No.3 トルトリノス

羽上帆樽

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 僕の前からお姉ちゃんが消えたあと、両親は家から出ていった。どういうつもりかは分からない。ただ、僕は放置されたとは感じなかった。僕を家に置いて、自分たちの方が去ったのだし、毎月仕送りも送ってくれた。僕も一人で生活できるくらいにはなっていたから、特別不便ということもなかった。寂しさを感じなかったとは言い切れないが、もともと親密といえるほどの仲でもなかったし、ダメージは大きくはなかったと思う。

 お姉ちゃんがいなくなってから、僕はずっと続けていた勉強をやめて、絵を描くようになった。学問から芸術へシフトしたと言って良い。当時はそんなふうには感じていなかったが、今振り返ればそう分析できる。僕が描く絵には、決まって女性が登場した。具体的な姿は毎回微妙に違っていたが、僕の中では同じ人物で、自分よりも少し年上のイメージだった。外見だけでなく、その内面にも一貫した像を持っていた。優しくて、面倒見が良い。勉強ができて、運動もできた。

 絵を描く生活は長い間続いたが、あるとき僕は絵を描くのをやめた。それ以上は描けないと感じたからだ。挫折したのではなく、限界を感じたと言った方が近い。自分が求めているものは、絵という媒体では実現不可能だと感じたのだ。そして、僕は近くにある山から木材を取ってきて、人形を作るようになった。

 作る人形は初めは小さかったが、次第にどんどん大きくなっていった。ついには人間と同じくらいの大きさになり、それらが部屋の中を囲むようになった。部屋の床はいつも木屑で埋もれていて、換気をしないから埃も堆積している。それでも、僕は一日の長い時間をその部屋で過ごし、一人で人形を作り続けた。

 お姉ちゃんが消えてから、どのくらい経ったのだろう。部屋に籠もりっぱなしで、月日を数えるのを忘れていたから、正確なところは分からない。そんな僕の前に、ある日カロがやってきた。

 そういえば、例の魔法使いと知り合ったのは、それよりも前のことだった。お姉ちゃんが消えて、ちょうど僕が絵を描き始めた頃、彼はこの街にやって来た。僕の方から積極的にはたらきかけたわけではないが、やがて彼と顔を合わせることになった。初めて会ったとき、彼は自らを魔法使いと名乗った。

「やあやあ、なんとも腑抜けた顔」

 初めて会ったとき、彼は僕にそう言った。そのときは、僕はまだ背が低くて、彼に見下ろされている感じだった。

「それは、どうも」僕は家の前のポストを確認しながら返答する。彼の姿は以前見たことがあって、なんとなく知っていた。

「君は、ここに住んでいるの?」魔法使いが尋ねる。彼は僕をじっと見据えていたが、首から下はふにゃふにゃと変に動いていた。そういうふうに動いていないと落ち着かないみたいだ。

