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33 変わりゆくもの変わらないもの2
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「子偉殿下、着替えるにしても替えの服はありますか?」
凛風は自分同様に見送っていた横の肖子偉を見て、雪露宮の惨状を見て、そう問い掛けた。
「それは大丈夫だと思う」
幸い着替えなり彼の私物の置いてある部屋は位置的に被害には遭っていなそうだと言うので、そこは素直にホッとした。
しかし一部は煤け、半分は水を被ってしまったこの宮は掃除や改修が必要で、その間彼がここに居られるかは怪しい。
(一時的とはいえ、行き場がなくなったらどうするんだろ。庭で野宿……なわけには行かないし、だったら城下で宿を取る?)
そんな実際問題的な事をこれから考えないといけないのだ。
(何か少しでも彼の力になれたらいいんだけど)
「あ、この上着は洗濯してお返ししますね」
「い、いやこちらが勝手に貸したのだし、わざわざ洗わなくとも……」
「何言ってるんですか。洗って返すのが礼儀です。あ、お礼は包子でもいいですか?」
「いやその、お礼を期待したわけではないし、そこまでしなくともいい。それに包子は今まで通り出前を再開して届けてもらえれば……」
慌てた肖子偉だったが、彼は雪露宮の惨状を思い出したのか途中で宮の方へと途方に暮れた目を向けた。
いやもうこれは出前は無理かも、と彼が即座に思ったのがわかって、ですよねー、と凛風は内心同情した。
「ええと殿下、ここに出前する以前に、ここに住めるんですか?」
「ど、どうだろう……」
「もしも住めなかったらどうするとか考えてます?」
「他の宮か、どこかに宿を取るしかないとは思っている。しかし私は謹慎中の身だし、最悪の場合は庭に野宿でも……」
(えっ野宿案アリなの!? せめて天幕張るとかしようよ!)
内心びっくりする凛風の横では、肖子偉が悩んだように思案する。
そんな二人の間に立った山憂炎が、取り持つように両者の肩を叩いた。
「住む場所がこの状態では不便だし改修の邪魔にもなる。謹慎の件は僕が皇帝陛下に掛け合って今日中に解いてもらうようにするよ」
「えっそんな事が可能なんですか?」
「山太師、それは難しいと思う」
「平気ですよ。陛下も元々生誕宴が終われば早々に解くつもりでいらした。それが数日前倒しになるだけですよ。それにあなたには長々と引き籠っていられても困りますしね。まだまだ学んでもらう事もありますから」
意味深な山憂炎の台詞に凛風も肖子偉も内心の疑問を隠さず怪訝にしたが、自由が利くようになるなら文句はなかった。
「別の場所に移ってもらう事にはなるけれど、先日の小火もあるし、殿下が快適に暮らせる宮殿は生憎すぐに用意は出来そうにない」
「じゃあどこかに宿ってことですか」
ごく短く思案した凛風は他から意見が上がる前にパッと顔を上げた。
「そうだ、依依さんの所とかは?」
「雷凛風、あそこは妓楼だ。そなたは私がそんな所にずっと居ても、その……気にならないと?」
「え? 依依さんなら快適に過ごせるよう便宜を図ってくれると思いますけど?」
「そういう事ではなく……」
「大丈夫ですよ。殿下は依依さんの守備範囲外って話でしたし」
「いやそれもどうでも良くて……。他の女子がわんさかいる場所でもあるし、嫌ではないのか……と」
「へ? だって殿下はそういう部分で不真面目ではないでしょう?」
「……ッ」
あっけらかんと告げられた言葉に肖子偉は大きく瞠目し、信頼されている嬉しさに感動した。
ただし、凛風にどこまでの意図があり、或いはその自覚があるのかは不明だったが。
孫大好き故に渋面を作った楊叡を一瞥した山憂炎がにこやかに微笑んだ。
「まあまあ、妓楼や巷の宿に頼らずとも、僕に良い考えがあるんだけど」
山憂炎はいつになく明るい声を出す。
