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第二十一話 追跡と逃走2
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「こちらで張って正解だったな」
(クマ男!?)
まさに不意打ちだった。
本当に想像の埒外過ぎて咽が詰まったように声も出なかった。
気付けば横道の壁に背を押し付けられ、両手も頭上で押さえつけられていた。エレノアの両の手首を片手で易々と一絡げに摑む男の手。
ジュリアンから馬車上に引き上げられた時は、驚きの反面頼もしさを感じたのに、今はこの男女の腕力差が酷く恐ろしい。
とは言ってもギリギリと締めつけて来るわけではなく、加減が適切なのか痛くはなかった。
やはり至宝の情報を聞き出すに当たって、無駄に手荒な真似は控えているのだろうか。
ここも変わらず暗くて相手の顔なんてよく見えないが、見定めるような鋭い眼差しで見られているのだと何となく感じ取れた。
「エレノアちゃん!?」
後ろを付いてきていないのに気付いたミレーユの焦った声が角の向こうから聞こえた。
(ああそうか、馬で先回りされてたのね)
警察署のある通りに出る裏道は幾つかあるが、その中からエレノアたちの通る道を引き当てたのはこの男の読みの鋭さと運もあるだろう。何にせよ状況はよくなかった。
ドクンドクンと心臓が暴れ出す。
手に持ったまま走っていた短銃は今の拍子に手から離れ重い音を立てて足元に落ちてしまっていた。エレノアはそれほどに強烈な慄きに支配され、見開いた両目で相手を凝視するしかできない。
もがいたところで腕力や技量では到底敵わない。
数秒にも満たない間に恐怖だけがいや増していく。
「ふっ、はははっ。やはりそうか。見間違いだったかと半信半疑だったが、そうではなかった、はははは。確かに国宝級だ。古代の至宝がまさかこんな形だとはな。道理でメイフィールドの領地のある場所から移動していると占いに出るわけだ」
「……?」
「この見事なエメラルドの目は、確かに覇王の緑だ。覇王の緑を得ていたにもかかわらずかつて闇夜で暗殺されたという王もいたと聞くが、なるほど道理だ。これではここにいると声を大にしているようなものだからな」
(覇王の緑……?)
自分が何らかの強い感情下にある時、両の瞳が光るのは知っていた。
人に見られないようにしなさいと昔から両親にも注意を受けていた。
突如男がぐんと顔を近づける。
その勢いに反射的に目を瞑ってしまったエレノアの顔を、今度は両手で挟んで瞼を無理やり押し上げて、眼球同士が擦れそうな距離で覗き込んでくる。
「エレノア・メイフィールド」
「な、なに……?」
「――俺はお前を手に入れる」
「え……?」
いきなりわけのわからない宣言をされ、張り詰めた恐怖の中に落とし込まれた困惑は、エレノアの思考を鈍らせた。
クマ男は何が可笑しいのか近づけていた顔を離すと、咽の奥でくつくつと低い笑いを漏らした。
「こんの変態! エレノアちゃんから離れなさい!」
ミレーユが突っ込んで来ると、男はさっと俊敏に動いてエレノアの傍から離れた。
「か弱い女の子を暗がりで襲うなんて、あなた男の風上にも置けないわね!」
「男の風上、ね。責任なら取る用意はあるが?」
「はあ!? 何ふざけてるのよ! 彼女にはもう既に恋人がいるのよ。クソムカつくね! とにかくエレノアちゃん逃げて。あたしがこいつの相手をするわ。道はもうわかるわよね」
「でもっ」
「いいから急いで!」
ミラーガラス越しの光景を思い出し、エレノアは躊躇した。
「ですけどその人、毒か何かを使うんですよねっ?」
「あたしはこれでも毒にはちょっとした耐性があるし、元よりこんな男には負けないわ。それに言い方は悪いけどあなたにここに居られるとかえって足手纏いなのよ。わかってくれる?」
「……っ、はい、わ…かりました。ごめんなさいミレーユさん!」
エレノアは落とした短銃を急いで拾うと、彼女を信じて駆け出した。
「こういう時はありがとう、よ!」
