The Signature of Our Dictator

羽上帆樽

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第9章 やっと解決

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 リィルに首を絞められたまま、僕はぼうっと彼女の顔を眺めていた。

 彼女の髪が解けるように垂れ下がり、僕の頬に軽く触れる。

 今は何の匂いもしない。

 もう感覚が大分鈍くなっているようだ。

 生命を放棄してしまいたくなる。

 それも良いと思った。

 彼女に殺されるのだ。

 この上なく素晴らしいことではないか。

 でも……。

 彼女は、僕を殺すことを望んでいるのか?

 そうすることを、心の底から望んでいるのか?

 心とは何か?

 そんなものがあるのか?

 人間を真似て作られた僕たちに、そんなものが存在するのか?

 そもそも、人間に心はあるのか?

 リィルがさらに手に力を込める。

 鋭利な爪が僕の皮膚に食い込んだ。

 痛みは感じなかった。

 むしろ心地良い。

 ああ、今、彼女に触れられているんだ、と当たり前のように感じる。

 嬉しかった。

 でも……。

 彼女は、僕を、殺したいと、本当にそう望んでいるのだろうか?

 一瞬の出来事。

 突然、スタビライザーが完全に無力化され、リィルは右方向に吹き飛ばされた。

 僕の身体もそちらにずれる。

 意識のない頭で演算をして、涙の滲む目で左側を見る。

 男性が一人立っている。

 フォーマルな格好をした紳士だった。

 彼女がリィルに力を加えたのだ。

 彼は僕に視線を向ける。

 それから、またリィルの方を向いた。

 彼女は立ち上がろうとしている。

 男性は落ちていたピストルを広い、天井に向けて引き金を引く。

 轟音。

 しかし、僕の耳は空気の振動を正しく認識できない。

 リィルが完全に立ち上がり、男性に接近を試みる。

 彼は天井に向けて何発も弾を撃ち込んだ。

 火花が散る。

 配線のビニールが焦げる匂いがした。

 リィルが彼のピストルを握っている方の腕を掴む。

 男性は動じない。彼女を思いきり引き剥がし、ソファに向かって叩きつける。

 天井を構成していたパネルが何枚も剥がれ、そこから妙な機器が姿を晒した。

 彼はその機器に向けて照準を定め、さらに引き金を引く。

 リィルは起き上がらない。

 サラも倒れたまま。

 男性は、傍にしゃがみ込み、ゆっくりと僕を起き上がらせた。

「大丈夫ですか?」低い声で彼は尋ねた。「ここに長くいると危険だ。すぐに移動しましょう」

 彼は……。

 そう、僕たちをここまで連れてきた、あのタクシーの運転手だった。

 状況を理解できないまま、僕は黙って頷く。

 僕が一人で立てるのを確認すると、彼はリィルに近づいて彼女を片手で持ち上げた。

 男性に伴われて僕はドアがある方に向かう。

「……さっきの、あれは?」上手く声が出なかったが、歩きながら僕は尋ねた。

「ヘブンズと接続するためのルーターです」彼は説明した。「しかし、あれは本体ではない。バックアップがいくつも存在するはずです」

「設置されているのは、あの部屋だけではないのでは?」

「もちろん」彼は頷く。「しかし、彼女はもう気を失った。当分の間は大丈夫でしょう」

 僕は彼に抱えられたリィルを見る。彼女は目を閉じていた。頭部から少し体液が漏れている。赤色の液体が彼の衣服に付着し、人間の血液よりも生々しく輝いていた。

 灰色の廊下を進む。僕は上手く歩けなかったが、徐々に意識がクリアになっていった。

 ロビーに出たタイミングで、ロトに出会った。

