小さな国だった物語~

よち

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【57.一人の少年①】

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スモレンスク公国は、絶対的な階級社会の国である。

国王ロマン・ロスチスラヴィチを中心に、王族と貴族達が彼を支え、国家の発展、拡大に多大な功績を上げた者だけが、序列を上げていく。

「生まれながらに身分が決まっている。だが、その限りではない」

これは、他国の高官に政治体制の仕組みを説明する際に、スモレンスク公国の高官の多くが用いる表現であった。

その列席に加わる方法とは、すなわち他国との争いに於いて武功、又は政治的な成果を上げる事であり、この仕組みこそが、スモレンスク公国の急進的な拡張を促す最大の要因であった――

しかしながら、急進的な拡張には必ず弊害が伴う。
多くの者が大なり小なりの武功を上げる事となったが、その信憑性が問われる事は皆無で、賄賂や口添え、血族意識などによって数字が引き上げられたり、恩賞を賜る推薦文に名前が追加されるなど、腐敗という名の汚水がじわじわと階級社会の下部から上部へと、その数量を増やしていった。

実績以上の椅子を望む者ほど、地位や肩書きにしがみつく。
古今東西、その姿は変わらない。

加えて、そんな醜い上積みに費やした時間を、己の実力や努力と謳うのである――



その日、遊び仲間と夜中に別れ、木骨造りの自宅へと戻った少年は、ふらつく足取りで階段を捉えると、寝室のある二階へと足を進めた。

「あ…兄さん。おかえり」

すると開いていた扉の隙間から、星明りと机に備えた小さなランプを頼りに書物を広げていた弟がこちらに気が付いて、ほっそりとした青白い表皮を覗かせた。

「おう」

少年は、日課となった無機質な声を返した。

「兄さん、あまり言いたくは無いけど…もう少し、早く帰ってきなよ」

日の長い季節にも関わらず、日が落ちて随分と経ってから、酒の匂いを撒き散らして帰ってきた。

そんな兄貴に対して、弟は溜め息交じりに苦言を呈した。

「うるせえな。いいんだよ」
「……」

何が良いのか分からない。

しかしながら、強気を返された弟は、これ以上は無駄な時間を費やすだけだと口を噤むと、書物へと再び視線を落とした――

「お前は、相変わらずお勉強か? 楽しいか? そんなもん」
「うーん…楽しいよ?」
「け。そうかよ」

家督を継ぐ長男の未来は、概ね決まっている。

貴族となった親の地位を頼りに、何かしらの役職に就き、その地位を保つ為に生涯を費やすのだ――


平民だった父親が、下級貴族の地位を獲得するのにどれほどの苦労を重ねたか――

実際のところ、推し量れてはいない。
数多くの戦場へと赴いた事は知っているが、腕っぷしが強いわけでもなく、子供の双眸から覗いても、発想に富んだところがある訳でもなかった。

ただ、父親が友と呼んでいる者は多く、会合と称して出掛けては、夜遅くに酒の匂いを撒き散らして帰ってくる――


貴族の称号を受け取った日、父は居間のソファに腰を落とし、母親に注がせたワインの入ったマグを右手に掲げ、得意満面で饒舌を並べ立てていた。

歳を二桁とした頃の少年には、貴族という地位がどれほどに立派で、格式の高いものなのか、理解に苦しむところはあった。
それでも皺が寄った目を細め、嬉しそうにしている両親を目の前にしては、そんな疑問は霧散して、彼はただ、明るいとされる輪の中に加わることを選んだ――

当時を思い起こす度に、思うことがある。

自分でさえふわふわとした感情だったのだから、二つ年下の弟などは、全く理解ができなかったのでは無いだろうかと――


それから、父の態度が変わっていく。会合の回数は多くなり、それに反比例するように食卓に並ぶ料理の質は落ちていった。ついには帰宅せず、食卓の上には、翌朝になっても父親の分の食事が置いてある…

