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黄金の時間帯
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「おかえりなさいませ、旦那さま。……そちらのお荷物は?」
ここはロンドンの町のはずれにある小さな屋敷。上流階級の貴婦人たちであれば優雅なティータイムを楽しんでいるであろう昼下がり、メイドのアニーは帰宅する主人を迎えた。彼は、彼女が見たこともないような不思議なものを携えていた。
「ああ、これはカメラ・オブスキュラ。社交会で知り合った友人に貸してもらったんだ」
カメラ・オブスキュラとは、ラテン語で「暗い部屋」を意味する。今日における「カメラ」とは、すなわち「カメラ・オブスキュラ」の略称なのである。
「カ、カメラ……スキュラ?? とは?」
「そうだな、わかりやすく言えば写真機かな」
写真すなわちPhotographyとは、ギリシャ語の 「フォトス(φῶς, phōs)」(光)と 「グラフェイン(γράφειν, graphêin)」(書く・描く)を組み合わせた造語であり、1839年にイギリスの天文学者ジョン・ハーシェルが提唱した用語だとされている。そして19世紀も後半に入ると、カメラそのものとは縁のない庶民であっても、展示会などで写真を見る機会は珍しいことではなくなっていった時代である。
「ということは、これで写真が撮れるのですね!」
メイドのアニーは目を輝かせた。もともと彼女がこの家で働くことを選んだのは、新しい技術に興味があるからである。ここの家の主人は若年ながら産業革命の流れに乗り、資本家として紳士録に名を連ねている人物である。住んでいる屋敷は最近手に入れたばかりの手狭な物件で、雇用している使用人も数人に過ぎないのだが、事業拡大の機会を虎視眈々と狙っているのだ。社交会にて、高価な写真機を貸してくれるほどの大物と知り合えたのは彼にとって大変な名誉だっただろう。
「写真に興味があるのかい?」
「ええ、子供の頃から近くで写真展があれば必ず連れて行ってもらいましたわ」
「そうか。この機械で撮った写真をいくつか持ってきたから見てみると良い」
彼は写真を貼り付けたアルバムを取り出した。アニーはそれを興味津々で開く。
「素晴らしいですわ!……それにしても、ずいぶんと肖像画が多いんですね」
「珍しいかね?」
「ええ。私が見た写真は風景を写したものが多かったです。確か、写真を映し取るには何分も動かないでいることが必要なのでしょう? ほら、この逆立ちしている道化師さんなんて、さぞかし大変だったでしょうねぇ」
かつての写真撮影は、長時間露光させる必要があった。そのため、動き回るものは撮れなかったのである。風景なら良いのだが、肖像写真を写すには人物にずっと同じ格好をさせなければならない。
「さすがだ! いいところに気がついたね。この写真機は最新型で、10秒ほどの露光でも大丈夫なんだ。ほら、これは私の写真だ」
主人はアニーに、ポケットから取り出した一枚の写真を見せた。それは目を見開いて舌を出したおどけた顔で、今で言う「変顔」とでも呼ぶべきものである。
「くすっ……面白いですわ」
「こんな格好、1分も保てないだろう。この機械ならこんな顔も残せるんだ。すごいだろう」
「技術の進歩というのは早いものですね。それも、旦那さまのような方々が頑張っているおかげなのですね!」
メイドにおだてられて、主人はすっかり気分を良くしている。
「ところで、友人から何か写真を撮ってみるように頼まれたんだ」
「どういうことですか?」
「彼が言うには、素晴らしい発想を得るためには一人の力では無理で、私のような素人の発想にこそ飛躍があると言うんだよ」
主人は大げさな手振りを交えながらメイドに説明した。
「そこで一つ考えがあるのだが。君をモデルにしてみてもいいかな」
「私を写真で撮るおつもりですか?!」
「そうだ。写真が好きな君にはぴったりの体験だと思うがね」
「そんな。写真に使う紙や薬液も貴重なものなのでしょう? 私などを写すのはもったいないですわ」
彼女は遠慮しているものの、その顔は明らかに写真を撮られることへの期待にあふれている。
「今は大量生産が進んでいるからどんどん安くなっているんだ。君が気にする必要はないよ」
「そうなのですか。ではお言葉に甘えて……写していただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん。さっそく準備を始めよう! 私の部屋に来なさい」
「えぇ?! 今、すぐにですか?」
「そうとも。ちょうど窓から西日が差し込む、黄金の時間帯だ。今日のような晴れの日を逃す手はないぞ」
ロンドンが霧の都と呼ばれていたのは、気象条件だけが理由ではない。急速な工業化に伴う大気汚染もまた日差しを遠ざけていたのである。今日のように柔らかな夕日が差し込む日は、千載一遇の好機とも言えた。
*
アニーは控室に戻ると大急ぎで赤毛に櫛を通し、後頭部でギブソンタックにまとめ上げて、新しいヘッドドレスを付ける。そして顔を入念に洗い、パウダー(白粉)で肌のシミやそばかすを少しでも誤魔化す。これはメイドのために主人が用意した唯一の化粧品である。この時代には水銀を使用したパウダーも用いられていたのだが、水銀の危険性をいち早く把握していた主人の配慮により、すべてコーンスターチなどの植物性のものに置き換えられていた。
そして一番新しくてきれいなメイド服に着替え、今朝洗って干してアイロンをかけたばかりの純白のエプロンに身を包んで、鏡の前で改めて身支度を確認する。またとない機会である。恥ずかしい姿を残さないようにしなくては。そして緊張した足取りで主人の部屋の前に行き、ドアを叩いた。
「入っていいよ」
「それでは、失礼します……」
