舞台装置は闇の中

彼方灯火

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第6章 照

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 舞台は夜ではなかった。

 その日は休日で、月夜は朝から真昼の家に向かった。彼に呼ばれたからだ。以前、真昼は、月夜に、自分の家に来ないか、と誘ったことがあって、今日がその日になった。大抵の場合、月夜は休日は六時に目を覚ます。それから一時間程度勉強して、ご飯を食べてから、家を出て真昼の家に到着した。

 真昼は両親と暮らしているが、彼らは家にいないことが多い。だから、実質的には、月夜の家と変わらない。月夜には両親がいなかった。生まれたときからいないから、当然顔も見たことがないし、会いたいな、と思うこともない。知らないものに憧れを抱くことはあるが、知らなさすぎるものには、知りたい、という欲求ははたらかない。それは、そもそもの問題として、その対象を認知していないからにほかならない。月夜が両親を意識しないのも、そういう理由からだった。

 真昼家(真昼、というのは名字ではないから、本来なら、この言い方はおかしい)の玄関を開けると、明るい室内が広がっていた。当の真昼の姿は見えない。玄関の鍵は開いているから、勝手に入ってこい、とのメッセージが送られてきたから、月夜は、それに従って、勝手に玄関を開けて家に入った。靴を脱いで、軽く揃える。正面に大きなドアがあったが、そちらはリビングだから、おそらく、真昼はそこにはいない。廊下を右手に進んで、洗面台で手を洗ってから、今度は逆に廊下を少し戻り、階段を上って、真昼の部屋の前に到着した。

 月夜は、数年前にここに来たことがあった。どういう経緯で来ることになったのか、それについては覚えていない。きっと、本当に些細な理由で、本当に些細な用事を済ませるために、来たのだろう、と月夜は推察する。推察と、推理の違いは、どこにあるのだろう、と考えてみたが、他人の部屋の前に立って、一人で考え事をするというのは、どうにも失礼に思えたから、月夜は、ドアを開けて、彼の部屋に侵入した(決して怪しい行為ではない)。

 月夜は部屋の中を見渡す。

 見ると、真昼は、ベッドで、まだ眠っていた。

 概ね想定内だな、と月夜は思う。時刻は午前十時を少しすぎたくらいだから、彼が眠っていてもおかしくはない。真昼は、学校に遅刻することはないが、休日になると、一気に気が抜けて、こういう状態になる。やるときにはきちんとやっているから、なんの文句もないが、こんな彼を見ると、なぜか安心する月夜だった。それは、彼女が、真昼に、何らかのライバル意識を持っているからかもしれない。といっても、明確な対象は特になかった。学力だって、客観的に見ても月夜の方が優れているし、ファッションのセンスに関しても、真昼よりは月夜の方が上だ。まあ、ライバルなんて、生きるうえで必要ないな、と月夜は考えていたから、その考察はおそらく間違えだろう。

