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17 慈善パーティーへの誘い

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(ケン兄は好きじゃなくてもキスできるんだ)

 自分から先に「手を出す」のハードルを下げておいて責めるのはどうかとは思うが、すずかは鬱屈したものを感じると同時に落ち込んでもいた。
 力なくベッドに倒れ込んでごろんと転がってでかいクマのぬいぐるみを抱きしめると、顔を埋めた。
 いつも抱きしめると安心する。気が立っていても慰められる。そんなクマだ。実家から持ってきた荷の一つだ。
 実は密かにケントンという名を拝命しているもふもふのクマでもある。ケントだとまんまなのでケントンにしたという経緯もある。
 それでも今は深く憂えた溜息しか出て来ない。
 もういちいち怒るのにやや疲れていた。
 今日という日が頗る感情変化に忙しかったせいだ。

(さっさとシャワーでも浴びて早く寝よう)

 少し待ってからそっと廊下を覗けば、ケントは既に立ち去ったようだった。姿がなくてすずかはかなりホッとした。
 案の定、彼の傍は猛烈に無理だと実感させられた。平静でいられないのだ。
 その上またキスをしてしまった。
 心の準備を何も出来ないうちにされて、脳内のあちこちで噴火し星がスパークした。少しでも思い出すとへなへなと力が抜けそうになる。

(こんなんじゃ駄目だよね。どうにか気張らないと!)

 幸か不幸かその日はもうケントと顔を合わせる機会はなく、風呂から上がったすずかはアルトと今日の事の諸々ないし明日の予定なんかをやり取りしているうちに眠くなり、折を見て眠りに就いた。
 そんなわけでの翌日の日曜朝。

(――無心無心無心無心無心無心無心!)

 学校がある日よりは遅い時間に起床した朝、すずかは自らにそう言い聞かせて恐る恐る食卓を覗き込んだ。

(無心むしん……ってあれ? まだ起きてないんだ?)

 休日でケントもいつもより朝が遅いのか食卓に姿はない。

「あら奥様、おはようございます」

 すずかに気が付いた家政婦が食卓を拭いていた手を止め顔を上げ、にこやかに朝の挨拶を告げてくる。それに返しながらのそのそと歩いて食卓の椅子に座った。家政婦は昨日までと同じく朝から来て朝食の準備をしてくれている。
 仕事であり同じ建物内に住んでいるとは言え、こうして朝起きて据え膳で食べられるのは非常にありがたかった。

「ご飯とパンどちらになさいます?」
「ご飯かな」

 すずかがそう答えると、緩やかに頷いた家政婦は別の方を見て微笑んだ。

「おはようございます、旦那様」

(きたーーーーッ)

 すずかの心臓は漫画だったら口からハートが飛び出していただろうレベルでドッキーンと高鳴り、全身が即座に硬直した。
 家政婦から先と同じ二択を向けられて、ケントは挨拶と共に「ご飯で」と答えながらすずかの向かいの椅子を引いて身を屈める。家政婦は一度キッチンへと入っていった。

「おはよう、すずか」

 腰を落ち着けたケントから改めたように目を向けられた。

「――ッ、……お、おはよう」

 一時的に二人きり同然の空気が気まずくて、すずかは顔を下げて食卓の天板を一点集中して無愛想な声を返す。
 怒るべきなのだとは思うが、現状顔を見られないので怒れない。
 それ以前に、普通の会話が出来るかも怪しかった。

「すずか」
「……なっ何?」

 彼の声に呼ばれただけで心臓が早鐘を打って指先まで変に強張り、だらだらと変な汗が出る。

「どうしてこっちを見ないんだ」
「……み、見たくないからっ」

 向かいの席で息を呑んだような間があった。

「そりゃあ怒ってる、か」
「そ……」

 それは当然、と答えようとしたすずかだったが、ふと本当に自分はキスの件で怒るべきなのかと疑問と躊躇いが生じた。
 果たして怒っているのか、とも。
 ケントはすずかからのキスを怒っていないと言っていた。
 自分たちはこれでも合法的な夫婦なのだ。自分からは良くて彼からは駄目だなんて不公平ではないのか。
 気分は全般的に平静ではなかったが、それでも片隅の冷静な部分でその点を初めて客観的に考慮すれば、後ろめたさを覚えた。

 そして出てきた答えは「わからない」だった。

 けれど結局はそれも口にはせず、無言を貫いた。
 そのまま二人の間には長々と沈黙が落ち、家政婦が二人分の朝食を運んで来るまで終ぞ一言も交わさなかった。

 朝食開始後は開始後で、これまた気まずい沈黙時とは一味違っていて、調味料を取ろうとうっかり食卓で指の先同士が触れ、すずかは瞬間箸を取り落とし慌てふためいてご飯茶碗を引っ繰り返す始末だった。
 これはもう早く食べ終えてしまおうと躍起になって、よそってもらった代わりのご飯を掻っ込んだら間抜けにも咽に詰まらせた。慌てたケントから差し出された碗を飲み干してからそれが彼の味噌汁だったとわかって、酷く狼狽もした。

(ままままさか間接キスした!?)

