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第6章 ポストに投函する作業
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三日が経った。
クレイルの想定では、上手くいけば今日で作業が終わるはずだったが、長引いてしまい、さらに二日をかけることになった。もともと一週間の契約なので、期間を延長したことにはならない。
僕もクレイルも執筆には慣れて、一定のペースを保てるようになった。万年筆を使って執筆するのは相変わらず疲れるが、文字を丁寧に書けるようになった。クレイルの話す速度と、僕の手を動かす速度は上手く合うようになり、特にストレスなく作業を進めることができた。
子どもたち二人とリィルの関係も良好のようだ。二人はリィルを信頼したらしく、毎日三人で遊んでいた。外に出かけることもあれば、室内で絵を描いたりすることもある。ココは、最近本を読むようになったらしく、リィルとその手の話題で盛り上がっていた。ヴィは外で身体を動かすのが好きなようで、運動能力に長けたリィルに追いつくのに、必死になって走り回っていた。
午後を迎え、応接室で僕はクレイルと向かい合っている。
羊皮紙に付着したインクは、文字の形を成しているものの、僕にはその意味は伝達されない。文や言葉の内容を意識の外に排除するのにも、僕はもう大分慣れていた。本当はあまり良いことではないが、作業を効率的に進めるためには仕方がない。
僕とクレイルの間には、本来なら何の関係もない。この仕事を受ける前は互いのことは知らなかったし、この仕事が終われば、きっと何の接点もなくなる。一週間という限られた期間の中で、偶然成立した脆弱な関係といえる。だからといってその関係を軽視して良いわけではないが、彼女の境遇に感情移入してばかりで、こちらの役目を果たせなくては意味がない。それが、僕が上述したような処置をとった理由だ。やるべきことを達成するためには、ほかのことを犠牲にする必要がある。
「大丈夫ですか?」
手紙を書いている途中で、クレイルが僕に尋ねてきた。
「ええ、大丈夫です」顔を上げ、僕は頷く。「どうぞ、続けて下さい」
クレイルはにっこりと笑い、遺書に残すべきことを再び話し始める。
考えてみれば、とても奇妙な作業だった。本来なら一人でやることを、わざわざ二人で分担して、それぞれが別々の役割を担っている。分担しても、必ずしも効率が上がるわけではない。その反対の場合もありえる。
人間が一人でできることには限りがある。だから、様々な組織で、様々な役割が生み出されてきた。その典型例が家族だろう。夫婦の間では、外部に働きに出かける者と、内部で家事を行う者で、作業の内容が分けられている。それは必要だからそうしたのであり、したがって、どちらも欠けてはならない。どちらも欠けてはならないのなら、どちらの立場も対等でなくてはならない。一方が欠ければもう一方は困る。
しかしながら、これまでの歴史の中で、両者の間に格差があったことは疑いようのない事実だ。下品な表現をしてしまえば、一方は偉く、もう一方はそうではないと考えられていた。そして、その考え方が正しいという風潮が、随分と長い間続いた。最近になってようやく緩和されるようになってきたが、それでも、そうした考えが無意識の内に意識されている場面も、まだまだ沢山認められる。
結局のところ、人間も動物に変わりはないのだ。
そうした分担は、自然界に生きる動物のそれを起源としている。
それなら、人間らしさとは、そうした分担を放棄することのはずだ。
では……。
人間ではない僕たちには、それ以上にどんなことができるだろう?
くだらないことを考えている内に時間は過ぎ、今日の分の作業は終わった。クレイルに内容を確認してもらい、今日書いた分を昨日の分と合流させる。
リビングに戻ると、まだ三人の姿は見つからなかった。僕は玄関に向かい、家の外に出る。クレイルはリビングでお茶の用意をしていた。
ずっと向こうまで草原が続いている。家の前から伸びた一本道が、森の中に至って消えている。今日は強い風が拭いていて、春の訪れを少しだけ感じさせた。空は晴れているが、雲が多い。密度を持たないような、季節相応の薄い雲だった。
僕は、傍に立つ柱型の照明に寄りかかる。
自然と深い溜息が出た。
疲れているわけではない。
どちらかというと、安心や、安堵によく似た感情が、僕の胸中を支配している。
この場所にいると、とても落ち着く。この場所というのは、この玄関の前のスペースではなく、この辺り一帯という意味だ。
十分くらいした頃、リィルが二人と手を繋いで戻ってきた。
ココとヴィは燥いでいるわけではなかったが、比較的自然な表情をしていた。
「ただいま」リィルが言った。
僕は頷く。
一緒に室内に戻る。リィルと二人は洗面所で手を洗い、それぞれリビングの所定の席に着いた。
クレイルが淹れてくれた紅茶を飲みながら、僕たちは全員でお茶をした。彼女が焼いたクッキーもあって、如何にもこの家にぴったりな感じだった。もっとも、リィルだけは何も口にしていない。しかし、そんな光景も大分この空間に溶け込んでいて、彼女だけが浮いているという感じはしなかった。
お茶が終わると、僕とリィルは一緒に自室に戻った。僕はベッドに腰を下ろす。この部屋には、デスクとセットになった椅子が一つしかないから、僕は基本的にベッドに座ることが多い。
リィルは、部屋にある唯一の椅子を窓際に運んで、そこに腰かけた。
「今日は、どうだった?」
ほかに何も思いつかなかったから、僕はどうでも良いことを質問した。
「うん、まあ……」窓の外を見ながらリィルは答える。「普通だったかな……」