ノックの音に応え、主人は笑顔でアニーを迎え入れた。彼女の眼の前には、重厚な三脚の上に、黒布をかけられて鎮座したカメラ・オブスキュラがあった。
「素敵なお嬢さん、こちらへどうぞ」
「ふふ。よろしくお願いしますわ」
主人はメイドに、やや大仰な敬称で呼びかけつつ手招きした。彼女は汚れ一つない黒のドレスの上に、糊の効いた純白のエプロンとヘッドドレスを身につけた姿で、言われるままにカメラの前に立った。
「少し表情が硬いね。これは遊びなんだから、緊張しなくても大丈夫だよ。普段通りの君の姿を見せてくれ」
「これで、よろしいですか?」
アニーは平静を意識して、真正面からカメラを見据えた。
「うーむ……真正面を向くよりは……そうだな、あの絵のほうを向いてくれないか」
「はい」
主人は、アニーの視線がちょうど斜めになるように誘導する。そこには一枚の裸婦画がかけられていた。豊満な体つきの精霊が、草原の上で両手を広げて立っている構図である。メイド達には値打ちものだと吹聴しているが、実際は見習いの画家から格安で買い上げたもので、額縁のほうが高価なくらいである。彼がそれを指し示したのはたまたま壁にかかっていたからに過ぎないが、ここで裸婦画と向き合ったことは自分の意識を大きく変えたと、後にアニーは語ることになる。
「いいね。10数えるまでそのまま。1、2、3……」
主人はカメラ・オブスキュラのレンズを覆う布をめくり上げて、箱の中に秘められた印画紙をアニーに晒す。彼女の10秒が、永遠として刻まれていく。
「……10」
「ふぅっ……」
初めての写真撮影を終え、思わずため息をつくアニー。
「上手に、写りましたかね?」
「さあ、現像してみないとわからないよ。今は、とにかく撮ってみようか」
「わかりました……」
彼女は主人に従い、撮影が続く。
*
「ちょっと、エプロンを外してみようか」
「どうしてですか?」
「なに、同じメイド姿ばかりを写すのも芸が無いと思ってね。着替えに戻る時間ももったいないだろう」
「そうですか……」
彼女は少し戸惑いながらも、主人の言葉に従ってエプロンの腰紐を解き、外してテーブルに置いた。黒いドレスの腰のくびれが解放され、印象ががらりと変わる。
「なんだか、エプロンを外すと少し落ち着かないですね」
「珍しいね。君がそんなに戸惑った表情をするなんて」
メイドとして2年勤務して、すっかり仕事が板についていた。しかし、このような中途半端な姿で主人の前に立つのは初めてのことだったのだ。普段と違う自分の姿にどこか恥ずかしさを覚えつつ、内心に湧き上がる奇妙な高揚感が、彼女の胸をそっと揺さぶっていた。
「先ほどと同じポーズでよろしいですか」
「そうだね。いや、むしろ……」
メイドは再び主の指示を待つ。その時の彼女の内面には、カメラの魔力に引き寄せられるような、今までに経験したことのないような気持ちが生まれようとしていた。
*
「襟が、気になるのかね?」
「いえ、そういうわけでもないのですが」
ポーズを指示する間の手持ち無沙汰から、彼女は襟元に手をかけることが多くなっていたのを主人は見逃さなかった。
「どうかね、襟を少しだけ緩めてみては?」
彼の声は、慎重でありながらどこか期待を含んでいるような口調でそう言った。
「襟を……ですか?」
アニーの心に戸惑いがよぎる。主人の前で服装を少しでも崩すことなど、普段の仕事では考えられない行為だ。まして、鏡の前で整えたばかりだというのに。しかし、カメラの前に立つという非日常の高揚感と、主の柔らかな視線に、心の抵抗がほぐれていくのを感じた。
「無理にとは言わないが、同じ姿ばかりというのもつまらないだろう?」
「……はい、旦那さま。」
彼女は襟元に手を伸ばす。まるで、そう命じられるのかを待っていたかのように。そして震える指先でボタンに触れる。一つ目のボタンを慎重に外すと、少しだけ襟元が緩み、隠れていた首元がわずかに露わになった。
「その調子だ。続けて」
柔らかな声に後押しされ、アニーは呼吸を整えながら、二つ目のボタンに手をかける。小さな音を立ててボタンが外れると、襟の間から白い肌着が少しずつ覗き始める。
「……こんなことをして、本当によろしいのですか?」
メイドは非日常的な背徳感に声を震わせながらも、その手を止めることはない。
「いいとも。今は主人とメイドではなく、写真家とモデルなんだ」
主人がカメラに手をかけると、アニーは動きを止め、撮影が始まる。カメラ越しに視線を浴びて、彼女の心の中に新たな感情が生まれる。
三つ目のボタンに指をかける。襟の下から覗く白いコルセットと生成りのシュミーズが、窓から降り注ぐ夕日に照らされて、眩しいほどに輝いていた。アニーは恥じらいと緊張を感じつつも、撮影がまだ終わらないことを望んでいた。
*
ついにドレスのボタンが全て外された。アニーは夕日に頬を染めながら主を見上げた。
「次は、いかがいたしましょうか。旦那さま」
「そうだな、袖を少しずつ下ろしてみてくれてもいいかな?」
その声は静かで優しく、しかし有無を言わせないものを感じた。彼女は主人の持つ今までに見せたことのない一面に若干の恐怖を抱きながらも、期待通りにことが運んでいくことに安堵していた。
アニーはためらいながらも……否、ためらう素振りを敢えて見せながら、ドレスのカフスを外して袖口に手をかける。メイドがメイドであるためのアイデンティティの象徴を、主人の前で自ら脱ぎ捨てようとしていることに興奮を覚えつつ。ゆっくりと左の袖を肩から滑らせ、次に右の袖も同じように下ろすと、ドレスが腕からふわりと落ちていく。これで上半身はコルセットと、その下に付けているシュミーズのみとなり、彼女は裸の肩に刺さる夕日の熱を感じた。
「あまり、人にお見せしたことがないのですが……」
「大丈夫、とても美しいよ」
主人は彼女を褒めながら、半分だけメイド服を脱いだその姿を何枚か写真に収めていく。
*
「まだ、撮影をお続けになりますか?」
「ああ、印画紙はたっぷりあるからね。続けようか」