「ええ、そうですけど」僕は頷く。

「へえ、そう」彼は今度は首をぐるっと回して言った。どういうふうに回したのか分からなかったが、とにかく、回ったように思えた。「大変だね」

「何がですか?」

「親御さんがいないんだろう?」

「どうして、それを知っているんですか?」

「単なる推測さ」

「そうですか」

「いや、嘘。本当は、魔法ですべて見抜いてしまった」

「魔法?」

「そうそう。私は魔法使いなんだよ。凄いだろう?」

「何がですか?」

「こんなふうに、堂々と自己紹介ができるところが」

 そう言って、彼は一人でくくくと笑う。普通、笑うのは一人でしかできないので、僕としては別に構わなかった。

「何か用事ですか?」僕は質問した。

「いや、今のところ、火急の用事はないよ」魔法使いは足もとに視線を落とし、それから再び顔を上げて僕を見る。「ただ、君のことが心配で、声をかけたのさ」

「どういう意味ですか?」

「どういう意味だと思う?」そう言って、彼は顔をこちらに近づけてくる。僕は後退しなかったから、互いに距離が近くなった。

「さあ」僕は肩を竦める。

「まあ、いいさ」魔法使いはもとの位置に顔を戻す。「僕の家は、すぐそこだから、何かあれば、来るといい。紅茶の一杯や二杯くらい、ご馳走するよ」

 さらばと言って、魔法使いはその場を去った。

 お姉ちゃんが消えても、魔法使いが街にやって来ても、僕の生活は続いた。生きているのだから、毎日が続くのは当たり前だ。もし生きるのが嫌だと感じているのなら、生きるのをやめてしまっても良いのではないか。少なくとも、僕はそう考えるが、そのときの僕は死ぬ気にはならなかった。なんとなく、死んでも何の解決にも繋がらないのではないか、という気がしたからだ。かといって、何かを解決したいと思っているわけでもなかった。この点は考えてもよく分からない。考えても、考えなくても、生きている限り明日はやって来る。その連鎖が続いている限り、僕はまだ死んでいないということだけは明らかだ。

 そして、お姉ちゃんのことを知らなければならない、という思いもあった。

 なんとなく、僕はお姉ちゃんは死んだのではないと思っていた。思っていたというより、感じていたと言った方が近い。両親は彼女が死んだと理解しているみたいだったし、そう考えるのが普通だろう。しかし、僕の中にはある種の予感があった。予兆ともいえるかもしれない。けれど、それが何に起因するものなのかは分からなかった。とにかく、お姉ちゃんのためにも、僕はもう少し生きていなければならないと感じたのだ。

 同じ頃、この星の環境が大きく変化し始めているという報道が盛んになった。大衆に向けられたメディアは、存続のためにトピックを偽造するから、大抵の場合、そこからもたらされる情報は当てにならない。しかし、そのときは、世界的に同じトピックが取り上げられていたし、何より肌身でその変化が感じられたから、事実として受け入れるしかなかった。

 要約すれば、何らかの要因で、世界的に植物の量が減少しているとのことだった。僕が住んでいる地域には、周囲に山があるから、その変化は実感として分かった。たしかに、遠目に見ても葉の数が減っていたし、人形を作るための木材を取るために山の中に入ってみると、なんとなく、これまでとは違う感じがした。土地の表面積は変わらないのに、そこに生えている木々が減ってしまって、自然が変にシンプルになっている。人工的に都市を形成するとき、コンクリートやアスファルトで地面を覆うが、それに近い感じがした。

 世界的には、深刻な被害が生じている場所もあるようだったが、幸いなことに、僕の周囲では、それほど大きなダメージはなかった。人形を作るための木材がなくなってしまうこともなかったし、植物の生え替わりも一応は続いているように見受けられた。ただ、なんとなく、健康でない感じがするのは確かだった。色で言えば、茶色、あるいは、灰色のイメージだ。

 静かな日々が過ぎた。家には僕以外誰もいなくて、毎日木を削り、それを組み立てて人形を作る。

 毎日同じことをしている内に、段々と、自分が何をしているのか分からなくなった。なぜ人形を作るのか。なぜ木を採りに行くのか。そして、なぜ生きているのか……。分からなくなったというより、分かる必要もないと感じたと言った方が近いかもしれない。そんなことが分からなくても、僕は存在していて、毎日を生きることができると気づいたのだ。世間で言われているような、経済のこと、政治のこと、将来のことなどは、僕とは完全に無縁だったし、そんなことを気にしなくても、一人で静かな毎日を送ることができると分かった。それは、僕が社会から疎外され、人間でなくなってしまったということを意味するのではない。僕は僕の周囲に存在する「環境」の一部として、その中で色々なことを考えている。「社会」よりスケールが小さいために、色々なことが考えやすくなった。考えを巡らせる範囲を人類全体に据える必要などないということが分かったのだ。

 そのことを、お姉ちゃんはとっくに分かっていただろうと、あるとき僕は理解した。けれど、そのうえで、お姉ちゃんはスケールを、社会、いや、この星そのものに据えたのだ。

 お姉ちゃんは植物学者だった。

 形式上は高校生だったが、本質として、彼女は研究者だったのだ。

 きっと、ずっと前から、植物に生じる変化を分かっていた。

 この星の植物のために仮想空間で実験を行い、そして、失敗した。
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