 ベッドに近づいて、月夜は真昼の身体を軽く揺する。彼はぼんやりとした表情で目を擦って、瞼を開けた。

 上から、月夜は真昼の顔を見つめる。

「やあ、来たんだね」掠れた声で、真昼が言った。「おはようございます」

「もう、朝じゃないよ」

「今、何時?」

「十時十二分」

「なんだ、じゃあ、まだ、朝じゃないか」真昼は起き上がった。「それにしても、こんなに早く来るなんて思わなかったな」

「そう? じゃあ、一度帰って、それから出直した方がいい?」

 月夜の言葉を聞いて、真昼は笑った。

「どうして、そんなことをする必要があるの?」

「必要は、私にはないけど、君にはあるのかもしれない、と、思ったから」

「僕も大丈夫だよ」

「何が、大丈夫なの?」

「君にいてもらっても、構わない、ということ」

「うん」

「あ、でも、着替えるときは、後ろを向いていてね」

「貴方が、私の後ろに来る、というのでは、駄目なの?」

「どっちでもいいよ」

「分かった。じゃあ、後ろを向いている」

「それって、冗談のつもり?」

「つもりではない」

 真昼はベッドから抜け出して、適当に衣服を見繕って着替える。見繕って、というのは、自分のクローゼットから見繕って、という意味だ。彼は衣服をあまり持っていない。服装に拘らない、というのが、彼の拘りの一つだった。これでは意味が分からないが、彼はそういったちゃらんぽらんなことが好きだ。いや、好き、というのは言いすぎかもしれない。拘りと言いながら、そこまで拘っているわけではないし、命の危機が迫ったら、簡単に捨てられるくらいの拘りでしかない。ちなみに、月夜は、今日は空色と白のワンピースを着ていた。清楚なイメージで、どちらかというと、彼女という人間には相応しくない。けれど、衣服を着用することで、自分の人間性を偽れるから、もしかすると、そういった魂胆が彼女にはあるのかもしれなかった。

 真昼は、布団を片づけて、ベッドに腰かける。

「君は、朝ご飯はもう食べたの?」真昼は訊いた。

「うん、食べたよ」月夜は答える。

「美味しかった?」

「うん、美味しかった」

「本当かなあ。なんか、君って、僕の質問に素直に答えてくれるから、ときどき、本当かどうか、疑わしくなることがあるんだよ」

「素直に答えているのが分かっているのなら、疑わしい、というのは、おかしいと思う」

「うん、まあ、そうだね」

「今日は、どうして私を呼んだの?」

 月夜は、気になったから、素直にその質問を口にした。

「ああ、うん……」真昼は言葉を濁す。「ちょっと、訊きたいことがあって……」

「何?」

「僕に、勉強を教えてくれないかな?」

「私が?」

「そうだよ」

「どうして?」

「うーん、僕の知能レベルでは、とても解決できそうにないから、かな」

「具体的に、どういうことを教えればいいの?」

「数学の問題の、解き方について」

「学校で、教えてもらわなかったの?」

「いや、教えてもらったよ」真昼は言った。「それでも、理解できないところが、何ヶ所かある。だから、君に教えてもらったら、もう少し理解できるかな、と思って」

「解決方法は、沢山あるから、私に頼らなくても、できると思うよ」

「それは、君は、僕に教えたくない、ということ?」

「ううん。どうして?」

「なんか、申し訳ないことしたかな、と思って」

「健全なお願いだから、申し訳なくはないと思うけど……」

「ああ、いや、それならいいんだよ」月夜が俯いてしまったから、真昼は慌てて取り繕った。「まあ、君の言っていることは正しいけど、僕は……、そう、君に教えてもらいたいんだ」

「どうして?」

「だって、君がいいから」

「教える内容が同じでも、私がいい、ということ?」

「うん、そうだよ」

「じゃあ、教える内容が何であっても、教えるのが私だったら、貴方には利益が齎される、ということだね」

「そうそう。そんな感じ。一緒にいると、楽しいからね」

「うん、私も楽しいよ」

「あ、そう? じゃあ、なおさらいいね」

「でも、人に何かを教えるのは、想像以上にエネルギーを消費して、疲れるから、あまり、得意ではないし、できるなら、やりたくない、とも思う」

「それは誰だって同じだよ。まあ、そこをなんとか、お願いしたいんだ」

「でも、君と一緒にいると楽しいから、プラスマイナスゼロになって、大丈夫」

「大丈夫、というのは、どういう意味?」

「疲れるのと、楽しいのが、中和されて、ゼロになる、という意味」

「分かった」

「もう、勉強するの?」

「いや、まずはご飯を食べてから」そう言って、真昼はベッドから立ち上がる。「今日は両親がいないから、自分で作らないと……。ま、けっこう、そういうことは多いんだけどね」