アニーは小さく息を飲み、ドレスのウェスト部分に手をかけ、改めて主人を見つめる。彼は無言で頷いた。彼の期待に応えたいという思いが、心の奥底に静かに芽生えていた。深呼吸をして気持ちを整えるとウェストを緩めて、ドレス全体を足元へと滑り落としていく。
「旦那さまに用意していただいたドレスを、こんなふうに粗末に脱いでしまうなんて。申し訳ございません」
普段ならこんな脱ぎ方は決してしない。メイド服という器から解放されたかったという気持ちが先走ったのだろう。
「なに、気にすることはないさ」
「それに、こんなにも……肌を晒してしまうなんて……」
彼女は視線を落とし、肌着のみに包まれている自分の姿を不安げに見つめた。
「君が望まないのなら、撮影はここまでにしようか」
「いえ、続けてください!」
アニーは床に落ちたドレスを静かに拾い上げ、椅子の上に掛けた。肌着のみになった儚げな姿を主人はカメラ越しにじっと見つめ、彼女はその視線に応えるかのように、静かに息を整えた。彼女の心の中には、無防備な姿であるにもかかわらず不思議なくらい落ち着いた気持ちと、未知の体験に対する高揚が共存する感覚が広がっていた。
あの絵のモデルになった裸婦も、もしかしたらこんな気持ちだったのかも知れない。
*
「コルセット、少し窮屈ではないかね?」
「え、そのようなことは……」
主人の質問に対してアニーはとっさにそう答えたが、実際のところはこの2年間で胸がずいぶん大きくなるのを感じていた。屋敷で働くようになってからは、家よりも確実に食事は良くなった。主人は質素なほうだと自嘲するのだが、たとえばサンデーローストとして、羊肉や牛肉を毎週末に焼くのである。栄養状態は改善され、実際に肌の艶が良くなった実感もある。あるいはもしかしたら、やや遅れてやって来た成長期なのかも知れない。おそらくその両方なのだろうが、ともかくメイド仲間にコルセットの紐を締めてもらうときに窮屈さを感じるようになっていた。
「私はもっと自然な君の姿を撮りたいんだ。外してあげようか」
「旦那さま……?」
彼は有無を言わさずアニーのもとに近づき、背中を向けるように命じた。
「そのようなこと、旦那さまはなさらないでください……」
「自分ひとりでは外せないだろう」
この屋敷で常駐するメイドは多くて2人である。コルセットの着脱は、引継ぎのときにやってもらうのが通例だった。なにせ、ここに来たばかりのときには、着られるメイド服そのものが1着しかなかったこともあるのだ。
ともかく、主人はメイドのコルセットの紐を解いていく。当時の女性たちにとって抑制の象徴であり、社会に押し付けられた装いでもあるそれを、あろうことか彼女の雇用主が外そうとしている。束縛であると同時に、彼女の柔らかい肌を守るための鎧でもあるコルセットが、有無を言わせぬ主人の手によって剥ぎ取られていく。アニーはまた一つ、無垢な姿へと近づいていった。
「これでよし、と。ほら、こっちを向いてごらん」
「あ……」
彼女は不安げに、胸の前を両手で抑えて主人に向き直った。この薄いシュミーズの下は裸である。膨らみ始めて以来、男性に見せるのは初めてである。
「ほら、腕をおろしなさい」
「わかりました……」
穏やかだが、命令口調でそう言われたら従わないわけにはいかない。彼女は両腕をおろした。差し込む夕日が薄い布を照らし、その下にある突起をうっすらと浮き上がらせていた。
「それじゃ、続けようか」
「はい、よろしくお願いします……」
彼女は薄布1枚の無防備な姿で、主人の指示を待った。
*
主人が敢えて窓からの日差しを逆光として使い、アニーの後ろ姿のシルエットをレンズに捉えている間、彼女は窓の外の景色を見ていた。こんなにきれいな夕日を見たのは本当に久しぶりのような気がする。遠くの空を飛ぶ黒い鳥の影はワタリガラスかクロウタドリか。普段なら彼女自身も、黒いメイド服を身につけて忙しく働いているべき時間帯で、空を見ることすらあまりなかったのである。
「そろそろ、夕食の支度をしなければなりません」
「ああ、私なら気にしなくていいよ。訪問先でたっぷりカリー・アンド・ライスをいただいたからね。もちろん、君が空腹なら一休みしても構わないが」
「いえ、大丈夫です。日が暮れるまで……あるいは印画紙が尽きるまでお付き合いさせてください」
改めて、彼女は主人に向き直ってカーテシーの礼をする。スカートの裾をつまみ上げる代わりにシュミーズをつまみ上げてしまい、思わず照れて顔を下げてしまう。
「じゃあ、今度は椅子を使ってみようか。部屋の真ん中に持ってきてもらえるかな」
「はい……これでいいですか?」
「ああ。それじゃそこに座って、ストッキングを脱いでしまいなさい」
指示を聞いた瞬間、アニーの頬に赤みが差し、目を伏せてわずかに震えた。椅子に腰掛け、靴とストッキングを脱ぐ――それは彼女にとって、今までで最も恥ずかしい行為に感じられた。なぜなら、黒いストッキングは使用人にとって慎みの象徴。それを脱いで素足を見せるというのは、服を脱ぐよりも恥ずかしい行為のように思えたからだ。それは隠されてきた自分を完全にさらけ出すことに等しいと感じられた。
主人が穏やかな視線でじっと見守る中、彼女はゆっくりと椅子に腰を下ろし、柔らかく息を整えた。まずは手をそっと靴にかけ、ひとつずつ丁寧に脱ぎ去る。さらに、震える指でストッキングをガーターから外した、膝下から慎重に引き下ろしていく。
「ガーターも、ですか?」
彼女の問いかけに主人は無言で頷く。ストッキングを固定するために膝上に巻き付けてあるガーターを解く。彼女の白い素足が夕日に照らされ、長い影を作った。彼女は初めて、自らの手で磨き上げた屋敷の床を裸足で踏んだ。
今のアニーがその身にまとっているのはシュミーズとドロワーズのみになる。こんな姿で、しかも裸足でいるなんて、まるで少女の頃に戻ったような気分であった。しかし彼女は未だにメイドとしての勤務中なのである。そして、主人の視線の先にいるのである!
