小さな国だった物語~

よち

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【56.描いた景色】

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ひとつ、ふたつ――

「はぁ…ふぅ…」

荒くなったリアの息遣いが、薄暗い石壁に囲まれた、手狭な空間で霧散する――

屋上へと繋がる垂直に備えられた鉄の梯子を、彼女の小さな手のひらは、一段、また一段。上へ、もう一つ上へと、時間を使いながら、次第にその位置を高くした。

空気は澱んでいる。寝室の扉は閉めた筈だが、その隙間から入り込んだ煙が居住区を通り抜け、屋上へと向かうリアの小さな鼻先へと僅かに届く。
時が経つにつれ、その濃度は確実に増していった――

(もう少しの、はず…)

普段は身軽な身体が、ひたすらに重い。

足の裏に感じる鉛のような重力を断ち切って、ももを上げる。腕を上げる。

思った以上に進んでいなかったらと思うと、上を認めるのが怖い。
いや、見る必要は無い…

ひたすら、上へ…

確かな震えを、利き腕ではない左の上腕に感じ始めた辺り、それでもと右腕を伸ばしたところで、視界の上部に微かな明るさが届いた――

「ふぅ…」

終わりが見えて、一息を入れる――

静かであった。外では戦闘が続いている筈だ。
それでも癖のある赤みの入った髪に隠された小さな鼓膜には、自身の荒い息遣いしか届いていなかった――

それほどに、余裕が無かったのだ――


(つい…た…)

梯子の踏ざん、最上部はそれと分かるように荒い細工が施されていて、小さな手指が握った瞬間、吹き出す汗がすうっと引いてゆく。
それほどの安堵が、全身を包み込んだ――

(どう…なってるの?)

光の中へと顔を出す。陽射しが肌を刺す。
華奢な上半身全部が光を浴びると、彼女は重力の為すがまま、倒れ預けるように、その身を屋上の平場へと投げ出した。

「熱い…けど、これは…」

確かめようと思えど、身体は動かない。夏の陽射しに焼かれた屋上が、再び彼女を襲う。
それでも前日とは違って、焼けるほどの熱さは感じなかった。

「藁?」

屋上には、藁が敷き詰められていた。
雲が覆っていた昨日とは違い、本日は、青空が覗いている。
リアの代役として監視役を務めたラッセルが、暑さ対策として施していたのだ。

(気持ちいい…)

陽射しをいっぱいに浴びた、熱いくらいの藁の匂い。
チクチクと柔肌を刺す不快な筈の信号も、今は身体の重さが鎧となって痛みを和らげて、心地よさにすら変えていた。

「これ…油?」

思わぬ居心地が、冷静な五感を取り戻す――

鼻腔の奥で感じる、粘り気のある不快な臭い…
そこに混じるのは、忌まわしき、記憶の中の臭い…

「南!」

ハッとなって細い腕に力を入れて、身体を起こす。前を見る。
視界を塞ぐ濁流のような黒煙が、右下から左の上方へと、吸い上げられるように立ち昇っていた――

「なに…これ…」

よろめきながらも立ち上がり、意識をせずとも南側の胸壁へと足が進んだ――

そこから見えた景色は――


自分の描くものには、無い世界

自分が描いたものではない世界

そして

絶対に描かないと、誓った世界――



「……」

空虚になった。

黒煙は、南の都市城壁の向こう側から昇っている。

(大丈夫…)

憔悴の瞳。

意識の混濁が生まれ絶望感が襲う中、それでも右へと顔を向けると、西側の攻防は、変わることなく続いていた――

(こっちも…)

続いて左。東側も、大丈夫そうだ。

安堵を求めた彼女は、一息を吐いて視線を落とした。

「あ…」

屋上の隅っこ。

リアの虚ろな眼差しが、励ますように置かれた三本の水筒と、その上から斜めに掛けられた、鍔の広い水色の帽子を認めた――

「ロイズ…」

滅多に被らない淡い色の帽子は、数あるコレクションの中でも、リアの一番のお気に入りだ。
それを知っているのは、この広い世界で、唯一人――



北の都市城壁で指示を出した後、危険を感じて一旦城へと戻ったロイズは、その身体を当然のように螺旋階段へと向けたのだ――
居住区に足を戻すと、そっと寝室の扉を押し開けた。

「……」

外の喧噪が、開けられた小さな窓から流れ込む。

日ごろ午前の執務を終えた後、戻ってきても朝と同じ姿勢で眠っている事がある。
よくそんなに眠れるな…などと思う事もあるのだが、今この時だけは、安堵を呼んだ――

真っすぐに伸びたシーツの膨らみがリアの背丈を測る中、ロイズはベッドの縁に進んで膝を折ると、時に眉間に皺を寄せる愛しい人の横顔を、真横から眺めて静かな寝息を確かめた。