背中に掛かった声にこんな時なのに少し笑みが零れた。
元の細道に戻ると明るい方へ全力疾走する。
エレノアが角を曲がってから改めて対峙したミレーユとクマ男だが、互いに動かず様子を窺っていた。
先に引いたのは意外にもクマ男の方だった。興醒めしたように息を吐く。
「フォックスたちも今頃動いているはずだ。奴らに先を越される前にお前も早くあの娘を追うんだな」
「……あなた本当にあの男たちの仲間なの?」
「仲間? 逆に訊くが、お前は何を以て仲間を仲間とする?」
「それは……」
反問に思わず答えを詰まらせたミレーユを失笑したような吐息が闇の向こうから聞こえたかと思えば、クマ男は踵を返し去っていく。
「安寧を欲するなら、今後は俺の邪魔をするな」
「あっ待ちなさいよ!」
追いかけようとしたミレーユはしかし、思い止まった。
一人にしたエレノアの方が心配だったからだ。とんでもない方向音痴でもない限り警察まで迷う可能性は低い。低い……のだが、何故か一抹の不安が拭えない。
クマ男は去ったと見ていい。
自分と同じような臭いのする相手だったので、この場だけの一時的なものであれ的確な引き際は心得ているのだろう。
問題は、放置してきた連中だ。
奴らはエレノアを捕まえようと躍起になっているかもしれない。
「骨の一つでも折って再起不能にするんだった。エレノアちゃんの手前だいぶ遠慮したのよね」
血を見せるのは忍びなかったのだ。
「ちゃんと無事でいるのよ」
クマ男に遅ればせ再び動き出したミレーユは、元の道を駆けながら願った。
ミレーユとクマ男が別れた時より時間は少しだけさかのぼる。
程なくしてエレノアが明るい通りに辿り着いた時だった。
「――いたぞッ!」
通りに出た途端、発見されてしまった。
怒声の主を見やればフォックスで、彼は別の小さな馬車を調達して自ら手綱を握り鞭打ってきたようだ。仲間の男たちを乗せた屋根なしの馬車はガラガラと車輪が外れそうな音と勢いを出して突っ走って来る。
(ふええええーんッ! どうしてこうタイミング悪いのよーーーーっ!)
道を戻るわけにはいかないので一旦通りに沿って走って別の道に折れた。
「今度こそ逃がすな!」
その通りからまた曲がって曲がって曲がって馬車が入れない小路に入る。
しかし案の定馬車を捨て男たちが追いかけてくる。
エレノアとしてもここまできて捕まるわけにはいかなかった。
(ミレーユさんは私を逃がすため残ってくれたのよ。無駄になんてしたくない)
外灯のない暗い小路に人通りはほとんどない。区画によっては皆無だった。
どこかに助けをと思ってもここら辺は集合住宅や個人宅の裏手で、裏門だって門扉は閉ざされているし、そもそも関係のない人間を巻き込むのは気が引けた。
「待ちやがれーっ!」
追手には当然フォックスもいる。彼には詐欺の件についても直接訊きたいことがたくさんある。だが自分一人の力では捕縛も無理で、この状況下では自分の方がまんまと拘束されてしまうだろう。自らの無力さを悔しく思いながらエレノアは走った。
警察の方面が駄目ならいっその事ピンカートン家に戻る方向で、と舵を切っていた。
とは言え、ずっと走りっ放しで体力的に消耗しているエレノアの足は段々と鈍っている。後ろとの距離も詰まってきていた。
(このままじゃ屋敷に付く前に捕まっちゃう)
もう汗だくで息もとっくに上がっている。今にも足がもつれて転んでしまいそうだ。
刹那、躓いてふわりとした浮遊感の後にしたたかに体を打った。
痛みすら感じる前に急いで起き上がって駆け出すも、どこかの住宅裏の角を曲がったところで疲労がピークに達した。
真っ暗な路地。よろけて壁に手をついたが、その場に蹲るのだけは堪えた。乱れた呼吸が五月蠅い。背後からは男たちの声も足音も迫っている。
焦りと情けなさで項垂れるエレノアは、目尻に滲む涙を拭った。
ずしりと、疲労のせいなのかその時唐突にずっと握っていた短銃の重さを感じた。
(そうよね。捕まりそうになったらこれで、相手を……)
カラカラの咽の奥へと無理やり唾を飲み下す。
(人を……撃つ…………――私にできるの?)
