言の葉に有らず

羽上帆樽

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第2部 動揺する春

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 木造の家を出て、私は川に向かった。今日は太陽の光も比較的強い。直射日光というわけではなく、薄い雲によって透過されてはいるが、それでもずっと浴びていると汗が滲みそうだった。予め用意しておいた麦藁帽子を深く被り直して、私は歩き始める。

 退学したというのに、私は相変わらずスクールの制服のままだった。というのも、退学してから気づいたことだが、私は私服というものをほとんど持っていなかったのだ。着る機会がなかったから、積極的には買わなかった。この辺りは閑散としていて、衣服を買うには少し離れた駅前に向かうしかない。そこまで出向くのが億劫で、今日の今日まで衣服は買わず仕舞いだった。

 遊歩道にはまだ桜が残っている。風に吹かれれば次々と散るはずなのに、一向に花びらが目減りする気配はない。どのような原理なのだろうと疑問に思う。次々と新しいものが生えてくるのだろうか。あるいは、空気中を舞うということが沢山散っているように見せるだけで、実際にはそれほどでもないのかもしれない。

 コンクリートの斜面に、川の方を向いて座っている彼女の姿が見えた。彼女は、今日も俯いて、膝の上にあるスケッチブックに一心にペンシルを走らせていた。

 私が隣に腰を下ろすと、彼女は一度こちらを向く。それから、笑顔とも、困り顔とも見えるような表情をした。おそらく、意識的なものだろう。

 私も彼女も何も声をかけなかった。それは、初めて出会ったときからそうで、幾度も重なると、もはやそれが普通になりつつあった。

 彼女の名前はダストという。彼女は、いつもここで絵を描いている。スクールには通っていないらしい。今は通っていないということではなく、一度も通ったことがないみたいだった。普通は、そんなことはありえない。この町の住民は、必ず、あの、背の高い壁に囲まれて、その中で一定期間過ごさなければならないことになっている。それにも関わらず彼女がそこへ一度も通ったことがない理由を、私は知らなかった。自分がその場から立ち去った身である以上、どうでも良いことだと思っていた。

 正面に流れる川をしばらくの間眺めていた私は、少しだけ首を曲げて、ダストが描く絵を見た。彼女はいつもここで絵を描いているが、この場所に関係するものを描いているわけではない。彼女が描く絵は、絵と呼べるのか分からないものばかりで、どちらかといえば、幾何学的な図面に近いものだった。図面だとしても、何の図面なのか私には分からない。具体的な完成形が彼女の中にあるのかも、分からなかった。

「何を描いているの?」

 私は尋ねた。

 ダストはすぐには答えない。いつものことだ。ペンシルの芯とスケッチブックが擦れる音だけが聞こえる。しばらくすると、彼女は新しくページを捲り、そこに小さく鋭利な文字を書いた。


“何△きいているのか○私□は分からない”


 ダストは声を発さない。発さないのか、発せないのか不明だが、この前、水筒の水を飲み終えて、軽く咳き込んだ際に、喉もとで小さな音が鳴っているのが聞こえたから、発せないことはないと思う。けれど、物理的に発せないのではなく、何らかの理由があって発さないのだとしても、発さないことには彼女なりの理由があることに違いはないわけで、それは要するに、彼女にとっては発せないということになるのだろう。だから、彼女との会話はいつも筆談によって成される。

「どんな完成像を想定しているの?」と私は質問し直した。

 ダストは、もとに戻してあったスケッチブックをもう一度捲り直して、またそこに文字を書く。


“何も想定していない”


 彼女の返事を見て、そういうものか、と私は思う。私はまともに絵を描いたことがないから、それがどういうことなのか、よく分からなかった。描いているときには、どんなことを感じ、また、考え、思うものなのだろうか。

 また、風。

 運ばれてきた一枚の花びらが、ダストの持つスケッチブックの上に静かに載る。

 彼女は、それを細い指先で摘まみ上げると、顔はスケッチブックに向けたまま、手だけでそれを私に差し出してきた。

 私は花びらを受け取る。

 なんとなく、ぼんやりと表面を観察した。

 ダストには、初めて会ったときに、軽い自己紹介を済ませてあった。自分の名前と、年齢と、それから、カステラが好きなこと。制服を着ているのに、どうして、こんな時間に、こんな場所にいるのか、と尋ねられたから、それに対する答えも、少し伝えた。

 ふと隣を向くと、ダストがこちらをじっと見ていた。

 目が合う。

 クリアに赤い表面。

 そんな彼女の目をじっと見つめていると、彼女は不意にウインクをして、それから、悪戯っぽい角度で、少し笑った。
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