6 / 78
【6.王妃様の外遊②】
しおりを挟む
(あれ、芽が出てる)
カルーガへの道中。
護衛という名目で同行させた尚書と別れたトゥーラの新米王妃は、オークの古い切り株で足を止めると、外周から生える逞しい生命力に目を止めた。
切り株となっても、その根はしっかりと生命を繋いでいる――
不意に現れた頼もしさに、リアの頬が思わず綻んだ。
彼女の両足が乗るほどの切り株から西側が、カルーガという認識である。
尤も、明確な境界線などは無く、目星という程度のものであった――
「ん?」
再び歩き始めると、視線の先に気配を感じた。
「アレッター!」
やがて白樺の木々の間を縫うように、地面の起伏を気にすることなく、男の子が全速力で跳ねるようにやってきた。
「ウィル!」
名前を口にした時には、ウィルはもう目の前に迫っていた。そんな速さが羨ましい。
歳は十代の前半辺りか。同年代の子供に比べると体格が良く、腕もむちっと太い。鍛え上げたなら、立派な兵士になりそうだ。
「おかえり!」
「ただいま」
元気な挨拶に、新米王妃は柔らかな笑顔で応えた。
「ウィル、大きくなったわね…もう、抜かれてるかも」
「アレッタ、少し前に一回来たんだろ?」
リアの発言に反応するでもなく、ウィルが興奮気味に蓋をした。この辺りは、まだまだ子供である。
「え? う、うん。誰かに聞いたの?」
突然の質問に、たどたどしくリアが答える。
「ううん。アレッタの、髪の毛を見つけた!」
「…そう。ごめんね。時間が無くて」
「今日、会えたから大丈夫!」
元気な笑顔が再び返ってくると、リアもニコッと笑顔を返した。
心からの歓迎に、気分が悪い筈もない。
(髪の毛、気を付けないとダメかな…)
一つを思いながら、耳元を流れる髪にそっと左手を添えてみる。
普段から、癖のある赤みの入った髪の毛を、背中に掛かるほどに伸ばしている――
(これからは、後ろで結ぼうかな? …でも、ロイズが嫌がるかしら?)
ふと、置いてきた伴侶を想った。
「リアのふわっとした髪、好きなんだよね」
ある日の夜、細い撫で肩をロイズの胸板に預けると、心地よい声が耳に届いた――
当時の甘い情景を浮かべたリアの頬は、思わず綻んだ。
「アレッタ?」
急に動きの止まったリアに対して、ウィルから不思議そうな声が掛けられる。
「ああ…ご、ごめん。行こうか」
「うん」
我に返って謝って、先を急ごうと促すと、ウィルが笑顔を湛えて嬉しそうに一歩を踏み出した。
旅の親子から仲の良い姉弟へ。
春の訪れを告げる諸所の変化すら愉しんで、二人の足は揃って西へと進むのだった――
トゥーラからガルーガへの道中は、緩やかな起伏の大地に混在する林の間を進むことになる。
遠くは十字軍の遠征によって、或いはルーシの諸公国の紛争によって、西から東へと、多くの人が安寧を求めた路である――
10代半ばの機動力は物凄い。
春の訪れを歓迎する草木たちを次々と背にするウィルとは違って、朝から歩みを続けるリアの体力は、随分と奪われていた。
それでも最後の林を抜けると、やがてリアの故郷、カルーガの村が視界へとやってくる。
「やっと着いたぁ!」
村の一番東側の畦道で、諸手を上げながらへたり込んだリアが思わず叫んだ。
朝におはようと告げた太陽は、地平線の向こう側に隠れようとしている。およそ王妃の行程とは思えない。
「アレッタが遅いから、こんな時間になっちゃったよ…」
「ごめんね。今度は馬で来るわ」
ちょっと不機嫌なウィル。リアは達成感もあって思わず麦わら帽子を剥ぎ取ると、疲れ果てた表情の中にも、精一杯の笑顔を浮かべて謝罪の言葉を口にした。
「……」
ほの暗い緑が映える畦の上、帽子の下に隠されていた柔らかな髪の毛が、風に遊ばれてふわっと広がった。
ウィルの知らない大人になった女性の姿が、傾いたオレンジ色を背景にして、輝くように浮かんでいた――
少年の、胸の鼓動が止まった――
「ううん…楽しかったよ…」
初めての性を抱き、見惚れたウィルは、頬を赤らめて呟いた。
「ありがと」
優しい言葉を耳にして、小さな王妃は絵画のような微笑みを浮かべた――
