上 下
29 / 31
第二章

2 問題のある読書家

しおりを挟む
「最近の魔物の安定はこの子のおかげなのに……」

 ちょうど王宮庭園を出て何でもない王宮敷地内の広く綺麗な道を歩きながら、あたしは隣を歩くセオ様に聞こえない声で小さく呟いて抱っこしているルゥルゥをぎゅっと抱きしめた。
 別に聞かれたくなかったわけじゃないし、煩悩も含めて思考が駄々漏れなんだから仮にそんな意図で小声にしても無駄なだけ。まあ少し離れて付いて来る護衛達には有効だけどね。

「さっきの貴族達も後ろの兵士達も、何も知らないから感謝の一つもしないで悪だ悪だって決め付けるのよ」
「仕方ないだろう。それの力を広く知られればかえって無用な揉め事を招くだろうからな。しかもいつも聖女のそなたとセットとなると、価値は倍増。セットで咽から手が出る程欲しいとなる国は必ず出て来る。……無理矢理攫ってでもな。そうなれば国家間の争いの火種になる」

 黄金竜の王様だって言うルゥルゥは、号令一つで同族以外にも下々の魔物達を呼び寄せたり、反対に遠ざけたり――つまりは魔除けもできる。

 実際に王都は勿論、この国の魔物の活動は低下している。近隣諸国の方はわからないけど、地続きなんだから影響は出ていると思うわ。
 そんな魔物ルゥルゥの魔除け能力は確かにセオ様にルゥルゥの王宮滞在の理由を認めさせた。
 ルゥルゥもあたしのためにと、体調万全の時にまた魔除けの咆哮をしてもいいって言っていた。

 だけど、セオ様にそれは厳しく止められたのよね。

 現在、魔除け能力は極秘事項としてあたしとセオ様だけが共有するルゥルゥの秘密になっている。

 セオ様だって人間の暮らす領域から魔物がいなくなるのは好ましいと言っていたわ。しかしながら急激過ぎる大きな変化は社会に歪みを齎すとも言っていた。彼の直前の台詞でも言ったような懸念を念頭に置いての発言だと思う。

 ここで、もぞっと動いて顔を上げたルゥルゥがセオ様を小馬鹿にするように笑った。

「うははははっ、魔石を沢山食べてより強くなった僕は人間なんぞに攫われないし、アリエルの事も攫わせないのだ。矮小で弱虫な人間の王は無駄な心配ばかりしているな!」
「食っちゃ寝して肥大した愚鈍な竜は思考も愚かなようだな。そもそも慎重さも繊細さも初めから欠落しているんだったか」

 一度古代の聖女様に卵で誘拐されているのもあって、この子の自信満々な態度にそうよねーって気楽に同意はできない。でもまあちびっ子守護者は可愛いからよし。突っ込まないであげるわ。

「頼もしい宣言ありがとうルゥルゥ。でもあたしの恋人に暴言はやめてね?」

 ルゥルゥはともかく、もしまた「あーれー」って攫われそうになったらセオ様が護ってくれるでしょ? でしょでしょ? ねえセオ様?
 横目でパチパチとわざとらしく可愛らしく瞬きしたら、彼は端正な横顔を微かにしかめた。あーはいこういうふざけて試すようなのはお嫌いですよねー。人を試すのは平気でも自分がとなるとそりゃ不愉快ですよね、すいません。
 ここであたしの奇行を見たルゥルゥが頬を膨らませた。

「アリエル~、正気に戻れー! そいつは恋人じゃなく嘘の恋人――」
「――シャラーップルゥルゥ! その事は誰にも言っちゃ駄目って言ったでしょ!」
「んむ? ……ああっそうだったのだ! ごめんなアリエル~」

 セオ様から契約結婚を提案された場にはこの子もいて話を聞いていたのよね。そのすぐ後からデートし始めるようになってルゥルゥは契約結婚の提案を飲んだって悟ったみたい。拗ね顔で契約結婚するのか……って確認口調で言われたもの。
 うっかり他の人の前で暴露されないように口止めはしたんだけど、うん、まあ、ルゥルゥはうっかりさんだったみたい。
 あたしは自分でも器用に小声で叫んだわねとか思いつつ、きちんと注意は忘れない。