改めて視線を上げ、主人と目を合わせたその瞬間、彼女は心の中で覚悟を決めた。彼の前でならどんな姿でも見せられる。たとえ裸になったとしても、それは許されざる行いではない。今という瞬間にしかできない、特別な体験として彼女の中に刻まれていくのだと。
*
黄金色の夕日がアニーを照らす。ただ、シュミーズと、その下のドロワーズのみを身に着けた彼女の姿を。主人が命じるたびに動きを止めてポーズを作る。このときに呼吸を整える必要があるためか、あまりにも非日常的な状況にもかかわらず、彼女の心は穏やかであった。そして、暮れゆく日差しが彼女をより大胆にしようとしていたが、自らの手でそれを行う勇気はなかった。
主人は彼女のそんな気持ちを察したのか、あるいは単純に撮りたいという欲求からか。とにかく、彼女に目を合わせて、自らの左肩を右手で触れるジェスチャーをした。アニーは鏡写しのように、それを真似る。主人がその手を滑らせると、彼女もまた同じように。すなわち、シュミーズの肩紐を下ろした。
続いて主人は、反対側の手で同じ仕草をした。彼女は戸惑いを浮かべつつもそれを真似る。まるで、主人の手で脱がされているような錯覚に、思わず息を漏らした。そして両方の肩紐が降ろされ、シュミーズは今や腕のみで支えられている状態だ。
「両手を、下ろして見せてくれないか」
「……」
アニーは無言である。この手を下ろしたら、裸の胸を晒してしまうことになる。
「両手を、下ろしなさい」
主人はあくまでも優しい声で、しかし有無を言わせない重みもある口調で、ゆっくりとそう告げた。アニーは観念してその命令に従うと、ついにアニーは完全に裸になった上半身を晒した。
「いい子だ。窓の前で横を向きなさい」
「はい……」
窓からの夕日が彼女のシルエットを作る。やや上を向いた、硬い蕾のような突起の形がはっきりと示される。果たして印画紙はその姿を写し取ることができるのだろうか、主人にはわからない。だが、この姿を留めておきたいと強く願った。
「もっと、背筋を伸ばして。胸を張って」
アニーは恥じらいを押し殺しつつ主人に従う。そして黄金色の夕日の中に浮かび上がる自らの姿を想像し、軽い恍惚を感じる。私、芸術になろうとしているんだ、と。
*
「さて、そろそろ印画紙も最後の一枚か」
主人は改めて順光に照らされたアニーを見る。残り僅かな太陽の雫に照らされて、彼女のほんのりと色づいた乳首が、はっきりと主人の前に晒されている。
「そろそろ日も暮れる。最後の一枚を撮ろう」
「はい……」
この非日常が終わってしまうことに、アニーは安堵よりも寂しさを感じていた。
「その前に。君を束縛している最後のものを解き、自由になった姿を見せてくれないか?」
「……わかりました」
その声はわずかに震えていたが、確かな決意も帯びていた。アニーはゆっくりと指を動かし、ドロワーズを腰で結んでいる細い紐に手をかけた。
「あっ……」
意表を突かれたのは主人である。彼の意図としては、メイドの象徴であるヘッドドレスを外して髪を解かせるつもりだった。嫁入り前の娘さんを完全に裸にしてしまうつもりはなかったのだ。
「いいのです、旦那さま」
彼が静止する間もなく、紐は完全に解かれた。ぱさり、と音を立ててドロワーズが床へと落ちる。そして堂々と夕陽に向かい立つ。メイドとしての最後の象徴であるヘッドドレスを除いて、もはや一糸も纏わない肌が赤い夕陽に晒される。しかし、今や彼女の中には恥じらいや恐れよりも、むしろ静かな解放感が広がっていた。
「さあ、早く。お願いします。黄金の魔法が解けないうちに」
彼女は全てを受け入れるかのように両手を広げた。それは、この部屋にかけられている裸婦画と同じポーズである。そして顔を上げ、主人の目をまっすぐに見つめた。
「ああ」
そして主人は彼女の覚悟に向かい合った。
「1、2、3……」
その顔は夕陽よりもさらに赤く染まり、恍惚の表情を浮かべている。
「4、5、6……」
美しく成長した女性の象徴である双丘。先端がわずかに影を作っている。
「7、8、9……」
秘部を覆い隠す、髪と同じ鮮やかな赤毛。まるで絹糸のように細やかだ。
「10。……ありがとう」
「こちらこそ。お目汚し失礼いたしました」
彼女は裸のまま、見えないスカートの裾をつまみ上げて、深々と主人に頭を下げた。主人は、写真には残らない天然色の彼女の姿を目に焼き付けた。
**
「よく写ってますね」
「ああ、何枚かはピントがボケてしまったが、初めてにしては上出来だと褒めてくれた」
後日、二人は現像された写真を鑑賞する。
「それにしても、旦那さま自らが現像なさったのですね」
「他の誰にも見られたくなかったからな」
「お気遣いありがとうございました」
撮影の翌週。彼は友人に現像の仕方を教わり、わざわざ屋敷内に暗室まで作ってまで、自ら現像を行ったのだ。服を着た何枚かの写真はその友人にも手伝ってもらい、着崩した姿からは自分だけで現像したのである。
「ま、彼に見せられない写真は現像を失敗したとで言って誤魔化せばいいさ」
「このとき、最後にヘッドドレスを外さなかったのはどういうわけかね?」
「それは……何者でもない一人の女としては、こんなに大胆なことは出来ませんでしたから」
最後のオールヌードの写真を見ながら、彼女はやや恥ずかしげに、しかし堂々とそう言った。
「ですが、メイドとしてなら旦那さまのために尽くして差し上げます。もちろん、主人であれば誰にでも尽くすというわけではございませんが」
主人はその言葉に深く感心して、誇らしく思った。それと同時に、いずれは彼女を女として裸にしてみたいと願った。それはメイドと主人の本分をわきまえない行為であることはわかっているが、彼女とならば新たな関係を築けるかも知れないと夢見るのであった。