「うん」

「あ、君に作ってもらえない?」

「いいよ」

「え、本当に?」冗談のつもりだったから、真昼は驚いた。「それは、本当に、作ってくれる、という意味?」

「えっと、ほかにどんな意味があるの?」

「いや、ないけど」

「何が食べたいの?」

「えっとね、オムライス、かな」

「材料は、この家にあるものを、使っていいの?」

「もちろん。まさか、君に、買ってこいなんて、言うはずないじゃないか」

「そっか」

 二人揃って部屋を出て、階段を降りてリビングに向かった。キッチンはリビングの先にある。リビングには、月夜の家と同じように、大きなテーブルが置かれていて、椅子は合計で四脚あった。四脚ということは、家族も四人なのかもしれない。月夜は、真昼家の家族構成について、詳しいことは知らなかった。両親がいるのだから、三人以上であることは確実だが、それ以上は何もいえない。ペットを飼っているか否か、ということについても、彼女は何も知らなかった。

 月夜はキッチンに入って、冷蔵庫の扉を開ける。後ろから真昼がやって来て、彼の母親がいつも使っているエプロンを、彼女に手渡した。

 月夜はそれを身につける。

「うん、なかなか似合っているね、それ」真昼は言った。

「そう?」

「うん……。君は家庭的な柄じゃないけど、でも、やっぱり、エプロンを付けている女の子って、魅力的だよね」

「それは、エプロンが、魅力的だからだと思う」

「いやいや、そんなことはないよ。そんなの、あまりに酷いじゃないか」

「うーん、そうかな……」

「まあ、じゃあ、頼むよ。僕は、その間に、勉強しているから」

「うん、分かった」

 真昼はキッチンから出ていく。といっても、自室に戻るわけではないらしい。リビングのテーブルに教材を広げて、そこで勉強するつもりらしかった。聞いたところによると、彼は、多くの場合、あまり自室で過ごさないらしい。両親がいないことが大半だから、狭い自室よりも、リビングの方が開放的で落ち着く、とのことだった。

 月夜は、調理を開始する。

 彼女は、料理に関しては、素人以上、プロ未満、といったところだった。つまり、一般的だ。オムライスは、三回くらいしか作ったことがなかったが、とびきり美味しいものを作る必要はないし、それなりのものができれば良いだろう、と彼女は考えていたから、特に苦戦しそうではなかった。

 そして、その通りに、なんの変哲もないオムライスが出来上がった。

 ケチャップがなかったから、普通の白米に玉子をかけた、少々味気のないオムライスになった。しかしながら、真昼は、普段から味の濃いものを食べているわけではなさそうだし、これくらいでちょうど良いか、と彼女は思う。ケチャップがないので、玉子の上にハートマークを描くこともできない。まあ、そんなこと、しなくても良いでしょう、と月夜は思った。

 彼女がリビングに料理を運ぶと、真昼はテーブルの上の教材をどかした。先ほど言っていたように、彼は数学の勉強をしている。月夜は、数学はあまり好きではなかった。普通にできるが、得意ではない。というよりも、彼女には得意なことがなかった。むしろ苦手なことの方が多くて、だから、自分にも、本当はあまり自信がない。しかし、真昼には、その振る舞い方から、自分に自信を持っているように見えるらしい。目つきが鋭いわけではないが、瞳が冷徹で、裏表なく言葉を放つから、そういうふうに見えるのかもしれない。

「ケチャップが、なかった」料理をテーブルに置いて、月夜は言った。「だから、白米のままになってしまった。ごめんなさい」

「いいよ、そんなの」真昼は了承する。

 月夜は、真昼の対面に腰かける。彼女はすでに食事を済ませているから、彼と一緒にものを食べたりしない。こういうシチュエーションが、あまり好きではない、という人は多い。一緒にいるのなら、同じ行動をしていないと、居心地が悪い、ということだろう。けれど、それは、そういうシチュエーションが嫌なのではなく、本当は、その人といるのが嫌なのではないか、と月夜は考える。月夜は、真昼といるのであれば、彼が何をしていても、どうでも良かった。一緒にいる、というだけで、もう満足してしまう。それ以上は望まない。

