小さな国だった物語~

よち

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【9.防御壁】

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「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」

リャザン公国で行われる事となった同盟調印式へとロイズが向かう朝――

櫛を使って丁寧に梳いてもピンとどこかがハネている、赤みの入った髪を背中に回した小さな王妃が、居住区の中心で一時の別れの言葉を交わすと、踵をヒョイと上げて爪先立ちとなり、両腕をロイズの首に巻き付けてキスを迫った。

「ん…」

ロイズが細い腰を引き寄せて想いに応えると、少し厚みのあるしっとりとした唇を伝って、愛しさと別れを惜しむ想いがやってくる。

誰もが受け取れるものでは無い――
享受できるロイズの心は、幸福感で満たされた――

「皆…待ってるよ」

重なった唇。
惜しむ心身を先に断ったのはリアだった。理性を起こして、はにかみながら小さな声を発した。

切り替えが早いのは、彼女のスキルの一つ。
名残は惜しいが、離れる側としては有難くもある。

「うん…行ってきます」

見送ってくれる琥珀色の上目遣いを真っすぐに見つめると、ロイズも優しい眼差しからキリッと国家を代表する顔に戻って決意を伝えた。

「いってらっしゃい」

リアが目尻を下げて微笑みを浮かべると、二人はもう一度、今度は軽い口付けを交わした後で、お互いが小さく右手を振って離れた。

「……」

背を向けたロイズが扉を引き開けて、居住区から出て行く後ろ姿を、小さな王妃は独りで留守番を任された子供のような心持ちになって見送るのだった――



「これより、リャザンへ向かう! 出発!」

暫くして、威勢の良いグレンの声が南の方から響いてくると、民衆の歓声が後から続いた。

勇壮なる空気の震えを、小さな王妃は寝室に備わる南側の窓から、冷静になって見守っていた――

(任せたわよ)
(お任せください)

馬上から見上げる細身の尚書と目が合った。

リアとラッセルは、およそ一週間の送別をお互いの脳裏で交わした――


「ロイズ様!」
「グレン様!!」

国王の隊列を見送ろうと、城から都市城門までの一本道には多くの住民が詰めかけていた。
連日の農作業に進んで加わっている先頭の二人には、春先の活躍もあって多くの声が飛んでいる。

馬上のグレンが四角い顔に満足を浮かべて左右に手を振る一方で、ロイズは国王らしい威厳を保つ為だろうか、端正な顔を真っ直ぐに前へと向けて、努めて冷静な振る舞いを心掛けていた。

普段の印象とは逆を演じる二人の後ろから、尚書のラッセルが馬の背に跨って細い目を覗かせている――


「……」

独立を宣言した前日のこと。執務室も兼ねている国王居住区で、リアから初めて国策を伝えられた時の場景を、ラッセルは馬上で揺られながら思い出していた――

「トゥーラは小さな国。民衆の支持を第一に考えて。この国に一番大事なのは、一体感だからね」
「国威発揚…という事ですか?」

決意が籠められたリアの発言を、ラッセルは要約して尋ねた。

国威発揚とは、他国に対して威信や力の誇示をして、自国を奮い立たせようとすることである――

「それは、違うから」

権力を握る者として、王妃はラッセルの発言をすぐさま否定した。

「人に選ばれる国になれって事。国なんてものは器であって、それを守ろうと集まった集団が国であるべきなの。絶対に間違えないで!」

リアは大きな瞳を鋭くすると、語気を強めて語った。

「集団を率いる方法は、二つしかないの。先頭に立って先導するか、後ろから全体を支えて、行く手をある程度任せるか、どっちかよ。私たちは風を感じて、進むべき方向を示して、集まった人達を支えるだけでいい」

彼女は、後者を選んだ。
小さな綻びすらを、恐れたのだ――

民衆は、強いリーダーシップを求める傍ら、行き過ぎた時には独断だ暴走だと非難する――
亀裂が生じた時、小さな集団であれば抑え込む事が難しく、分裂し易いのだ。

逆に大きな組織だと、それまでに拠り所となっていたという安心感、悪く言えば停滞感みたいなものが時間と共に生まれ出て、分裂しようにも膨大なエネルギー量が必要となり、結果、収束に向かう事が多くなる――

「肝に、銘じます」

リアの思うところを理解して、瞳を閉じたラッセルは小さく頭を下げるのだった――


<疑問に思う者は、旅費を与えた上で移住を認める>

独立宣言を発した日に掲げられた、立札に記された最後の一文。

彼女は現状と未来を正直に示して、民に選択を迫ったのだ――

当時は大国スモレンスクを退けて日が浅く、移住の希望者が出るような動静ではなかったし、実際に手を上げる者はいなかった。

しかしながら、そんなものはさしたる問題ではない。

小さな国に残ること――

自らが決した。決定を委ねた。

二つの事実こそが、重要なのである――


「あの立札の文言ですが…三つ目は、必要なのですか?」

外から明るい声が届く中、立札へと集まった住民の姿を執務室の窓から眺めながら、薄い顔に疑問を浮かべたラッセルが、静かに尋ねた。

「そうね…」

届いた疑問に対して、小さな王妃は翳 かげった瞳で手にした紅茶を眺めながら、重い口調で一つを発した――

「あれはね、踏み絵なのよ…」


(ここまでは、リア様の理想の形になっているのかな?)

