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第六話 元婚約者にはご用心

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「いつもありがとうございます。それじゃ持っていきますね」

 エレノアはランドリーメイドに声を掛け、綺麗にアイロンを当てられ畳まれた衣類やシーツの入った大きな籠をヨイショと持ち上げた。ほとんどが自分とアメリアのものだ。そのまま本宅裏手の洗濯室を出る。
 ピンカートン家の屋敷に住み込みで働き始め、初めの頃は四苦八苦した仕事もあったが、実家での下地もあり今では使用人として一通りの仕事は覚えた。大きな屋敷のように仕事のパートが分かれている所は勿論、これならば一般家庭に家政婦として行っても一人で大半をこなせるだろう。一般家庭では炊事洗濯掃除などは雇われた家政婦がほとんど兼任でやるようになっていると聞く。かなり大変らしいがそれでもこなせるのは根本的に家の規模が違うからだろう。

 細いが一年前当時と比べると筋力の付いた両腕で籠を抱え、肘と腰を使って扉を押して屋敷裏口から入る。
 やや前が見えない状態でよたよたと廊下を進む途中、窓から外を見ると屋敷の玄関先に馬車が停まっているのが見えた。
 この家は使用人との厳格な線引きを好まない。来客がない限りは屋敷の何処を通っても叱られたりはしないので、堂々と表側の廊下を通った。

「来客かな」

 自宅と商談の場を兼ねたここには毎日主に商売上のお客が足を運ぶので、エレノアには見慣れた光景だ。

「でも随分早くに来たのね。余程急ぎの用でもあったのかしら」

 まだアメリアは朝食中だろう。こんな早くに来る客は珍しい方だった。とは言えピンカートン家の事業に自分は関係ない。まずは自分の仕事を片付けてしまおうと廊下を真っ直ぐ行って角を曲がろうとした時だ。

「クレマチス女史、まさかあなたとここでお会いするとは思いませんでしたよ。お元気そうで何よりです」

(…………――――えっ! ここここの声、ジュリアン!?)

 彼が丁寧に話す声が聞こえて、完全に凍り付いていたエレノアは危うく籠を取り落としそうになった。曲がろうとしていた足をそろりと引いて戻す。
 少しだけ覗いてみると、やはりジュリアンで、彼は白髪のクレマチスと向かい合っている。エレノアはバレないうちにと顔を引っ込め耳をそばだてた。

「ジュリアン様もお元気そうで安心致しました。クレイトン伯爵夫妻もお変わりなく?」
「ええ。相変わらず夫婦で農場を歩き回って、馬や羊の子の世話に追われているようです。最近だと休みに帰省するたびに書類仕事はほとんど僕任せでほとほと困っているくらいです。休暇が休暇にならないですよ」
「ふふふあらまあ」

 クレマチスが控えめに笑うとジュリアンも合わせるように笑声を立てた。

「ところでジュリアン様は今日こちらにどのようなご用件で? 随分とお早いお越しですが」
「美少女にお目にかかりたくて」
「はあ、美少女、ですか……。これはまた随分と有意義にお過ごされているようで……」

 若干呆れたようなクレマチスの声に、エレノアも「わかるわその気持ち!」と心で声を大にする。暗にお前変わり過ぎだろうというニュアンスが込められているのがエレノアにもわかったくらいだ、たぶんジュリアン本人にも通じている。
 本当に一度直接訊いてみたいが彼はいつからそんな女好きになったのだろう。やはり一年とはいえ会わない時間は大きかったようだ。

(まあ半年や一年で人生なんてがらりと変わるし、人を変えるにも十分な時間よね)

「先日仮面舞踏会で一曲だけ踊った相手なんですよ。素顔を見れなかったので残念に思っていたら、偶然友人の屋敷の侍女だと知ったもので。エリーという子がなんですが」

 やけに嬉しそうに響く声が衝撃の余り途中からどこか遠くに聞こえた。
 じわりと冷や汗が出て来る。籠の重みのせいではなく腕が震え出す。
 これは大ピンチなのではないだろうか。
 早くこの場を立ち去らなければ。幸いまだ気付かれていない。

「……ジュリアン様、昔からのよしみで一つ聞かせて頂いても宜しいでしょうか」
「ええ何でしょう?」
「どうして一介の侍女になどわざわざ会いに来られたのです? 美しい女性ならばあなたの周りにも大勢いらっしゃるでしょうに」

 ジュリアンは笑って言った。

「その子の髪の色がエレノアの髪の色と同じだったから気になってしまったんですよ。良ければ恋人になってくれないかと思いまして」
「……。あなた様のお噂は聞き及んでおります。随分と派手にお過ごしのようですが」
「耳に痛いお言葉ですね。ですが、それが僕の本質なのでしょう」
「そのようなことは……」
「あの頃は隠していただけかもしれませんよ?」

 咄嗟に否定しようとしたクレマチスをやんわりと遮って、困ったように、しかし軽薄そうに告げたジュリアンに、クレマチスはそれ以上の言葉を収めた。
 代わりにやや呼吸を置いてから静かに問いかける。