ベッドに座ったまま、僕はリィルの姿を観察した。彼女は椅子を壁に並行になるように配置し、そのまま正面に身体を向けている。首を九十度捻り、窓の外をぼうっと眺めていた。本当は、そんな正確な数値ではないはずだが、どういうわけか、僕にはそんなふうに見えてしまった。
リビングでは、ココやヴィと楽しそうに話していたリィルだったが、部屋に戻ってくるなり、意気消沈したように口数が少なくなった。もっとも、楽しそうにといっても、彼女の本領の百パーセントが発揮されていたわけではない。どちらかというと、リィルは感情の起伏に激しい方だ。まあ、比較対象は僕くらいしかいないから、僕以上にはという意味だが……。
「何かあったの?」
彼女が何も話さないから、僕はさらに彼女に尋ねた。
「え?」リィルはこちらを向く。「何がって、何?」
「何か、考え事をしているみたいだったから、訊いてみただけだよ」
僕がそう言うと、リィルは再び窓の向こうに目を向けた。
リィルの場合、考え事をしていると、ほかの挙動が鈍くなる傾向がある。考えるときは脳に送るエネルギーの配分を多くし、ほかの器官の動きを抑制することで、負荷がかからないようにしているようだ。僕もそのタイプに近いが、完全に動きが停止することはない。リィルは、天井に目をやったり、そのまま固まったりするから、考え事をしているときはすぐに分かる。
「たしかに、考えていることはあるけど、まだ確証はないから、黙っておく」暫くの沈黙のあと、リィルは言った。「何でもないことだったら、余計な心配をかけるだけだから……」
「それは、そんなに重要なではない、ということ?」
「現段階では、そう」
「じゃあ、後々重要になる可能性があるってことだね?」
僕が尋ねると、リィルはゆっくりと頷いた。
昨日のリィルには、このような状態は見られなかったから、今日になって起きた変化、あるいは、今日になって彼女が気づいた事柄によって、このような状態が引き起こされたと考えられる。つまり、僕がクレイルと作業をしている間に、リィルの身辺で特異な事象が発生したか、もしくは、かつて発生した事象を、今日になって彼女が認識したことになる。
「分かった。でも、何かあったら、教えてね」
リィルは向こうを向いたまま頷く。
ベッドの上で横になって、僕は瞼を閉じた。疲労は感じていなかったが、少し休んでおこうと思った。最初から七日間の作業を想定していたから、五日で終わるはずのものが終わらなくても、気力が保たないということはない。ただ、これからラストスパートを迎えるわけだから、意識的に休息をとって、余裕を持って事に当たれるようにしようと考えた。
一端頭をリセットして、何も考えないように努力する。それから、自然と思い浮かぶ事柄について、思いつくままに考えてみる。
リィルは、基本的に、どんな些細なことでも、深く考えようとすれば深く考えられる。自分の生活に直接関わらないことや、私生活で意識しないことについて、多くの人間はあまり考えたがらない。哲学とか、宗教とか、そういうものが例として挙げられるが、そうしたものと日常的に関わりのない者は、話を振られても多少意見を述べる程度で、真剣に議論に参加するのを拒む傾向がある。けれど、リィルは違った。僕が話を振れば、大抵の場合それについて真剣に考えようとする。それが自分とは距離のあることであっても、一度思考を集中させて、何らかの結論を出そうと努力する。どちらかというと、僕もそうだ。だから僕と彼女は気が合ったのかもしれない。
リィルが今考えていることは、どんなことだろう、と僕は想像する。事の程度は分からないが、少なくとも、国や世界を範囲に含めたものではないはずだ。ココやヴィ、それからクレイルといった、ごく僅かな人間で構成された社会に関する問題の可能性が高い。あるいは、僕と彼女の関係に直接関わりのある問題の可能性もある。いずれにせよ、小さな社会の中で生じた問題について、彼女は思考を巡らせているのだ。
現段階では重要ではない、という言い方も気になった。それは、先ほども言ったように、後々重要になる可能性もあるということだ。
まあ、リィルが一人で考えている内は、僕がいくら尋ねても、彼女は答えてくれないだろう。
だから、この問題については、一端保留することにした。
そう決めたのだが……。
「ちょっと、外に行こう」
リィルの声が聞こえたから、僕は瞼を持ち上げた。見ると、すぐ傍に彼女の顔があった。
僕は身体を起こす。
「え?」
「散歩、しようよ」
「まあ、いいけど……」僕は彼女の顔を見つめる。「散歩って、どこへ?」
「どこでも。とりあえず、外に出たい」
「もう、暗くなるけど、いいの?」
「君は?」
「僕は、大丈夫」
「じゃあ、行こう」
日が落ちると一気に寒くなるから、僕はジャケットを羽織った。リィルもコートに身を包む。階段を下りて、リビングにいるクレイルに外に出る旨を伝えると、彼女は了承してくれた。ただし、夕飯の時間までには戻ってくるように、と言われた。まるで子どもを諭すような言葉だったが、今までそんな言葉をかけられたことはなかったから、僕はなんだか嬉しくなった。クレイルとしては、ココやヴィと一緒に食事をとってもらいたいのだろう。調理の分割や、食事の保存など、作業量が増えるのが嫌だというのもあるかもしれないが、それ以上に、子どもたちとのコミュニケーションを望んでいるのだと思われる。
靴を履いて玄関のドアを開けると、強い風が吹きつけてきた。空は大分曇っている。雨が降りそうな感じではなかったが、空気は冷たかった。
家の正面から続く一本道を、僕はリィルと一緒に歩き始める。ほんの数時間前にここに立っていたことを思い出して、そのときと情景が変化していることに、僕は多少戸惑った。都会に比べて、環境の影響を強く受けるこの辺りでは、変化の度合いが大きいようだ。
