No.3 トルトリノス

羽上帆樽

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 窓の外は快晴だった。僕は室内に籠もっている。暑いのは嫌いだが、寒いのも嫌いだから、冷房も扇風機も点けていない。時折窓の隙間から入ってくる風が心地良かった。暑いのに身体は汗を掻いていない。その機能を忘れてしまったようだ。机の上に団扇が置いてあったが、扇ぐのに疲れてもう使っていなかった。

 団扇のほかに、机の上には、参考書とノートが散乱している。どの参考書を見ながら問題を解いているのか、分からなくなりつつあった。思考は散漫としている。無意識の内に数式の中に英単語を放り込んでしまったりして、可笑しくて一人で笑ったりする。社会と理科は嫌いだから勉強していない。語学や数学に比べれば、それらはやや不純に見える。

 レースのカーテンを引いて少し暗い部屋の中に、細い光が差し込まれた。部屋のドアが開かれたことに気づいて、僕はそちらを向く。

 高校の制服を身に纏ったお姉ちゃんの姿が、ぼんやりとした光に包まれて浮かんでいた。空中に浮かぶ埃が、光の加減でちかちかと点滅する。お姉ちゃんは最初無表情だったが、堪えきれなくなったのか、途中からくすくすと笑い出した。

「何?」僕はぶっきらぼうな声で尋ねる。意図してぶっきらぼうな声を出したのではない。今日初めて声を出したから、まだ喉の調子がいまいち良くなかったのだ。

「いやあ、頑張っているなと思って」

「何が?」

「感心感心」お姉ちゃんは何度か頷く。「その調子で頑張り給え」

 それだけ言って、お姉ちゃんは部屋を出て行こうとする。ドアの隙間が小さくなるのがスローモーションのように見えた。僕は立ち上がってドアの把手を握る。それをこちら側に引っ張ると、ドアの先に少し驚いたような顔をしたお姉ちゃんの姿があった。

「何?」お姉ちゃんは首を傾げる。

「どこに行くの?」僕は尋ねた。ずっとしようと思っていた質問だった。

「自分の部屋だけど」

 僕は意識的に天井に目を向ける。小学生の僕にとっては、お姉ちゃんも、天井も、そして、その先にあるはずの空も、遙かに遠い位置にあるように思えた。

「そうじゃなくて、高校を卒業したあと」

「別に」お姉ちゃんは僕を見据えたまま首を振る。「どこにも行かないよ」

「ここから遠いの?」

 そこで、お姉ちゃんは腰を屈めて、僕に視線を合わせた。それは彼女が僕の前でよくする動作だったが、子ども扱いされているようで、僕は少し嫌いだった。でも、お姉ちゃんの綺麗な目は好きだったから、それを近くで見られるのは嬉しかった。

「お母さんに聞いたの?」お姉ちゃんがきいた。

 僕は頷く。

「そう」彼女は笑った。「大丈夫。すぐに帰ってくるから」

「嘘」

「嘘じゃないって。お姉ちゃんが嘘を吐いたこと、ある?」

 僕は過去のことを思い浮かべる。明確に騙されたことはないように思えたが、小さな嘘ならいくらでも吐かれたことがあるような気がした。祖父母から貰ったケーキの存在を知らせないで、僕の分まで食べてしまったことや、僕が大切にしていた本を勝手に持ち出して、ページを破った癖に、初めから破れていたと言ったこと……。

「大丈夫、大丈夫」そう言って、お姉ちゃんは僕に身体を傾ける。僕は抵抗しなかったから、僕の身体とお姉ちゃんの身体が接触した。体温が伝播する。僕も彼女を抱き締めたかったが、変なプライドが邪魔をしてできなかった。

「帰ってこなかったら、どうする?」僕は尋ねる。

「帰ってくるから」

「帰ってこなかったときのことを、約束して」

「帰ってくるって」

 僕は黙ってしまう。臆したわけではなかった。ただ、これ以上問うのは気が引けた。

 お姉ちゃんは僕から身体を離して、またもとのように立ち上がった。空気が移動するのが分かる。

 自分の部屋の前まで行って、彼女は立ち止まった。

「そうだ。ガスコンロの電池、変えておいてよ」お姉ちゃんは僕を見て話す。「さっき、料理しようとしたとき、あと少ししか残っていなかった。もう少しでなくなるはず」

 僕は頷く。 

 隣の部屋のドアが閉まった。

 耳を澄ませると、室内からお姉ちゃんの鼻歌が聞こえてくる。

 僕も自分の部屋に戻った。机の前の椅子に座って、ペンを握ったが、勉強する気にはなれなかった。自分はどうして勉強なんてしていたのだろうという疑問と、お姉ちゃんに追いつきたかったからだろうという回答が、同時に生じた。そして、それを客観視している自分も見える。可笑しくて、人で笑いを零した。こんなふうにしていると、お姉ちゃんとそっくりだと思う。彼女と話したことで、少しだけ何かが変わったように思えた。