「ルゥルゥ、本当にそこは頼むわよ? でないとあたしの立場が悪くなるんだからね、あたしの」
「はっそうだったのだ! うむ、お口にチャックなのだ!」
「そうよ、よろしくね」

 あたしの立場だなんてこんな言い方は気が進まなかったけど、この子には何より有効だから仕方ない。うふふそこは自惚れるわ。
 実際大衆に愛のない契約結婚するんですってバレたら聖女が国民を欺いた騙したって立場が悪くなるのは間違いない。歴代の聖女達の顔に泥を塗るようなものよね。因みに愛のないとは言ったけど、あたしの推し様ラブは永久に不滅です。
 セオ様だって悪く言われるわ。それは断じて看過できないからこそバレるような失態は犯さないようにしなきゃなの。

 こほんとセオ様が空咳をしてあたしは彼を見た。

 彼はあたしに気を向けさせようとしてわざと咳なんてしたみたい。どうしたのかしら普通に話しかけたらいいのに。今さっきのパチパチがキモかったから話しかけにくかったとか?

「アリエル」
「はい、何でしょう」
「大事なそなたが善からぬ輩に誘拐などと、そうならないようになるべく私の傍にいてくれ。離れていては護りたくとも護れないからな」
「……」

 こういうのは煙たがられるやり取りかと思っていたから予想外の返答だった。しかも傍にいろですってよ奥様! きゃあーん!
 ……なーんて、まあ聖女様は政治的に大事な駒だものね、大事にしてくれるからってあたしアリエルは早とちりして舞い上がらないわ。近くで問答無用にえへえへ推しを愛でられる幸運には酔い知れますけどね。だからご安心をセオ様ん!
 漫画みたいに眉を濃く太くしてバチこーいとウィンクしそうになって何とかそこは聖女らしからぬ動作だからと自重した。

「アリエルそれは――」
「ああ残念もうお別れ――あ、すいません陛下、台詞が被ってしまったようですね。お先にどうぞ」

 ちょうどお互いの宮殿へ向かう分かれ道に差し掛かったあたしは精一杯の恋人とお別れ寂しいわーってな演技を披露するつもりだったんだけど、台詞がブッキングしちゃったから中途半端に微笑んだ。ぶっちゃけ、あーんもうお別れかあ嬉しい言葉をもらってすぐなだけにもっと一緒にいたいのに~って心では演技でもなく思ってはいる。

「ああ、いや……」

 折角促したのにセオ様は何かを言い淀むと、少し咽の奥で思案に低く唸ってからこっちを改めて見てきた。

「そなたの宮殿まで送ろう。玄関に着くまではそいつを放り捨ててまた腕でも組んで歩こうか」
「えっ」

 セオ様からの提案にあたしはドキリとした。
 兵士達も見ているから恋人演技はむしろ濃厚にした方がいいんだろうけど、セオ様の体温とか息遣いとか良い匂いとかを間近で感じるのはやっぱり想像以上に緊張するんだもの。

 だから正直手を引っ込めたくなるみたいな躊躇いが生じるわ。はあーあ、殻に引っ込むカメみたいよねあたし。

 セオ様はここ三週間くらいそんな大根役者なあたしを寛容にも怒らないで見守るようにしてくれている。ありがたいわ。
 あたしも情けないわよね。聖女演技は様になるのになあ……。
 そして周囲もあたしの不自然な硬さには何故か不審を抱かない。ありがたいわ。トマト顔でギクシャクしたブリキ人形みたいにもなるのに。

「アリエル~、僕を放り出すのか~?」
「え、えとー」
「アリエル、どうするんだ? その迷惑竜か私か決めてくれ」
「え、えーっとー」

 どこで覚えてきたんだかうるうるして見上げてくるルゥルゥをよしよしと撫でながら、横からはセオ様のトゲトゲした視線を感じつつ、視線は二人の間を行ったり来たりするあたしはとうとう決断した。

 そっとルゥルゥを地面に降ろすと、二人の一歩前に出てからくるりと真正面になるよう振り返る。

「「アリエル?」」

「あの、申し訳ございません陛下、ご多忙な陛下にわざわざお送り頂くなど恐れ多い事てすわ。ルゥルゥもごめんね、どこかで遊んでいてね。わたくし少々その……急ぎの用件がございましたので、これで失礼させて頂きますね。それではまた。ごきげんよう」