暫くの間、リィルは何も話さなかった。ただ、表情はいつもより険しかった。やはり、考えていることがあって、それを僕に聞かせたいのだ。いや、聞かせたいとは思っていないかもしれないが、端的にいえば、傍にいる誰かと情報を共有したい、という感情だろう。明確な結論が出なくても、近くにいる誰かと意見を交換し合うだけで、不思議と安心できる。一人で電車に乗っているより、知らない人間でも誰かがいた方が落ち着くのと同じだ。
「今日は、何をして遊んだの?」
緊張を解す意味も込めて、僕はリィルに質問した。
「え?」少し応答に遅れたが、彼女は答えた。「ああ、うん……。えっと、今日は、お飯事をした」
「え、お飯事?」僕は訊き返す。
「うん……。私が母親役で、ココとヴィが、子ども役」
「へえ……。うん、まあ、配役としては、適切だと思う」
「うん」
「え?」
沈黙。
足もとはよく見えない。懐中電灯を持ってくるべきだった、と僕は後悔した。ココから受け取ったそれは、実際にはほとんど使っていない。夜に目を覚ましてトイレに行くことは、僕の場合あまりないからだ。
「私、一瞬だけ、自分が母親役をやることに、躊躇したんだ」リィルは説明した。「彼女たちの、本当の母親が病気のときに、そんなことをしていいのかって……。まるで、二人がクレイルの代わりになる誰かを求めているような気がして……」
「母親と別れるのが、寂しいということ?」
リィルは黙って頷く。
「それはそうだよ。きっと、そういう気持ちもあったんだろう」
そこで、リィルは首を振った。
僕は彼女を見る。
「何? どういうこと?」
僕が尋ねても、彼女はこちらを見なかった。
「二人は、母親がいなくなると知っていても、全然寂しそうなんかじゃなかった」リィルは話した。「いや、えっと……、クレイルは、まだ二人には話していないんだろうけど、でも、あの二人は、そういうことが実際に起こっているのを、なんとなく理解している。でも……。それでも、寂しそうにはしていない。たしかに、私達が来たことで、それまでよりは母親と接する機会は少なくなったけど、それがすぐに終わるって、分かっている。私達がいなくなれば、また、いつも通りの生活に戻れるから、大丈夫だって……」
「ごめん。もう少し、分かりやすく説明してほしい。いや、その……、僕の理解力が足りないんだと思う。察する能力が、僕にはないから……。でも、なんだか、今のままじゃ、話がぼやけているよ」
リィルはこちらを向いた。
「そう、ぼやけているの」彼女は頷く。「私達と、彼女たちが見ているものは、たぶん違う。そう……。何かがずれている。ぼやけている。そんな感じがする」
僕は立ち止まった。
リィルも歩くのをやめる。
「……どういう意味?」
リィルはこちらを振り返り、僕の顔をじっと見つめた。
瞳は定まっている。
彼女は僕を捉えている。
僕は、彼女に捉えられている。
彼女の瞳の向こう側に何か見えないか、模索してみたが、駄目だった。
やはり、リィルは何かに気づいたのだ。
しかし、それを隠している。
言いたくないのかもしれない。
「君が言いたいことは分かった。つまり、僕と君が事実だと思っているものが、本当はそうではない、ということだね?」
リィルは目を逸らす。
「うん……。そう、かな……」
僕は息を吐いた。自然な欲求と、意識的な動作が、混ざった仕草だった。
「まだ言いたいことがあるなら、僕は聞く。それが、現状に変化を齎すものだとしても、知らないよりは、知っておいた方がいい」
沈黙が降りる。
一度視線を泳がせて、リィルは再び歩き始めた。このまま進めば森の中に入ることになる。
僕も彼女のあとについて歩き始めた。
左右に広がる草原には、相変わらず生き物の気配がない。葉は枯れているわけではないが、黄色がかった色彩をしている。空はいつの間にか真っ暗になり、雲が晴れて月が視界の端に見えた。その月明かりに照らされて、草原は金色に輝いている。神秘的な光景だったが、どこか人工的なものを感じさせた。作りものめいた美しさが、僕たちの周囲を取り囲んでいる。
森に足を踏み入れる。
真っ暗で、不気味だったが、怖くはなかった。
「私、ココの身体に触れたの」
リィルが突然言った。
彼女の声は掠れている。
「彼女の身体、熱かった」
足もとに転がっていた枯れ枝が、靴のつま先に当たって転がっていく。軽い音を立てて、枝は闇の中に消えていった。
「どういうこと?」
彼女の隣に並んで歩こうと思ったが、僕は今の距離を保った。彼女の手を握りたい衝動に駆られたが、それも我慢した。
「凄く、熱かった」リィルは話す。「まるで、風邪を引いているみたいに」
僕は考える。
その瞬間、僕は彼女の言葉の意味を理解した。
リィルも、それで僕が理解したと、理解しただろう。
リィルは立ち止まり、また僕の方を振り返る。明らかに挙動不審だった。きっと、考えながら無理矢理手足を動かしているせいだ。演算処理にエネルギーを多く割いているせいで、身体機能の制御が追いついていない。
「……どうしたらいいかな」
僕は顔を下に向けて考える。そこで、まず、自分のミスに気がついた。次に、そのミスによって見落としていた事実を確認するために、どうしたら良いのかを考える。解決する方法は簡単で、いくつも候補が見つかったが、その内のどれを選ぶべきかすぐには決められなかった。ただ、今すぐに決める必要はない。むしろ、今までそのミスを看過していたことが、最大の損失だと分かった。それさえなければ、もっと早い段階で対策を講じられていた。
リィルから聞いた話と、自分が犯したミスを考慮に入れて、どのような状況が成立するかパターンを絞り込む。ただし、この作業は難しい。すぐには解決できない。想定される事態はいくつもあり、それぞれの起点からさらにいくつもの事態に分岐している。その内のいくつかは根拠がなくても除外できるが、可能性がないとは言い切れないから、今すぐには除外できない。