何かとてつもなく良い事を閃いた顔で彼は次にはその案を披露した。
「――雷浩然の屋敷にしばらく仮住まいを設けてはどうかな?」
「「な!?」」
揃って叫んだのは肖子偉と楊叡だ。
楊叡などは今にも腐れ縁的な知己に食って掛かりそうだ。
一方、凛風は喜色を浮かべた。
「あっそれは良い考えですね! 賛成です。同じ皇都ですし、あそこはそこそこ広いですから。どうですか子偉殿下?」
「ええと……」
肖子偉としては、とても惹かれる提案ではあった。
しかし同時に、少しだけ肝が冷えるような心地がして気を引き締めた自分を認識していた。
牢を出され雪露宮で今まで通り雷浩然と過ごしていたように見えて、その実肖子偉は彼を見る度に後ろめたさと背筋を走るほんの僅かな緊張を覚えていたのだ。
何故なら、獄中で祖父からそれとなく自分の知らない雷浩然を語ってもらったが、彼は同僚らから娘に縁談話を持ちかけられると、涼しい顔でボキリと筆を折る事も珍しくなかったという。
しかも片手で。
柄もしっかりした結構良い筆だったのに何本駄目にしたか知れない、と祖父が嘆いていた。
雷浩然は武芸はからっきしだと聞いていたが、人間怒りが臨界に達すると違うようだ。
ともかく、その話を聞いた肖子偉は心胆から凍りついたものだった。
自分が妓楼で彼の娘にやらかした諸々を思い出し、それがバレた時は下手をすればその手で自分の首の骨をボキリと折られる想像ができてしまい、話を聞きながらガタガタと持ち込んだ布の中で震えたものだった。
そんな様子から色々と鋭く察した祖父は、口止めしなくともきっと妓楼で見聞きした出来事を雷浩然には黙っていてくれるだろう。
実は雷浩然と再会し顔を見た瞬間そんな恐怖に表情が割れたものの、布だるま中だったので不審に思われる事がなかったのは幸いだった。
性格の他にも、好きな娘の父であるが故に雷浩然が怖い。
怖いがしかし、と肖子偉は決意している。
(交際を反対されても私は彼女を諦めない。……ポ、ポッキリやられない限りは)
正式な人事異動はまだだが、失脚同然の祖父は官職を辞すると宣言していたし母は既にない。
肖子偉の今後はもっと後ろ盾という部分では朝廷での影響力が薄くなるだろう。しかも駄目皇子と思われ世間での評判も良くない。
それ故に、皇子とは言え太子となる兄とは違い婚姻も比較的自由が利くだろう。
(その点では大きな障害はなさそうだが、娘の相手如何として父親目線で見られた時には、決して私は優良物件ではないと自分でもわかっている)
「父には私からも話しますし、きっと頷いてくれるはずです」
「迷惑ではないだろうか……?」
「まさか。ボケ防止に話し相手が出来た方がいいに決まってますよ」
(何気に雷浩然本人が聞けば傷付きそうだが、彼女の善意が眩しい)
心から感謝する肖子偉はしかしそれだけではない。今まで以上に彼女と近付けるかもしれないという下心を即座に抱いた。
だがそれを後ろめたくは思わない。
「雷浩然が本当にいいのなら、是非そうしたい」
「ああ良かった! じゃあ早速父を捜して話をつけてきますね!」
「え、そんなに急がずとも……」
「あ、じい様はもう帰るでしょ? ばあ様によろしくね!」
「あ、阿風やせめて今日の晩御飯くらいは一緒に……」
「そうだ、若様は諸々が終わったらまた店に来て下さいね、サービスしますから! あとこの通行証は今日中にお返ししますね。でももうちょっとだけ貸しておいて下さい」
「別に急がなくても大丈夫だよ。それはしばらく預けておくから、いつでも僕の所を訪ねて来てくれると嬉しいな」
「そうですか? わかりました」
山憂炎に釣られたようににこりと返した凛風は、肖子偉と楊叡が止める間もなく颯爽と駆けて行く。
目立つ金兎雲は控えた彼女は、兵士に見咎められても山憂炎の玉牌があるので平気だと踏んだのだ。確かにその通りで何か不備があれば彼の元に報せが行くだろうが、そんな展開にはならなかった。