当然ながら、熱が生じた少年の胸中を、察することもなく――
カルーガは、全長半キロにも満たない小さな村。
ヴァティチと呼ばれる森の中。東スラブ民族の、居住地の一つである。
村の西側を北に向かって流れるオカ川が東へと向きを変えると、やがてトゥーラの北方60キロを進み、リャザン公国の北西を掠めてヴォルガ川へと流れ往く。
西の戦火を逃れた人々が、天然の要害となるオカ川を渡ったところで安息を求めたのだ――
「さて、行くか」
地平線の向こうに夕陽が隠れると、暗い帳が村を一呑みするように襲ってくる。
手を振りあってウィルと別れ、彼が家に入るまでを見届けると、意を決するように新米王妃は立ち上がった。
「さすがに、寒いな…」
寒暖差の激しい季節。川幅15メートルにも及ぶオカ川を渡った風が頬に触れると、途端に寒さが襲った。
思わず二の腕に手をやって身震いを一つ表すと、彼女は向かう先へと一歩を踏み出した――
「ここに来ると、いつも緊張するな…」
丸太で組み上げられた民家の敷地に足を踏み入れると、リアが小さく呟いた。
続いて年季の入った木製の扉を前にして、両足を揃えたままで突っ立って、暫くの時間を稼いだ。
「早く入れ」
気配を察知されたのか、中から渋い男の声がした。
「あ、はい」
ビクッとなって、反応が出る。それでも催促されたことで、迷いが消えた――
「アレッタ、入ります」
意図して滑舌の良い声を発しながら、背丈より高く作られた、厚い扉を押し開けた。
ギギッと懐かしい重低音が、冷え切った彼女の耳の奥へと心地よく注いだ――
「ルシードさん?」
そろりと家の中に足を踏み入れて、最初に飛び込んできたのは、料理中と思われる男性の大きな背中であった。
煤で真っ黒になった暖炉から生まれる赤い炎に照らされて、剃られた丸い頭が綺麗な輪郭を浮かべている――
「疲れたろ、先ずは食べなさい」
男は声を掛けながら振り向くと、右手に持ったスープの入った木製の器を、リアとの間に置かれた低いテーブルの上にことりと置いた。
胸板の厚い体躯に似合った、雪焼けした丸い顔に太い眉。ギョロッとした黒い眼。
リアとは親子ほどの年齢差であったが、仮に親子だと言われても、誰も信じないであろう。
それほどに、二人の間に共通点は見当たらなかった――
「あ、ありがとうございます」
リアが小さく頭を下げながら、恐縮して口を開く。
「はやく、座りなさい」
「は、はい」
立ったままの彼女にルシードが促すと、リアはようやく足の短い一枚板のテーブルの前に置かれた、丸太の椅子に腰を下ろした。
「王妃様が座る前に、俺が座る訳にはいかんだろ…」
「あ…」
呆れたように口を開いて、ルシードが続けてリアの正面に腰を下ろした。
「さあ、出来立てだ。はやく食べなさい」
「はい…」
促され、リアは木製のスプーンを手に取ってスープを掬うと、ゆっくりと口へと運んだ。
「昔と、同じ味…」
道中で、口にしたのは乾パンだけである。
柔らかな優しい野菜の味が染み渡って、小さく呟いたリアの目尻から、一筋の涙がこぼれた。
「おいおい、大袈裟だな」
「だって…」
言いながら、華奢な右手で涙を拭った。
「無理を、聞いてもらったから…」
「その話は、後でいい。先ずは食べて、少しは休みなさい」
「はい…」
ルシードが言葉を渡すと、項垂れたリアは赤みの入った頭を更に下へと落として、聞き分けの良い子供へと戻るのだった――
「落ち着いたか?」
暖炉を前にして膝を抱えたリアが眠りから目を覚ますと、夜もすっかり更けていた。
王妃が頭を起こしたことに気が付くと、ルシードはのっそりと立ち上がり、白い湯気の昇る手のひら大のカップを、厚手のシーツに包まったリアへと差し出した。
「はい…ありがとうございます」
小さな王妃は、コクと頷いて温もりが伝わるカップを両手で受け取ると、熱さに気を付けながら早速口へと運んだ。
「あ、これも懐かしい…」
カップの中身は、蜂蜜を熱い湯水で溶かしたものだった。(*)
蜂蜜は、それぞれの土地の花の蜜をミツバチが運んで作るのだ。
故郷の優しい口当たりが、寝起きの冷え切った身体の奥へと染み渡っていく――