「もしやジュリアン様は…………いえ、よしましょう」

 首を振るクレマチス。
 どうせ終わった事なのだ。蒸し返しても互いに気まずいだけだろう。そんな彼女の心境がジュリアンには透けて見えた。

 一方、角の向こうのエレノアは動揺継続中だった。

(お、同じ髪の色だから声掛けたって、どういう意味……? だってとっくに婚約は解消したはず。今更私にこだわる理由がないと思うんだけど)

 いくら優しいジュリアンでも、婚約を破棄して体面を傷付けたエレノアを許してはくれないだろう。
 捜して復讐したいと思われているなら仕方がない。
 でもそれは今では困る。
 だから目の前には出て行けない。

「僕からもあなたに質問が」

 沈みそうになっていた物思いからハッと我に返って、エレノアはジュリアンの声に再び意識を向ける。

「あなたこそ、どうしてエレノアの傍から離れられたんですか? 留学後すぐに他の令嬢の行儀指導に就くなんて。話を聞いた時は冗談かと思いましたよ。僕はあなたならきっとどこまでもエレノアを護るために付いていくと思っていました。近隣国とはいえ、留学先で一人じゃ心細いに決まっている。なのに一人で行かせたなんて……と一時はあなたの事情も考えず勝手に非難もしました」
「そうですか。わたくしの身の処し方は、そう取られても致し方ありませんものね」
「わかっていながらそうしたと?」
「ええ。そうするしかありませんでしたし」
「あなたにとってエレノアは、それ程簡単に切り離せる存在だったんですか?」

 クレマチスは黙り込んだ。穏やかな口調だったが実質ジュリアンの言葉は彼女への責めの言葉だ。

「沈黙は肯定と受け取っていいんですね」
「……ええ、そのように思って頂いて構いません」

(――違うの! クレマチスはそんな薄情じゃないわ!)

 エレノアは心の中で強く否定する。クレマチスはずっと自分に付いてきてくれたのだ。実は屋敷の火事の後、他の使用人たちに暇を出す際に、彼女にもその話をした。しかし渡そうとした退職金を彼女は受け取らなかったどころか、王都にも一緒に来てくれた。
 破産宣告がなされた後だって、路頭に迷っても不思議ではなかったエレノアを文句も言わず手助けしてくれたのだ。
 詐欺師を捕まえたいと打ち明ければ、あっさり協力どころか安全な働き口まで用意してくれた。
 ほとんど交流のなかった叔父よりも、クレマチスは余程エレノアの家族だった。
 そんな家族が自分のために株を下げようとしている。
 乳母の思いやりに抑えていたものが溢れて、エレノアの足を一歩前へ進ませた。

「ちが――」

 違う。
 そう声を発しかけた刹那。

「見つけましたわエリー! 大変ですわクレイトン様が家に押し掛けて来るかもしれないんですわ早く避難しないと!」

 ドドドドーッ、と野牛の群れを彷彿とさせる突撃でアメリアがエレノアの背に体当たり……否、抱きついてきた。

「――ッ」
「あ~れ~っ」

 アメリアの勢いそのままに二人で前につんのめって洗濯物を盛大にまき散らしながら、廊下の床に倒れ込んだ。
 宙に浮かんでひっくり返った籠はすっかり空になり、二人の頭上にはどっさりと宙を舞った洗濯物が重なった。てんてんてん、と籐か何かで編まれた籠が廊下の床を跳ねて転がっていった。
 予想もしなかった方向からの物理的衝撃に床の上で這うようにするエレノアは、洗濯物の山に埋もれたまましばし呆然と固まっていた。

「っぷはあ! エリーエリー起きて大変ですのよ…………ってあああやっぱ起きなくていいっいいですわっ。ごっ御機嫌宜しゅう~クレイトン様、あとクレマチス、ホホホ、オホホホホ!」

 思い切り引き攣った笑みで挨拶してアメリアはさりげなく突っ伏すエレノアを助けつつ、洗濯物をどかすふりをしてエレノアの頭に白いシーツを被せた。

「立てるかしらエリー、ごめんなさいね。ってまあっこれは酷い有り様ですわ。鼻の頭を擦り剥いてるじゃない! 乙女として人様の前でこれはすっっっごく恥ずかしいですわっ絶対にシーツ取っちゃ駄目よ、ねっ!」

 シーツの上からどうやって顔の詳細がわかるのかは、誰も突っ込まなかった。
 アメリアの意図を察してこくこくと頷くエレノアは、長いシーツの端を踏まないように慎重に立ち上がる。
 シーツお化けが一体出来上がりだった。

(アメリアありがとう。ああでも何て不自然な……)

 ここからどうするのか白い視界の向こうへと内心ハラハラドキドキで耳を澄ませる。

「ホホホ、じっじゃあこれは後で人を呼んで片付けてもらいますわね。私はまずエリーを手当てしてきますわ! ホホホそれでは御機嫌ようっ二人共!」

 やんちゃな街の少年みたいにテヘペロからのピース手でチャッと敬礼風挨拶。アデューとか言いそうなアメリアはエレノアの背をぐいぐいと押した。
 台詞と仕種がちぐはぐでテンパっているのは誰の目にも明らかだった。

(でも、た、助かったあ~)

「――アメリア様にエリー、お待ちなさい」

 と思うには、まだまだ早かった。
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