「リ…」

狭い額に手を伸ばそうとして…彼は止まった。
起こしてしまったら無理をする。分かっているのだから、起きるまでは放っておこう。

ロイズはおもむろに立ち上がると、棚へと足を進め、重ねられた帽子の中から、一つを手に取った――

「またあとでね…」

静かに寝室を後にすると、ロイズは机に用意された予備の水筒を手にして水瓶から水を注ぎ、屋上へと繋がる梯子を登り、隅っこに水筒を置いて帽子を掛けて、リアを想った――

この場所から、勝利を見届ける、小さな王妃の姿を――



大きな琥珀色の瞳から、涙がこぼれ落ちた。

敷かれた藁に膝をつき、水筒の水を口へと含み、ゆっくりと流し込む。
愛する人の優しさが、衰弱した心と身体に染みていった――

「南…」

なんとか気力を取り戻し、小さな王妃が立ち上がる。
ふらっと視界が揺れたが、思わず胸壁に手が伸びて、なんとか倒れる事を阻んだ――

大丈夫だ。
本能が生んだ無意識な行動に、自然と勇気が沸いてくる。

「油…」

投石器の砲弾が、ぽーんぽーんと一定の間隔で都市城壁を越えてゆく。

「なんで?」

風に混ざった油の臭いが、強弱を混ぜて鼻を突く。
悪臭の中に混じるのは、焼け焦げた生き物だと想像できてしまう、残酷な死の臭い…

「……」

人間同士が殺し合う姿に囲まれて、リアはしばし言葉を無くした――

しかしながら、争いに備える為に、彼女は守りを固めたのだ。

それは同時に、現在いま起こっている場景を、受け入れたということ――

「くっ」

大きな瞳を見開いた。

感傷に浸っている場合ではない。
状況を理解する。しなければならない。
四方を戦場にしなければ、二人の城を、みんなが選んだこの国を、守ることはできなかったのだ――


「あと、3時間…」

西の太陽は、傾きを増している。彼女が計った残り時間は、勝利までの時間に他ならない。

(これなら…)

めぐりの悪くなった頭脳で、必死に考える。
敵の数、相手の勢い、こちらの配置…

「北は?」

確認を怠った、最も危惧した方角――

振り向いた瞬間に、くらっと視界が歪んだ――

それでも小さな身体は胸壁を頼らずに、藁の上をバサバサと真っ直ぐに、北の状況を確認すべく足を進めた。

「やっぱり…」

北側の都市城壁の攻防が、一番激しかった。

それでも足場を崩し、城壁を越えて侵入してくる敵の殆どは、城壁の上部では弓兵が、侵入を果たした敵兵に対しては、地上に降りたところを槍兵が襲い掛かって対処をしているように思えた。

(大丈夫そうね…)

いくらか安心を取り戻して、リアはお気に入りの帽子を被り、風で飛ばされないように顎ひもを結びながら、状況確認を続けた。

(……)

先ずは、北西方向。
眼下の居住区で、防具を備えていない、倒れている住人の姿が飛び込んだ。

即ち敵兵が、市中への侵入を果たした事が明らかとなる――
王妃の顔が、一瞬だけ青ざめた。

(あ!)

ほぼ同時に、リアの瞳が大きく開く。

倒れた住人の付近。住居の影に隠れて全体像は見えないが、護衛の兵に囲まれた中心に、確かにロイズの赤い目印が付いた甲冑を確認できたのだ。

(良かった…)

市中に入った敵は、ロイズが対処をしている――

住民の悲鳴や混乱した声が聞こえてこない状況も、彼女の推察を後押ししていた。
明るい表情を取り戻した王妃は、北側に掲げてあった赤い旗を勢いよく外すと、黄色の旗へと嬉しそうに交換してみせた。

次に西側へと足を向けると、掲げてあった黄色の旗を、こちらは赤いものへと差し換えた――

最後の敵の攻撃は、一点突破――

彼女もまた、大将軍グレンと同じく、西側の攻防が激しくなると予測した――


(でも、本当にそれだけ?)

南側の状況は、黒煙に阻まれて本当のところは分からない。
巨大な落とし穴を縦断すべく進軍してきた相手を、火攻めで迎え撃ったことは分析できる。

しかしながら、多くの侵略者を葬ったとしても、絶対数が違う。
進入路の一方向を塞いだところで、他へと流れるだけだ――

(でも…)

リアはもう一度、ゆっくりと首を回して、東西と北の城壁を確かめた。

一番の急所となる場所は、都市城壁の四隅に設けられた見張り台である。

しかし足場の広いその場所は、二人が赴任する前から存在するものだ。
何台もの小型の投石器の照準が向いていて、加えて射撃塔は補強され、多くの弓兵が配置に就いている。

尤も、既に見張り台の上には砲弾となった岩石がゴロゴロと転がって、とても橋頭保として使えるような安定した場所では無くなっている。

「……」

東西の城壁から敵が侵入を試みる位置は、相変わらず一定であった。
つまりその場所に、梯子が掛けられているのだ――

(梯子が、足りてない…)

確信は無い――

しかし核となる根拠を以って、リアは南側へと足を進めると、開戦以来変わる事の無かった青い旗を、赤へと替えた――



(戻ったか…)