「分かった」僕は頷いた。「もう少し、待とう」
「でも……」リィルは声を上げる。
「もちろん、僕たちが関わっていい問題なのか、分からない。でも……。……君は、それを放置したくない。放置したくないから、僕に言ったんだろう?」
リィルは小さく頷く。
「それなら……。まずは、何が正しいのかを、見極めなくてはならない」
数秒間を要したが、リィルはまた小さく頷いた。
僕とリィルは踵を返し、もと来た道を戻った。その間、二人とも何も話さなかった。
おそらく、リィルはマイナスの方向に事態を捉えている。しかし僕は違った。プラスではないにせよ、マイナスには振り切れない、そんな微妙なバランスを想定している。リィルはココとヴィと長い時間を共有しているが、クレイルのことはあまり知らない。そして、僕はその反対だ。ココとヴィと共有した時間よりも、クレイルと共有した時間の方が長い。
行動力という観点から考えた場合、より高いレベルに立つのはクレイルだ。ココとヴィはまだ子どもだし、いってしまえば、母親に保護してもらって生活している。どんな家庭にもいえることだが、子どもの行動方針を定めるのは、子ども自身ではなく、親だ。この家庭にも同じことがいえるとは限らないが、僕が見てきた限り、その点についてはあまり差異はないように思える。
道を進み、暗闇に淡い光を放つ邸宅に戻ってきた。玄関のドアを開けて中に入る。
リビングでは、クレイルが夕飯の支度をしていた。その隣でヴィが彼女の作業を手伝っている。一方で、ココはというと、テーブルの席に着いて本を読んでいた。リビングは半分だけ照明が灯されていて、今はシンクの辺りだけが明るくなっている。
僕とリィルが帰ってきたのに気づいて、三人ともこちらを向いた。クレイルはにこにこ笑っている。ヴィは、笑顔を引っ込めて急に大人しそうな表情になり、もともと落ち着いて本を読んでいたココは、おかえりなさい、と静かな声で僕たちに言った。
リビングの壁にかけられている時計は、午後七時を示している。まだ時間があった。リィルと相談して、今日は僕が先に風呂に入ることになった。ココもヴィもまだ入っていないから、今日は僕が一番風呂だった。
湯船に浸かりながら、僕は溜息を吐く。
疲労とは、不思議なものだ。外に出る前は、それなりに活発に行動できていたのに、リィルと少し話しただけで、どっと疲れを感じるようになった。身体が重くなり、歩きたくなくなった。身体的な疲労とは、筋肉に乳酸が溜まることで引き起こされるが、この短い間にそんなことが起こったとは考えにくい。精神的なダメージが、身体的な機能不全として表れたのだ。
肉体と、精神では、どちらが上位だろう?
SFなどの作品で、精神だけを肉体から乖離させて、ヴァーチャル空間で生活するといったギミックが登場することがあるが、本当にそんなことができるのか、僕はいつも疑問に思う。結局のところ、精神や心と呼ばれるものは、脳のはたらきによって生み出される。つまり、物質ではない。脳によって作り出された幻想にすぎない。その幻想だけを取り出して、仮想的に作られた世界に放つことが、果たして本当にできるのだろうか。
電子空間で脳内のはたらきを再現すれば、あるいは可能かもしれない。しかし、肉体と精神を分離させた存在が、人間と呼べるのかも疑問に感じる。人間をやめれば良い話だが、そんなことを受け入れられる人間は、まだこの時代にも少数しかいない。
精神だけを取り出して、ヴァーチャル空間で生活するという発想には、肉体ではなく、精神こそが人間の本質だ、という前提が根底に存在している。肉体と精神では、精神の方が上位だということだ。たしかに、その認識は間違えてはいない。人間には自分で決めて行動する自由があり、自分を殺して他者に尽くす愛があり、そして、自分に適切な意味を与える信念がある。それらを可能にしているのは、すべて精神のはたらきによるものだ。
けれど……。
もしそうだとしたら、人間が人を見た目で判断するのは、御法度にならなくてはならない。精神が何よりも重要なのだから、第一印象がどうとか、一目惚れだとか、そんなことはおかしいと考えられなくてはならない。
僕は、リィルに出会ったとき、彼女を綺麗だと思った。
それは、彼女の精神が綺麗だという意味ではない。
彼女の外見、つまり肉体の比率が、整っていると感じたのだ。
ウッドクロックは、人間をモデルに作られているから、当然、人間の理念を受け継いでいる。
僕は、見た目でリィルを判断した。
今、リィルが自分にとって最適な性格をしているように思えるのも、彼女の肉体から連想された、一種の幻想かもしれない。
それは反論できない。
では……。
思考は、自然と、ココとヴィの二人に向けられる。
彼女たちは、クレイルのことをどのように捉えているだろう? 子どもが母親を認識するのは、やはり視覚的な情報が第一であり、彼女の心的な優しさや、子どもを大切にする気持ちからではない。生まれたときに、初めて顔を合せ、初めてコミュニケーションをとった個体を、自然と母親だと認識するようになる。
コミュニケーション……。
人間にとって、最も身近なコミュニケーションは会話だ。口を動かして声を発するだけで、簡単に相手に自分の思いを伝えることができる。それは瞬間的なもので、少しでも時間が経過すればすぐに効果は失われる。
では、本当に伝えたい気持ちを、一度整理して、丁寧に伝えたいとき、あるいは、どうしてか分からない、けれど会話では伝えられない気持ちを伝えたいとき、人間はどのような手段を用いてコミュニケーションをとろうとするだろう?
