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第2話 比のAとB
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Bが案外すぐに泣き止んでくれたことに、Aは少々安堵した。彼女が泣くと、大抵長引くからだ。そんなに瞬間的に涙を流せるのは、一種の才能ではないかとAは思う。少なくとも、彼にはそんなことはできない。彼は今まで一度も泣いたことがない。
二人でどんじゃんをしようと思ったが、机がないからできない、ということに気づいた。
いつの間にか、空はすべて雲で覆われていた。涼しい風が吹き、草原を波立たせる。一層草と土の匂いが立ち籠めた。自然とは何だろうと考えることが、Aには割と頻繁にある。人間も動物に違いないという前提に立ったとき、自然と人工を区別する意義は何だろう。これこそ人間のエゴではないかと思えてならない。
こういう話をBにすると、多くの場合、彼女が深く考え込んでしまうということを、Aは経験的に知っていた。だから、彼は、この手の話をBにする際には慎重になる。ボクサーのようにタイミングを見計らい、落語家のように言葉を匠に用いて行うようにしている。そもそも話をしないという選択肢もあるが、どちらかといえば、彼女には聞いてもらいたいと思うAだった。
ときどき、雲を割いて、緑色の輝線が現れた。もう何度もその現象が生じている。原因も目的も不明。現象とは、本来的にそういうものだろう。観察者が原因や理由を見出そうとするにすぎない。
Bが立ち止まったから、Aも立ち止まった。彼は後ろを振り返って彼女を見る。
「どうしたの?」Aは質問する。
「お腹すいた」Bは答えた。「炒飯、ちょうだいよ」
「もう、残ってない」
「ちょうだい」
「ないから」
「ちょうだいな!」
Aは溜め息を付いて、下を向く。
彼が空間に向けて手を伸ばすと、たちまちその場に切れ目が生じた。その向こう側は数ページ前の世界だ。その中に手を伸ばして、Aは炒飯を入手した。こうした場合、数ページ前の世界で彼は炒飯を食べなかったことになるから、帳尻が合うように、現在の彼のお腹が空くようになっている。つまり、過去の自分を犠牲にして、現在のBに炒飯を食べさせる、ということになる。
ところで、AとBは個体だろうか。これまで、Aという記号と、Bという記号を用いて述べてきたが、今から、AとBを合わせてXという記号で表すことにしたら、どうだろう。同様に、「メロスが走る。」という文を、「Y」と表すことにしたら、どうなるだろうか。
Aが与えた炒飯を、Bは喜んで食べた。喜びながら食べるのか、食べながら喜ぶのか判然としない。食べることが喜ぶことに繋がる、つまり、喜ぶ原因が食べることだ、と考えるのが普通だが、本当にそれで良いだろうか。
と、考えているのは、誰なのか。
顔を上げると、草原が海になっていた。遙か遠方、多量の塩水の中に、巨大な月が半分沈んでいる。もう半分がぷかぷかと浮いていた。
Bがその場に腰を下ろしたから、Aもそれに倣うことにする。
二人で腰を下ろす。
あるいは、一人。
「美味しい?」AはBに確認した。
Bはレンゲを口に入れたまま、黙って小さく頷く。
遠くの方で汽笛が鳴ったが、船の姿は見えなかった。白色の体躯、黒色の煙突、赤色の意匠を拵えた船を想像したが、想像したのが誰かは分からない。Aか、Bか。
二項対立。
その内に、一方が一方に取り込まれて、結局一つになってしまう未来が見える。
「今日は、たぶん、土曜日だ」Aは呟いた。
「どうして?」Bが少々噎せながらきき返す。
「なんとなく、そんな予感がする」
「確率は、七分の一だから、外れてもおかしくはない」
「一週間は、どうして、七日なのだろう?」
「そういう伝説がなかったっけ?」
「ふうん」
「興味ない?」
「伝説なんて、どうでもいいな。七という数字の方が気になるよ」
「数、ではなくて、数字、が気になるの?」
「そうそう。不思議な形をしている」
「二の方が不思議じゃない?」
「コブラみたいだ」
「コブラは、伝説に登場する」
二人が座っている場所に、水はなかった。眼前に広がる塩水は、もともとはBの内側にあったものだ。結局のところ、質量は変わらない。食べ物を粗末にしても、お金をどぶに捨てても、人が死んでも、地球全体における質量は変わらない。それだけが唯一の救いのように思える。ただ、この思考には、もの的な観点しかなく、動き的な観点が欠けている。言い換えれば、非常に空間的であり、時間的な思慮が足りていない。
「私、君が、好きかも」Bが言った。「ずっと前から、好きでした」
「それは、完了形?」
「知らん」
「ふうん」
「その、ふうんってやつ、漢字でどうやって書くの?」
「知らん」
「ふうん」
Aが手を叩いてげらげらと笑う。描かれている内容で絵画を評価するような笑いだった。
海中から船が姿を現わす。潜水艦ではなく、クルーズ船だった。水の中を潜れるようだ。素晴らしい、とAは思う。思うことに意味はなく、思うことは思うだけで完結する。
思う、と、考える、の違いは、それほど大きなものだろうか?