灰白色の城の屋上に掲げられた旗の色が、変化をしている。
リアの復帰に気付いたロイズは、城の北側で護衛の兵士に囲まれる中、思わず口角を上げて表情を和らげた――

「え!?」

同時に、瞳が開く。
西側と、南側の旗の色が赤へと変わっている――

「西と南だ! ライエルは北へ行った! 西に備えるよう伝えてくれ!」
「はっ」

ロイズが慌てて指示を送ると、護衛の兵士が呼応して、他には一切目もくれず、ただ真っ直ぐに、北へと向かって走り出した――



「梯子の数が足りません」
「くっ…」

トゥーラの城外、南側の林の中で受けた部下からの報告に、スモレンスクの総大将ギュースの頬に刻まれた大きな矢傷が歪んだ――

勿論本国からも梯子は持参したが、何しろ長大なものだ。
林の中を移動するには不向きな為、分割し、運んだ末に組み立て直したのだ。

しかしながら、どうしても耐久性に問題が出たり、落とし穴を縦断する際に使った為に、不足した。
現地調達を目論むも、水分量の増える夏季は木工細工に不向きである。
加えて敵軍が、柵の作成や火種にするために収集したのか、枯れ木は殆ど残っていなかった。


(どうする…)

隣にいた筈の、副将バイリーの姿は既に無い。
目の前でいまだ濛々と立ち昇っている黒煙の下に、彼の身体は消えたきりである――

「ヤットを、呼んでくれ…」
「はっ」

決断は、しなければならない――
しかしそれを、一人で為すには重すぎる。

頼る行為は、果たして卑怯だろうか――

ギュースは外部の意見を求めるために、お互いをよく知る相手を呼び寄せた――


「お呼びですか…」

半ば予想をしていたのか、数分と経たないうちにギュースの大柄な体躯の背後から、鎧姿のヤットが姿を現した。

齢40を数える、目尻の下がったまったり顔の文官には、お世辞にも、その姿が似合っているとは言い難い。

「おう。すまんな…」
「……」

明るく振る舞えるような状況にはない――

日頃からギュースの、酒を手にして豪快に笑い飛ばす姿を見ているヤットの瞳は、伏し目がちに声を発する彼の姿を映して、恐らく考える以上に事態は深刻なのだと悟った。

「勝つ為の…」
「ん?」
「勝つ為に、貴殿が考える策があるのなら、教えて頂きたい…」

それはヤットが耳にする、ギュースの初めての畏まった言葉遣いであった。

普段と変わらず「どうする?」 と問われたら、間違いなく撤退を進言したに違いない。
見越したうえで、彼は敢えてったのだ。

目の前の態度から見えるのは、軍を率いる総大将としての強い覚悟…

決して退くことは無いという、大いなる意思の表れでもあった――



「そうですね…」

戦況を改めて耳に入れ、腕を組んで暫く思慮を重ねた末に、鎧姿のヤットは苦渋の選択といった様相になって意見を絞り出した。

「もう、時間がありません。西側は勿論ですが、攻めるなら南でしょう。風下にあたる東からは撤退して、梯子を南に回します。そろそろ火の手は弱まる筈…風上に立ったなら、攻め手もありましょう」
「南の城門を、直接目指すのは…」
「二つの条件が必要です。一つ目は、落とし穴に掛けた奥の梯子が生きている事。ただ、焼け落ちていると想定した上で、手前の梯子を外して持っていくのなら、やる価値はありそうです」
「うむ…」

腕を組んだまま、伏し目がちに話す友の言葉を耳にして、気落ちしていたギュースの顔色が、僅かではあれ戻っていく。

「もう一つの条件ですが…」

続けてヤットは顎を上げ、じっと視線を合わせるギュースの縋るような瞳を見据えると、希望を与える訳ではないと戒めるように、重たい口調で語り続けた。

「敵の火攻めが、どれくらい続くのか…続けられるのか…」
「ん…」
「あれだけ大掛かりな火攻めは…恐らくはもう無いでしょう。小さな城ですから、油にしろ、火種にしろ、残りは少ない筈です。火の勢いも落ちてくる。もう一度仕掛けるという考えは、悪くありません」
「うむ…」
「ただ…忘れないでいただきたい。あくまでも 『攻めるなら』 です」
「……」

自分の意見は、根本から違う。
ヤットは強調し、退かぬと分かっていながら、それでも諫めるように、重い言葉を吐き出すのだった――



「え…」

トゥーラの一番高い場所。
戦いの全体像をただ一人把握できる小さな王妃の背中に、ぞあっと冷たいものが走った――

ようやく薄まってきた黒煙の向こう側。緑の林を背景にして、侵略者が横陣を敷こうとしている――

銀色が奥まで連なる隊列に、大掛かりな作戦を予感した――

「なんで?」

勝敗は、既についている…

これ以上の争いは、双方の犠牲を増やすだけ――

しかしながら、そんな戦況はただ一人、彼女だけが分かること――


「なんでなの?」

南西からの暖かな風が、帽子からこぼれる赤みを帯びた髪を伴って、すうっと頬へと触れた。

それは夏の暑い午後、冬の陽気の中で風に踊る、淡雪のような冷たさを孕んでいた――


右の頬に、涙が伝っていた――
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