 あたしはにっこりと微笑むとまた回れ右をしてあたしの宮殿までをダッシュ……したかったけどヒールが高いから早足で進んだ。控えて付いて来ていたメイ、モカ、イザークも慌てたようにしてあたしに従った。実は密かにいたあたしの王宮での護衛リンドバーグも。

 セオ様ともルゥルゥとも今はさよならよ。

 素早いあたしの逃げ足にぽかんと突っ立つ二人を尻目に、あたしは振り返らずに急いだ。

 セオ様には苦手なシチュエーションから逃げたなって思われているとは思う。恋人演技だって契約のうちなのにけしからんって憤慨されても文句は言えないわ。後でお叱りなら受けますとも。

 でも今はドキドキもだけど、トイレに行きたいのよっ!

 庭園デート前についつい水分取り過ぎたわ。
 聖女はトイレを所望します。だからご理解下さい。

「ええーんよりにもよってセオ様の真ん前で尿意とか、駄々漏れだから今更なんだけど、そうなんだけど……っ」

 乙女として屈辱でしょーっ。
 途中からはもうヒールでも器用に走り出したあたしに付いてくる世話役達は「尿意……駄々漏れ!?」とあたしの発言からお漏らしを案じたらしいわ。宮殿の部屋に戻ったらメイが少し躊躇いがちに新しい下着一式を持ってきたからわかった。キョトンとしていたら「勘違いして申し訳ありません!」ってそそくさと部屋を出て行ったけどこっちこそ勘違いさせてごめんね!

 その日は一休みしてから王宮図書館に向かった。聖女仕事もなかったから良かったわ。

 それまでも図書館には通っていて、聖女能力向上資料をひたすらに読み漁ったり、この世界の未知なる知識を学んだり好きなジャンルの物語を読んだりしていた。

 ただ、これまでのあたしは甘かったと言っていい。調べ物だけじゃなくそうやって息抜き読書もしていたから。

 だって抗えなかったのよ、一言で言って図書館は知識の宝箱!

 攻略本なしに未プレイの領域を進むRPGが如く、この世界を書物から紐解くわくわくする冒険も同然だった。
 前世で小説や設定集を読むだけじゃあ決して知り得なかったこの世界の常識非常識がザックザク! 全てが文字として詰まっている。未知の国、文化、食べ物、生物、そして創作物に至るまでが全部!
 教会書庫にも沢山の本があってその時もはしゃいだけど、そこにはなかった物がとても多い。量で圧倒されたものだった。
 生憎と今は聖女能力関連優先と趣味の本に手を出すのは堪えてる。

 あたしはもっと聖女としての名声を高めるためにも能力向上のための資料読みに励むべきだったと今日思ってしまったからよ。

 あたしが誰もが認める至高の聖女様たったなら、ルゥルゥに対してだってあの聖女様が傍に置くのなら問題はないだろういやむしろありがた~い黄金竜様なのかもしれないって思われて、白い目で見られたりはしなかったはずだもの。

 婚約式まであと一週間。あたしは少しでも式までにあたし自身の底上げができたらいいと、図書館を頼りにしたってわけ。

 さあて、一ミリでも優秀な聖女になれるよう張り切って行くわよーっと、この日からあたしは聖女仕事以外は断って図書館で過ごした。
 しかもやる気に燃えて泊まり込みでね。

 勿論セオ様とのデートも、ルゥルゥと遊ぶのもお断りした。ルゥルゥは不満を口にはしたけどそれだけだったし、邪魔にならないようにか大人しくしてあたしの傍にいた。セオ様もあたしが心で念じていたせいか何も文句は言ってこなかった。
 二人共あたしの決断を尊重してくれたんだと思う。

 数々の資料本を本気で読み漁って、だけど読むのには当然一日で足りるわけもなく今日でもう丸々三日が経っている。でもまだまだ足りない。今夜も図書館に泊まりかしらね。

 教会組の三人も変わらずずっと一緒に能力向上の手掛かりを探してくれている。彼らは何故かさっきからどこか心配そうにあたしを見てくる。ルゥルゥは退屈過ぎたのかくうくう寝ているし。手伝ってくれるわけじゃないけど癒される可愛さだからよし!

