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【16.愛しさの証】
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「お戻りになられたぞ!」
リャザンを発ってから、三日後の夕刻――
途中の変更はあれど、予定通りの日程でトゥーラへと戻ってきた一行を、都市城壁の南東の見張り台に立った警備兵が見つけると、急いで城内へと知らせた。
「お。随分と早いな」
一方で、リャザン城に比べると圧倒的に貧弱なトゥーラ城の姿を認めたロイズは、いち早く南側の変化に気が付いた。
高さ1メートル程の新しい石造りの防御壁が、国民総出で耕した城外の畑と、都市城壁との間に築かれている。
「ライエルも、なかなかやりますな」
若年という事もあって、普段は自分の下で副将として働く事が多い中、あまり表立って任務を遂行する事がなかっただけに、ライエル自身が中心となってどれほどやれるのかと、一抹の不安があった。
杞憂に終わったグレンが、感心したように呟いた。
「見ている背中が、良いのですよ」
少し遠い目をしたグレンに対して、ロイズが普段を労った。
「…ありがとうございます」
思わぬ言葉だったが、グレンは素直に受け取った。
仕える国王は、しっかりと自分達を見てくれる――
そうした心証は繋がって、やがて強固な絆となってゆくのだ――
「お帰りなさいませ」
住民総出で耕した畑を荒らさないように、ロイズが馬の足を都市城壁沿いに滑らせたところで、前髪を左右から垂らした整った顔立ちのライエルが都市城門から馬に乗って姿を現した。
「ご無事で、何よりです」
「そっちも、順調だったみたいだね」
「はい」
若年の将軍は、ロイズの言葉に誇らしげな声で答えると、さっと馬を返して城までの短い距離ではあるが、国王を含む重臣たちを先導してみせた――
「……」
背筋は真っすぐで、大きくなったように映る。グレンは少なからず頼もしさを感じるのだった――
「リア、ただいま!」
到着後の雑務に追われたロイズが、上機嫌でリアの元へと戻った頃には、太陽はすっかりと大地の向こうに沈んでいた。
「あれ?」
居住区の扉を開けたところで愛する伴侶の姿が飛び込むと期待をしたが、誰もいない。
ロイズの視界には、ランプの灯りすら失った、空虚な薄暗い空間が広がっていた――
「……」
それでもリアが使っている香水の匂いが仄かに漂って、人が居たという気配だけは、確かにある。
右側には、いつも彼女が使っているお気に入りの小さなテーブルがあって、主人の居ない飾り気のない椅子がぽつんと一脚置かれており、隣の小さな窓からは、外からの星明りが寂しそうにそれらを照らし出していた――
居住区に入ってすぐ左側には暖炉があって、それから石壁が3メートルほど続いた後、ロイズの目線より少し低い位置に彩光と換気を目的とした出窓が等間隔で5つほど並べられている。
松明用の燭台が小窓の下には置かれているが、熱の気配は全くない。
「……」
深い呼吸を一つだけ吐いたロイズは、居住区の一番奥へと足を向けた――
「リア?」
ひたひたと石床の上を滑るように歩き、寝室へと続く扉をそっと押し開ける。
首を伸ばしたロイズは、視線の先にある天蓋ベッドの上にリアの姿を認めると、改まった安堵の息を吐き出した。
「どうした? 具合、悪いのか?」
ベッドの上でシーツを被り、背中を向けた状態で彼女は丸まっていた。
ロイズは何となく不穏な空気を感じながらも足を伸ばすと、伺いを立てるように努めて優しい声を渡した。
「そんな事ない…」
すると、シーツの中から返答があった。
なんだか拗ねているような声である――
「…どした?」
歩幅を小さくして、警戒をしながらリアの元へと辿り着くと、ロイズはもう一度、幼子に声をかけるように口を開いた。
「……」
彼女は、普段着のままであった――
被った白いシーツの上部から、僅かに赤みの入った髪の毛が、水に揺らいだ絵の具のように広がっている――
帰ってきたのを察知しながら、こうしているという事か…
「いいの。ちょっと、時間を頂戴」
リアの小さな声色が、重ねてロイズを拒んだ――
「……」
さて、どうしたものか…
思い当たるフシは無い。女性特有の事情で不機嫌なのか?