素っ気ないとも言える孫に寂しそうな顔をしていた楊叡とは別に、呆気に取られていた肖子偉は制止に上げ掛けた手を下ろし小さく息をつく。
(早速祖父に相談して、良質の古墨でも贈ろうか)
文官の雷浩然はよく書き物をするので墨の消費が多いのだが、古墨と呼ばれる製造してから時を経た墨は書いた時の伸びがよく、濃淡も美しいと言われている。きっと喜んでくれるだろう。
袖の下で懐柔できるとは思わないが、凛風とのためなら点数稼ぎに使える手は駆使しておくべきだと考えるくらいには、彼も限定的にしたたかなのだった。
その後、何とか父親を見つけ話を強引に押し切った凛風が報告がてら雪露宮に戻ると、まだ肖子偉が庭先に佇んでいた。
露台から跳んだ時にどこかに落としていた方の布を見つけてそれを被っている。黒蛇に裂かれた方の布は丁寧に足元に畳んであった。
楊叡と山憂炎の姿はない。
足音に気付いてか、凛風の姿を認めると、乙女皇子はふわりと頭の布を下げてホッとしたように微笑んだ。
「ああよかった、戻ってきた」
「えっまだそのままだったんですか!?」
しかも彼はまだ自分の着替えに行っていなかった。雷浩然を見つけて戻るのにそれほど時間は掛からなかったが、それでもとっくに着替えていると凛風は思っていた。
(私が一旦ここに戻らなかったらどうする気だったんだろ)
「……それはそなたもだろうに」
「あ……はは、それもそうですね」
的確に指摘した彼は、何か言いたそうにじっと凛風に視線を注いでくる。
(たぶんだけど、わざわざ私を待っててくれたんだ。優しいなあホント)
「私ももう帰りますし、着替えに行って下さい」
「……うん」
やはり何かちょっと思う所があるのか語尾が沈む肖子偉の内心を疑問に思うものの、きっと自分が動かないと彼も自らの着替えに行かないだろうと気付いた。
「殿下の着替えは向こうの方の部屋ですか?」
凛風が庭先を歩き出せば、肖子偉が不思議そうにした。
「どうかしました? 徒歩ですし、近くまで送りますよ」
「え? 金兎雲は……」
「ああ、私一度厨房に岡持ちを取りに寄らないといけなくて。まだ金兎雲は使わないんです」
夕方取りに戻ればいいとは思っていたが、折角皇城内に来ているのだし今行っても同じだろうと思い直したのだ。
納得顔の肖子偉は、凛風の厚意に従う事が一番早く彼女を帰らせる道だと悟って案内するように歩き出す。
ほとんどの水は戻ったが見事なまでに濁ってしまった池を横目に、さくさくと音を立て雪露宮の広い庭の芝を踏んでいく。
「あ、忘れる所でした。最低限の荷物を纏める時間も必要ですし、今日はいつ頃迎えに来ればいいですか?」
着替える事も必要だが、必要になったもっと肝心な案件の相談を失念していた。
本格的な荷の移動は後日に回すとしても、肖子偉が今夜の寝床に行くための準備は必要だ。
思い至って一緒に居るうちにと急いで問えば、肖子偉は控えめな視線を寄越した。
「い、いや、お世話になる身だし、わざわざ迎えに来てもらうのはさすがに……」
「あはは気にしないで下さいよ。若様の提案に賛成したのは私ですし、家の場所を知っている私が案内するのが手っ取り早く、しかも筋ってものですよ」
「そ、そういうものだろうか」
「そういうものです」
自信満々に胸を張れば、彼は少し小首を傾げるようにして「そ、そうなのか」ととりあえずは言う事を受け入れた。
「それでは、皇城閉門の太鼓がなる頃に東門で。その頃にはこちらの用意も終わっているし、きっと山太師が謹慎を解いてくれていると思う」
「わかりました。じゃあ夕方ですね」
「うん」
お互い時間と場所を再度確認しながら歩いて程なく、立ち止まった肖子偉が「ここなのだ」と雪露宮内の無事な建物を示した。
きっとそこが私物置き場なのだろう。
「それじゃあまた夕方に」
「あ、雷凛風」
さあ次はいざ厨房へと軽く拱手して歩き出そうとした凛風だが、呼び止められ動作を止めた。
「何か言い忘れでも?」