「あの、聖女様、少し休憩を取られた方がよろしいかと。目の下にくまが……」

 ここでモカが意を決したように女子的にはピンチな顔の様子を教えてくれる。
 あー、だから赤青緑の三人とリンドバーグは過剰に心配そうだったのね。三日も徹夜同然の不摂生を続けたら誰だってこうなるわよね。現に皆だってあたしに律儀に付き合ってくれていて似たような惨状だもの。
 治癒仕事の際には、特に三日目の今日なんて顔が隠れるようにベールを着けたりフードを深く被ったけど、垣間見えたお疲れ顔をした聖女が実は若い女じゃなくくたびれた老婆なのでは、なんて噂が一時王都に薄らと飛び交ったのはまた別の話よ。ほほほ。

 目線を上げれば、窓の外はもう夕焼け終盤。

「くま……そう。それでは今日はもう終わりにしましょうか。今夜はここじゃなく部屋にも戻るわ。今更だけど人間きちんと休息を取らないと駄目よね」

 三人はホッとした様子だった。やや離れた席にいたリンドバーグも。ルゥルゥはおやつをたらふく食べた後だからかまだ寝てるわ。
 はあ、首を回してようやく実感する。肩も凝ってるし本当に疲れたわって。煩悩も忘れる程に書物に没頭し過ぎてほぼ三日。疲れがたまって当然よね。頭の回転だって鈍るわ。
 そんなわけであたしは一旦図書館を引き上げたわけだけど、実はあたしの補助を名目に正式な許可をもらって一緒に泊まり込んでくれていた司書達はやや残念そうにしていた。

 あたしが去るのが寂しいから?

 いいえ、違います。ああでも一割くらいはそう思ってくれてるといいなあ。
 何故なら、あたしの情熱を知ってか司書長ノートンの判断で王宮図書館はいつの間にやら貸し切りになったし、今じゃ司書長も司書の皆も初日に訪れた時のような尊い聖女を見る目というよりは、得難い仲間を見る目であたしを見るようになっていた。だからこそあたしも彼らがわかる。

 家になんて帰らずずっと図書館で書物と過ごしたいって欲望が。

 人の事は言えないけど彼らの本好きも大概よねー。

 そうしてふかふかベッドで眠って起きて、あたしはまた図書館にお邪魔したんだけど、読書の最中、貸し切り図書館に意外な来訪者があった。

 セオ様が現れたの。





 他方、セオドアはセオドアで頭を悩ませていた。

 アリエルが寝食も忘れたように王宮図書館に籠った。

 忘れたようにであって実際は幾らか食べて少しは寝てはいるようだが、決して正常とは言えない生活を始めてしまった。図書整理の際には泊まり込みもする熱心な王宮司書のために館内に寝泊設備を備えているとは言え図書館は聖女の家ではない。

 ここ三週間程の日課になっていた恋人演技デートも断られて既に三日になる。そこは正直不満だったセオドアだ。

 籠るとは言ってもその間不思議と王都や近郊での聖女の治癒仕事だけは通常通りにこなしていたようだ。デートを断られていたもののアリエルがやる気に満ちているのは伝わっていたのでセオドアもそこは理解して我慢したし、聖女たる者体調の自己管理だってするだろうと心配はしていなかった。
 ……三日が経過するまでは。

「そこそこの本好きだとは知っていたが、さすがにあれは怖ぃ……んじゃなく感心しない」

 自身のプライドに懸けてアリエルが怖いなどとは認めたくないセオドアだ。
 現在、仕事のため執務机に陣取る彼は、アリエルの煩悩思考のせいとはまた別の理由で眉間にシワを刻んでいた。

 籠って三日目のこの日、昼のうちに現状をどうしましょうという戸惑いと報告をややげっそりしたリンドバーグから受けていた。彼は急ぎ報告すべきと判断し少しの間抜けてきたらしかった。

 セオドアはアリエルが図書館に詰めているのを知っていたが、リンドバーグの様子を見てようやく普通ではないのかもしれないと疑いを抱いた。
 ただ、リンドバーグから詳しく話を聞くも実はよくわからなかった。不可解にもビミョーにアリエルに関する言及を濁されるのだ。
 その時アリエルの駄々漏れ思考からは異常は読み取れなかったが、それはいつも異常だが異常であるがために異常を見つけられなかったのだと今はわかっているセオドアだ。

 ついさっきわかった。

 と言うのも、自分では役不足だと思い詰めたようなリンドバーグが心配で実は報告を受けてすぐに一度様子を見に行ってみたのだ。
 リンドバーグは優秀だが頗る真面目な男なので思い悩んで辞職されても困るからだ。