だとしたら黙って退散するのも一手だが、そうした経験は、リアとの間で一度も無かった――
「理由だけでも聞かせて? 何か、あった?」
放置しても、火種は残る。
理由が分からない事には、対処の仕様もない。
そっとベッドへと腰を下ろすと、ロイズは続けて訊いてみた。
もう一回拒否されたなら、黙って引き下がるつもりで――
「……」
「……」
暫く、二人の間を沈黙が流れた。
ロイズは月明りの淡い光が、漂う得体のしれない重い空気を払ってくれるのを、静かに待つ事にした――
「…一日早く、帰れたでしょ?」
やがて、観念したようにリアがぼそっと声を発した。
「え?」
リャザンを発った初日のこと、遊びに興じて1日を費やした…
用心深い彼女の事だ。出立を知らせる早馬は勿論の事、道中にも遊牧民族の動きを監視する近衛兵を派遣していたのかもしれない――
「ああ…でも、流石にあそこで泊まらないとさ。それに、皆を労いたかったし…」
ロイズにはロイズなりの考えがある。
自らが遊びたかったという事実はあったにせよ、日程通りに戻ってきたのだ。
確かに帰路を急ぐという選択肢はあったかもしれないが、付き従ってくれた兵士にも楽しんでもらおうという考えは、決して間違いではない。
後ろめたい思いはあっても、ロイズは胸中に確かな自負を宿しながら、言い訳じみた言葉を吐き出した。
「いいの。分かってるから」
「え?」
膨らんだ白いシーツから、拗ねた声が再び届いた。
それを受け、ロイズが思わず声を発した。
「分かっているけど…予定が1日早まったから…早く帰って来るかな? って期待しちゃったの」
「……」
ロイズも、長旅を帰ってきたばかりである。
正直、さっさと休みたい。
この発言を、めんどくさいと思うのか… 可愛いと思えるか…
「ごめんな…」
ロイズは囁くように口を開くと、シーツからこぼれるリアの柔らかな髪の毛に優しく触れてみた。
ひと月ほど前、リアがカルーガへと外遊した夜、一人ぼっちの部屋で眠る事がどれほどに寂しいか、ロイズは身をもって知った――
城の最上階。西側は一面に石の壁。両開きの窓は南側に一つだけ…
そんな寝室は、防音を施した居住区を間に挟み、声どころか人の気配すらも通さない。
螺旋階段の下には衛兵が常駐するが、上から呼ばない限りは、階段を上がってくることは無い――
東側の壁には2つの上下窓があって夜風を通すが、同時に虫や獣の声をも通すのだ。
二人一緒なら気にもしない些細な雑音が、増幅されて鼓膜を揺らす――
そんな夜が、五日間――
リアの寂しさは、どれほどのものだったであろうか…
彼女の様相は、愛されている証拠でもあった――
「……」
固まっていたリアの小さな身体が、確かに緩むのを感じ取った。
ロイズのたった一声が、彼女のわだかまりを消してゆく――
「リア…」
ロイズは、その名前を小さく告げた。
「このまま襲いたいけど…身体を拭いてからにするね」
続いて、シーツ越しではあるが、耳元にそっと頬を寄せると、優しく語尾を上げて囁いた――
「うん…」
はにかんだような、リアの心の融解を鼓膜が拾った――
「……」
胸をなで下ろしたロイズは、シーツ越しにリアの頭を優しく一撫ですると、ゆっくりと立ち上がり、扉の方へと足を進めた。
「あ…」
「うん?」
呼び止めるような、微かな声が耳に届いて、ロイズが振り向いた。
「おかえりなさい…」
月明りがぼんやりと照らすベッドの上、シーツに包まった姿は変わらなかったが、小さな王妃は確かに心を開いた。
「ただいま」
無事に戻った安堵。同時に彼女からの愛情をしみじみと感じ取る――
きっと彼女も、同じ心を灯している…
ロイズは優しい声色で、伴侶の想いに応えるのだった――
リャザンを発ってから、三日後の夕刻――
途中の変更はあれど、予定通りの日程でトゥーラへと戻ってきた一行を、都市城壁の南東の見張り台に立った警備兵が見つけると、急いで城内へと知らせた。