一行に向かって飛び交う沿道からの声援を受けるラッセルは、先頭で並ぶ二人の背中を見やりながら、現状に対して満足な想いを灯すのだった――



トゥーラの主だった臣下のうち、グレン将軍と尚書のラッセルが、国王ロイズと共にリャザン公国へと向かう中、若き美将軍ライエルは、留守を預かる事となった。

「ライエル様、準備ができました」

トゥーラ城の南側。城を囲む壕に掛かっている石橋の上に立ち、リャザン公国へと向かう一行の背中を見送ったライエルの元へ、一人の兵士が駆け寄って報告をした。

「では、始めましょうか」

こっちはこっちでやる事がある。
左右に垂らした金髪の前髪から整った顔立ちを覗かせたライエルは、気合を入れるべく右の拳と左の手のひらをパチンと合わせると、年上の部下に対して作業の開始を伝えた。

「なんだ?」

暫くすると、城下に幾つかの立札が立てられた。

国王の見送りが終わった矢先の事だ。
多くの人が屋外へ出ていた事もあって、自然と注目が集まった。

<本日より、防御壁の新設、城壁の補修を行う。手伝える者は、集ってくれ>

立札には、民衆に向けた一文が記されていた――


「防御壁か」
「守りを固めようって事だろ」
「戦いに行くよりは、マシだな」
「俺はやるぜ。折角作った畑、荒らされちゃあ堪らん」

立札の前では、前向きな声が続々と上がっていった。

集合を命じる訳ではなく、あくまでも住民に主導権を与える。
 敢えて下手したてに出るような方策が、好ましい方向へと回っていった――


立札に人が湧いたところに、鋼のような筋肉に薄い麻の衣服を纏ったライエルが、城の南門から改めて姿を現した。

「お、ライエル様だ」

若き美将軍に気付いた住民の一人が声を上げると、周囲の視線は自然と彼に集まった。

灰白色の城を背景にして、石橋を先頭で渡るライエルの背後には、荷車を軽々と牽く軽装の兵士がずらずらっと続いている――

「……」

静寂は、舞台の開演前を思わせる。
緊張感を纏った空気の層が、辺り一面に広がった。

「皆さん!」

石橋を渡り終えたところで、普段は左右から垂らしている前髪を後ろで縛ったライエルが、すうっと大きく息を吸い込むと、戦場に於いて鼓舞するように、大きな声を張り上げた。

「これより、新たな城壁を作ります! 空いている者は、手伝ってく下さい。ロイズ様が戻られた時、驚かれるものを作りましょう!」

「おお!?」
「ライエル様!?」
「私、やりますわ!」

大声で指示を発して戦場を駆け回るグレン将軍と比較して、副将を務める事の多いライエルは、物静かな印象が強かった。

そんな彼の若々しい大声は、珍しさも手伝って絶大なる効果を生み出した。

健気な姿勢と整った顔立ちが、いっそう女性達を惹きつける。

(そういえば、ロイズ様が以前にやっていましたね…)

勿論、演出としての一面もある。

ライエルは場外での開墾作業に駆け付けた時を思い起こして、当時の国王様の心境を慮ってみるのだった――



「結構、集まりましたね」

一時間も経った頃、土石を積んだ荷車を曳く上半身裸のライエルに、背後から同じく荷車を曳いた一人の兵士が満足そうな声を発した。

「そうですね」

明るい声を受け取ると、露わとなった額に丸い汗を浮かべた美将軍が、一安心と微笑んだ。

初夏を迎える陽光が、筋肉質な、それでいてしなやかな若い肢体をキラキラと照らし出している――


「ママぁ、これ、ここ?」
「そう。触っても、落ちないようにね」

5歳くらいの女の子が、母親と一緒に防御壁の造成を手伝っていた。

国家を築くのは、男だけの役割では決して無い。
女や子供であっても、自らが手を加えることにより、国を守るという意識と確固たる責任感が生まれ出る――

こうした場景は、太古の昔からあったのかもしれない。
廃れた姿を復活させたのは、多くの国策を常に眺める側であった、女性のリアだからこそ生まれた発想なのだろうか――

為せる事は、無かったか――

そんな誰もが経験する後悔を、彼女も重ねてきたのである――


「……」

時おり白い雲が日差しを遮る中、バケツリレーよろしく石を渡していく女性たちの姿が頼もしい。

自らが発した言葉によって、人々の動きが始まったのだ――

(ありがたいですね…)

温かな光景に深い感謝を覚えると、ライエルは玉の汗がぽつぽつと浮かぶ張りのある若い肢体の中に、清々しい自信を灯すのだった――
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