「大丈夫でしたか?」ロトは尋ねる。

「ええ、なんとか……」僕は言った。「彼に助けてもらいました」

 ロトは黙って頷く。

「……そういえば、サラは?」僕は訊いた。

「私が連れてきます」リィルをラウンジの椅子に下して、男性が答える。「すぐに戻るから、この場を離れないで下さい」

 僕は頷いて了承した。

 椅子に座って脱力しているリィルの傍に立ち、僕は彼女の頭部に触れる。体液はもう乾き始めていた。新しく漏れ出てはいない。

 ロトが自分の部屋に入っていき、ガーゼを持って戻ってきた。

 僕はそれを受け取り、彼女の傷口に軽く当てる。

「リーダーが死亡しているのが見つかりました」ロトが説明した。「ここからかなり離れた場所です。彼女は予言書を所持していませんでした」

「ハイリですね?」

「ええ、そうです」

 ロトによると、この施設の警備を行っている企業が、警察とともに彼女の遺体を確認したらしかった。所有物も一つ一つ確認したが、予言書なるものはどこにも見つからなかった。

 ヘブンズの活動領域を拡大する作業は中断したらしい。それだけではなく、たった今、この施設にクラウドを形成する機器を、主電源ごとシャットダウンした、とトロは説明した。シャットダウンには時間がかかるため、ヘブンズはすぐには無力化されなかった。先ほどの彼が来てくれなかったら、僕は今頃リィルに首を締められて死亡していただろう。

 そう……。

 あれは、完全にリィルではなかった。

 僕が知っている彼女とはまったく違っていた。

 何もかも……。

 男性がサラを抱えて戻ってくる。彼はリィルの対面の椅子にサラを座らせる。彼女に怪我はなかった。気を失っているだけのようだ。

 僕とロトも椅子に腰かけた。もう一人の彼は壁に寄りかかって立っている。

 緊急事態だというのに、僕たちのほかには誰も駆けつけてこなかった。野次馬も誰一人としていない。

 そう……。

 ロトは、この施設にほかの所員がいないことを明らかにした。

「申し訳ありませんでした」彼は謝罪した。「非常に心苦しい弁解ですが、どうしてもほかの手段をとることができなかったのです」

 この施設にはロトとサラの二人しかいない。実際には、ヘブンズがすべての翻訳作業を行っていたのだ。それがこの施設の一番の特徴だった。それなのに、彼は嘘を吐いて僕とリィルに仕事の依頼を持ちかけた。その理由は僕は知らない。しかし、そんなことをするからには何か理由があるはずだ。

「……理由を聞かせてもらえませんか?」僕は尋ねる。

 数秒間黙ったあと、ロトは目を逸らして説明した。

「予言書に記されていたからです」彼は言った。「私とサラは予言書がどんな書物であるかを知っています。知らないと貴方にお伝えしたのも虚言です。申し訳ありません……。そして、ハイリがその書物をこの施設から持ち出す前に、私たちは、そこに、お二人がここに来ると記されているのを読んだのです。それだけではありません。この施設の方針を定める際には、すべてその予言書に記されている通りにしてきました。ですから、あれを失うわけにはいかなかったのです。それも、この施設のリーダーなる人間の手にかかることなど……。……ですが、未だに予言書の所在は不明です」

「……その、予言書というものは、どんなものなんですか?」僕は質問する。「えっと、その……。今の説明だけでは、よく分からないんですが……」

「その名の通りのものです。今後起きる事柄が詳細に記されています。ただし、記されているのはこの施設に関することだけです。その他のことについては一切触れられていません」

「誰が書いたものですか?」

「それは分かりません。ただ、この施設に代々伝わるものです」

 沈黙。

 僕は考える。

 予言書とは何だろう?

 どうしてそんなものがあるのか?