 そもそも、月夜は食事をしない人間だ。まったくしないわけではないが、極端にその頻度が少ない。真昼も、そんな月夜に合わせることが多いが、彼女ほど少ないわけではないから、彼が一人で食事をする、というシチュエーションは特に珍しくはなかった。

「君は、今日は、何を食べてきたの?」オムライスを食べながら、真昼が訊いた。

「ご飯と、味噌汁」

「それだけ?」

「うん」

「簡単だね」

「何が?」

「食べるのが」

「よく、分からなかった」

「このオムライス、普通に美味しいよ」

「うん、よかった」

「ああ、でも、ごめんね、僕は、その、なんていうのか、あまり、味覚に優れていなくてさ」真昼は説明する。「だから、何を食べても、ただ、美味しい、と感じるだけなんだ。こんなこと言って申し訳ないんだけど、君が作る料理と、コンビニ弁当も、どちらも、一律で、『美味しい』と感じるだけで、違いが、あまり、よく分からない」

「うん」

「ショックだった?」

「えっと、何が?」

「あ、大丈夫みたいだね。よかったよ」

「それも、よく、分からないけど……」

「君は、美味しい料理を作ろうと思って、料理をしているわけではなさそうだね」

「普通に作れば、普通に食べられる味になるよ」

「それ以上、美味しくする必要はない、ということ?」

「自分で食べる分には、そうだよ」

「僕が食べる場合は?」

「それも、あまり、気にしなかった」

「それを聞いて、安心したよ」

「そう?」

「うん。君らしい、というか」

「そっか」

「うん、そうだよ」

 真昼はオムライスを食べ続ける。

 月夜は、感謝に関して、されてもされなくても、どちらでも良い、と考えていた。なんというのか、感謝をしてもらうために貢献するのではないし、そんなことは、してもらっても、してもらわなくても、本当にどちらでも同じだ、と感じてしまう。たしかに、感謝をされたら、それなりに嬉しいが、でも、感謝をされなくても、それで落ち込んだりはしない。どちらでも同じ、というのは、そういう意味を指す。自分が作った料理を真昼が食べることで、彼のお腹が満たされて、満足した、という事実が成立しているのなら、それで良い、というのが、月夜の基本的なスタンスだった。見返りなんていらないし、自分に料理が作る技能があるから、料理を作って、提供した、というだけにすぎない。

 こういうことを言うと、ほとんどの人に、薄情だ、と言われる。けれど、真昼は、そんな月夜を受け入れてくれるから、彼女は、彼が、好きだった。だからといって、ほかの人間が嫌いだ、という話にはならない。ときどき、そこを間違える人がいる。それは、論理的におかしいので、勘違いされては困る。

 十分ほどして、真昼はオムライスを食べ終わった。

「ごちそうさま」

 月夜は、皿を下げて、それを洗った。

 いよいよ、勉強を始める準備が整った。

 月夜は、何も持ってきていなかったから、彼のテキストを使って、勉強を教えることになった。といっても、彼女が言ったように、勉強は手順や方法が限られているため、普段使っていない教材を使っても、特に苦労することはない。

 範囲は微積分だった。微分は、曲線を直線にする作業だから、月夜は好きだ。基本的に、曲線を計算の対象とする場合、多くの労力を必要とするが、直線にすることで作業は簡単になる。それは、つまり、余計なエネルギーを使う必要がない、ということでもある。一方で、積分はその反対の作業をしなくてはならないから、月夜はあまり好きではなかった。問題を解く中で、まず、積分しなさい、という指示を見ただけで、気力の五十パーセントが失われる。そして、実際にペンを持って計算をし終えたときには、もう、気力はまったく残されていない。これは明らかに誇張だが、それでも、できるなら、微分だけやって、積分はしたくない、というのが月夜の正直な思いだった。