ここはロンドンの町のはずれにある小さな屋敷。上流階級の貴婦人たちであれば優雅なティータイムを楽しんでいるであろう昼下がり、メイドのアニーは帰宅する主人を迎えた。彼は、彼女が見たこともないような不思議なものを携えていた。
「ああ、これはカメラ・オブスキュラ。社交会で知り合った友人に貸してもらったんだ」
カメラ・オブスキュラとは、ラテン語で「暗い部屋」を意味する。今日における「カメラ」とは、すなわち「カメラ・オブスキュラ」の略称なのである。
「カ、カメラ……スキュラ?? とは?」
「そうだな、わかりやすく言えば写真機かな」
写真すなわちPhotographyとは、ギリシャ語の 「フォトス(φῶς, phōs)」(光)と 「グラフェイン(γράφειν, graphêin)」(書く・描く)を組み合わせた造語であり、1839年にイギリスの天文学者ジョン・ハーシェルが提唱した用語だとされている。そして19世紀も後半に入ると、カメラそのものとは縁のない庶民であっても、展示会などで写真を見る機会は珍しいことではなくなっていった時代である。
「ということは、これで写真が撮れるのですね!」
メイドのアニーは目を輝かせた。もともと彼女がこの家で働くことを選んだのは、新しい技術に興味があるからである。ここの家の主人は若年ながら産業革命の流れに乗り、資本家として紳士録に名を連ねている人物である。住んでいる屋敷は最近手に入れたばかりの手狭な物件で、雇用している使用人も数人に過ぎないのだが、事業拡大の機会を虎視眈々と狙っているのだ。社交会にて、高価な写真機を貸してくれるほどの大物と知り合えたのは彼にとって大変な名誉だっただろう。
「写真に興味があるのかい?」
「ええ、子供の頃から近くで写真展があれば必ず連れて行ってもらいましたわ」
「そうか。この機械で撮った写真をいくつか持ってきたから見てみると良い」
彼は写真を貼り付けたアルバムを取り出した。アニーはそれを興味津々で開く。
「素晴らしいですわ!……それにしても、ずいぶんと肖像画が多いんですね」
「珍しいかね?」
「ええ。私が見た写真は風景を写したものが多かったです。確か、写真を映し取るには何分も動かないでいることが必要なのでしょう? ほら、この逆立ちしている道化師さんなんて、さぞかし大変だったでしょうねぇ」
かつての写真撮影は、長時間露光させる必要があった。そのため、動き回るものは撮れなかったのである。風景なら良いのだが、肖像写真を写すには人物にずっと同じ格好をさせなければならない。
「さすがだ! いいところに気がついたね。この写真機は最新型で、10秒ほどの露光でも大丈夫なんだ。ほら、これは私の写真だ」
主人はアニーに、ポケットから取り出した一枚の写真を見せた。それは目を見開いて舌を出したおどけた顔で、今で言う「変顔」とでも呼ぶべきものである。
「くすっ……面白いですわ」
「こんな格好、1分も保てないだろう。この機械ならこんな顔も残せるんだ。すごいだろう」
「技術の進歩というのは早いものですね。それも、旦那さまのような方々が頑張っているおかげなのですね!」
メイドにおだてられて、主人はすっかり気分を良くしている。
「ところで、友人から何か写真を撮ってみるように頼まれたんだ」
「どういうことですか?」
「彼が言うには、素晴らしい発想を得るためには一人の力では無理で、私のような素人の発想にこそ飛躍があると言うんだよ」
主人は大げさな手振りを交えながらメイドに説明した。
「そこで一つ考えがあるのだが。君をモデルにしてみてもいいかな」
「私を写真で撮るおつもりですか?!」
「そうだ。写真が好きな君にはぴったりの体験だと思うがね」
「そんな。写真に使う紙や薬液も貴重なものなのでしょう? 私などを写すのはもったいないですわ」
彼女は遠慮しているものの、その顔は明らかに写真を撮られることへの期待にあふれている。
「今は大量生産が進んでいるからどんどん安くなっているんだ。君が気にする必要はないよ」
「そうなのですか。ではお言葉に甘えて……写していただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん。さっそく準備を始めよう! 私の部屋に来なさい」
「えぇ?! 今、すぐにですか?」
「そうとも。ちょうど窓から西日が差し込む、黄金の時間帯だ。今日のような晴れの日を逃す手はないぞ」
ロンドンが霧の都と呼ばれていたのは、気象条件だけが理由ではない。急速な工業化に伴う大気汚染もまた日差しを遠ざけていたのである。今日のように柔らかな夕日が差し込む日は、千載一遇の好機とも言えた。
*
アニーは控室に戻ると大急ぎで赤毛に櫛を通し、後頭部でギブソンタックにまとめ上げて、新しいヘッドドレスを付ける。そして顔を入念に洗い、パウダー(白粉)で肌のシミやそばかすを少しでも誤魔化す。これはメイドのために主人が用意した唯一の化粧品である。この時代には水銀を使用したパウダーも用いられていたのだが、水銀の危険性をいち早く把握していた主人の配慮により、すべてコーンスターチなどの植物性のものに置き換えられていた。
そして一番新しくてきれいなメイド服に着替え、今朝洗って干してアイロンをかけたばかりの純白のエプロンに身を包んで、鏡の前で改めて身支度を確認する。またとない機会である。恥ずかしい姿を残さないようにしなくては。そして緊張した足取りで主人の部屋の前に行き、ドアを叩いた。
「入っていいよ」
「それでは、失礼します……」
ノックの音に応え、主人は笑顔でアニーを迎え入れた。彼女の眼の前には、重厚な三脚の上に、黒布をかけられて鎮座したカメラ・オブスキュラがあった。
「素敵なお嬢さん、こちらへどうぞ」
「ふふ。よろしくお願いしますわ」