――近くで微かな足音が聞こえた。
短い時間ながらも自らの思考に囚われていた油断が招いた状況の悪化だった。
挟み撃ちでもされたのか、いつの間にか前方から近づいてきていた気配にハッとなる。
顔を上げる暇も短銃を構える猶予すらも与えられず、その誰かに手を摑まれた。
渇いて粘つく咽の奥から悲鳴にならない掠れるような呼気が迸る……はずだった。
「――エリーこっちだよ」
囁かれ、その人影はエレノアの手を摑んだまま走り出したではないか。
(えっ何……って今のこの声――……)
「いたぞあそこだ!」
後ろから男たちの荒っぽい声が聞こえた。
しかしエレノアの思考はもう別の疑問で一杯だった。
(えっえっでも酔って寝てたはずじゃ!?)
こんな状況下なのに声を聞いて嬉しくて、不安な気持ちが一気に吹き飛んでしまう自分を現金だと思う。
体も嘘のように軽くなった……とは言っても、もう少し頑張って走れそうという程度だが。
相手の正体がわかれば抵抗の必要も感じず大人しく付いていくエレノアは、はたと重大な危機に気が付いた。
(あっ、もしもこのまま振り返られたら――アウト!!)
外灯はないが漏れている家の明かりが届くかもしれない。
(どどどどうしようっ一発でハイさよなら~じゃなくてっ、ど、どうもこんちは~じゃなくてっ…………こ、これは土下座もの!!)
先程までとは別種の恐れを堪えるように、ついついぎゅっと繋がれた手に力を入れてしまえば、相手からの力も強くなった。
大丈夫だから頑張れ、との意味だろう。……きっと何か激しく勘違いされている。
でも自分を護ろうとしてくれる彼の意思を感じて、胸がきゅうっと締めつけられた。
(すごく酔ってたのにもう大丈夫なの? 本当は無理してるんじゃないの……?)
彼は激マズ酔いざましにしばらく悶えた。口に指を突っ込んで吐き出したい衝動と必死で闘い勝利をもぎ取った。確かに無理はした。だが彼はきっとその醜態を語る事はないだろう。
仄かに闇に浮かぶ金の髪。自分のピンクブロンドも暗がりでこんな風に見えるのだろうか、なんて考える。
きっと彼は屋敷に残したアメリアから事情を聞いて自分を助けに来てくれたのだ。
こんな危ない事に関わらせてしまった。
エレノアは手を引く元婚約者――ジュリアン・クレイトンの背中を、痛みにも似た複雑な想いで見つめた。
(クマ男!?)
まさに不意打ちだった。
本当に想像の埒外過ぎて咽が詰まったように声も出なかった。
気付けば横道の壁に背を押し付けられ、両手も頭上で押さえつけられていた。エレノアの両の手首を片手で易々と一絡げに摑む男の手。
ジュリアンから馬車上に引き上げられた時は、驚きの反面頼もしさを感じたのに、今はこの男女の腕力差が酷く恐ろしい。
とは言ってもギリギリと締めつけて来るわけではなく、加減が適切なのか痛くはなかった。
やはり至宝の情報を聞き出すに当たって、無駄に手荒な真似は控えているのだろうか。
ここも変わらず暗くて相手の顔なんてよく見えないが、見定めるような鋭い眼差しで見られているのだと何となく感じ取れた。
「エレノアちゃん!?」
後ろを付いてきていないのに気付いたミレーユの焦った声が角の向こうから聞こえた。
(ああそうか、馬で先回りされてたのね)
警察署のある通りに出る裏道は幾つかあるが、その中からエレノアたちの通る道を引き当てたのはこの男の読みの鋭さと運もあるだろう。何にせよ状況はよくなかった。
ドクンドクンと心臓が暴れ出す。
手に持ったまま走っていた短銃は今の拍子に手から離れ重い音を立てて足元に落ちてしまっていた。エレノアはそれほどに強烈な慄きに支配され、見開いた両目で相手を凝視するしかできない。
もがいたところで腕力や技量では到底敵わない。
数秒にも満たない間に恐怖だけがいや増していく。
「ふっ、はははっ。やはりそうか。見間違いだったかと半信半疑だったが、そうではなかった、はははは。確かに国宝級だ。古代の至宝がまさかこんな形だとはな。道理でメイフィールドの領地のある場所から移動していると占いに出るわけだ」
「……?」
「この見事なエメラルドの目は、確かに覇王の緑だ。覇王の緑を得ていたにもかかわらずかつて闇夜で暗殺されたという王もいたと聞くが、なるほど道理だ。これではここにいると声を大にしているようなものだからな」
(覇王の緑……?)