 彼の飲み口とは別の所に口を付けたと思いたいすずかだったが、無意識にじっとケントの唇を見つめてしまった。箸も動かさず放心にも似た様でいたら、

「すずか、いつまでくっ付けてるんだい?」
「へ?」

 微苦笑したケントから口元に付いていたらしいご飯粒へと手を伸ばされ、あまつさえ彼は取り除いたそれを自らの口に含んだ。食べたのだ。

「ふいいいーッ!? なななな何やってるのケン兄っ!? もうやだよーーーーっ!」
「えっ……」

 蒸気が飛び出しそうな耳まで真っ赤な顔をして潤んだ目で睨んで、まさに懐かない野良猫の威嚇そのものと言った感じで叫ぶと、「ごっご馳走様でした!」と誰が止める間もなくダイニングから走って出て行った。

「……旦那様、いえ今は坊っちゃまとお呼びしましょうか、今の行動はまあ置いておくとしても、昨夜奥様に何かなさいました?」
「…………」
「沈黙は肯定、と。お二人が仲睦まじくお過ごされる事がわたくしの願いですけれど、余りにもこちらでフォローできないようなしでかしだけは、どうかなさいませんように。坊っちゃまのお仕事の手腕は疑いようもありません。ですが恋愛事となると少々……いえかなり不得手なようですので、この澤野、正直不安でしかありません。わたくしの小学生の息子の方がまだ上手くやる…」
「自分でもわかっているからこれ以上は抉らないでくれないか!」

 ケントがやや食い気味に遮ってしまえば、家政婦はこれ見よがしに頬に手を当て困ったように息を吐き出した。
 長い付き合いの家政婦からの遠慮のない率直な苦言に、ケントは苦虫を噛み潰したような面持ちで額を押さえる。小学生以下だなんて言われようもあんまりだ。

「助言などは?」
「必要ないっ」
「少々冷却期間を置いて差し上げた方がよろしいかもしれませんね」
「だから必要ないと………………わかったよ」

 一方、のぼせたような頭を冷やそうと洗面所に直行し顔を洗うすずかは、残された二人が主従として考えれば些かハラハラするようなやり取りを交わしていたなんて知る由もない。

 しかもすずかは、この日以来これまで以上にケントに傍に寄られるのを警戒するようになった。

 家ではリビングで寛ぐ頻度も減って自分の部屋に籠るようになった。
 廊下で鉢合わせても後ずさりして反射的に逃げてしまうようにもなった。
 一度など、洗面所で鉢合わせた際には鏡に映ったケントの姿をホラー映画の幽霊か何かのように両目を見開いて狼狽うろたえて見つめてしまって、真っ赤になって悲鳴を上げた後、手近にあったバケツを彼の頭に被せて脱兎の如く逃げた。

「……坊っちゃま、また何かしでかし…」
「今は何もしてない!」

 悲鳴を聞き付けて駆け付けた家政婦から横目で呆れられ、ケントが不貞腐れたように返していたのも勿論すずかが知る由もない。
 家政婦の助言に従ってすずかを刺激しないように、ケントは彼女のさせたいようにさせていたが、無難というよりは災難に近い展開にかなり肩を落としていた。
 その日も過剰に避けて避けられて双方の寝床に就いた彼らは、

「はあ、これじゃ駄目だよねえ。……もう私の事呆れ果てて幻滅したかも」
「取りつく島もないとはこの事か。はあ、これはやっぱり相当怒っているよなあ……」

 奇遇にも同じように横になって各自の部屋の天井を見つめたまま、溜息と共に呟いた。
 何でもないのに大きな問題が介在している花柳家の夜は、この日も静かに深まっていくのだった。




 すずかの元に、小町からとある慈善パーティーへのお誘いが舞い込んだのはそんな折。
 彼一人で参加するのは些か心許ないので、一緒に参加してほしいという頼みだった。
 慈善パーティーではあるがすずかが寄付を気にする必要はなく、ただ小町の友人として居てくれるだけでいいと頼み込まれ、他に頼める当てがないのだと聞いて仕方がないかと承諾した。

「確かにああ言った場で顔見知りがいるのといないのとでは、やっぱり違うしね」

 小町とちょっと後ろの方で話を聞いたり食べたりしていればいいだろうと簡単に考えて、すずかはケントには敢えて言うまでもないだろうと告げなかった。
 小町が関わる件でもあるので、話せばまた機嫌が悪くなるのはわかり切っているという点からも気が進まなかった。

 開催日は休日の昼間だ。
 そうして当日、指定されたドレスコードに従った服を身に纏った。
 親戚の結婚式などでも無難なちょっとしたドレスだ。

 その日はケントも外出の予定があったようですずかよりも早い時間に家を出たのだと、着替えを手伝ってくれた家政婦から教えられた。

「知らなかった、ケン兄も用事だったんだ。てっきり家にいると思ってた」
「はい、何かの集まりだとかで」

 最近は「行ってらっしゃい」を言わない日も当たり前のようにあり、この日もそうだったのをちょっと申し訳なく思った。
 玄関で見送られ、小町との待ち合わせの時間より幾分早くマンションの下で待っていると、一台の高級車がエントランスに入ってきた。

「三好、待たせて悪い」
「ううん全然待ってないよ」

 小町が家の車で迎えに来てくれたのだ。
 彼は一度後部座席から降り、わざわざすずかを車内へと乗せ、その後で再び自分も乗り込んだ。

「ありがとう。小町くんってこういうとこ何気に紳士だよね」
「そうか? 普通だろ?」

 無自覚な小町に内心苦笑しつつ、初めて見るカッチリした彼の装いに思わず感嘆の溜息が漏れる。

「ふふ、決まってる~う」
「そっちもな。……惚れるなよ?」
「あはは惚れないよ!」
「あ……そう」

 小町がどこかがっかりした風に見えたが、きっと気のせいだろう。

(こんな気楽なやり取りが出来る小町くんは、やっぱり良き友達だよね。ケン兄は考え過ぎだよ)

 動き出す車窓の景色に目をやりながら、あれこれと考えるすずかは、小町がやや照れたような面持ちでこっそりとその普段とはまた違った彼女の着飾った姿を盗み見ているのにも、全く気付いていなかった。
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