 果たしてアリエルは一体全体どんな様子なのか。

 護衛を下がらせ人払いした王宮図書館前。細く隙間を開けて覗いた館内。国王のくせにどうしてこんなこそ泥のような真似をしているのかとそこで気付き気を取り直して普通に開けた扉の向こう。

 セオドアは閲覧席のアリエルを一目見て、言葉を失くしたものだった。

 そこには聖女などどこにも見当たらなかった。

 アリエル・ベルという娘は居たが、最早聖女の仮面を星の彼方へと思い切りぶん投げていた。

 あたかも齧り付くように何かの本を持ち、紙面に擦り付けるようにして文章を追う血走った眼、反対に寝不足で血色の悪い顔は頬がややこけていたようにも思う。銀髪は梳かしていないのかボサボサで戦場の敗残兵のようだった。
 何か悪いものに憑かれたらきっとああなる。しかし根本的に聖女に取り憑ける何かなど存在するだろうか、いやない。
 彼女の本への集中というか傾倒ぶりは凄まじく、鬼気迫るものがあった。

 それが、彼セオドア・ヘンドリックスが目撃した光景だ。

 セオドアはアリエルに察知されないうちにと図書館の扉をそっと閉めたものだった。そして何事もなかった顔で執務室に戻ってきたのだ。
 リンドバーグが辟易としていた理由に納得だった。確かにあれはヤバい。

 不思議にもあの瞬間やその前後、更には彼女が籠ってからは割とよく、どうしたわけか心の声が聞こえてこなかったので、何を考えているのか全くわからないのはかえって不便だと初めて感じもした。

「単に居眠りでもしているのかと思っていたが、まさか読書に熱中している間は聞こえて来ないケースがあるとは思わなかったな」

 元々居眠りや昼寝などの彼女の睡眠中はそうだった。ただ意識が浮上しつつある状態では断片的に思考が流れてくる。

 聖女アリエルは本の虫。それも昆虫の王様レベルの虫だ。

 しかし聖女としての清廉なイメージが損なわれる心配はなさそうだった。籠って初日に司書長の判断で図書館は聖女の貸し切りとする申請がされておりセオドアも許可していたので、外部の誰も彼女の尋常ではない姿を見なかったからだ。王宮司書達が完全に聖女の味方だったのもある。王宮司書になれるくらいだと仕事の有能さは勿論だが、揃って本の虫、アリエルと同類なのだ。皆とても親近感を覚えている様子だったとリンドバーグからもそう報告を受けていた。

「さてと、どうするべきか」

 煩悩が聞こえてこないならずっと本を読んでいればいいとも思うセオドアだが、この辺りで無理にでも連れ出して規則正しい生活に戻してやらないと本格的に彼女の健康を害する恐れがある。
 身の安全のために教会から王宮に居を移させた意味がなくなる。婚約式までももう何日とないのだ。死にそうに不健康な顔をした婚約者を披露したいともさすがに思わない。

 しかし、とセオドアは執務机の上に両肘を突いて掌で額を覆いがっくりと項垂れる。

「はあ、邪魔をしたらくびり殺されそうな気もするな」

 だが幸運にもこの夕方、アリエルはちゃんと部屋に戻って休むと考えを改めたようだったので、セオドアの心配事は一つ減った。

 そして、彼は彼で思い付いた事があって翌日それを実行に移した。
 必要な物を揃えて王宮図書館へと出向いたのだ。





 図書館デートって言葉をあたしは身を以て味わった。

 向かいの閲覧席じゃセオ様が真面目な顔付きで書類仕事を淡々とこなしている。青年秘書がそれを手伝っていて、二人の周囲には護衛達が直立不動と任務に臨んでいた。
 一晩良く寝てリフレッシュしたあたしはあたしで、また資料を読んで過ごしている。席にはあたしの他イザーク達三人と背後にはリンドバーグ、ルゥルゥはセオ様が現れてからはあたしの膝の上から見張りか何かみたいにセオ様を睨んでいる。だからか護衛達の表情は険しい。