 物音が聞こえて、布団の中で目を覚ました。かけ布団に覆われているせいで、天井が見えない。起きたばかりで言うことを聞かない足を動かして、ドアがある方へ向かった。把手を捻ってこちら側に引く。

 ドアの外にお姉ちゃんが立っていた。僕の姿を見て、彼女は一瞬目を丸くする。

「どうしたの?」お姉ちゃんが尋ねた。

「どこに行くの?」僕は尋ね返す。

 お姉ちゃんは、いつもの制服姿ではなく、別の服装だった。もう高校生ではなくなったのだ。白地に青い線の入ったシンプルな服を着て、大きなリュックを背負っていた。周囲が薄暗いせいで、それ以外の様子は分からない。ただ、大きな目がこちらを見ているのは分かった。

 暫く僕を見つめ、一度目を逸らしてから、彼女はもう一度僕を見る。

「しなくちゃいけないことがある」お姉ちゃんは言った。「そのために、暫く家を空ける」

 お姉ちゃんが正直に答えたことに、僕は多少戸惑った。いつもの調子で誤魔化すと思ったからだ。今の言葉さえ嘘の可能性もあるが、彼女にそれほどの演技ができるとは思えなかったし、その大きな目で見つめられていると、正面から疑うことができなかった。

 僕は何かを言おうとして口を開く。けれど、僕が声を出すよりも先に、お姉ちゃんが僕を抱き締めた。

 互いに立ったままだったから、背の低い僕は、抱き締められるというより、抱えられるような感じになった。上から体重がかかるが、苦痛ではない。むしろ少し安心した。

「ちゃんと帰ってくるから」お姉ちゃんは言った。「その間、お父さんとお母さんをよろしく」

「何もできないよ」僕は答える。

「ここにいるだけでいい」

「どうして、僕には何も教えてくれないの?」

 僕が尋ねると、お姉ちゃんは数秒ほど黙った。胸の中で数えて、だいたい八秒くらい経過した。

「今、教える必要はないから」

「どういうこと?」

「すぐに分かる」

 お姉ちゃんが抱き締める力を強めたせいで、僕は何も言えなくなった。少しだけ苦しさが増す。

「もしも、帰られそうになかったら、助けてくれる?」お姉ちゃんが言った。

「どういう意味?」動かしにくい首を上に向けて、僕は尋ねる。

「たとえばの話。もしもの約束」

 僕は沈黙する。お姉ちゃんの鼓動が聞こえた。

「どうやって?」僕は質問する。

 お姉ちゃんは答えない。だから、僕の答えは必然的に一つに決まってしまった。

「分かった」僕は答える。

「ありがとう」

 僕を離して、お姉ちゃんは階段を下りていく。階下から母親と話す声が聞こえた。他愛もない会話で、いつものように学校に行く前みたいな感じだった。

 僕は自分が寒さを感じていることを認識する。息が白い。もう春といって良い季節だが、まだ寒い。新学期が始まるというよりも、卒業式のイメージの方がずっと強かった。


 階下で物音がした。声も聞こえる。机に向かっていた僕は顔を上げ、窓の外を見た。雨が降っているのが分かったが、そんなことを確認しようとしたわけではない。階段を駆け上がる音が聞こえて、部屋のドアがノックもなしに開かれた。母親が姿を見せる。何を言われているのか分からないまま、気づくと僕は彼女に手を引かれていた。

 玄関の外に連れ出され、車に乗せられる。運転席には父親の姿があった。彼はハンドルを握ったままこちらを振り返り、僕と母親が乗ったことを確認すると、アクセルを踏んで車を発進させた。

 車内では、父親も、母親も、一言も口を利かなかった。だから僕も何も話さなかった。雨は徐々に強くなり、窓を伝って次々と横に流れていく。そうして外をぼんやりと眺めていると、潜水艦にでも乗っているような感覚になった。窓を打つ水の音がノイズになって、いつの間にか僕は眠ってしまった。

 どれくらい眠っていたのか分からない。気づくと、僕は母親におぶられていた。雨はもう止んでいる。父親が隣を歩いていた。起きたかと母親に尋ねられて、僕は頷く。彼女の背中はお姉ちゃんのそれとよく似ていた。

 そうだ、お姉ちゃん。

 今、どこにいるのだろう?

 暫くの間歩いて、やがて両親は白い大きな建物の前で立ち止まった。母親はそこで僕を下ろす。彼女に手を繋がれて、僕はその建物の中に入っていった。

 室内は薄暗く、奇妙な匂いがした。人工的な匂いだったと思う。もっと有機的な匂いを偽装するために、そうした匂いを意図的に作り出しているように思えた。床はつるつるしていて、酷く歩きにくかった。

 そのあとのことは、よく覚えていない。

 覚えているのは、ベッドのような簡易な台の上に置かれた、人の腕。

 指。

 母親は泣き崩れ、父親は黙っていた。

 僕は、どうしたのだろう?

 泣いただろうか?

 子どもの純粋な理解力で、何かを分かろうとしたかもしれない。

 悲しくはなかった。

 ただ、僕は、そのとき、呼ばれている、と感じた。
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