そんな事が繰り返されるようになったある日、家に帰ると、食卓で母親が背中を震わせて、小さな姿となっていた。
目に入れた少年の両足は、思わずその場で止まった――

やがて気配を察した母親は、振り向いて気丈に声を掛けてきたが、彼女の姿に恐れをなした少年は、思わず踵を返した。

何かを覆い隠そうとする彼女の声質は、いつものものではなかった――


少年は、貴族というものに疑念を抱くようになった。

お調子者ではあったが、子供の頃の父親は、普段から遊び相手になってくれ、笑顔が絶えない家庭であった。

しかしこの頃になると、父親の評判は失墜し、街の誰もが貴族の地位を得る為に、上級貴族に取り入って、推薦文に名を連ねてもらった事を知っている風になっていた――

真相は、定かではない。
しかし少年は、それが真実か。問い質す気にもならなかった――


数年が過ぎ、酒の味を覚えた少年が、夜の街に仲間と繰り出すようになったころ、街の一角で父親の姿を見掛けた。

友と呼び合っているであろう数人が固まって歩む背中を、彼は足元を揺らしながら、一人離れて追っていた――

「……」

冷たい秋の風が吹き抜けていく。

そこには父を友だと呼ぶ者は、誰一人として居ないように思えた――

「……」

あれに比べれば、自分はマシだ。仲間と呼べる奴らが居る――

少年は、酒の入った小さなマグを傾けながら、冷めた目つきで侮蔑した。


果たして――

それを確かめるような自信は、持てぬまま――


経緯はどうあれ、父親が得た地位を、その地位から得られる恩恵を、彼自身もまた捨て去る事は出来なかった――

それは一方で、温かな家庭を壊し、哀れな母を苦しませる、忌み、嫌うべき対象である――



「試験が近いんだったな…せいぜい頑張れよ」
「うん…ありがと」

弟も、来月には15歳になる。
貴族だけが受けられる官吏の採用試験に、今年から挑戦できる。
試験の結果は別として、弟の人生の選択肢を拡げたという意味では、親として子供の為に為すべき事を果たした、という事にもなる。

忌み嫌っているにも関わらず、恩恵はしっかりと受け取っている――

やりきれない現状に、少年の心は鉛のようになって沈んだ――


大いなる矛盾を受け入れる――

大人になるという事は、汚水に慣れるということだろうか――



すっかり日も暮れたある日、少年が仲間達と別れて自宅へ戻ると、開いた扉の隙間から、居間に置かれたテーブルを挟んで両親が肩を落とし、難しい顔をしているのが目に入った。

「……」

両肘をテーブルに預けた父の手には、一辺が15センチほどの、正方形の薄い古びた木片が握られている――

(また、徴兵か…)

他人事だ。
貴族となった事により、決して多くは無いが、従える平民を得られた――

またいつもと同じように、一区画の誰かを、戦いの場へと送るのだ――


翌日、少年が酒の匂いを撒き散らして家路を戻ると、鎧を着た、二人の兵士が自宅の玄関前に座っていた。

足元には背丈ほどの槍が置かれ、兵士の一人は退屈そうにあくびをしている。

「……」
「おい、この家の者だな」

訝しい表情で玄関扉を開けようと手を伸ばすと、一人の兵士が立ち上がり、少年の眼前に槍を翳して進む足を制した――

「え?」

一気に、酔いが醒める。
異様な威圧感が、少年の全身を覆い包んだ――

「おい、コイツで良いんだな!」

半開きになったドアの内側に向かって、兵士が叫ぶ。

「は…はい…」
「!?」

微かな灯りが漏れている。

鼓膜に届いた声は、弱々しい母親のものであった――

「すまん…な…」

続いて、父の声。

「待たせやがって! 来い!」

少年の左腕をむんずと掴み、兵士が歩き出した。
夜も更けてからの物音に、何事かと家を出て、或いは窓から、近所の好奇の視線が向けられる――

「ちょ、ちょっと待てよ! 何だってんだ!」
「なにって、徴兵だよ」

力任せに腕を引かれながら訴える少年に、兵士が冷たく告げる。

「ちょっと、何でだよ! ウチは貴族だぞ!」

続いた言葉――
忌み嫌っている筈なのに、思わず口から飛び出した――

「貴族? 残念だったな。今度の戦いは大規模でな。貧乏貴族は、徴兵対象なんだよ!」
「お、弟は?」
「弟? 知るか。お前のとこの割り当ては、とりあえず一人だ」
「一人? なら、俺は長な……」


そこで彼は、躊躇した――

机に向かう弟を思い浮かべた少年は、抗う姿勢をとどめた――



「紛争が幕を開け、兵として向かうこと」

「誰が、何のために戦場へと向かうのか」

結果と意義は、決して同列ではない――


正しくは、前者を前提として、後者が存在するべきなのだ――

しかしながら後者を殊更に強調することで、前者を理想の手段として創り上げ、飲み込ませる。受け入れてしまう――

小さな正当な声は、濁流となった稚拙な大音量によって掻き消され、時には人為的に無にされて、非難され、抹殺される――

歴史上の過ちが、こうして始まる事は、決して少なくない――


そして抗う事を恐れた、或いは忘却した大人達によって、少年が死地へと向かうのだ――


それは現代に於いても、主義や思想が違っても、変わる事の無い真理である――
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