狽の声を上げた。その様が何だか可愛く見えてふふっと笑声が漏れる。
気付いたら嬉しくて破顔していた。
「良かった……気にしないなんて言ったのに、私ってば現金です。何だかとてもすごくホッとしちゃいました。だって私もクラウスさんがずっとずっと大好きなんですもん!」
「え? エマも俺を好き……。これは夢か?」
手品みたいに背後で大輪の花が咲き乱れたクラウスさんはごくりと唾を飲み込んで、自分の頬をつねった。夢じゃないとか呟くとそっと手を私の頬に沿わせる。
「エマ……」
「レティと同じに!」
「……え?」
「二人は私にとって大事な大事な大好きな幼馴染です。勿論今までもこれからも!」
「…………はは、は、そう……か」
それではまた、と退室の前にペコリと頭を下げる私へと、彼はへらりと力ない笑みを浮かべて見送ってくれた。こっちのテンションに疲れたのかもしれない。
でも少し涙を堪えていたように見えたのは私の気のせいかな?
「あっ待ってエマ、わたくしも玄関まで行くわ。……とりあえず良かったわね、お兄様。あわや後退する所で全然進展はしていないけれど」
凄くイイ顔のレティシアが兄の肩に手を置いて、最後の部分を何故か耳打ちしてから駆けてくる。何て声をかけたんだろう。廊下に出てから訊いてもまだ内緒って雅な仕種で人差し指を自らの唇に当てるだけで教えてくれなかった。
――俺はエマが好きなんだから!
帰りの馬車の中、一度思い出してしまえば、私の頭にはどうしてだかずっと彼の必死な台詞の断片がリフレインしていて頬の熱が取れなかった。ドキドキドキと高鳴る心臓がうるさかった。
「うー、次の男装の時に平気な顔でクラウスさんの演技に合わせられるかな」
協力するとは言ったけど、ベタ甘スキンシップを想像すればいつになく落ち着かない気分になる。
「うへえええ~~~、何でどうして急にこんなあ~?」
こんなのまるで、まるで……恋する可愛い女の子みたいだ。
あ、可愛いは余計か。でも私の感覚じゃ恋する女の子は可愛い扱いなんだよね。
「はあ、最近気を抜きすぎなのかも。もっと鍛練に打ち込まないとなあ」
押さえていた両頬から手を離して脱力する。
かつて邪悪なドラゴンを駆逐した師匠のように剣の道を極めるには余所見をしている暇はない。
ただ、そうやって突っ走っていたら結婚を忘れていたって師匠は言っていた。
えっ嘘でしょって思ったけど、それくらいの心意気が必要ってわけだよね。まあ、私の場合は家のために誰かと結婚するだろうけど、そこに恋愛感情はないと思う。それでいいんだ。
「恋にのめり込むと、ろくなことにはならないって言うし。そもそも私ってば自意識過剰じゃない?」
私の中性的な容姿は女子としては些かカッコ良すぎるらしいから、クラウスさんが恋愛感情を抱くとは思えない。それなのに告白されたみたいに感じてしまうだなんて呆れる。
こんな事身近な誰にも、レティシアにだって話せない。むしろ彼の妹のレティシアだからこそ話せない。家に着くまでの間、冷静に冷静にって自分に言い聞かせて何とか感情を落ち着けた。
その夜、師匠が出先でぎっくり腰になって動けないって彼の孫を名乗る青年から連絡が入った。
おかげで昼間の悩みは完全に吹き飛んだっけ。
何と、師匠ってば正式な結婚をしていなかっただけで、ちゃっかり孫までいたんだってのを初めて知った。
内縁の妻はいたってわけだ。
水臭いなあもう。でもそれは有事の際の弱味にならないよう家族を護るためでもあったらしい。師匠の若い頃は大切な人を人質にされて望まない仕事をさせられるなんて卑劣な話は結構あったんだとか。騎士として優秀だった師匠だからこそそう言う狙いで近付いてくる悪い奴もいたんだろうね。秘密を守ると徹底していた彼はだからこそ家族と離れて生きてきた。故にこれまで私だけじゃなく世間の誰も知らなかったってわけだ。
わざわざうち、ロビンズ男爵家宅を訪れてくれた彼の孫から直接そう聞いた。
師匠にはその地の病院で暫く静養してもらう方向で手短に話をして、孫だって言う男性は帰っていった。その他の諸々の決め事は後日改めてする運びにもなった。
師匠が私の師匠を続けるか否かも含めてね。
何故なら師匠の家族は彼に一緒に暮らしてほしいみたい。年齢も年齢だしそれは同意できる部分も大きい。
だけど、師匠が師匠じゃなくなるのはやっぱり寂しいって思う。
どことなく師匠に似た顔の去っていく若い背中を見送ってふと気付く。
「腰に剣……あの人も剣士なんだ」
そう言えば自己紹介の折に彼も騎士って言っていたような気がする。師匠がぎっくり腰!?って仰天のあまりすっかり頭から抜けていた。
さすがは祖父と孫。血なのか、同じ道を選んで同じ武器を極めようとしている。
「私だって、負けてられない」
そう気合いを入れた。
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