浴室のドアがノックされる。
「大丈夫?」
リィルの声が聞こえて、僕は無意識の内に閉じていた目を開けた。
「ごめん、今、溺れているところなんだ」
「大丈夫なんだね」リィルは、僕の冗談を無視した。「もう、先に、ご飯食べているから」
そう言うなり、彼女の足音は遠ざかっていく。
身体に付着した水分を自然落下させて立ち上がり、一度大きく伸びをする。
浴槽から出て、精神をリセットするように、僕は自分の身体を洗い始めた。
クレイルの想定では、上手くいけば今日で作業が終わるはずだったが、長引いてしまい、さらに二日をかけることになった。もともと一週間の契約なので、期間を延長したことにはならない。
僕もクレイルも執筆には慣れて、一定のペースを保てるようになった。万年筆を使って執筆するのは相変わらず疲れるが、文字を丁寧に書けるようになった。クレイルの話す速度と、僕の手を動かす速度は上手く合うようになり、特にストレスなく作業を進めることができた。
子どもたち二人とリィルの関係も良好のようだ。二人はリィルを信頼したらしく、毎日三人で遊んでいた。外に出かけることもあれば、室内で絵を描いたりすることもある。ココは、最近本を読むようになったらしく、リィルとその手の話題で盛り上がっていた。ヴィは外で身体を動かすのが好きなようで、運動能力に長けたリィルに追いつくのに、必死になって走り回っていた。
午後を迎え、応接室で僕はクレイルと向かい合っている。
羊皮紙に付着したインクは、文字の形を成しているものの、僕にはその意味は伝達されない。文や言葉の内容を意識の外に排除するのにも、僕はもう大分慣れていた。本当はあまり良いことではないが、作業を効率的に進めるためには仕方がない。
僕とクレイルの間には、本来なら何の関係もない。この仕事を受ける前は互いのことは知らなかったし、この仕事が終われば、きっと何の接点もなくなる。一週間という限られた期間の中で、偶然成立した脆弱な関係といえる。だからといってその関係を軽視して良いわけではないが、彼女の境遇に感情移入してばかりで、こちらの役目を果たせなくては意味がない。それが、僕が上述したような処置をとった理由だ。やるべきことを達成するためには、ほかのことを犠牲にする必要がある。
「大丈夫ですか?」
手紙を書いている途中で、クレイルが僕に尋ねてきた。
「ええ、大丈夫です」顔を上げ、僕は頷く。「どうぞ、続けて下さい」
クレイルはにっこりと笑い、遺書に残すべきことを再び話し始める。
考えてみれば、とても奇妙な作業だった。本来なら一人でやることを、わざわざ二人で分担して、それぞれが別々の役割を担っている。分担しても、必ずしも効率が上がるわけではない。その反対の場合もありえる。
人間が一人でできることには限りがある。だから、様々な組織で、様々な役割が生み出されてきた。その典型例が家族だろう。夫婦の間では、外部に働きに出かける者と、内部で家事を行う者で、作業の内容が分けられている。それは必要だからそうしたのであり、したがって、どちらも欠けてはならない。どちらも欠けてはならないのなら、どちらの立場も対等でなくてはならない。一方が欠ければもう一方は困る。
しかしながら、これまでの歴史の中で、両者の間に格差があったことは疑いようのない事実だ。下品な表現をしてしまえば、一方は偉く、もう一方はそうではないと考えられていた。そして、その考え方が正しいという風潮が、随分と長い間続いた。最近になってようやく緩和されるようになってきたが、それでも、そうした考えが無意識の内に意識されている場面も、まだまだ沢山認められる。
結局のところ、人間も動物に変わりはないのだ。
そうした分担は、自然界に生きる動物のそれを起源としている。
それなら、人間らしさとは、そうした分担を放棄することのはずだ。
では……。
人間ではない僕たちには、それ以上にどんなことができるだろう?
くだらないことを考えている内に時間は過ぎ、今日の分の作業は終わった。クレイルに内容を確認してもらい、今日書いた分を昨日の分と合流させる。
リビングに戻ると、まだ三人の姿は見つからなかった。僕は玄関に向かい、家の外に出る。クレイルはリビングでお茶の用意をしていた。
ずっと向こうまで草原が続いている。家の前から伸びた一本道が、森の中に至って消えている。今日は強い風が拭いていて、春の訪れを少しだけ感じさせた。空は晴れているが、雲が多い。密度を持たないような、季節相応の薄い雲だった。
僕は、傍に立つ柱型の照明に寄りかかる。
自然と深い溜息が出た。
疲れているわけではない。
どちらかというと、安心や、安堵によく似た感情が、僕の胸中を支配している。
この場所にいると、とても落ち着く。この場所というのは、この玄関の前のスペースではなく、この辺り一帯という意味だ。
十分くらいした頃、リィルが二人と手を繋いで戻ってきた。
ココとヴィは燥いでいるわけではなかったが、比較的自然な表情をしていた。
「ただいま」リィルが言った。
僕は頷く。
一緒に室内に戻る。リィルと二人は洗面所で手を洗い、それぞれリビングの所定の席に着いた。
クレイルが淹れてくれた紅茶を飲みながら、僕たちは全員でお茶をした。彼女が焼いたクッキーもあって、如何にもこの家にぴったりな感じだった。もっとも、リィルだけは何も口にしていない。しかし、そんな光景も大分この空間に溶け込んでいて、彼女だけが浮いているという感じはしなかった。
お茶が終わると、僕とリィルは一緒に自室に戻った。僕はベッドに腰を下ろす。この部屋には、デスクとセットになった椅子が一つしかないから、僕は基本的にベッドに座ることが多い。
リィルは、部屋にある唯一の椅子を窓際に運んで、そこに腰かけた。
「今日は、どうだった?」
ほかに何も思いつかなかったから、僕はどうでも良いことを質問した。
「うん、まあ……」窓の外を見ながらリィルは答える。「普通だったかな……」