 嗚呼、こんな物々しい雰囲気の図書館デート、泣けてくるー。

 はは、余計な事は考えず情報収集に徹しないとね。
 あたしは推しを愛でたい気持ちを押し込んで気力を総動員して書物を追ったわ。

 どれくらい経ったのか、集中力がやや途切れたあたしはふと、本当に何も意図せずに顔を上げたのよね。

 休憩中なのか机に頬杖を突いたセオ様とバッチリ目が合った。

「…………あは」

 不意だったせいであたしは何の芸もなくへらりとした。あああここでもっと可愛く笑いかけてたらポイント高かったはずよねええっ。図書館で彼から見つめられるなんてシチュ中々ないのにいいーっ。漫画のカイジ顔で泣くあたしはめそめそしていても時間の無駄よと思い直して改めて向かいのセオ様を見やった。
 どうせ流星が過ぎるレベルでの瞬間的なアイコンタクトだったんだろうけど、と諦観を抱きつつのあたしの目は何とまた彼と絡んだ。
 え、え、どういう事?
 あ、ああそうか、そうよね、ここでも恋人演技よね。
 そうとわかればあたしも応じなきゃって思ってセオ様を見つめる。

「…………っ」

 無理っ、ドキドキし過ぎて無理っ。だってどうして彼はさっきからじっと言葉もなくあたしを見てくるの? それもすっごく優しい眼差しでっ。あ、実は瞼に本物みたいな精巧なタッチで目を描いていて実は寝ているとか? でもあたふたするあたしを見て口角を上げたから起きているわねあれは。

「ええと、陛下、何でしょう? 顔に何か跡でも付いてました?」

 涎のとか。

「いや、いつになく一生懸命だなと思って。そなたの本気で真剣な顔も見ていて飽きないな」
「一生懸命なのは当然です。聖女として……え、見ていて飽きない?」
「うん? そうだが、どうした?」

 ボッと急に頬が熱を持つ。セオ様の無自覚タラシー! そういう台詞を平気で言うから……っ。彼はあたしの胸中が聞こえてもわからないという顔をした。そう、そういうとこ!

 彼はおかしな奴だな的に表情を緩めた。笑われたのに不愉快にはならなくて、むしろ抱擁されている気分になるのはどうしてよ? 彼から悪意も揶揄も感じないからなんだろうけど、あたしはどう反応すればいいの。ああもう平常心!

「あ、のっ、陛下、そそそういえば例の地下三階の調査はどうなっているのですか? 何か発見はありましたか?」

 苦し紛れにもあたしは頭の片隅で気には掛かっていた懸案を口にしていた。

 図書館地下ではまだ調査が行われていて、判明したのはそこがおよそ千年と恐ろしく古い時代に造られた書斎或いは実験室のような場所だったって事だ。

 図書館の建物自体も大体はそのくらい古く、何度も何度も改修や改築が行われてきて今に至っているみたい。王宮池もそのくらいに古いって聞いたっけ。

 王宮の庭園や宮殿によっては建造が近年だったりと新しい物もちらほらあるらしいけど、基本的にこの王宮敷地内や国の要所にある城屋敷は古代からそこにあるものを受け継いできているって話。
 中心となる王家、君主が変わっても民草は変わらずと言ったところかしらね。
 セオ様はあたしの問い掛けにようやく頬杖をやめて今度は机の上で指を組んだ。

「まだこれからだが、古い書物の保存状態が信じられないくらいに良くてな。おそらくはあの空間全体が魔法で封じられていたんだろうが、とにかく書物をまずは専門家達に解読させる手筈になっているよ」
「解読ですか?」
「ああ、古代語で記されているんだ」
「古代語……」

 そんな言語が存在しているなんて知らなかったわ。でも普通に考えて人類の歴史がそこそこ長いなら古代の言葉だって普通にあるわよね。例えば冒険譚なんかでよくあるものね、失われた民族の言葉とか。それを解いて秘宝を探そうって小説が。
 秘宝かあ~、魔法のあるこの世界の秘宝なら何かわくわくする凄い物かもしれないわよね。うへへへへ。

「アリエル、そなたはきっとどこにいても退屈だけはしないだろうな」

 ついつい弛んだ頬を手で押さえて繕い笑いを返したあたしはセオ様が呆れているだけじゃないのはわかった。

「そなたとならどこにいても楽しいだろうな」

 味わうようにしみじみと呟かれた言葉はあたしの心にじんわりと浸透する。

「ふふ、陛下が望むならどこにだってご一緒しますよ」

 ごく自然にそんな言葉があたしの口から出ていた。

「そうか」
「ええ」

 あたしアリエル・ベル、推しを眺めていられるなら火の中水の中よ!