その通りだったのか、肖子偉は一歩二歩と離れていた距離を詰めてきた。手を伸ばせば互いに触れられる距離に立つと、どこか申し訳なさそうに眉を下げた。
「今日は助けてくれて本当にありがとう。今回の一件ではそなたには感謝し切れないくらいの恩を受けた。それをどう返して行けばいいのか……。何でもいい。私に出来る事があれば言って欲しい」
凛風は半眼になった。
「あのー殿下、私ってそんなに恩着せがましく見えます?」
「見えない」
「だったらその辛気臭い顔は勘弁して下さい。私はそうしたかったからしたんです。こっちの都合です。ですから変に気に病まれるとこっちも接しづらいのでやめて下さいね?」
「いやしかし怪我をしていたかもしれなかったのだし、そんな単純な話では……」
「単純な話ですよ。私は大事な友人を護りたかったから出来る範囲でそうした。ただそれだけです」
「しかし……」
「殿下、子豪兄さんみたいにあっさり適当なのもまああれですけど、私はどちらかと言うとそうやって気にされる方が嫌です」
肖子豪がどこかでくしゃみをしたかもしれない。
そんな事はともかく、ちょっと怒ったようにしてみせれば相手は焦ったように顎を引いて口を噤む。そうすると少し困った上目遣いで見られているようになって、表情には出さなかったものの凛風は内心「うっ可愛いな」とたじろいだ。
凛風の気持ちなど知らずしばし黙していた肖子偉が、そろりと口を開く。
「……わかった、気にしない。雷凛風が嫌なことはしたくない。しかし、感謝はしてもいいのだろう……?」
「そこはまあ……私がどうこう言う部分ではないですし……」
「よかった」
彼にやっと明るい表情が戻り、それがまた凛風を嬉しくさせる。
(私も大概この人に弱いよね……)
「ほらほら、早く中に入って着替えて下さい。本当に風邪を引きかねませんし、そんなのは、私が嫌ですよ?」
凛風の嫌な事はしたくないと直前で言っただけに、その台詞をまんまと持ち出されて肖子偉はちょっと苦笑した。
「では雷凛風、夕刻に宜しく頼む」
「はい、頼まれますとも」
ふっと笑んで素直に踵を返す肖子偉の背に凛風は一人頷いて、こちらも早速と厨房へと向かうのだった。
一国の皇子が他人の家に居候など非常識ではあったが、案外彼が楽しみに思ってくれているようで安心した凛風でもあった。
凛風は自分同様に見送っていた横の肖子偉を見て、雪露宮の惨状を見て、そう問い掛けた。
「それは大丈夫だと思う」
幸い着替えなり彼の私物の置いてある部屋は位置的に被害には遭っていなそうだと言うので、そこは素直にホッとした。
しかし一部は煤け、半分は水を被ってしまったこの宮は掃除や改修が必要で、その間彼がここに居られるかは怪しい。
(一時的とはいえ、行き場がなくなったらどうするんだろ。庭で野宿……なわけには行かないし、だったら城下で宿を取る?)
そんな実際問題的な事をこれから考えないといけないのだ。
(何か少しでも彼の力になれたらいいんだけど)
「あ、この上着は洗濯してお返ししますね」
「い、いやこちらが勝手に貸したのだし、わざわざ洗わなくとも……」
「何言ってるんですか。洗って返すのが礼儀です。あ、お礼は包子でもいいですか?」
「いやその、お礼を期待したわけではないし、そこまでしなくともいい。それに包子は今まで通り出前を再開して届けてもらえれば……」
慌てた肖子偉だったが、彼は雪露宮の惨状を思い出したのか途中で宮の方へと途方に暮れた目を向けた。
いやもうこれは出前は無理かも、と彼が即座に思ったのがわかって、ですよねー、と凛風は内心同情した。
「ええと殿下、ここに出前する以前に、ここに住めるんですか?」
「ど、どうだろう……」
「もしも住めなかったらどうするとか考えてます?」
「他の宮か、どこかに宿を取るしかないとは思っている。しかし私は謹慎中の身だし、最悪の場合は庭に野宿でも……」
(えっ野宿案アリなの!? せめて天幕張るとかしようよ!)