「美味しいか?」
「うん…」
背中を丸めたままの王妃が短く答えると、強面の目尻が思わず下がった。
ルシードの優しくなった瞳には、子供の頃のアレッタの姿が映っていた――
やがて広い背中をリアに向けると、ルシードは竈に幾つか薪を焼べて、火の勢いを増してやった。
寝起きで震えるリアの身体に、一層の温かさがやってくる。
子供の頃と変わることのない大きな背中に、彼女は優しい微笑みを浮かべた――
「お礼だけでも言いたくて、今日は来ました」
広い背中に向かって、思い切った口調でリアが伝えた。
「ああ…」
ルシードは短く答えるも、背中を向けたままだった。
それでも暫くすると立ち上がり、振り向きざまに口を開いた。
「おまえ達への、お祝いだ」
「…ありがとうございます」
新米王妃は瞼を閉じると、先ずは感謝の言葉を伝えた――
「それで、カルーガは大丈夫なんですか?」
丸太の椅子に座ったルシードに、リアが暖炉の前から心配そうな声を開いた。
先の戦いで、カルーガの部族がトゥーラに手を貸したという事実は、確信が無いまでも疑念を生むに違いない。
三者の釣り合った関係が崩れるのは、リアの本意では無いのだ。
「恐らくな。だが…」
太い手指で掴んだカップを口へと運ぶと、ルシードが続けて伝えた。
「暫くは、スモレンスクに傾く事になるかもな…」
「はい…」
脅しのような言葉である。
受け止めて、新米王妃は覚悟を胸に灯した――
春先の争いが起こる前のこと――
「スモレンスクに、不穏な動きあり」
西側からの報告に、リアは急いでカルーガにやってきて、ルシードを訪ねたのだ。
馬を駆ってきたにも関わらず、この日も着いた頃には夜の帳が降りていた――
「ルシードさん!」
「アレッタ!? どうした? 今は、戦いに備えねばならんだろう…」
戦の気配に、カルーガの地は敏感だ。
少なからず心配をしていたルシードは、薪を運ぼうと外へと出向いたところに当の本人が現れて、思わず驚きの声を発した。
「お願いします! 今回だけ、手を貸してほしい!」
大きなローブを羽織ったままで、息を切らして必死の形相で訴えると、小さな身体は両方の膝を地面に落とした。
「……」
「話だけは、聞こう」
ルシードは、ギョロッとした眼を閉じて暫く時間を置いてから、再び開いて観念したように呟いた。
「厳しいのか?」
家屋に移動して、小さな身体に座るようにと促すと、机を挟んで向かい合う形で座ったルシードが、木製のカップに水差しから水を注ぎながら尋ねた。
「正直に答えます。トゥーラは、小さいとはいえ、戦い慣れた城。簡単に崩れる事はありません」
「なら…」
「でも!」
ルシードの発言を、リアは咄嗟に退けた。
「私は、人が殺されるのを見たくない!」
続いて右手を胸に当てながら、強い口調で訴えた。
「…相手なら、殺しても良いと?」
対してルシードは、鋭い目つきでリアの心を突き刺すと、冷静さを保って訊き返した。
「そうは言ってない…でも、私たちは暮らしてるだけ。違いますか?」
「……」
真っすぐにリアが訴える。
幼稚な正論には違いないが、本音である。
「分かった。お前の事だ。カルーガにとっても無茶な事は言わないだろ」
暫く考えて、ルシードは覚悟を口にした。
城主の伴侶が単独で、少年に化けて70キロを駆ってきた。相当の思いである事は間違いない。
危ない橋を渡るのは、彼女の才覚を認めているからこそ。
争いを望む性格で無いことも、十分に理解をしている――
彼もまた、大地に朽ちる骸の数を数えたくはないのだ――
「それで、何が望みなんだ?」
「ここに、記してきました」
予め用意してきた紙片をリアが差し出すと、ルシードは左手で受け取って、ギョロッとした眼を動かした。
「無茶な所があれば、直します」
真摯な態度で、リアが重ねて口を開いた。
「そうだな…」
やがて、読み終えたルシードが呟いた。
「俺のところと、もう一つ。それに、ウィルのところでなんとかなるか…」
「ありがとうございます!」
喜びを浮かべて立ち上がる。
赤みの入った髪を揺らして、リアは深々と頭を下げるのだった――