「お。随分と早いな」
一方で、リャザン城に比べると圧倒的に貧弱なトゥーラ城の姿を認めたロイズは、いち早く南側の変化に気が付いた。
高さ1メートル程の新しい石造りの防御壁が、国民総出で耕した城外の畑と、都市城壁との間に築かれている。
「ライエルも、なかなかやりますな」
若年という事もあって、普段は自分の下で副将として働く事が多い中、あまり表立って任務を遂行する事がなかっただけに、ライエル自身が中心となってどれほどやれるのかと、一抹の不安があった。
杞憂に終わったグレンが、感心したように呟いた。
「見ている背中が、良いのですよ」
少し遠い目をしたグレンに対して、ロイズが普段を労った。
「…ありがとうございます」
思わぬ言葉だったが、グレンは素直に受け取った。
仕える国王は、しっかりと自分達を見てくれる――
そうした心証は繋がって、やがて強固な絆となってゆくのだ――
「お帰りなさいませ」
住民総出で耕した畑を荒らさないように、ロイズが馬の足を都市城壁沿いに滑らせたところで、前髪を左右から垂らした整った顔立ちのライエルが都市城門から馬に乗って姿を現した。
「ご無事で、何よりです」
「そっちも、順調だったみたいだね」
「はい」
若年の将軍は、ロイズの言葉に誇らしげな声で答えると、さっと馬を返して城までの短い距離ではあるが、国王を含む重臣たちを先導してみせた――
「……」
背筋は真っすぐで、大きくなったように映る。グレンは少なからず頼もしさを感じるのだった――
「リア、ただいま!」
到着後の雑務に追われたロイズが、上機嫌でリアの元へと戻った頃には、太陽はすっかりと大地の向こうに沈んでいた。
「あれ?」
居住区の扉を開けたところで愛する伴侶の姿が飛び込むと期待をしたが、誰もいない。
ロイズの視界には、ランプの灯りすら失った、空虚な薄暗い空間が広がっていた――
「……」
それでもリアが使っている香水の匂いが仄かに漂って、人が居たという気配だけは、確かにある。
右側には、いつも彼女が使っているお気に入りの小さなテーブルがあって、主人の居ない飾り気のない椅子がぽつんと一脚置かれており、隣の小さな窓からは、外からの星明りが寂しそうにそれらを照らし出していた――
居住区に入ってすぐ左側には暖炉があって、それから石壁が3メートルほど続いた後、ロイズの目線より少し低い位置に彩光と換気を目的とした出窓が等間隔で5つほど並べられている。
松明用の燭台が小窓の下には置かれているが、熱の気配は全くない。
「……」
深い呼吸を一つだけ吐いたロイズは、居住区の一番奥へと足を向けた――
「リア?」
ひたひたと石床の上を滑るように歩き、寝室へと続く扉をそっと押し開ける。
首を伸ばしたロイズは、視線の先にある天蓋ベッドの上にリアの姿を認めると、改まった安堵の息を吐き出した。
「どうした? 具合、悪いのか?」
ベッドの上でシーツを被り、背中を向けた状態で彼女は丸まっていた。
ロイズは何となく不穏な空気を感じながらも足を伸ばすと、伺いを立てるように努めて優しい声を渡した。
「そんな事ない…」
すると、シーツの中から返答があった。
なんだか拗ねているような声である――
「…どした?」
歩幅を小さくして、警戒をしながらリアの元へと辿り着くと、ロイズはもう一度、幼子に声をかけるように口を開いた。
「……」
彼女は、普段着のままであった――
被った白いシーツの上部から、僅かに赤みの入った髪の毛が、水に揺らいだ絵の具のように広がっている――
帰ってきたのを察知しながら、こうしているという事か…
「いいの。ちょっと、時間を頂戴」
リアの小さな声色が、重ねてロイズを拒んだ――
「……」
さて、どうしたものか…
思い当たるフシは無い。女性特有の事情で不機嫌なのか?