自分が何らかの強い感情下にある時、両の瞳が光るのは知っていた。
人に見られないようにしなさいと昔から両親にも注意を受けていた。
突如男がぐんと顔を近づける。
その勢いに反射的に目を瞑ってしまったエレノアの顔を、今度は両手で挟んで瞼を無理やり押し上げて、眼球同士が擦れそうな距離で覗き込んでくる。
「エレノア・メイフィールド」
「な、なに……?」
「――俺はお前を手に入れる」
「え……?」
いきなりわけのわからない宣言をされ、張り詰めた恐怖の中に落とし込まれた困惑は、エレノアの思考を鈍らせた。
クマ男は何が可笑しいのか近づけていた顔を離すと、咽の奥でくつくつと低い笑いを漏らした。
「こんの変態! エレノアちゃんから離れなさい!」
ミレーユが突っ込んで来ると、男はさっと俊敏に動いてエレノアの傍から離れた。
「か弱い女の子を暗がりで襲うなんて、あなた男の風上にも置けないわね!」
「男の風上、ね。責任なら取る用意はあるが?」
「はあ!? 何ふざけてるのよ! 彼女にはもう既に恋人がいるのよ。クソムカつくね! とにかくエレノアちゃん逃げて。あたしがこいつの相手をするわ。道はもうわかるわよね」
「でもっ」
「いいから急いで!」
ミラーガラス越しの光景を思い出し、エレノアは躊躇した。
「ですけどその人、毒か何かを使うんですよねっ?」
「あたしはこれでも毒にはちょっとした耐性があるし、元よりこんな男には負けないわ。それに言い方は悪いけどあなたにここに居られるとかえって足手纏いなのよ。わかってくれる?」
「……っ、はい、わ…かりました。ごめんなさいミレーユさん!」
エレノアは落とした短銃を急いで拾うと、彼女を信じて駆け出した。
「こういう時はありがとう、よ!」
背中に掛かった声にこんな時なのに少し笑みが零れた。
元の細道に戻ると明るい方へ全力疾走する。
エレノアが角を曲がってから改めて対峙したミレーユとクマ男だが、互いに動かず様子を窺っていた。
先に引いたのは意外にもクマ男の方だった。興醒めしたように息を吐く。
「フォックスたちも今頃動いているはずだ。奴らに先を越される前にお前も早くあの娘を追うんだな」
「……あなた本当にあの男たちの仲間なの?」
「仲間? 逆に訊くが、お前は何を以て仲間を仲間とする?」
「それは……」
反問に思わず答えを詰まらせたミレーユを失笑したような吐息が闇の向こうから聞こえたかと思えば、クマ男は踵を返し去っていく。
「安寧を欲するなら、今後は俺の邪魔をするな」
「あっ待ちなさいよ!」
追いかけようとしたミレーユはしかし、思い止まった。
一人にしたエレノアの方が心配だったからだ。とんでもない方向音痴でもない限り警察まで迷う可能性は低い。低い……のだが、何故か一抹の不安が拭えない。
クマ男は去ったと見ていい。
自分と同じような臭いのする相手だったので、この場だけの一時的なものであれ的確な引き際は心得ているのだろう。
問題は、放置してきた連中だ。
奴らはエレノアを捕まえようと躍起になっているかもしれない。
「骨の一つでも折って再起不能にするんだった。エレノアちゃんの手前だいぶ遠慮したのよね」
血を見せるのは忍びなかったのだ。
「ちゃんと無事でいるのよ」
クマ男に遅ればせ再び動き出したミレーユは、元の道を駆けながら願った。
ミレーユとクマ男が別れた時より時間は少しだけさかのぼる。
程なくしてエレノアが明るい通りに辿り着いた時だった。
「――いたぞッ!」
通りに出た途端、発見されてしまった。
怒声の主を見やればフォックスで、彼は別の小さな馬車を調達して自ら手綱を握り鞭打ってきたようだ。仲間の男たちを乗せた屋根なしの馬車はガラガラと車輪が外れそうな音と勢いを出して突っ走って来る。
(ふええええーんッ! どうしてこうタイミング悪いのよーーーーっ!)