「……そなたはまた、そうやって水を差す」
「え、はい?」

 よく聞こえずに首を傾げれば、セオ様は今度は明らかな呆れ顔であたしを見つめた。
 でもさっきの彼の眼差しは、演技だってわかっていてもあたしが彼のホントの大切な恋人みたいでキュンキュンしたわ。

 ふふふ一時でもそんな気持ちを味わえてあたしはラッキーよね。

 その後すぐに惚けるのは別の時にって自分に言い聞かせてまた本へと意識を戻したから彼の表情は見ていなかったけど、セオ様は日が暮れるまで黙って仕事をこなしていた。
 加えて、彼からは一緒に図書館を出るように言われて、婚約式まではもう図書館に泊まるのも禁止された。
 日中入り浸るのは大丈夫。だからそうしたわ。
 ただね、どうしたわけか、王宮を離れての仕事がない時は彼もずっとあたしの向かいで書類仕事をしていた。

 王宮図書館は国王陛下の執務室に早変わり~。

 うん、まあ、ぶっちゃけね、本に集中できなかった。

 そうして残念ながら結局何の新たなヒントも発見もなかったあたしは、とうとう王宮舞踏会の日であると同時に晴れの舞台、婚約式当日を迎えた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

目覚めたら妊婦だった私のお相手が残酷皇帝で吐きそう

カギカッコ「」
恋愛
以前書いた作品「目覚めたら妊婦だった俺の人生がBLになりそう」を主人公が女子として書き直してみたものです。名前なども一部変更しました。 他サイト様にも同じのあります。以前のは小説家になろう様にあります。

アクアリネアへようこそ

みるくてぃー
恋愛
突如両親を亡くしたショックで前世の記憶を取り戻した私、リネア・アージェント。 家では叔母からの嫌味に耐え、学園では悪役令嬢の妹して蔑まれ、おまけに齢(よわい)70歳のお爺ちゃんと婚約ですって!? 可愛い妹を残してお嫁になんて行けないわけないでしょ! やがて流れ着いた先で小さな定食屋をはじめるも、いつしか村全体を巻き込む一大観光事業に駆り出される。 私はただ可愛い妹と暖かな暮らしがしたいだけなのよ! 働く女の子が頑張る物語。お仕事シリーズの第三弾、食と観光の町アクアリネアへようこそ。

旦那様は妻の私より幼馴染の方が大切なようです

雨野六月(まるめろ)
恋愛
「彼女はアンジェラ、私にとっては妹のようなものなんだ。妻となる君もどうか彼女と仲良くしてほしい」 セシリアが嫁いだ先には夫ラルフの「大切な幼馴染」アンジェラが同居していた。アンジェラは義母の友人の娘であり、身寄りがないため幼いころから侯爵邸に同居しているのだという。 ラルフは何かにつけてセシリアよりもアンジェラを優先し、少しでも不満を漏らすと我が儘な女だと責め立てる。 ついに我慢の限界をおぼえたセシリアは、ある行動に出る。 (※4月に投稿した同タイトル作品の長編版になります。序盤の展開は短編版とあまり変わりませんが、途中からの展開が大きく異なります)

辺境伯のグルメ令嬢は、婚約破棄に動じない

あろえ
恋愛
「アメリア・メイラーゼ。貴様との婚約を破棄する!」 婚約パーティーの真っただ中で、呑気にステーキを食べようとしていた私は、婚約破棄を言い渡されてしまう。 会場全体の空気が重くなり、静まり返るのも無理はない。大勢の貴族たちがいる前で、クソ王子はやってしまったのだ。 「またそのようなことをおっしゃっているのですか?」 「お前には初めてだろう!」 身勝手な理由で何度も婚約破棄してきたクソ王子は、気づいているのだろうか。 婚約破棄をしてきた数多の女性がこの会場に集まっていて、すでに自身が孤立していることを……。

今さら、私に構わないでください

ましゅぺちーの
恋愛
愛する夫が恋をした。 彼を愛していたから、彼女を側妃に迎えるように進言した。 愛し合う二人の前では私は悪役。 幸せそうに微笑み合う二人を見て、私は彼への愛を捨てた。 しかし、夫からの愛を完全に諦めるようになると、彼の態度が少しずつ変化していって……? タイトル変更しました。