「ロイズが国王、アレッタが王妃、ワルフが高官か…」
三人の成長を見守って、リャザンへの道を促したのは彼である。
しかしながら、誇りもせず、ルシードは淡々と名前を並べた――
「すみません…」
「お前が、謝る事はない」
静かに口を開いたルシードは、白湯の入ったカップへと、ごつっとした右手を伸ばした。
「望んだ訳でもなかろうに…」
三人共に出世した――
しかしながら、出世欲の一番強かったワルフが高官止まりなのは皮肉だろうか――
口角を僅かに上げながら、ルシードは木製のカップを傾けた――
夜が深まると、リアは久しぶりにルシードと枕を並べた。
子供の頃とは違って、二人の間には隙間がある――
羽毛の入った柔らかな寝具と違って、故郷の藁から感じる床の固さは懐かしく、むしろ心地がよかった。
「ウィル、大きくなってた…」
感慨深い。薄暗い家屋の中で、リアの小さな声が響いた。
「お前達が出て行って、5年にもなる。大きくもなるさ…」
「そうですね…」
同意を挟んだ王妃は、小さかったウィルが、カルーガの地にやってきた当時を思い出していた――
ある初夏の朝。
リアとロイズが机を挟み、向かい合って丸太の椅子に座って朝食を食べているところに、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。
「誰かな?」
「隣の、ローリです」
首を伸ばしたルシードの問いに返事があると、やがて扉が開いた。
ロイズは構わずパンにかじりついていたが、リアは左に向けた視線の先に、小さな人影が在るのに気が付いた。
「どした?」
動きの止まったリアにロイズが気付き、不思議そうに顔を上げると、今度はリアが向けている視線の方へと目をやった。
すると隣のおばさんに右手を握られた、幼い伏し目の男の子の立ち姿が覗いた――
おばさんの腰に身体を寄せて、見るからに不安を表している。
「おばさん、一緒に遊んでもいい?」
唐突に、目の前のリアがパンを右手に持ったまま、ガタッと腰を上げて赤みの入った髪を揺らすと、男の子の方へと足を進めた。
「ああ。いいよ」
「行こう!」
答えが届くより先に、リアは男の子の左手を掴んで引き上げて、外へと連れ出した。
「これ、あげる」
続いて、持っていた丸パンを男の子に渡そうとした。
男の子はキョトンとしていたが、やがて手を引かれるままに右へと動き、ロイズの視界から姿を消した――
「待ってよ!」
取り残されたロイズが、慌てて後を追う。
リアとロイズも同じようにして、この村へとやってきたのだ。
見知らぬ土地で、見知らぬ大人が小さな手を掴んで引き歩く――
それがたとえ大人の善意でも、子供には、不安しかない事を知っている――
ここは 大丈夫だよ――
何よりも、彼女は安心を伝えたかったのだ――
「あの子は、お前達に救われた…」
薄暗い家屋の中で、感謝を込めたルシードの言葉が響いた。
当時のワルフは15歳で、ロイズは11歳。リアは10歳だった。
そして、ウィルが5歳。
それから三人で、時にワルフも加わって、一緒に野山を駆け回った――
それでも日々の別れ際、少年はいつでも寂しそうだった――
お姉ちゃんだったリアの心に焼き付いた、彼の姿である――
「私は、ルシードさんに救われました…」
大きな琥珀色の瞳が、天井に向かって呟いた。
「……」
しかしながら、返事はない。
微かにこぼれる星明り。懐かしい故郷の空気の中、王妃となった小さな身体は、やがて深い、穏やかな眠りへと誘われた――
「ちょっとぬるいけど、いい湯だ~」
同じ夜、カルーガの奥手に在る宿で、白い雲がぼんやりと浮かぶ星空の下、痩身でありながら引き締まった体を温泉に浸けるラッセルの姿があった――
「一人は心細いよ、リア…」
一方トゥーラでは、ロイズが一人の寂しい夜を過ごすのだった――
カルーガへの道中。
護衛という名目で同行させた尚書と別れたトゥーラの新米王妃は、オークの古い切り株で足を止めると、外周から生える逞しい生命力に目を止めた。
切り株となっても、その根はしっかりと生命を繋いでいる――