内心びっくりする凛風の横では、肖子偉が悩んだように思案する。
そんな二人の間に立った山憂炎が、取り持つように両者の肩を叩いた。
「住む場所がこの状態では不便だし改修の邪魔にもなる。謹慎の件は僕が皇帝陛下に掛け合って今日中に解いてもらうようにするよ」
「えっそんな事が可能なんですか?」
「山太師、それは難しいと思う」
「平気ですよ。陛下も元々生誕宴が終われば早々に解くつもりでいらした。それが数日前倒しになるだけですよ。それにあなたには長々と引き籠っていられても困りますしね。まだまだ学んでもらう事もありますから」
意味深な山憂炎の台詞に凛風も肖子偉も内心の疑問を隠さず怪訝にしたが、自由が利くようになるなら文句はなかった。
「別の場所に移ってもらう事にはなるけれど、先日の小火もあるし、殿下が快適に暮らせる宮殿は生憎すぐに用意は出来そうにない」
「じゃあどこかに宿ってことですか」
ごく短く思案した凛風は他から意見が上がる前にパッと顔を上げた。
「そうだ、依依さんの所とかは?」
「雷凛風、あそこは妓楼だ。そなたは私がそんな所にずっと居ても、その……気にならないと?」
「え? 依依さんなら快適に過ごせるよう便宜を図ってくれると思いますけど?」
「そういう事ではなく……」
「大丈夫ですよ。殿下は依依さんの守備範囲外って話でしたし」
「いやそれもどうでも良くて……。他の女子がわんさかいる場所でもあるし、嫌ではないのか……と」
「へ? だって殿下はそういう部分で不真面目ではないでしょう?」
「……ッ」
あっけらかんと告げられた言葉に肖子偉は大きく瞠目し、信頼されている嬉しさに感動した。
ただし、凛風にどこまでの意図があり、或いはその自覚があるのかは不明だったが。
孫大好き故に渋面を作った楊叡を一瞥した山憂炎がにこやかに微笑んだ。
「まあまあ、妓楼や巷の宿に頼らずとも、僕に良い考えがあるんだけど」
山憂炎はいつになく明るい声を出す。
何かとてつもなく良い事を閃いた顔で彼は次にはその案を披露した。
「――雷浩然の屋敷にしばらく仮住まいを設けてはどうかな?」
「「な!?」」
揃って叫んだのは肖子偉と楊叡だ。
楊叡などは今にも腐れ縁的な知己に食って掛かりそうだ。
一方、凛風は喜色を浮かべた。
「あっそれは良い考えですね! 賛成です。同じ皇都ですし、あそこはそこそこ広いですから。どうですか子偉殿下?」
「ええと……」
肖子偉としては、とても惹かれる提案ではあった。
しかし同時に、少しだけ肝が冷えるような心地がして気を引き締めた自分を認識していた。
牢を出され雪露宮で今まで通り雷浩然と過ごしていたように見えて、その実肖子偉は彼を見る度に後ろめたさと背筋を走るほんの僅かな緊張を覚えていたのだ。
何故なら、獄中で祖父からそれとなく自分の知らない雷浩然を語ってもらったが、彼は同僚らから娘に縁談話を持ちかけられると、涼しい顔でボキリと筆を折る事も珍しくなかったという。
しかも片手で。
柄もしっかりした結構良い筆だったのに何本駄目にしたか知れない、と祖父が嘆いていた。
雷浩然は武芸はからっきしだと聞いていたが、人間怒りが臨界に達すると違うようだ。
ともかく、その話を聞いた肖子偉は心胆から凍りついたものだった。
自分が妓楼で彼の娘にやらかした諸々を思い出し、それがバレた時は下手をすればその手で自分の首の骨をボキリと折られる想像ができてしまい、話を聞きながらガタガタと持ち込んだ布の中で震えたものだった。
そんな様子から色々と鋭く察した祖父は、口止めしなくともきっと妓楼で見聞きした出来事を雷浩然には黙っていてくれるだろう。
実は雷浩然と再会し顔を見た瞬間そんな恐怖に表情が割れたものの、布だるま中だったので不審に思われる事がなかったのは幸いだった。
性格の他にも、好きな娘の父であるが故に雷浩然が怖い。
怖いがしかし、と肖子偉は決意している。
(交際を反対されても私は彼女を諦めない。……ポ、ポッキリやられない限りは)
正式な人事異動はまだだが、失脚同然の祖父は官職を辞すると宣言していたし母は既にない。