ベッドに座ったまま、僕はリィルの姿を観察した。彼女は椅子を壁に並行になるように配置し、そのまま正面に身体を向けている。首を九十度捻り、窓の外をぼうっと眺めていた。本当は、そんな正確な数値ではないはずだが、どういうわけか、僕にはそんなふうに見えてしまった。
リビングでは、ココやヴィと楽しそうに話していたリィルだったが、部屋に戻ってくるなり、意気消沈したように口数が少なくなった。もっとも、楽しそうにといっても、彼女の本領の百パーセントが発揮されていたわけではない。どちらかというと、リィルは感情の起伏に激しい方だ。まあ、比較対象は僕くらいしかいないから、僕以上にはという意味だが……。
「何かあったの?」
彼女が何も話さないから、僕はさらに彼女に尋ねた。
「え?」リィルはこちらを向く。「何がって、何?」
「何か、考え事をしているみたいだったから、訊いてみただけだよ」
僕がそう言うと、リィルは再び窓の向こうに目を向けた。
リィルの場合、考え事をしていると、ほかの挙動が鈍くなる傾向がある。考えるときは脳に送るエネルギーの配分を多くし、ほかの器官の動きを抑制することで、負荷がかからないようにしているようだ。僕もそのタイプに近いが、完全に動きが停止することはない。リィルは、天井に目をやったり、そのまま固まったりするから、考え事をしているときはすぐに分かる。
「たしかに、考えていることはあるけど、まだ確証はないから、黙っておく」暫くの沈黙のあと、リィルは言った。「何でもないことだったら、余計な心配をかけるだけだから……」
「それは、そんなに重要なではない、ということ?」
「現段階では、そう」
「じゃあ、後々重要になる可能性があるってことだね?」
僕が尋ねると、リィルはゆっくりと頷いた。
昨日のリィルには、このような状態は見られなかったから、今日になって起きた変化、あるいは、今日になって彼女が気づいた事柄によって、このような状態が引き起こされたと考えられる。つまり、僕がクレイルと作業をしている間に、リィルの身辺で特異な事象が発生したか、もしくは、かつて発生した事象を、今日になって彼女が認識したことになる。
「分かった。でも、何かあったら、教えてね」
リィルは向こうを向いたまま頷く。
ベッドの上で横になって、僕は瞼を閉じた。疲労は感じていなかったが、少し休んでおこうと思った。最初から七日間の作業を想定していたから、五日で終わるはずのものが終わらなくても、気力が保たないということはない。ただ、これからラストスパートを迎えるわけだから、意識的に休息をとって、余裕を持って事に当たれるようにしようと考えた。
一端頭をリセットして、何も考えないように努力する。それから、自然と思い浮かぶ事柄について、思いつくままに考えてみる。
リィルは、基本的に、どんな些細なことでも、深く考えようとすれば深く考えられる。自分の生活に直接関わらないことや、私生活で意識しないことについて、多くの人間はあまり考えたがらない。哲学とか、宗教とか、そういうものが例として挙げられるが、そうしたものと日常的に関わりのない者は、話を振られても多少意見を述べる程度で、真剣に議論に参加するのを拒む傾向がある。けれど、リィルは違った。僕が話を振れば、大抵の場合それについて真剣に考えようとする。それが自分とは距離のあることであっても、一度思考を集中させて、何らかの結論を出そうと努力する。どちらかというと、僕もそうだ。だから僕と彼女は気が合ったのかもしれない。
リィルが今考えていることは、どんなことだろう、と僕は想像する。事の程度は分からないが、少なくとも、国や世界を範囲に含めたものではないはずだ。ココやヴィ、それからクレイルといった、ごく僅かな人間で構成された社会に関する問題の可能性が高い。あるいは、僕と彼女の関係に直接関わりのある問題の可能性もある。いずれにせよ、小さな社会の中で生じた問題について、彼女は思考を巡らせているのだ。
現段階では重要ではない、という言い方も気になった。それは、先ほども言ったように、後々重要になる可能性もあるということだ。
まあ、リィルが一人で考えている内は、僕がいくら尋ねても、彼女は答えてくれないだろう。
だから、この問題については、一端保留することにした。
そう決めたのだが……。
「ちょっと、外に行こう」
リィルの声が聞こえたから、僕は瞼を持ち上げた。見ると、すぐ傍に彼女の顔があった。
僕は身体を起こす。
「え?」
「散歩、しようよ」
「まあ、いいけど……」僕は彼女の顔を見つめる。「散歩って、どこへ?」
「どこでも。とりあえず、外に出たい」
「もう、暗くなるけど、いいの?」
「君は?」
「僕は、大丈夫」
「じゃあ、行こう」
日が落ちると一気に寒くなるから、僕はジャケットを羽織った。リィルもコートに身を包む。階段を下りて、リビングにいるクレイルに外に出る旨を伝えると、彼女は了承してくれた。ただし、夕飯の時間までには戻ってくるように、と言われた。まるで子どもを諭すような言葉だったが、今までそんな言葉をかけられたことはなかったから、僕はなんだか嬉しくなった。クレイルとしては、ココやヴィと一緒に食事をとってもらいたいのだろう。調理の分割や、食事の保存など、作業量が増えるのが嫌だというのもあるかもしれないが、それ以上に、子どもたちとのコミュニケーションを望んでいるのだと思われる。
靴を履いて玄関のドアを開けると、強い風が吹きつけてきた。空は大分曇っている。雨が降りそうな感じではなかったが、空気は冷たかった。
家の正面から続く一本道を、僕はリィルと一緒に歩き始める。ほんの数時間前にここに立っていたことを思い出して、そのときと情景が変化していることに、僕は多少戸惑った。都会に比べて、環境の影響を強く受けるこの辺りでは、変化の度合いが大きいようだ。