不意に現れた頼もしさに、リアの頬が思わず綻んだ。
彼女の両足が乗るほどの切り株から西側が、カルーガという認識である。
尤も、明確な境界線などは無く、目星という程度のものであった――
「ん?」
再び歩き始めると、視線の先に気配を感じた。
「アレッター!」
やがて白樺の木々の間を縫うように、地面の起伏を気にすることなく、男の子が全速力で跳ねるようにやってきた。
「ウィル!」
名前を口にした時には、ウィルはもう目の前に迫っていた。そんな速さが羨ましい。
歳は十代の前半辺りか。同年代の子供に比べると体格が良く、腕もむちっと太い。鍛え上げたなら、立派な兵士になりそうだ。
「おかえり!」
「ただいま」
元気な挨拶に、新米王妃は柔らかな笑顔で応えた。
「ウィル、大きくなったわね…もう、抜かれてるかも」
「アレッタ、少し前に一回来たんだろ?」
リアの発言に反応するでもなく、ウィルが興奮気味に蓋をした。この辺りは、まだまだ子供である。
「え? う、うん。誰かに聞いたの?」
突然の質問に、たどたどしくリアが答える。
「ううん。アレッタの、髪の毛を見つけた!」
「…そう。ごめんね。時間が無くて」
「今日、会えたから大丈夫!」
元気な笑顔が再び返ってくると、リアもニコッと笑顔を返した。
心からの歓迎に、気分が悪い筈もない。
(髪の毛、気を付けないとダメかな…)
一つを思いながら、耳元を流れる髪にそっと左手を添えてみる。
普段から、癖のある赤みの入った髪の毛を、背中に掛かるほどに伸ばしている――
(これからは、後ろで結ぼうかな? …でも、ロイズが嫌がるかしら?)
ふと、置いてきた伴侶を想った。
「リアのふわっとした髪、好きなんだよね」
ある日の夜、細い撫で肩をロイズの胸板に預けると、心地よい声が耳に届いた――
当時の甘い情景を浮かべたリアの頬は、思わず綻んだ。
「アレッタ?」
急に動きの止まったリアに対して、ウィルから不思議そうな声が掛けられる。
「ああ…ご、ごめん。行こうか」
「うん」
我に返って謝って、先を急ごうと促すと、ウィルが笑顔を湛えて嬉しそうに一歩を踏み出した。
旅の親子から仲の良い姉弟へ。
春の訪れを告げる諸所の変化すら愉しんで、二人の足は揃って西へと進むのだった――
トゥーラからガルーガへの道中は、緩やかな起伏の大地に混在する林の間を進むことになる。
遠くは十字軍の遠征によって、或いはルーシの諸公国の紛争によって、西から東へと、多くの人が安寧を求めた路である――
10代半ばの機動力は物凄い。
春の訪れを歓迎する草木たちを次々と背にするウィルとは違って、朝から歩みを続けるリアの体力は、随分と奪われていた。
それでも最後の林を抜けると、やがてリアの故郷、カルーガの村が視界へとやってくる。
「やっと着いたぁ!」
村の一番東側の畦道で、諸手を上げながらへたり込んだリアが思わず叫んだ。
朝におはようと告げた太陽は、地平線の向こう側に隠れようとしている。およそ王妃の行程とは思えない。
「アレッタが遅いから、こんな時間になっちゃったよ…」
「ごめんね。今度は馬で来るわ」
ちょっと不機嫌なウィル。リアは達成感もあって思わず麦わら帽子を剥ぎ取ると、疲れ果てた表情の中にも、精一杯の笑顔を浮かべて謝罪の言葉を口にした。
「……」
ほの暗い緑が映える畦の上、帽子の下に隠されていた柔らかな髪の毛が、風に遊ばれてふわっと広がった。
ウィルの知らない大人になった女性の姿が、傾いたオレンジ色を背景にして、輝くように浮かんでいた――
少年の、胸の鼓動が止まった――
「ううん…楽しかったよ…」
初めての性を抱き、見惚れたウィルは、頬を赤らめて呟いた。
「ありがと」
優しい言葉を耳にして、小さな王妃は絵画のような微笑みを浮かべた――
当然ながら、熱が生じた少年の胸中を、察することもなく――
カルーガは、全長半キロにも満たない小さな村。
ヴァティチと呼ばれる森の中。東スラブ民族の、居住地の一つである。
村の西側を北に向かって流れるオカ川が東へと向きを変えると、やがてトゥーラの北方60キロを進み、リャザン公国の北西を掠めてヴォルガ川へと流れ往く。