だとしたら黙って退散するのも一手だが、そうした経験は、リアとの間で一度も無かった――
「理由だけでも聞かせて? 何か、あった?」
放置しても、火種は残る。
理由が分からない事には、対処の仕様もない。
そっとベッドへと腰を下ろすと、ロイズは続けて訊いてみた。
もう一回拒否されたなら、黙って引き下がるつもりで――
「……」
「……」
暫く、二人の間を沈黙が流れた。
ロイズは月明りの淡い光が、漂う得体のしれない重い空気を払ってくれるのを、静かに待つ事にした――
「…一日早く、帰れたでしょ?」
やがて、観念したようにリアがぼそっと声を発した。
「え?」
リャザンを発った初日のこと、遊びに興じて1日を費やした…
用心深い彼女の事だ。出立を知らせる早馬は勿論の事、道中にも遊牧民族の動きを監視する近衛兵を派遣していたのかもしれない――
「ああ…でも、流石にあそこで泊まらないとさ。それに、皆を労いたかったし…」
ロイズにはロイズなりの考えがある。
自らが遊びたかったという事実はあったにせよ、日程通りに戻ってきたのだ。
確かに帰路を急ぐという選択肢はあったかもしれないが、付き従ってくれた兵士にも楽しんでもらおうという考えは、決して間違いではない。
後ろめたい思いはあっても、ロイズは胸中に確かな自負を宿しながら、言い訳じみた言葉を吐き出した。
「いいの。分かってるから」
「え?」
膨らんだ白いシーツから、拗ねた声が再び届いた。
それを受け、ロイズが思わず声を発した。
「分かっているけど…予定が1日早まったから…早く帰って来るかな? って期待しちゃったの」
「……」
ロイズも、長旅を帰ってきたばかりである。
正直、さっさと休みたい。
この発言を、めんどくさいと思うのか… 可愛いと思えるか…
「ごめんな…」
ロイズは囁くように口を開くと、シーツからこぼれるリアの柔らかな髪の毛に優しく触れてみた。
ひと月ほど前、リアがカルーガへと外遊した夜、一人ぼっちの部屋で眠る事がどれほどに寂しいか、ロイズは身をもって知った――
城の最上階。西側は一面に石の壁。両開きの窓は南側に一つだけ…
そんな寝室は、防音を施した居住区を間に挟み、声どころか人の気配すらも通さない。
螺旋階段の下には衛兵が常駐するが、上から呼ばない限りは、階段を上がってくることは無い――
東側の壁には2つの上下窓があって夜風を通すが、同時に虫や獣の声をも通すのだ。
二人一緒なら気にもしない些細な雑音が、増幅されて鼓膜を揺らす――
そんな夜が、五日間――
リアの寂しさは、どれほどのものだったであろうか…
彼女の様相は、愛されている証拠でもあった――
「……」
固まっていたリアの小さな身体が、確かに緩むのを感じ取った。
ロイズのたった一声が、彼女のわだかまりを消してゆく――
「リア…」
ロイズは、その名前を小さく告げた。
「このまま襲いたいけど…身体を拭いてからにするね」
続いて、シーツ越しではあるが、耳元にそっと頬を寄せると、優しく語尾を上げて囁いた――
「うん…」
はにかんだような、リアの心の融解を鼓膜が拾った――
「……」
胸をなで下ろしたロイズは、シーツ越しにリアの頭を優しく一撫ですると、ゆっくりと立ち上がり、扉の方へと足を進めた。
「あ…」
「うん?」
呼び止めるような、微かな声が耳に届いて、ロイズが振り向いた。
「おかえりなさい…」
月明りがぼんやりと照らすベッドの上、シーツに包まった姿は変わらなかったが、小さな王妃は確かに心を開いた。
「ただいま」
無事に戻った安堵。同時に彼女からの愛情をしみじみと感じ取る――
きっと彼女も、同じ心を灯している…
ロイズは優しい声色で、伴侶の想いに応えるのだった――
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