 真昼は、自分で言っていたほど、勉強ができないわけではないらしい。やり方を教える中で、月夜にはそれがなんとなく分かった。彼の場合、むしろ、毎日続ける、といった努力が足りていないように感じる。努力をするには、まず、努力をするための努力が必要になるから、それができないことには、次の段階には進めない。したがって、まずは努力を継続する方法を探す必要がある。しかし、それは月夜には解決できない問題だから、彼女は、今回はそこには触れなかった。

 二時間ほどペンを握り続けて、気がつくと、午後になっていた。

 真昼はテーブルに突っ伏して、目を閉じた。

「いやあ、助かったよ、どうもありがとう」彼が言った。「これで、もう、勉強しなくてもいいかな」

「よくないと思うよ」対面に座る月夜が話す。

「いや、でもさ、こんなことを毎日続けていたら、本当に、まともに生きていけない、と思うんだ」

「そういう人は、仕方がないかもしれない」

「そうだよね」

「うん……。でも、成績が悪いと、進級できないかもしれないよ」

「それなら、それでいいな、と思ってしまうんだ」

「どうして?」

「そういう人ってレアだからさ、レアなものは、価値があるんだよ」

「それは、いい価値なの? それとも、悪い価値?」

「価値はすべていいよ」

「そうかな」

「そうだよ。そもそも、いいものを、価値、と呼ぶんだ」

「それなら、君のそれは、価値、ではないんじゃないの?」

「そうかなあ……。いやあ、そんなふうには思いたくないなあ……」

「個人が、どう思っても、事実は、変わらない」

「冷たいね、月夜」

「ごめんね」

 月夜は本心からでしか謝らない。だから、今顔を上げれば、彼女の申し訳なさそうな顔が見れるな、と思って、真昼は前を向いた。案の定、月夜の表情は曇っていた。

「数学って、難しいよ。もう、やりたくない、というのが、正直な感想だね」真昼は言った。

「難しい、というのは、エネルギーを多く消費する、という意味?」

「そうそう、そんな感じ」真昼は話す。「国語みたいに、文章を読んでいればいいだけじゃないから、頭を使うし、疲労も重なって、意気消沈してしまう」

「疲れたら、休んでいいよ」

「今、休んでいるよ」

「そっか」

「でも、数って、不思議だよね」

「不思議、というのは、一般的ではない、ということ?」

「うん、まあ、ちょっと違うけど……」真昼は話す。「たとえば、言葉って、すべて、実際にあるものを、代替するものだろう? ある、というのは、物質としてある、という意味だけじゃなくて、概念的に取り扱えるものも含んでいる。で、数にも、そういう性質があると思うんだ。表現する方法の一つ、というか。……そうそう、前に読んだ本にさ、数を使って、人間の愛を表せる、ということが書かれていたんだけど、どんな数になると思う?」

「分からない」月夜は首を振る。

「それがね、黄金数になるらしいんだ」

 月夜は、黄金数に関するデータを脳内キャビネットから取り出す。たしか、長方形が最も綺麗に見えるときの、縦の長さを一とした場合の、横の長さの比のことだった、と彼女は思い出す。具体的な数字は覚えていなかった。忘れたのではない。もともとインプットしていないのだ。

「それが、どうかしたの?」月夜は、真昼の顔を見て、尋ねる。

「いや、別に、どうもしないけど……。面白いな、と思って」

「うん、面白い」

「綺麗も、beautifulも、黄金数も、すべて同じものを表わしている。言い方が違うだけで、示している対象は、ほとんど同じ、ということ。だからこそ、そんなに沢山の言葉があって、不思議だなあ、と思うんだ」