【完結】悲劇の当て馬ヒロインに転生した私が、最高の当て馬になろうと努力したら、運命が変わり始めました~完璧令嬢は聖女になって愛される~

あろえ
恋愛
「お姉ちゃん、好きな人でもできた?」 双子の妹ルビアの言葉を聞いて、やり込んでいた乙女ゲームのヒロイン、双子の姉クロエに転生したと『黒田すみれ』は気づく。 早くも人生が詰んだ……と黒田が思うのは、このゲームが略奪愛をテーマにしたもので、妹のルビアが主人公だからだ。 姉のクロエから好きな人を奪い取り、略奪愛という禁断の果実をいただき、背徳感を楽しむ乙女ゲーム。 よって、搾取される側に転生した黒田は、恋愛できない状況に追い込まれてしまう。 それでも、推しの幸せを見届けたいと思う黒田は、妹の逆ハールートの道を開拓しようと決意した。 クロエの好感度をルビアに変換する『略奪愛システム』を利用して、愛のキューピッドではなく、最高の当て馬を目指していく。 これは、完璧すぎる行動を取り過ぎたクロエと、食欲旺盛な黒田が合わさり、奇跡的なギャップで結局恋愛しちゃう物語である。

わたしは美味しいご飯が食べたいだけなのだっ!~調味料のない世界でサバイバル!無いなら私が作ります!聖女?勇者?ナニソレオイシイノ?~

野田 藤
ファンタジー
キャンパーの山野ケイはキャンプツーリングの行きに突然異世界召喚される。 よくある異世界召喚もののオープニングだ。 でもなんか様子がおかしい。 すっごく無礼で押し付けがましい真っ赤な髪のイケメンだけど残念王子。 私は聖女じゃなかったらしく、あんまりにも馬鹿にするので担架切ったら追放された! それがお前(異世界人)のやり方かーーー! 一人で生きていく覚悟をしたら女神降臨でいっぱいチート貰っちゃって? 倒れていたイケメン騎士を介抱したらなし崩しに宿舎に住むことになっちゃって? 楽しみにしていた異世界の食事は……素材は美味しいのに、この世界には塩味しかなかった。 調味料ってなんですか?の世界なら、私が作ろう、調味料! ないなら自給自足で頑張ります! お料理聖女様って呼ばないで! 私はいつか、ここを出て旅をしたいんじゃーー!(と言ってなかなか出られないやつ) 恋はそこそこ、腹が減っては戦はできぬ! チート道具は宝の持ち腐れ! ズボラ料理は大得意! 合言葉はおっけーびーぐる! 女子ソロキャンパーのまったりのんびり異世界調味料開拓物語。 ※小説家になろう、カクヨムでも公開中!

平穏な生活を望む美貌の子爵令嬢は、王太子様に嫌われたくて必死です

美並ナナ
恋愛
類稀なる美貌を誇る子爵令嬢シェイラは、 社交界デビューとなる15歳のデビュタントで 公爵令息のギルバートに見初められ、 彼の婚約者となる。 下級貴族である子爵家の令嬢と 上級貴族の中でも位の高い公爵家との婚約は、 異例の玉の輿を将来約束された意味を持つ。 そんな多くの女性が羨む婚約から2年が経ったある日、 シェイラはギルバートが他の令嬢と 熱い抱擁と口づけを交わしている場面を目撃。 その場で婚約破棄を告げられる。 その美貌を翳らせて、悲しみに暮れるシェイラ。 だが、その心の内は歓喜に沸いていた。 身の丈に合った平穏な暮らしを望むシェイラは この婚約を破棄したいとずっと願っていたのだ。 ようやくこの時が来たと内心喜ぶシェイラだったが、 その時予想外の人物が現れる。 なぜか王太子フェリクスが颯爽と姿を現し、 後で揉めないように王族である自分が この婚約破棄の証人になると笑顔で宣言したのだ。 しかもその日以降、 フェリクスはなにかとシェイラに構ってくるように。 公爵子息以上に高貴な身分である王太子とは 絶対に関わり合いになりたくないシェイラは 策を打つことにして――? ※設定がゆるい部分もあると思いますので、気楽にお読み頂ければ幸いです。 ※本作品は、エブリスタ様・小説家になろう様でも掲載しています。

処理中です...