暫くの間、リィルは何も話さなかった。ただ、表情はいつもより険しかった。やはり、考えていることがあって、それを僕に聞かせたいのだ。いや、聞かせたいとは思っていないかもしれないが、端的にいえば、傍にいる誰かと情報を共有したい、という感情だろう。明確な結論が出なくても、近くにいる誰かと意見を交換し合うだけで、不思議と安心できる。一人で電車に乗っているより、知らない人間でも誰かがいた方が落ち着くのと同じだ。
「今日は、何をして遊んだの?」
緊張を解す意味も込めて、僕はリィルに質問した。
「え?」少し応答に遅れたが、彼女は答えた。「ああ、うん……。えっと、今日は、お飯事をした」
「え、お飯事?」僕は訊き返す。
「うん……。私が母親役で、ココとヴィが、子ども役」
「へえ……。うん、まあ、配役としては、適切だと思う」
「うん」
「え?」
沈黙。
足もとはよく見えない。懐中電灯を持ってくるべきだった、と僕は後悔した。ココから受け取ったそれは、実際にはほとんど使っていない。夜に目を覚ましてトイレに行くことは、僕の場合あまりないからだ。
「私、一瞬だけ、自分が母親役をやることに、躊躇したんだ」リィルは説明した。「彼女たちの、本当の母親が病気のときに、そんなことをしていいのかって……。まるで、二人がクレイルの代わりになる誰かを求めているような気がして……」
「母親と別れるのが、寂しいということ?」
リィルは黙って頷く。
「それはそうだよ。きっと、そういう気持ちもあったんだろう」
そこで、リィルは首を振った。
僕は彼女を見る。
「何? どういうこと?」
僕が尋ねても、彼女はこちらを見なかった。
「二人は、母親がいなくなると知っていても、全然寂しそうなんかじゃなかった」リィルは話した。「いや、えっと……、クレイルは、まだ二人には話していないんだろうけど、でも、あの二人は、そういうことが実際に起こっているのを、なんとなく理解している。でも……。それでも、寂しそうにはしていない。たしかに、私達が来たことで、それまでよりは母親と接する機会は少なくなったけど、それがすぐに終わるって、分かっている。私達がいなくなれば、また、いつも通りの生活に戻れるから、大丈夫だって……」
「ごめん。もう少し、分かりやすく説明してほしい。いや、その……、僕の理解力が足りないんだと思う。察する能力が、僕にはないから……。でも、なんだか、今のままじゃ、話がぼやけているよ」
リィルはこちらを向いた。
「そう、ぼやけているの」彼女は頷く。「私達と、彼女たちが見ているものは、たぶん違う。そう……。何かがずれている。ぼやけている。そんな感じがする」
僕は立ち止まった。
リィルも歩くのをやめる。
「……どういう意味?」
リィルはこちらを振り返り、僕の顔をじっと見つめた。
瞳は定まっている。
彼女は僕を捉えている。
僕は、彼女に捉えられている。
彼女の瞳の向こう側に何か見えないか、模索してみたが、駄目だった。
やはり、リィルは何かに気づいたのだ。
しかし、それを隠している。
言いたくないのかもしれない。
「君が言いたいことは分かった。つまり、僕と君が事実だと思っているものが、本当はそうではない、ということだね?」
リィルは目を逸らす。
「うん……。そう、かな……」
僕は息を吐いた。自然な欲求と、意識的な動作が、混ざった仕草だった。
「まだ言いたいことがあるなら、僕は聞く。それが、現状に変化を齎すものだとしても、知らないよりは、知っておいた方がいい」
沈黙が降りる。
一度視線を泳がせて、リィルは再び歩き始めた。このまま進めば森の中に入ることになる。
僕も彼女のあとについて歩き始めた。
左右に広がる草原には、相変わらず生き物の気配がない。葉は枯れているわけではないが、黄色がかった色彩をしている。空はいつの間にか真っ暗になり、雲が晴れて月が視界の端に見えた。その月明かりに照らされて、草原は金色に輝いている。神秘的な光景だったが、どこか人工的なものを感じさせた。作りものめいた美しさが、僕たちの周囲を取り囲んでいる。
森に足を踏み入れる。
真っ暗で、不気味だったが、怖くはなかった。
「私、ココの身体に触れたの」
リィルが突然言った。
彼女の声は掠れている。
「彼女の身体、熱かった」
足もとに転がっていた枯れ枝が、靴のつま先に当たって転がっていく。軽い音を立てて、枝は闇の中に消えていった。
「どういうこと?」
彼女の隣に並んで歩こうと思ったが、僕は今の距離を保った。彼女の手を握りたい衝動に駆られたが、それも我慢した。
「凄く、熱かった」リィルは話す。「まるで、風邪を引いているみたいに」
僕は考える。
その瞬間、僕は彼女の言葉の意味を理解した。
リィルも、それで僕が理解したと、理解しただろう。
リィルは立ち止まり、また僕の方を振り返る。明らかに挙動不審だった。きっと、考えながら無理矢理手足を動かしているせいだ。演算処理にエネルギーを多く割いているせいで、身体機能の制御が追いついていない。
「……どうしたらいいかな」
僕は顔を下に向けて考える。そこで、まず、自分のミスに気がついた。次に、そのミスによって見落としていた事実を確認するために、どうしたら良いのかを考える。解決する方法は簡単で、いくつも候補が見つかったが、その内のどれを選ぶべきかすぐには決められなかった。ただ、今すぐに決める必要はない。むしろ、今までそのミスを看過していたことが、最大の損失だと分かった。それさえなければ、もっと早い段階で対策を講じられていた。
リィルから聞いた話と、自分が犯したミスを考慮に入れて、どのような状況が成立するかパターンを絞り込む。ただし、この作業は難しい。すぐには解決できない。想定される事態はいくつもあり、それぞれの起点からさらにいくつもの事態に分岐している。その内のいくつかは根拠がなくても除外できるが、可能性がないとは言い切れないから、今すぐには除外できない。
「分かった」僕は頷いた。「もう少し、待とう」
「でも……」リィルは声を上げる。
「もちろん、僕たちが関わっていい問題なのか、分からない。でも……。……君は、それを放置したくない。放置したくないから、僕に言ったんだろう?」