肖子偉の今後はもっと後ろ盾という部分では朝廷での影響力が薄くなるだろう。しかも駄目皇子と思われ世間での評判も良くない。
それ故に、皇子とは言え太子となる兄とは違い婚姻も比較的自由が利くだろう。
(その点では大きな障害はなさそうだが、娘の相手如何として父親目線で見られた時には、決して私は優良物件ではないと自分でもわかっている)
「父には私からも話しますし、きっと頷いてくれるはずです」
「迷惑ではないだろうか……?」
「まさか。ボケ防止に話し相手が出来た方がいいに決まってますよ」
(何気に雷浩然本人が聞けば傷付きそうだが、彼女の善意が眩しい)
心から感謝する肖子偉はしかしそれだけではない。今まで以上に彼女と近付けるかもしれないという下心を即座に抱いた。
だがそれを後ろめたくは思わない。
「雷浩然が本当にいいのなら、是非そうしたい」
「ああ良かった! じゃあ早速父を捜して話をつけてきますね!」
「え、そんなに急がずとも……」
「あ、じい様はもう帰るでしょ? ばあ様によろしくね!」
「あ、阿風やせめて今日の晩御飯くらいは一緒に……」
「そうだ、若様は諸々が終わったらまた店に来て下さいね、サービスしますから! あとこの通行証は今日中にお返ししますね。でももうちょっとだけ貸しておいて下さい」
「別に急がなくても大丈夫だよ。それはしばらく預けておくから、いつでも僕の所を訪ねて来てくれると嬉しいな」
「そうですか? わかりました」
山憂炎に釣られたようににこりと返した凛風は、肖子偉と楊叡が止める間もなく颯爽と駆けて行く。
目立つ金兎雲は控えた彼女は、兵士に見咎められても山憂炎の玉牌があるので平気だと踏んだのだ。確かにその通りで何か不備があれば彼の元に報せが行くだろうが、そんな展開にはならなかった。
素っ気ないとも言える孫に寂しそうな顔をしていた楊叡とは別に、呆気に取られていた肖子偉は制止に上げ掛けた手を下ろし小さく息をつく。
(早速祖父に相談して、良質の古墨でも贈ろうか)
文官の雷浩然はよく書き物をするので墨の消費が多いのだが、古墨と呼ばれる製造してから時を経た墨は書いた時の伸びがよく、濃淡も美しいと言われている。きっと喜んでくれるだろう。
袖の下で懐柔できるとは思わないが、凛風とのためなら点数稼ぎに使える手は駆使しておくべきだと考えるくらいには、彼も限定的にしたたかなのだった。
その後、何とか父親を見つけ話を強引に押し切った凛風が報告がてら雪露宮に戻ると、まだ肖子偉が庭先に佇んでいた。
露台から跳んだ時にどこかに落としていた方の布を見つけてそれを被っている。黒蛇に裂かれた方の布は丁寧に足元に畳んであった。
楊叡と山憂炎の姿はない。
足音に気付いてか、凛風の姿を認めると、乙女皇子はふわりと頭の布を下げてホッとしたように微笑んだ。
「ああよかった、戻ってきた」
「えっまだそのままだったんですか!?」
しかも彼はまだ自分の着替えに行っていなかった。雷浩然を見つけて戻るのにそれほど時間は掛からなかったが、それでもとっくに着替えていると凛風は思っていた。
(私が一旦ここに戻らなかったらどうする気だったんだろ)
「……それはそなたもだろうに」
「あ……はは、それもそうですね」
的確に指摘した彼は、何か言いたそうにじっと凛風に視線を注いでくる。
(たぶんだけど、わざわざ私を待っててくれたんだ。優しいなあホント)
「私ももう帰りますし、着替えに行って下さい」
「……うん」
やはり何かちょっと思う所があるのか語尾が沈む肖子偉の内心を疑問に思うものの、きっと自分が動かないと彼も自らの着替えに行かないだろうと気付いた。
「殿下の着替えは向こうの方の部屋ですか?」
凛風が庭先を歩き出せば、肖子偉が不思議そうにした。
「どうかしました? 徒歩ですし、近くまで送りますよ」
「え? 金兎雲は……」
「ああ、私一度厨房に岡持ちを取りに寄らないといけなくて。まだ金兎雲は使わないんです」
夕方取りに戻ればいいとは思っていたが、折角皇城内に来ているのだし今行っても同じだろうと思い直したのだ。