「私は、不思議だなあ、とは思わなかったけど」

「じゃあ、どう思ったの?」

「何も、思わなかった」

「それは、面白い、の内に入るの?」

「入る、と思いたい、のかもしれない」

「それは、なんでもそうだよ」

「その言葉は、面白いよ」

「そう?」

「うん」

「それは、よく分からないけど……」

「そうかな」月夜は言った。「でも、その言葉も、面白いよ」

 真昼には理解不能だったので、彼は一時的に彼女との会話を中断した。

 勉強が終わってしまえば、今日のメインイベントを達成したことになる。だから、月夜は、帰ろうかな、と思った。さっき、真昼と一緒にいれば楽しい、と言ったばかりなのに、その考えは明らかに矛盾している。彼女は、どちらかというと合理的な思考をする方だ。それは、真昼と比べるとそう、というだけかもしれないが、この空間には、月夜と真昼の二人しかいないから、それだけで良い。反対に、真昼は全然合理的な思考をしない。感情に従って動く男で、一般的なカップル像とは、二人の関係性は真反対だった(一般的とはどういう意味か、という質問は受けつけない)。

「もう、帰ってもいい?」合理的な思考をして、そうした方が良いだろう、という結論に至ったから、月夜はその通りに言葉を伝えた。

「え、どうして?」真昼が首を傾ける。

「もう、勉強が、終わったから」

「まあ、いいけど。何か、予定とか、あるの?」

「今日中に達成しなくてはいけない予定は、ない」

「じゃあ、もう少し、僕の家にいてよ。もしかして、遠慮しているの?」

「遠慮は、してないよ」

「じゃあ、どうして、帰る、なんて言うの?」面白そうな答えが返ってきそうな気がしたから、真昼は尋ねた。

「家に帰って、一人の時間を過ごした方が、利益が大きくなる、と判断したから」

「それ、言うと思ったよ」

「予想?」

「いや、推測、かな」

「経験則、ということ?」

「そうだよ。君は、そういうこと、けっこうな確率で言うから、ある程度は分かるんだ」

「けっこうな確率というのは、どれくらい?」

「少なく見積もっても、六割くらい、かな」

「なるほど」

「愛ってさ、自分を殺して、相手に尽くす行いだ、と僕は思うんだけど、どうやら、君の愛の定義とは、少し違っているみたいだね」

「尽くすだけでは、成立しない、と思うだけだよ」

「まあ、そうだね。どちらかというと、君は尽くすばかりで、僕だけが莫大な利益を得ているから、君にとっては、辛いのかもしれない」

「辛い、とは思わないから、平気」

「そう? なら、今日も、僕に尽くしてよ」

「分かった。何をする?」

「うーん、そうだな……。ああ、いや、別にさ、具体的に、これをしたい、というのはないんだ。ただ、一緒にいて、話しをしたり、笑ってくれたりしたら、それでいいんだよ」

「うん」

「それは、何に対する肯定?」

「話したり、笑ったりするよ、という意味の、肯定」

「そうなの? じゃあ、ちょっと、久し振りに、笑ってよ」

 真昼の注文を受けて、月夜は、何の躊躇いもなく、極めて自然な動作で笑った。

 真昼は、彼女の顔を見て、呆気に囚われる。

 こんなにも簡単に笑ってくれるなんて、彼は思ってもいなかった。

 そう……。

 女性が、男性に、こんなに簡単に笑顔を差し出して良いものか、と真昼は思う。

 しかし、その考えは、差別だと言われそうな気がしたから、彼は何も考えなかったことにした。

「じゃあ、何を話そうかな……」月夜の笑顔を見て動揺してしまった真昼は、腕を組んで、天井に視線を向ける。

「私は、なんでもいいよ」

「それを言われると、ますます困るんだよ。なんでもいいといっても、ある程度は、相手が期待している内容があるわけで、それを的確に選択できるか、と思うと、プレッシャーがかかってしまうから」

「本当に、なんでもいい」

「そう?」

「うん、そう」

「じゃあ、君は、将来は、何になりたいの?」

「何、というのは、何?」

「え、だからさ」真昼は笑った。「この場合、職業、でいいのかな」

「職業なら、専業主婦、だよ」

「専業主婦? それって……。……えっと、誰のもとで、専業主婦になるの?」

 真昼が尋ねると、月夜は、珍しく、彼から顔を背けて、頬を赤らめた。

「秘密」

 その言葉は、真昼には、秘密だ、とは聞こえなかった。
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