道を戻るわけにはいかないので一旦通りに沿って走って別の道に折れた。
「今度こそ逃がすな!」
その通りからまた曲がって曲がって曲がって馬車が入れない小路に入る。
しかし案の定馬車を捨て男たちが追いかけてくる。
エレノアとしてもここまできて捕まるわけにはいかなかった。
(ミレーユさんは私を逃がすため残ってくれたのよ。無駄になんてしたくない)
外灯のない暗い小路に人通りはほとんどない。区画によっては皆無だった。
どこかに助けをと思ってもここら辺は集合住宅や個人宅の裏手で、裏門だって門扉は閉ざされているし、そもそも関係のない人間を巻き込むのは気が引けた。
「待ちやがれーっ!」
追手には当然フォックスもいる。彼には詐欺の件についても直接訊きたいことがたくさんある。だが自分一人の力では捕縛も無理で、この状況下では自分の方がまんまと拘束されてしまうだろう。自らの無力さを悔しく思いながらエレノアは走った。
警察の方面が駄目ならいっその事ピンカートン家に戻る方向で、と舵を切っていた。
とは言え、ずっと走りっ放しで体力的に消耗しているエレノアの足は段々と鈍っている。後ろとの距離も詰まってきていた。
(このままじゃ屋敷に付く前に捕まっちゃう)
もう汗だくで息もとっくに上がっている。今にも足がもつれて転んでしまいそうだ。
刹那、躓いてふわりとした浮遊感の後にしたたかに体を打った。
痛みすら感じる前に急いで起き上がって駆け出すも、どこかの住宅裏の角を曲がったところで疲労がピークに達した。
真っ暗な路地。よろけて壁に手をついたが、その場に蹲るのだけは堪えた。乱れた呼吸が五月蠅い。背後からは男たちの声も足音も迫っている。
焦りと情けなさで項垂れるエレノアは、目尻に滲む涙を拭った。
ずしりと、疲労のせいなのかその時唐突にずっと握っていた短銃の重さを感じた。
(そうよね。捕まりそうになったらこれで、相手を……)
カラカラの咽の奥へと無理やり唾を飲み下す。
(人を……撃つ…………――私にできるの?)
――近くで微かな足音が聞こえた。
短い時間ながらも自らの思考に囚われていた油断が招いた状況の悪化だった。
挟み撃ちでもされたのか、いつの間にか前方から近づいてきていた気配にハッとなる。
顔を上げる暇も短銃を構える猶予すらも与えられず、その誰かに手を摑まれた。
渇いて粘つく咽の奥から悲鳴にならない掠れるような呼気が迸る……はずだった。
「――エリーこっちだよ」
囁かれ、その人影はエレノアの手を摑んだまま走り出したではないか。
(えっ何……って今のこの声――……)
「いたぞあそこだ!」
後ろから男たちの荒っぽい声が聞こえた。
しかしエレノアの思考はもう別の疑問で一杯だった。
(えっえっでも酔って寝てたはずじゃ!?)
こんな状況下なのに声を聞いて嬉しくて、不安な気持ちが一気に吹き飛んでしまう自分を現金だと思う。
体も嘘のように軽くなった……とは言っても、もう少し頑張って走れそうという程度だが。
相手の正体がわかれば抵抗の必要も感じず大人しく付いていくエレノアは、はたと重大な危機に気が付いた。
(あっ、もしもこのまま振り返られたら――アウト!!)
外灯はないが漏れている家の明かりが届くかもしれない。
(どどどどうしようっ一発でハイさよなら~じゃなくてっ、ど、どうもこんちは~じゃなくてっ…………こ、これは土下座もの!!)
先程までとは別種の恐れを堪えるように、ついついぎゅっと繋がれた手に力を入れてしまえば、相手からの力も強くなった。
大丈夫だから頑張れ、との意味だろう。……きっと何か激しく勘違いされている。
でも自分を護ろうとしてくれる彼の意思を感じて、胸がきゅうっと締めつけられた。
(すごく酔ってたのにもう大丈夫なの? 本当は無理してるんじゃないの……?)
彼は激マズ酔いざましにしばらく悶えた。口に指を突っ込んで吐き出したい衝動と必死で闘い勝利をもぎ取った。確かに無理はした。だが彼はきっとその醜態を語る事はないだろう。
仄かに闇に浮かぶ金の髪。自分のピンクブロンドも暗がりでこんな風に見えるのだろうか、なんて考える。
きっと彼は屋敷に残したアメリアから事情を聞いて自分を助けに来てくれたのだ。
こんな危ない事に関わらせてしまった。
エレノアは手を引く元婚約者――ジュリアン・クレイトンの背中を、痛みにも似た複雑な想いで見つめた。
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