西の戦火を逃れた人々が、天然の要害となるオカ川を渡ったところで安息を求めたのだ――
「さて、行くか」
地平線の向こうに夕陽が隠れると、暗い帳が村を一呑みするように襲ってくる。
手を振りあってウィルと別れ、彼が家に入るまでを見届けると、意を決するように新米王妃は立ち上がった。
「さすがに、寒いな…」
寒暖差の激しい季節。川幅15メートルにも及ぶオカ川を渡った風が頬に触れると、途端に寒さが襲った。
思わず二の腕に手をやって身震いを一つ表すと、彼女は向かう先へと一歩を踏み出した――
「ここに来ると、いつも緊張するな…」
丸太で組み上げられた民家の敷地に足を踏み入れると、リアが小さく呟いた。
続いて年季の入った木製の扉を前にして、両足を揃えたままで突っ立って、暫くの時間を稼いだ。
「早く入れ」
気配を察知されたのか、中から渋い男の声がした。
「あ、はい」
ビクッとなって、反応が出る。それでも催促されたことで、迷いが消えた――
「アレッタ、入ります」
意図して滑舌の良い声を発しながら、背丈より高く作られた、厚い扉を押し開けた。
ギギッと懐かしい重低音が、冷え切った彼女の耳の奥へと心地よく注いだ――
「ルシードさん?」
そろりと家の中に足を踏み入れて、最初に飛び込んできたのは、料理中と思われる男性の大きな背中であった。
煤で真っ黒になった暖炉から生まれる赤い炎に照らされて、剃られた丸い頭が綺麗な輪郭を浮かべている――
「疲れたろ、先ずは食べなさい」
男は声を掛けながら振り向くと、右手に持ったスープの入った木製の器を、リアとの間に置かれた低いテーブルの上にことりと置いた。
胸板の厚い体躯に似合った、雪焼けした丸い顔に太い眉。ギョロッとした黒い眼。
リアとは親子ほどの年齢差であったが、仮に親子だと言われても、誰も信じないであろう。
それほどに、二人の間に共通点は見当たらなかった――
「あ、ありがとうございます」
リアが小さく頭を下げながら、恐縮して口を開く。
「はやく、座りなさい」
「は、はい」
立ったままの彼女にルシードが促すと、リアはようやく足の短い一枚板のテーブルの前に置かれた、丸太の椅子に腰を下ろした。
「王妃様が座る前に、俺が座る訳にはいかんだろ…」
「あ…」
呆れたように口を開いて、ルシードが続けてリアの正面に腰を下ろした。
「さあ、出来立てだ。はやく食べなさい」
「はい…」
促され、リアは木製のスプーンを手に取ってスープを掬うと、ゆっくりと口へと運んだ。
「昔と、同じ味…」
道中で、口にしたのは乾パンだけである。
柔らかな優しい野菜の味が染み渡って、小さく呟いたリアの目尻から、一筋の涙がこぼれた。
「おいおい、大袈裟だな」
「だって…」
言いながら、華奢な右手で涙を拭った。
「無理を、聞いてもらったから…」
「その話は、後でいい。先ずは食べて、少しは休みなさい」
「はい…」
ルシードが言葉を渡すと、項垂れたリアは赤みの入った頭を更に下へと落として、聞き分けの良い子供へと戻るのだった――
「落ち着いたか?」
暖炉を前にして膝を抱えたリアが眠りから目を覚ますと、夜もすっかり更けていた。
王妃が頭を起こしたことに気が付くと、ルシードはのっそりと立ち上がり、白い湯気の昇る手のひら大のカップを、厚手のシーツに包まったリアへと差し出した。
「はい…ありがとうございます」
小さな王妃は、コクと頷いて温もりが伝わるカップを両手で受け取ると、熱さに気を付けながら早速口へと運んだ。
「あ、これも懐かしい…」
カップの中身は、蜂蜜を熱い湯水で溶かしたものだった。(*)
蜂蜜は、それぞれの土地の花の蜜をミツバチが運んで作るのだ。
故郷の優しい口当たりが、寝起きの冷え切った身体の奥へと染み渡っていく――
「美味しいか?」
「うん…」
背中を丸めたままの王妃が短く答えると、強面の目尻が思わず下がった。
ルシードの優しくなった瞳には、子供の頃のアレッタの姿が映っていた――
やがて広い背中をリアに向けると、ルシードは竈に幾つか薪を焼べて、火の勢いを増してやった。