 最初にロトからその存在を聞いたとき、僕はそれを名ばかりのものだと思っていた。ただ、何らかの経緯があって、そのように呼ばれるようになっただけだと……。

 けれど……。

 本当に、未来のことが書かれているなんて……。

 到底信じられない。

「あの……。……今回のことはどうか内密にして頂きたいのです」ロトは言った。「予言書の存在とヘブンズの運用が外部に漏れれば、我々はもう二度とこの施設の運営することはできません。それだけは何としても避けたいのです。我々には企業を継続する定めがあります。ですから、どうか……」

 そう言って、ロトは僕に頭を下げる。

「どうか、お願い致します」

 僕は何も言えない。

 彼はそのまま硬直する。

「……ヘブンズの運用は、今後どうするつもりですか?」

「それに関しては、検討するつもりです」顔を上げて、ロトは説明した。「もちろん、今まで通りの運用方法を継続しようとは考えていません。人工知性を根本的に書き変えたのち、レベルを下げて一つのツールとして使うつもりです」

 それは当たり前だと僕は思った。何しろ、あれだけの力を持っているのだから……。

「……申し訳ありませんが、僕は何とも言えません」僕は言った。「それは、部外者の僕がどうこう言える問題ではないですから……。……ただ、ヘブンズの影響で、リィルは被害を受けました。だから、そう……、今後は、同じ過ちを繰り返さないようにしてほしい。僕が言えるのはそれだけです。それは約束してくれますか?」

「ええ、もちろんです」ロトは何度も頷く。「では、内密にして頂けるのですね?」

 声を出さずに、僕は一度小さく頷いた。

 リィルの怪我は大したものではなく、ガーゼを当てただけで体液の流出は収まった。ただ、暫くの間毎日手入れをする必要があるだろう。彼女の皮膚組織がどのような因子で構成されているのか分からないが、腐敗したり欠落したりする恐れがあるのは確かだ。

 リィルが目を覚ます前に、サラが目を覚ました。僕たちの姿を見て、彼女は何が起きたのかと尋ねたが、誰も何も答えなかった。どうやら、彼女には気を失う前の記憶が残っていないようだ。ロトと話し合った結果、彼女には起こったことの詳細を伝えないことにした。その方が僕にとって安全だし、ロトとの交渉に拘束力を持たせられるからだ。

 ロトは椅子から立ち上がり、途中だった作業を片づけてくると言って、その場から立ち去った。彼に続いて、サラも僕たちの前から姿を消した。彼女の部屋は右手のドームの中だった。

 ラウンジには僕とリィル、そして運転手の彼が残された。

「助かりました」僕は男性に声をかけた。

 彼は目だけでこちらを確認し、ズボンのポケットに入れていた手を片方上げる。

「彼女、以外と軽いね」男性は話す。「持ち上げたとき、びっくりしてしまいましたよ」

「貴方は、どこの所属なんですか?」

「私ですか? この施設の警備会社です。だから、駆けつけてきた。ハイリが見つかった時点で、こうなることは予想できましたからね」

「自動車の運転が得意なんですか?」

「運転は、あまり得意じゃない」彼は少し笑った。「あれはサービスのつもりです。本当は、あんなことは柄に合いません。あまりやりたくない。しかし、頼まれたのなら仕方がない。あ、そうそう、帰りも送りますよ。……もう、ここにはあまり長くいないつもりなんでしょう?」

「ええ、まあ……」

「報酬がきちんと支払われなかったら、私ががつんと言ってやります」

「いえ、たぶん、それは大丈夫だと思いますけど……」

 ロトがそんなことをするとは思えなかった。色々と隠し事をしていたが、それは仕方がなかったからだ。では、仕方がなかったら報酬を支払わなくても良いのかというと、それは違う。僕はもう仕事をしたのだから、その分の報酬は支払ってもらわないと困る。そうでなければ、ただ時間を無駄に過ごしただけになる。

 いや……。

 それは違うか……。

 今回の出来事を通して、僕はヒントを得ることができたのだから……。

「彼女の怪我は、大丈夫そうですか?」男性は尋ねた。「女性だから、可哀想だ」

「貴方が投げたのでは?」僕は冗談のつもりで指摘する。

「ええ、そうなんですよ……。だからまったく困ってしまう。しかし、そうしないと、貴方が危ない目に遭っていた。そこのところ、理解してもらえると、こちらとしても助かります」