納得顔の肖子偉は、凛風の厚意に従う事が一番早く彼女を帰らせる道だと悟って案内するように歩き出す。
ほとんどの水は戻ったが見事なまでに濁ってしまった池を横目に、さくさくと音を立て雪露宮の広い庭の芝を踏んでいく。
「あ、忘れる所でした。最低限の荷物を纏める時間も必要ですし、今日はいつ頃迎えに来ればいいですか?」
着替える事も必要だが、必要になったもっと肝心な案件の相談を失念していた。
本格的な荷の移動は後日に回すとしても、肖子偉が今夜の寝床に行くための準備は必要だ。
思い至って一緒に居るうちにと急いで問えば、肖子偉は控えめな視線を寄越した。
「い、いや、お世話になる身だし、わざわざ迎えに来てもらうのはさすがに……」
「あはは気にしないで下さいよ。若様の提案に賛成したのは私ですし、家の場所を知っている私が案内するのが手っ取り早く、しかも筋ってものですよ」
「そ、そういうものだろうか」
「そういうものです」
自信満々に胸を張れば、彼は少し小首を傾げるようにして「そ、そうなのか」ととりあえずは言う事を受け入れた。
「それでは、皇城閉門の太鼓がなる頃に東門で。その頃にはこちらの用意も終わっているし、きっと山太師が謹慎を解いてくれていると思う」
「わかりました。じゃあ夕方ですね」
「うん」
お互い時間と場所を再度確認しながら歩いて程なく、立ち止まった肖子偉が「ここなのだ」と雪露宮内の無事な建物を示した。
きっとそこが私物置き場なのだろう。
「それじゃあまた夕方に」
「あ、雷凛風」
さあ次はいざ厨房へと軽く拱手して歩き出そうとした凛風だが、呼び止められ動作を止めた。
「何か言い忘れでも?」
その通りだったのか、肖子偉は一歩二歩と離れていた距離を詰めてきた。手を伸ばせば互いに触れられる距離に立つと、どこか申し訳なさそうに眉を下げた。
「今日は助けてくれて本当にありがとう。今回の一件ではそなたには感謝し切れないくらいの恩を受けた。それをどう返して行けばいいのか……。何でもいい。私に出来る事があれば言って欲しい」
凛風は半眼になった。
「あのー殿下、私ってそんなに恩着せがましく見えます?」
「見えない」
「だったらその辛気臭い顔は勘弁して下さい。私はそうしたかったからしたんです。こっちの都合です。ですから変に気に病まれるとこっちも接しづらいのでやめて下さいね?」
「いやしかし怪我をしていたかもしれなかったのだし、そんな単純な話では……」
「単純な話ですよ。私は大事な友人を護りたかったから出来る範囲でそうした。ただそれだけです」
「しかし……」
「殿下、子豪兄さんみたいにあっさり適当なのもまああれですけど、私はどちらかと言うとそうやって気にされる方が嫌です」
肖子豪がどこかでくしゃみをしたかもしれない。
そんな事はともかく、ちょっと怒ったようにしてみせれば相手は焦ったように顎を引いて口を噤む。そうすると少し困った上目遣いで見られているようになって、表情には出さなかったものの凛風は内心「うっ可愛いな」とたじろいだ。
凛風の気持ちなど知らずしばし黙していた肖子偉が、そろりと口を開く。
「……わかった、気にしない。雷凛風が嫌なことはしたくない。しかし、感謝はしてもいいのだろう……?」
「そこはまあ……私がどうこう言う部分ではないですし……」
「よかった」
彼にやっと明るい表情が戻り、それがまた凛風を嬉しくさせる。
(私も大概この人に弱いよね……)
「ほらほら、早く中に入って着替えて下さい。本当に風邪を引きかねませんし、そんなのは、私が嫌ですよ?」
凛風の嫌な事はしたくないと直前で言っただけに、その台詞をまんまと持ち出されて肖子偉はちょっと苦笑した。
「では雷凛風、夕刻に宜しく頼む」
「はい、頼まれますとも」
ふっと笑んで素直に踵を返す肖子偉の背に凛風は一人頷いて、こちらも早速と厨房へと向かうのだった。
一国の皇子が他人の家に居候など非常識ではあったが、案外彼が楽しみに思ってくれているようで安心した凛風でもあった。
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