主人はメイドに、やや大仰な敬称で呼びかけつつ手招きした。彼女は汚れ一つない黒のドレスの上に、糊の効いた純白のエプロンとヘッドドレスを身につけた姿で、言われるままにカメラの前に立った。
「少し表情が硬いね。これは遊びなんだから、緊張しなくても大丈夫だよ。普段通りの君の姿を見せてくれ」
「これで、よろしいですか?」
アニーは平静を意識して、真正面からカメラを見据えた。
「うーむ……真正面を向くよりは……そうだな、あの絵のほうを向いてくれないか」
「はい」
主人は、アニーの視線がちょうど斜めになるように誘導する。そこには一枚の裸婦画がかけられていた。豊満な体つきの精霊が、草原の上で両手を広げて立っている構図である。メイド達には値打ちものだと吹聴しているが、実際は見習いの画家から格安で買い上げたもので、額縁のほうが高価なくらいである。彼がそれを指し示したのはたまたま壁にかかっていたからに過ぎないが、ここで裸婦画と向き合ったことは自分の意識を大きく変えたと、後にアニーは語ることになる。
「いいね。10数えるまでそのまま。1、2、3……」
主人はカメラ・オブスキュラのレンズを覆う布をめくり上げて、箱の中に秘められた印画紙をアニーに晒す。彼女の10秒が、永遠として刻まれていく。
「……10」
「ふぅっ……」
初めての写真撮影を終え、思わずため息をつくアニー。
「上手に、写りましたかね?」
「さあ、現像してみないとわからないよ。今は、とにかく撮ってみようか」
「わかりました……」
彼女は主人に従い、撮影が続く。
*
「ちょっと、エプロンを外してみようか」
「どうしてですか?」
「なに、同じメイド姿ばかりを写すのも芸が無いと思ってね。着替えに戻る時間ももったいないだろう」
「そうですか……」
彼女は少し戸惑いながらも、主人の言葉に従ってエプロンの腰紐を解き、外してテーブルに置いた。黒いドレスの腰のくびれが解放され、印象ががらりと変わる。
「なんだか、エプロンを外すと少し落ち着かないですね」
「珍しいね。君がそんなに戸惑った表情をするなんて」
メイドとして2年勤務して、すっかり仕事が板についていた。しかし、このような中途半端な姿で主人の前に立つのは初めてのことだったのだ。普段と違う自分の姿にどこか恥ずかしさを覚えつつ、内心に湧き上がる奇妙な高揚感が、彼女の胸をそっと揺さぶっていた。
「先ほどと同じポーズでよろしいですか」
「そうだね。いや、むしろ……」
メイドは再び主の指示を待つ。その時の彼女の内面には、カメラの魔力に引き寄せられるような、今までに経験したことのないような気持ちが生まれようとしていた。
*
「襟が、気になるのかね?」
「いえ、そういうわけでもないのですが」
ポーズを指示する間の手持ち無沙汰から、彼女は襟元に手をかけることが多くなっていたのを主人は見逃さなかった。
「どうかね、襟を少しだけ緩めてみては?」
彼の声は、慎重でありながらどこか期待を含んでいるような口調でそう言った。
「襟を……ですか?」
アニーの心に戸惑いがよぎる。主人の前で服装を少しでも崩すことなど、普段の仕事では考えられない行為だ。まして、鏡の前で整えたばかりだというのに。しかし、カメラの前に立つという非日常の高揚感と、主の柔らかな視線に、心の抵抗がほぐれていくのを感じた。
「無理にとは言わないが、同じ姿ばかりというのもつまらないだろう?」
「……はい、旦那さま。」
彼女は襟元に手を伸ばす。まるで、そう命じられるのかを待っていたかのように。そして震える指先でボタンに触れる。一つ目のボタンを慎重に外すと、少しだけ襟元が緩み、隠れていた首元がわずかに露わになった。
「その調子だ。続けて」
柔らかな声に後押しされ、アニーは呼吸を整えながら、二つ目のボタンに手をかける。小さな音を立ててボタンが外れると、襟の間から白い肌着が少しずつ覗き始める。
「……こんなことをして、本当によろしいのですか?」
メイドは非日常的な背徳感に声を震わせながらも、その手を止めることはない。
「いいとも。今は主人とメイドではなく、写真家とモデルなんだ」
主人がカメラに手をかけると、アニーは動きを止め、撮影が始まる。カメラ越しに視線を浴びて、彼女の心の中に新たな感情が生まれる。
三つ目のボタンに指をかける。襟の下から覗く白いコルセットと生成りのシュミーズが、窓から降り注ぐ夕日に照らされて、眩しいほどに輝いていた。アニーは恥じらいと緊張を感じつつも、撮影がまだ終わらないことを望んでいた。
*
ついにドレスのボタンが全て外された。アニーは夕日に頬を染めながら主を見上げた。
「次は、いかがいたしましょうか。旦那さま」
「そうだな、袖を少しずつ下ろしてみてくれてもいいかな?」
その声は静かで優しく、しかし有無を言わせないものを感じた。彼女は主人の持つ今までに見せたことのない一面に若干の恐怖を抱きながらも、期待通りにことが運んでいくことに安堵していた。
アニーはためらいながらも……否、ためらう素振りを敢えて見せながら、ドレスのカフスを外して袖口に手をかける。メイドがメイドであるためのアイデンティティの象徴を、主人の前で自ら脱ぎ捨てようとしていることに興奮を覚えつつ。ゆっくりと左の袖を肩から滑らせ、次に右の袖も同じように下ろすと、ドレスが腕からふわりと落ちていく。これで上半身はコルセットと、その下に付けているシュミーズのみとなり、彼女は裸の肩に刺さる夕日の熱を感じた。
「あまり、人にお見せしたことがないのですが……」
「大丈夫、とても美しいよ」
主人は彼女を褒めながら、半分だけメイド服を脱いだその姿を何枚か写真に収めていく。
*
「まだ、撮影をお続けになりますか?」
「ああ、印画紙はたっぷりあるからね。続けようか」
アニーは小さく息を飲み、ドレスのウェスト部分に手をかけ、改めて主人を見つめる。彼は無言で頷いた。彼の期待に応えたいという思いが、心の奥底に静かに芽生えていた。深呼吸をして気持ちを整えるとウェストを緩めて、ドレス全体を足元へと滑り落としていく。