「どうして、僕を助けてくれたんですか?」

 僕がそう尋ねると、彼は一瞬だけ鋭い目つきになった。

 しかし、またすぐにもとの表情に戻る。

 偽りとしか思えない笑顔。

 本物の笑顔を知らないような未熟な口角。

「どうしてだと思います?」

 僕はリィルを見る。頭部に当てられたガーゼが痛々しかった。髪にも幾分体液が付着しており、照明の光を鈍く反射している。

「僕たちと、同じだからですか?」

 僕は言った。

 男性は不敵に笑う。

「ウッドクロック?」彼は話した。「さあ、どうでしょう……。その点については、貴方の想像にお任せする、とだけ伝えておきましょう。まあ、というよりも、仕事だから、というのが一番の理由なんですけどね……。……貴方だってそうでしょう? 仕事だから、深くは立ち入らなかった。仕事だから、知っていて知らないふりをした。違いますか?」

「まあ、そうです」僕は頷く。

「大変ですね、お互い。大したやり甲斐もないのに」

 彼はポケットから携帯端末を取り出し、それを使って電話をかけ始めた。どうやら、本部に状況の報告をしているようだ。

 それにしても、ハイリはどうして死亡したのだろう? 腹部にナイフが刺さっていたみたいだが、他殺なのか、それとも自殺なのか……。

 しかし、どちらでも同じだ、とも僕は思った。もうこの施設のリーダーはこの世にいない。この世というのがどの程度の範囲を示す言葉なのか不明だが、少なくとも、もう、誰も彼女から直接話を聞くことはできない。

 ヘブンズはどうだろう? 人工知性をロトに書き換えられたら、もう以前のそれとは違うものになるのだろうか? それとも、まるで改心したように振る舞いを変えるだけなのか。

 運転手の彼は電話を終えて、端末をポケットに仕舞った。それから僕の方に向き直り、片方の手を向けて質問する。

「明日には帰りますか?」

 彼の質問を受けて、僕は少しだけ考える。

「それまでに、リィルが目を覚ましたら……」僕は答えた。「あとは、ロトに了承をとらなくてはならないので……」

「彼なら、もう、そのつもりでしょう」男性は言った。「それに、これ以上損失を出さないためにも、貴方の要求は何でも呑むでしょうね」

 僕は小さく頷く。

「さて、それでは……」彼は背筋を伸ばして軽く礼をした。「私はもう戻ります。これ以上の脅威があるとも思えないし……。明日の朝、十時頃に迎えに来ます。列車はいくらでもあるから、時間の調整も受けつけますけど……。どうします?」

「十時でいいです」

「了解」彼は頷いた。「では、さようなら」

「どうもありがとう」

 優雅な足取りで彼は建物の出口に向かっていく。扉の隙間から、外に自動車が停まっているのが見えた。運転は得意ではないと言っていたが、今回もあの車に乗ってきたようだ。なかなかの腕前なのかもしれない、と僕は勝手に想像する。

 静寂が訪れた。

 僅かに哀愁感が漂っている気がする。

 上を向くと、歪曲している天井が見えた。

 まるで教会にいるみたいだ。

 この建物はドームの形をしているから、どちらかというとモスクの方が近いかもしれない。

 リィルの対面の椅子に移動し、僕は今後やるべきことを考える。

 そうは言っても、もう明確にやらなくてはならないことはなかった。仕事は頓挫したといって良いし、あとは報酬を受け取って家に帰るだけだ。当然、報酬が現金の状態で渡されるはずはない。自分の口座に振り込まれるはずだ。あとは……。友人にも連絡を入れなくてはならなかった。突然電話を切ってしまったし、きっと驚いているだろう。もしかしたら、心配して、今も電話をかけ続けているかもしれない。けれど、僕は今すぐに彼と話す気にはなれなかった。まだ話して良いこととそうでないことの整理ができていないし、何が起きたのか伝えようとしても、きっと要領良く話すことはできないだろう。きちんと考えをまとめてからの方が良い。

 考えてみれば、それほど長い間ここにいたわけではなかった。ほんの数週間、一ヶ月に満たない期間でしかない。一ヶ月というのがどれくらいの時間なのか、僕にはぼんやりとしたことしか分からない。自分が明日死ぬとしたら、これ以上ないくらい長く感じられるだろうし、自分がこれからも生き続けるとしたら、まあ、この程度か、と思えるくらいでしかないだろう。

 僕は明日死ぬだろうか?