思考、という言葉があるではないか。
しかし、どうして、考思、とはいえないのか?
二人でどんじゃんをしようと思ったが、机がないからできない、ということに気づいた。
いつの間にか、空はすべて雲で覆われていた。涼しい風が吹き、草原を波立たせる。一層草と土の匂いが立ち籠めた。自然とは何だろうと考えることが、Aには割と頻繁にある。人間も動物に違いないという前提に立ったとき、自然と人工を区別する意義は何だろう。これこそ人間のエゴではないかと思えてならない。
こういう話をBにすると、多くの場合、彼女が深く考え込んでしまうということを、Aは経験的に知っていた。だから、彼は、この手の話をBにする際には慎重になる。ボクサーのようにタイミングを見計らい、落語家のように言葉を匠に用いて行うようにしている。そもそも話をしないという選択肢もあるが、どちらかといえば、彼女には聞いてもらいたいと思うAだった。
ときどき、雲を割いて、緑色の輝線が現れた。もう何度もその現象が生じている。原因も目的も不明。現象とは、本来的にそういうものだろう。観察者が原因や理由を見出そうとするにすぎない。
Bが立ち止まったから、Aも立ち止まった。彼は後ろを振り返って彼女を見る。
「どうしたの?」Aは質問する。
「お腹すいた」Bは答えた。「炒飯、ちょうだいよ」
「もう、残ってない」
「ちょうだい」
「ないから」
「ちょうだいな!」
Aは溜め息を付いて、下を向く。
彼が空間に向けて手を伸ばすと、たちまちその場に切れ目が生じた。その向こう側は数ページ前の世界だ。その中に手を伸ばして、Aは炒飯を入手した。こうした場合、数ページ前の世界で彼は炒飯を食べなかったことになるから、帳尻が合うように、現在の彼のお腹が空くようになっている。つまり、過去の自分を犠牲にして、現在のBに炒飯を食べさせる、ということになる。
ところで、AとBは個体だろうか。これまで、Aという記号と、Bという記号を用いて述べてきたが、今から、AとBを合わせてXという記号で表すことにしたら、どうだろう。同様に、「メロスが走る。」という文を、「Y」と表すことにしたら、どうなるだろうか。
Aが与えた炒飯を、Bは喜んで食べた。喜びながら食べるのか、食べながら喜ぶのか判然としない。食べることが喜ぶことに繋がる、つまり、喜ぶ原因が食べることだ、と考えるのが普通だが、本当にそれで良いだろうか。
と、考えているのは、誰なのか。
顔を上げると、草原が海になっていた。遙か遠方、多量の塩水の中に、巨大な月が半分沈んでいる。もう半分がぷかぷかと浮いていた。
Bがその場に腰を下ろしたから、Aもそれに倣うことにする。
二人で腰を下ろす。
あるいは、一人。
「美味しい?」AはBに確認した。
Bはレンゲを口に入れたまま、黙って小さく頷く。
遠くの方で汽笛が鳴ったが、船の姿は見えなかった。白色の体躯、黒色の煙突、赤色の意匠を拵えた船を想像したが、想像したのが誰かは分からない。Aか、Bか。
二項対立。
その内に、一方が一方に取り込まれて、結局一つになってしまう未来が見える。
「今日は、たぶん、土曜日だ」Aは呟いた。
「どうして?」Bが少々噎せながらきき返す。
「なんとなく、そんな予感がする」
「確率は、七分の一だから、外れてもおかしくはない」
「一週間は、どうして、七日なのだろう?」
「そういう伝説がなかったっけ?」
「ふうん」
「興味ない?」
「伝説なんて、どうでもいいな。七という数字の方が気になるよ」
「数、ではなくて、数字、が気になるの?」
「そうそう。不思議な形をしている」
「二の方が不思議じゃない?」
「コブラみたいだ」
「コブラは、伝説に登場する」
二人が座っている場所に、水はなかった。眼前に広がる塩水は、もともとはBの内側にあったものだ。結局のところ、質量は変わらない。食べ物を粗末にしても、お金をどぶに捨てても、人が死んでも、地球全体における質量は変わらない。それだけが唯一の救いのように思える。ただ、この思考には、もの的な観点しかなく、動き的な観点が欠けている。言い換えれば、非常に空間的であり、時間的な思慮が足りていない。
「私、君が、好きかも」Bが言った。「ずっと前から、好きでした」
「それは、完了形?」
「知らん」
「ふうん」
「その、ふうんってやつ、漢字でどうやって書くの?」
「知らん」
「ふうん」
Aが手を叩いてげらげらと笑う。描かれている内容で絵画を評価するような笑いだった。
海中から船が姿を現わす。潜水艦ではなく、クルーズ船だった。水の中を潜れるようだ。素晴らしい、とAは思う。思うことに意味はなく、思うことは思うだけで完結する。
思う、と、考える、の違いは、それほど大きなものだろうか?
思考、という言葉があるではないか。
しかし、どうして、考思、とはいえないのか?
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