「旦那さまに用意していただいたドレスを、こんなふうに粗末に脱いでしまうなんて。申し訳ございません」
普段ならこんな脱ぎ方は決してしない。メイド服という器から解放されたかったという気持ちが先走ったのだろう。
「なに、気にすることはないさ」
「それに、こんなにも……肌を晒してしまうなんて……」
彼女は視線を落とし、肌着のみに包まれている自分の姿を不安げに見つめた。
「君が望まないのなら、撮影はここまでにしようか」
「いえ、続けてください!」
アニーは床に落ちたドレスを静かに拾い上げ、椅子の上に掛けた。肌着のみになった儚げな姿を主人はカメラ越しにじっと見つめ、彼女はその視線に応えるかのように、静かに息を整えた。彼女の心の中には、無防備な姿であるにもかかわらず不思議なくらい落ち着いた気持ちと、未知の体験に対する高揚が共存する感覚が広がっていた。
あの絵のモデルになった裸婦も、もしかしたらこんな気持ちだったのかも知れない。
*
「コルセット、少し窮屈ではないかね?」
「え、そのようなことは……」
主人の質問に対してアニーはとっさにそう答えたが、実際のところはこの2年間で胸がずいぶん大きくなるのを感じていた。屋敷で働くようになってからは、家よりも確実に食事は良くなった。主人は質素なほうだと自嘲するのだが、たとえばサンデーローストとして、羊肉や牛肉を毎週末に焼くのである。栄養状態は改善され、実際に肌の艶が良くなった実感もある。あるいはもしかしたら、やや遅れてやって来た成長期なのかも知れない。おそらくその両方なのだろうが、ともかくメイド仲間にコルセットの紐を締めてもらうときに窮屈さを感じるようになっていた。
「私はもっと自然な君の姿を撮りたいんだ。外してあげようか」
「旦那さま……?」
彼は有無を言わさずアニーのもとに近づき、背中を向けるように命じた。
「そのようなこと、旦那さまはなさらないでください……」
「自分ひとりでは外せないだろう」
この屋敷で常駐するメイドは多くて2人である。コルセットの着脱は、引継ぎのときにやってもらうのが通例だった。なにせ、ここに来たばかりのときには、着られるメイド服そのものが1着しかなかったこともあるのだ。
ともかく、主人はメイドのコルセットの紐を解いていく。当時の女性たちにとって抑制の象徴であり、社会に押し付けられた装いでもあるそれを、あろうことか彼女の雇用主が外そうとしている。束縛であると同時に、彼女の柔らかい肌を守るための鎧でもあるコルセットが、有無を言わせぬ主人の手によって剥ぎ取られていく。アニーはまた一つ、無垢な姿へと近づいていった。
「これでよし、と。ほら、こっちを向いてごらん」
「あ……」
彼女は不安げに、胸の前を両手で抑えて主人に向き直った。この薄いシュミーズの下は裸である。膨らみ始めて以来、男性に見せるのは初めてである。
「ほら、腕をおろしなさい」
「わかりました……」
穏やかだが、命令口調でそう言われたら従わないわけにはいかない。彼女は両腕をおろした。差し込む夕日が薄い布を照らし、その下にある突起をうっすらと浮き上がらせていた。
「それじゃ、続けようか」
「はい、よろしくお願いします……」
彼女は薄布1枚の無防備な姿で、主人の指示を待った。
*
主人が敢えて窓からの日差しを逆光として使い、アニーの後ろ姿のシルエットをレンズに捉えている間、彼女は窓の外の景色を見ていた。こんなにきれいな夕日を見たのは本当に久しぶりのような気がする。遠くの空を飛ぶ黒い鳥の影はワタリガラスかクロウタドリか。普段なら彼女自身も、黒いメイド服を身につけて忙しく働いているべき時間帯で、空を見ることすらあまりなかったのである。
「そろそろ、夕食の支度をしなければなりません」
「ああ、私なら気にしなくていいよ。訪問先でたっぷりカリー・アンド・ライスをいただいたからね。もちろん、君が空腹なら一休みしても構わないが」
「いえ、大丈夫です。日が暮れるまで……あるいは印画紙が尽きるまでお付き合いさせてください」
改めて、彼女は主人に向き直ってカーテシーの礼をする。スカートの裾をつまみ上げる代わりにシュミーズをつまみ上げてしまい、思わず照れて顔を下げてしまう。
「じゃあ、今度は椅子を使ってみようか。部屋の真ん中に持ってきてもらえるかな」
「はい……これでいいですか?」
「ああ。それじゃそこに座って、ストッキングを脱いでしまいなさい」
指示を聞いた瞬間、アニーの頬に赤みが差し、目を伏せてわずかに震えた。椅子に腰掛け、靴とストッキングを脱ぐ――それは彼女にとって、今までで最も恥ずかしい行為に感じられた。なぜなら、黒いストッキングは使用人にとって慎みの象徴。それを脱いで素足を見せるというのは、服を脱ぐよりも恥ずかしい行為のように思えたからだ。それは隠されてきた自分を完全にさらけ出すことに等しいと感じられた。
主人が穏やかな視線でじっと見守る中、彼女はゆっくりと椅子に腰を下ろし、柔らかく息を整えた。まずは手をそっと靴にかけ、ひとつずつ丁寧に脱ぎ去る。さらに、震える指でストッキングをガーターから外した、膝下から慎重に引き下ろしていく。
「ガーターも、ですか?」
彼女の問いかけに主人は無言で頷く。ストッキングを固定するために膝上に巻き付けてあるガーターを解く。彼女の白い素足が夕日に照らされ、長い影を作った。彼女は初めて、自らの手で磨き上げた屋敷の床を裸足で踏んだ。
今のアニーがその身にまとっているのはシュミーズとドロワーズのみになる。こんな姿で、しかも裸足でいるなんて、まるで少女の頃に戻ったような気分であった。しかし彼女は未だにメイドとしての勤務中なのである。そして、主人の視線の先にいるのである!