 分からない。

 分からないからこそ、明日に向けて準備をしなくてはならない。

 生きる可能性がある以上は、ずっと……。

 微かな声とともに、リィルの頭が少し動いた。僕は彼女の方に視線を向ける。

 首を真っ直ぐ伸ばして、リィルはゆっくりと目を開けた。

「大丈夫?」僕は声をかける。

「ん……」違和感を覚えたのか、彼女は自分の額に触れた。「……あれ、何、これ……」

「僕のこと、覚えている?」

 リィルは僕をじっと見つめる。二、三度と瞬きをしたあとで、彼女は十五度くらい首を傾けた。

「誰?」

「え、嘘」

「ああ、君か」彼女は首の角度を戻した。「これ……、何か、怪我したの?」

「うん、そう」僕は頷く。「少し切ったんだ。……いや、少し、ではないかな……。そんなに大きい傷じゃないけど、出血したのは確か。……傷が残るかは、分からない」

「あ、そう……」

「ごめん。いや、なんていうのか……。……僕には何もできなかったんだ。君がサラと取っ組み合って、そして、そのあと……」

「いいよ、謝らなくて。というか、君は何も悪くないし」リィルは笑う。「傷が残っても、前髪で隠れるから大丈夫だよ」

「そういうものなの?」

「え? 何が?」

「残っていると思うだけで、嫌にならない?」

「ならない」

「君さ、あのときのこと、全部、覚えている?」

「うーん、どうかなあ……」

「あ、それと、頭、痛くない?」

「あまり」

「大丈夫そうで、よかったよ」

「大丈夫じゃないよ。怪我したんだから」リィルは話す。「気を失う前のことは、全部覚えているよ。突然だったから、必死に覚えようとしたんだろうね、きっと」

 僕は頷いた。

 リィルは思っていた以上に元気そうだった。けれど、身体の節々が痛むのか、腕や脚を動かす度に顔を顰めていた。それはそうだ。あれだけ激しい動きを繰り返したら……。

 僕は前屈みになり、膝の前で両手を組む。

「明日になったら、帰ろう」

 自分の髪を弄っていたリィルは、手を動かすのをやめて僕を見る。

「え? 家に?」

「そう」

「そっか……」彼女は天井に目を向ける。だが、すぐにこちらに視線を戻した。「え? じゃあ、もう、今日が最後の夜になるってこと?」

「そうだね」

「え!」リィルは椅子から立ち上がる。「じゃあ、今すぐ、海に行かないと!」

 僕は彼女を見上げる。

「本気?」

「当たり前じゃん!」彼女は僕の腕を掴んだ。「何しているの? 早く行こうよ」

「今から?」

「そうだよ。だって、もう行けなくなっちゃうんだよ。もったいないじゃん。せっかく近くにあるのに……」

「行こうと思えば、いつだって行けるよ」

「そういう話をしているんじゃないの」

 リィルに引っ張られて、僕は否応なく椅子から立ち上がる。彼女に手を引かれてドームを出た。

 冷たい風が身体を包み込む。

 頭の上で灯台の光が回転していた。

「ロトに何も言わなくて、大丈夫かな……」僕は呟く。

「いいじゃん、そんなの」彼女は言った。「もう、関係ないんだから」

 ドームの裏に周り、木造の階段を下りて海に向かう。下に向かうにつれて波の音が大きく聞こえるようになった。左右では雑草が伸び放題になっている。遠くの方に街の明かりが見えた。