寝起きで震えるリアの身体に、一層の温かさがやってくる。
子供の頃と変わることのない大きな背中に、彼女は優しい微笑みを浮かべた――
「お礼だけでも言いたくて、今日は来ました」
広い背中に向かって、思い切った口調でリアが伝えた。
「ああ…」
ルシードは短く答えるも、背中を向けたままだった。
それでも暫くすると立ち上がり、振り向きざまに口を開いた。
「おまえ達への、お祝いだ」
「…ありがとうございます」
新米王妃は瞼を閉じると、先ずは感謝の言葉を伝えた――
「それで、カルーガは大丈夫なんですか?」
丸太の椅子に座ったルシードに、リアが暖炉の前から心配そうな声を開いた。
先の戦いで、カルーガの部族がトゥーラに手を貸したという事実は、確信が無いまでも疑念を生むに違いない。
三者の釣り合った関係が崩れるのは、リアの本意では無いのだ。
「恐らくな。だが…」
太い手指で掴んだカップを口へと運ぶと、ルシードが続けて伝えた。
「暫くは、スモレンスクに傾く事になるかもな…」
「はい…」
脅しのような言葉である。
受け止めて、新米王妃は覚悟を胸に灯した――
春先の争いが起こる前のこと――
「スモレンスクに、不穏な動きあり」
西側からの報告に、リアは急いでカルーガにやってきて、ルシードを訪ねたのだ。
馬を駆ってきたにも関わらず、この日も着いた頃には夜の帳が降りていた――
「ルシードさん!」
「アレッタ!? どうした? 今は、戦いに備えねばならんだろう…」
戦の気配に、カルーガの地は敏感だ。
少なからず心配をしていたルシードは、薪を運ぼうと外へと出向いたところに当の本人が現れて、思わず驚きの声を発した。
「お願いします! 今回だけ、手を貸してほしい!」
大きなローブを羽織ったままで、息を切らして必死の形相で訴えると、小さな身体は両方の膝を地面に落とした。
「……」
「話だけは、聞こう」
ルシードは、ギョロッとした眼を閉じて暫く時間を置いてから、再び開いて観念したように呟いた。
「厳しいのか?」
家屋に移動して、小さな身体に座るようにと促すと、机を挟んで向かい合う形で座ったルシードが、木製のカップに水差しから水を注ぎながら尋ねた。
「正直に答えます。トゥーラは、小さいとはいえ、戦い慣れた城。簡単に崩れる事はありません」
「なら…」
「でも!」
ルシードの発言を、リアは咄嗟に退けた。
「私は、人が殺されるのを見たくない!」
続いて右手を胸に当てながら、強い口調で訴えた。
「…相手なら、殺しても良いと?」
対してルシードは、鋭い目つきでリアの心を突き刺すと、冷静さを保って訊き返した。
「そうは言ってない…でも、私たちは暮らしてるだけ。違いますか?」
「……」
真っすぐにリアが訴える。
幼稚な正論には違いないが、本音である。
「分かった。お前の事だ。カルーガにとっても無茶な事は言わないだろ」
暫く考えて、ルシードは覚悟を口にした。
城主の伴侶が単独で、少年に化けて70キロを駆ってきた。相当の思いである事は間違いない。
危ない橋を渡るのは、彼女の才覚を認めているからこそ。
争いを望む性格で無いことも、十分に理解をしている――
彼もまた、大地に朽ちる骸の数を数えたくはないのだ――
「それで、何が望みなんだ?」
「ここに、記してきました」
予め用意してきた紙片をリアが差し出すと、ルシードは左手で受け取って、ギョロッとした眼を動かした。
「無茶な所があれば、直します」
真摯な態度で、リアが重ねて口を開いた。
「そうだな…」
やがて、読み終えたルシードが呟いた。
「俺のところと、もう一つ。それに、ウィルのところでなんとかなるか…」
「ありがとうございます!」
喜びを浮かべて立ち上がる。
赤みの入った髪を揺らして、リアは深々と頭を下げるのだった――
「ロイズが国王、アレッタが王妃、ワルフが高官か…」
三人の成長を見守って、リャザンへの道を促したのは彼である。
しかしながら、誇りもせず、ルシードは淡々と名前を並べた――
「すみません…」
「お前が、謝る事はない」