改めて視線を上げ、主人と目を合わせたその瞬間、彼女は心の中で覚悟を決めた。彼の前でならどんな姿でも見せられる。たとえ裸になったとしても、それは許されざる行いではない。今という瞬間にしかできない、特別な体験として彼女の中に刻まれていくのだと。
*
黄金色の夕日がアニーを照らす。ただ、シュミーズと、その下のドロワーズのみを身に着けた彼女の姿を。主人が命じるたびに動きを止めてポーズを作る。このときに呼吸を整える必要があるためか、あまりにも非日常的な状況にもかかわらず、彼女の心は穏やかであった。そして、暮れゆく日差しが彼女をより大胆にしようとしていたが、自らの手でそれを行う勇気はなかった。
主人は彼女のそんな気持ちを察したのか、あるいは単純に撮りたいという欲求からか。とにかく、彼女に目を合わせて、自らの左肩を右手で触れるジェスチャーをした。アニーは鏡写しのように、それを真似る。主人がその手を滑らせると、彼女もまた同じように。すなわち、シュミーズの肩紐を下ろした。
続いて主人は、反対側の手で同じ仕草をした。彼女は戸惑いを浮かべつつもそれを真似る。まるで、主人の手で脱がされているような錯覚に、思わず息を漏らした。そして両方の肩紐が降ろされ、シュミーズは今や腕のみで支えられている状態だ。
「両手を、下ろして見せてくれないか」
「……」
アニーは無言である。この手を下ろしたら、裸の胸を晒してしまうことになる。
「両手を、下ろしなさい」
主人はあくまでも優しい声で、しかし有無を言わせない重みもある口調で、ゆっくりとそう告げた。アニーは観念してその命令に従うと、ついにアニーは完全に裸になった上半身を晒した。
「いい子だ。窓の前で横を向きなさい」
「はい……」
窓からの夕日が彼女のシルエットを作る。やや上を向いた、硬い蕾のような突起の形がはっきりと示される。果たして印画紙はその姿を写し取ることができるのだろうか、主人にはわからない。だが、この姿を留めておきたいと強く願った。
「もっと、背筋を伸ばして。胸を張って」
アニーは恥じらいを押し殺しつつ主人に従う。そして黄金色の夕日の中に浮かび上がる自らの姿を想像し、軽い恍惚を感じる。私、芸術になろうとしているんだ、と。
*
「さて、そろそろ印画紙も最後の一枚か」
主人は改めて順光に照らされたアニーを見る。残り僅かな太陽の雫に照らされて、彼女のほんのりと色づいた乳首が、はっきりと主人の前に晒されている。
「そろそろ日も暮れる。最後の一枚を撮ろう」
「はい……」
この非日常が終わってしまうことに、アニーは安堵よりも寂しさを感じていた。
「その前に。君を束縛している最後のものを解き、自由になった姿を見せてくれないか?」
「……わかりました」
その声はわずかに震えていたが、確かな決意も帯びていた。アニーはゆっくりと指を動かし、ドロワーズを腰で結んでいる細い紐に手をかけた。
「あっ……」
意表を突かれたのは主人である。彼の意図としては、メイドの象徴であるヘッドドレスを外して髪を解かせるつもりだった。嫁入り前の娘さんを完全に裸にしてしまうつもりはなかったのだ。
「いいのです、旦那さま」
彼が静止する間もなく、紐は完全に解かれた。ぱさり、と音を立ててドロワーズが床へと落ちる。そして堂々と夕陽に向かい立つ。メイドとしての最後の象徴であるヘッドドレスを除いて、もはや一糸も纏わない肌が赤い夕陽に晒される。しかし、今や彼女の中には恥じらいや恐れよりも、むしろ静かな解放感が広がっていた。
「さあ、早く。お願いします。黄金の魔法が解けないうちに」
彼女は全てを受け入れるかのように両手を広げた。それは、この部屋にかけられている裸婦画と同じポーズである。そして顔を上げ、主人の目をまっすぐに見つめた。
「ああ」
そして主人は彼女の覚悟に向かい合った。
「1、2、3……」
その顔は夕陽よりもさらに赤く染まり、恍惚の表情を浮かべている。
「4、5、6……」
美しく成長した女性の象徴である双丘。先端がわずかに影を作っている。
「7、8、9……」
秘部を覆い隠す、髪と同じ鮮やかな赤毛。まるで絹糸のように細やかだ。
「10。……ありがとう」
「こちらこそ。お目汚し失礼いたしました」
彼女は裸のまま、見えないスカートの裾をつまみ上げて、深々と主人に頭を下げた。主人は、写真には残らない天然色の彼女の姿を目に焼き付けた。
**
「よく写ってますね」
「ああ、何枚かはピントがボケてしまったが、初めてにしては上出来だと褒めてくれた」
後日、二人は現像された写真を鑑賞する。
「それにしても、旦那さま自らが現像なさったのですね」
「他の誰にも見られたくなかったからな」
「お気遣いありがとうございました」
撮影の翌週。彼は友人に現像の仕方を教わり、わざわざ屋敷内に暗室まで作ってまで、自ら現像を行ったのだ。服を着た何枚かの写真はその友人にも手伝ってもらい、着崩した姿からは自分だけで現像したのである。
「ま、彼に見せられない写真は現像を失敗したとで言って誤魔化せばいいさ」
「このとき、最後にヘッドドレスを外さなかったのはどういうわけかね?」
「それは……何者でもない一人の女としては、こんなに大胆なことは出来ませんでしたから」
最後のオールヌードの写真を見ながら、彼女はやや恥ずかしげに、しかし堂々とそう言った。
「ですが、メイドとしてなら旦那さまのために尽くして差し上げます。もちろん、主人であれば誰にでも尽くすというわけではございませんが」
主人はその言葉に深く感心して、誇らしく思った。それと同時に、いずれは彼女を女として裸にしてみたいと願った。それはメイドと主人の本分をわきまえない行為であることはわかっているが、彼女とならば新たな関係を築けるかも知れないと夢見るのであった。
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