「この近くの街には、一度も足を運ばなかったね」

 階段を下りながら僕は言った。

「じゃあ、明日行く?」

「まあ、時間があったら」

 砂浜に辿り着く。僕とリィルは暫く無言で歩き続けた。靴を履いているから、踏み締める砂の感触が少し気持ち悪い。けれど、そんなに嫌な感じではなかった。気持ちの良い気持ち悪さという感じだ。

 月が見える。

 狼男が登場してもおかしくないほどの満月だった。

 月の裏側は見えない。

 ロトやサラの裏側は見えるだろうか?

 僕はそれを見たのか?

 あの施設の裏側は、ほんの僅かに垣間見れたような気がする。

 でも、まだ足りない。

 不充分。

 充足を求めているわけではないのに、そんなふうに感じるのはなぜだろう?

 僕の前を歩いていたリィルが、突如として足を止めた。

「ねえ」

 彼女は声を発する。

「何?」

 僕は訊き返す。

「……私、君に酷いことしたよね」

「何が?」

「君を思いきり倒して、首を締めて……」

「ああ、そんなこと」

 リィルは勢い良くこちらを振り返る。肩に力が込もっているのが分かった。顔を見ると、目もとが涙で僅かに濡れている。

「そんなことって……」

 僕は微笑む。

「何を泣いているの?」

「え?」彼女は自分の目に触れた。

「水分がもったいない。冬だから、しっかり保湿しないと皮膚が駄目になるよ」

 リィルは僕の傍まで接近し、そのまま弱い力で僕の胴体を抱き締めた。

「……何?」

 彼女は答えない。

 正直に言って、僕には彼女の行動の意味が分からなかった。

 この行為は何を示しているのか。

 どれほど考えても分からない。

 でも……。

 その意味を考えない限り、彼女と分かり合うことはできない。

「もうね、迫力満点だったよ」僕は言った。「ドラマか漫画かと思ったね、あの光景は。腕利きのスタントマンじゃないとできない名演技だった。それから、画面構成もなかなか素晴らしかったよ。演出もよくできていたし……。最高だった。世界で一番のアクションスターに出会えたような気さえする」

「……馬鹿じゃないの」

「そう。僕は馬鹿なんだ」

「もう、何も言わないで……」

「うん……」

 沈黙。

 すぐ傍に海藻が打ち上げられていた。

 新鮮な塩分を含んでいそうで、美味しそうだな、と僕はなんとなく考える。

 次に砂を一粒一粒観察した。

 どれも形が不揃いで、同じ材質でできているとは思えない。

 栓抜きが転がっていた。

 ここで遊んでいた誰かが、持ち帰るのを忘れたのかもしれない。

 潮風。生き物が腐った匂いはしなかった。この海には、生き物が存在していないのかもしれない。

 いや……。

 海藻も一つの立派な生き物だろう。

 それでは、砂は?

 それでは、リィルは?

 リィルは生き物だろうか?

 月は?

 月は生き物だろうか?

 リィルは顔を上げる。

 彼女は泣いていたが、笑っていた。

「体調が悪いのかな?」僕は尋ねる。

「うん、まあね」彼女は頷いた。「でも、大分よくなった」

「僕のおかげだね」

「そうだよ」

 寒いからもう帰りたいとリィルが言ったので、僕たちは早々に海から立ち去った。こんなに早く帰るのに、どうして彼女は外に出ることを提案したのだろう、と僕は少し不思議に思った。

 その問いに対する答えは、分からないわけではない。

 でも……。

 きっと、分かるような気がするだけだろう。

 ドームの前に戻ってくる。初めてここに来たときのことを思い出した。

「もう、帰るんだね」リィルは言った。

「うん」


「なんか、あっという間だった」

「人生も、そんなふうに終えられるといいね」

 リィルは否定も肯定もしなかった。
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