リィルは小さく頷く。
「それなら……。まずは、何が正しいのかを、見極めなくてはならない」
数秒間を要したが、リィルはまた小さく頷いた。
僕とリィルは踵を返し、もと来た道を戻った。その間、二人とも何も話さなかった。
おそらく、リィルはマイナスの方向に事態を捉えている。しかし僕は違った。プラスではないにせよ、マイナスには振り切れない、そんな微妙なバランスを想定している。リィルはココとヴィと長い時間を共有しているが、クレイルのことはあまり知らない。そして、僕はその反対だ。ココとヴィと共有した時間よりも、クレイルと共有した時間の方が長い。
行動力という観点から考えた場合、より高いレベルに立つのはクレイルだ。ココとヴィはまだ子どもだし、いってしまえば、母親に保護してもらって生活している。どんな家庭にもいえることだが、子どもの行動方針を定めるのは、子ども自身ではなく、親だ。この家庭にも同じことがいえるとは限らないが、僕が見てきた限り、その点についてはあまり差異はないように思える。
道を進み、暗闇に淡い光を放つ邸宅に戻ってきた。玄関のドアを開けて中に入る。
リビングでは、クレイルが夕飯の支度をしていた。その隣でヴィが彼女の作業を手伝っている。一方で、ココはというと、テーブルの席に着いて本を読んでいた。リビングは半分だけ照明が灯されていて、今はシンクの辺りだけが明るくなっている。
僕とリィルが帰ってきたのに気づいて、三人ともこちらを向いた。クレイルはにこにこ笑っている。ヴィは、笑顔を引っ込めて急に大人しそうな表情になり、もともと落ち着いて本を読んでいたココは、おかえりなさい、と静かな声で僕たちに言った。
リビングの壁にかけられている時計は、午後七時を示している。まだ時間があった。リィルと相談して、今日は僕が先に風呂に入ることになった。ココもヴィもまだ入っていないから、今日は僕が一番風呂だった。
湯船に浸かりながら、僕は溜息を吐く。
疲労とは、不思議なものだ。外に出る前は、それなりに活発に行動できていたのに、リィルと少し話しただけで、どっと疲れを感じるようになった。身体が重くなり、歩きたくなくなった。身体的な疲労とは、筋肉に乳酸が溜まることで引き起こされるが、この短い間にそんなことが起こったとは考えにくい。精神的なダメージが、身体的な機能不全として表れたのだ。
肉体と、精神では、どちらが上位だろう?
SFなどの作品で、精神だけを肉体から乖離させて、ヴァーチャル空間で生活するといったギミックが登場することがあるが、本当にそんなことができるのか、僕はいつも疑問に思う。結局のところ、精神や心と呼ばれるものは、脳のはたらきによって生み出される。つまり、物質ではない。脳によって作り出された幻想にすぎない。その幻想だけを取り出して、仮想的に作られた世界に放つことが、果たして本当にできるのだろうか。
電子空間で脳内のはたらきを再現すれば、あるいは可能かもしれない。しかし、肉体と精神を分離させた存在が、人間と呼べるのかも疑問に感じる。人間をやめれば良い話だが、そんなことを受け入れられる人間は、まだこの時代にも少数しかいない。
精神だけを取り出して、ヴァーチャル空間で生活するという発想には、肉体ではなく、精神こそが人間の本質だ、という前提が根底に存在している。肉体と精神では、精神の方が上位だということだ。たしかに、その認識は間違えてはいない。人間には自分で決めて行動する自由があり、自分を殺して他者に尽くす愛があり、そして、自分に適切な意味を与える信念がある。それらを可能にしているのは、すべて精神のはたらきによるものだ。
けれど……。
もしそうだとしたら、人間が人を見た目で判断するのは、御法度にならなくてはならない。精神が何よりも重要なのだから、第一印象がどうとか、一目惚れだとか、そんなことはおかしいと考えられなくてはならない。
僕は、リィルに出会ったとき、彼女を綺麗だと思った。
それは、彼女の精神が綺麗だという意味ではない。
彼女の外見、つまり肉体の比率が、整っていると感じたのだ。
ウッドクロックは、人間をモデルに作られているから、当然、人間の理念を受け継いでいる。
僕は、見た目でリィルを判断した。
今、リィルが自分にとって最適な性格をしているように思えるのも、彼女の肉体から連想された、一種の幻想かもしれない。
それは反論できない。
では……。
思考は、自然と、ココとヴィの二人に向けられる。
彼女たちは、クレイルのことをどのように捉えているだろう? 子どもが母親を認識するのは、やはり視覚的な情報が第一であり、彼女の心的な優しさや、子どもを大切にする気持ちからではない。生まれたときに、初めて顔を合せ、初めてコミュニケーションをとった個体を、自然と母親だと認識するようになる。
コミュニケーション……。
人間にとって、最も身近なコミュニケーションは会話だ。口を動かして声を発するだけで、簡単に相手に自分の思いを伝えることができる。それは瞬間的なもので、少しでも時間が経過すればすぐに効果は失われる。
では、本当に伝えたい気持ちを、一度整理して、丁寧に伝えたいとき、あるいは、どうしてか分からない、けれど会話では伝えられない気持ちを伝えたいとき、人間はどのような手段を用いてコミュニケーションをとろうとするだろう?
浴室のドアがノックされる。
「大丈夫?」
リィルの声が聞こえて、僕は無意識の内に閉じていた目を開けた。
「ごめん、今、溺れているところなんだ」
「大丈夫なんだね」リィルは、僕の冗談を無視した。「もう、先に、ご飯食べているから」
そう言うなり、彼女の足音は遠ざかっていく。
身体に付着した水分を自然落下させて立ち上がり、一度大きく伸びをする。
浴槽から出て、精神をリセットするように、僕は自分の身体を洗い始めた。
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