静かに口を開いたルシードは、白湯の入ったカップへと、ごつっとした右手を伸ばした。
「望んだ訳でもなかろうに…」
三人共に出世した――
しかしながら、出世欲の一番強かったワルフが高官止まりなのは皮肉だろうか――
口角を僅かに上げながら、ルシードは木製のカップを傾けた――
夜が深まると、リアは久しぶりにルシードと枕を並べた。
子供の頃とは違って、二人の間には隙間がある――
羽毛の入った柔らかな寝具と違って、故郷の藁から感じる床の固さは懐かしく、むしろ心地がよかった。
「ウィル、大きくなってた…」
感慨深い。薄暗い家屋の中で、リアの小さな声が響いた。
「お前達が出て行って、5年にもなる。大きくもなるさ…」
「そうですね…」
同意を挟んだ王妃は、小さかったウィルが、カルーガの地にやってきた当時を思い出していた――
ある初夏の朝。
リアとロイズが机を挟み、向かい合って丸太の椅子に座って朝食を食べているところに、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。
「誰かな?」
「隣の、ローリです」
首を伸ばしたルシードの問いに返事があると、やがて扉が開いた。
ロイズは構わずパンにかじりついていたが、リアは左に向けた視線の先に、小さな人影が在るのに気が付いた。
「どした?」
動きの止まったリアにロイズが気付き、不思議そうに顔を上げると、今度はリアが向けている視線の方へと目をやった。
すると隣のおばさんに右手を握られた、幼い伏し目の男の子の立ち姿が覗いた――
おばさんの腰に身体を寄せて、見るからに不安を表している。
「おばさん、一緒に遊んでもいい?」
唐突に、目の前のリアがパンを右手に持ったまま、ガタッと腰を上げて赤みの入った髪を揺らすと、男の子の方へと足を進めた。
「ああ。いいよ」
「行こう!」
答えが届くより先に、リアは男の子の左手を掴んで引き上げて、外へと連れ出した。
「これ、あげる」
続いて、持っていた丸パンを男の子に渡そうとした。
男の子はキョトンとしていたが、やがて手を引かれるままに右へと動き、ロイズの視界から姿を消した――
「待ってよ!」
取り残されたロイズが、慌てて後を追う。
リアとロイズも同じようにして、この村へとやってきたのだ。
見知らぬ土地で、見知らぬ大人が小さな手を掴んで引き歩く――
それがたとえ大人の善意でも、子供には、不安しかない事を知っている――
ここは 大丈夫だよ――
何よりも、彼女は安心を伝えたかったのだ――
「あの子は、お前達に救われた…」
薄暗い家屋の中で、感謝を込めたルシードの言葉が響いた。
当時のワルフは15歳で、ロイズは11歳。リアは10歳だった。
そして、ウィルが5歳。
それから三人で、時にワルフも加わって、一緒に野山を駆け回った――
それでも日々の別れ際、少年はいつでも寂しそうだった――
お姉ちゃんだったリアの心に焼き付いた、彼の姿である――
「私は、ルシードさんに救われました…」
大きな琥珀色の瞳が、天井に向かって呟いた。
「……」
しかしながら、返事はない。
微かにこぼれる星明り。懐かしい故郷の空気の中、王妃となった小さな身体は、やがて深い、穏やかな眠りへと誘われた――
「ちょっとぬるいけど、いい湯だ~」
同じ夜、カルーガの奥手に在る宿で、白い雲がぼんやりと浮かぶ星空の下、痩身でありながら引き締まった体を温泉に浸けるラッセルの姿があった――
「一人は心細いよ、リア…」
一方トゥーラでは、ロイズが一人の寂しい夜を過ごすのだった――
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す
矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。
はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき……
メイドと主の織りなす官能の世界です。
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる