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lost future〜失われた未来〜 side コンラッド
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───…コンコン…
申し訳程度の軽いノックの後、王太子の執務室に堂々と無言で入室してきた人物を確認する。
「───…コンラッド王太子殿下、ただいま戻りました…」
どこか呆然とした様子で入って来たのは侍従のヘリオ・ミリオン侯爵だった。
いつもは無駄に笑顔を振りまいて俺には疲れたという表情すら徹底的に隠すあのヘリオがどこか気落ちしているように見えて、それまで休むこともなく走らせていたペンをつい止めてしまう。
「………」
今日は、ヘリオの別荘地で療養しているイーリスを迎えに行っていたはずだが…
なにか気ががりなことでもあったのだろうか…?
《イーリス・マクレーガン伯爵令嬢》
彼女は華やかな金髪とシャダーリンでは珍しい紫眼を持つ美しい女性で、かつて妃候補として名を連ねたこともある俺の初恋の人でもある。
だが、義母ダリアから凄惨な虐待を受けたイーリスは、生死の境をさ迷っていたところをヘリオに保護され…
二年前から郊外にあるミリオン侯爵家所有の別荘にて人知れず療養させていた。
心身に深い傷を負ってしまったイーリスに少しでも心穏やかに過ごしてもらおうと、ヘリオの部下であり諜報員として戦闘スキルも持つノワを護衛兼侍女としてイーリスに付けていたのだが…
モートン王国との戦争で国内が荒れる可能性が高まったこともあり、腹心であるヘリオにイーリスを迎えに行かせていた。
「イーリスは元気だったか?」
「……はい、問題ありません」
「ミリオン侯爵邸に住まいを移したのだろう?」
「……はい、経営していた酒屋も全て処分してきました。ノワも一緒です」
珍しく歯切れの悪い返答に引っかかりを覚えてしまう。
だがヘリオがこう言うからには特に気にする必要はないのだろう。
ヘリオは茶髪と茶眼を持つ先代国王…つまり俺らのお爺様によく似ていた。
王妃の実家であるペルージャン公爵家の色である白金髪と金眼を受け継いだ中性的な容姿の俺と違い…
癖のある茶髪と茶眼を持つ小柄なヘリオは、体格にさえ恵まれていれば彼の父親だけでなく現国王…つまり俺の父にも雰囲気が似ていたことだろう。
そんな王家の血を色濃く受け継いだヘリオは、幼少時から自身の本心を隠すことを得意としていた。
相手を煙に巻くようなヘリオの態度は一見優柔不断にも見えるが、状況に応じて的確に考えを改められる柔軟さも持ち合わせている。
俺が生まれていなければ…
確実にこの国の王太子の座に着いたはずだ。
だが様々な事情が複雑に重なり…
家系図では従兄弟であり信頼できる唯一の乳兄弟でもあるヘリオは、俺に忠誠を近った上で侍従を務めてくれている。
「そうか、ご苦労だった。戻ってすぐで悪いのだが…今朝ロマ帝国からの求婚書が届いてな…」
「………」
「ヘリオ?」
「あ、申し訳ありません。ロマ帝国ですか?」
「……疲れているようなら今日は休みにしても構わないぞ?急ぐ案件でもないしな」
「……いえ、大丈夫です。ところでロマ帝国は誰を…?」
「あぁ、案の定というか…メティス姫からの求婚書だったさ」
「……ははっ…随分と見くびられたものですね」
「………」
ようやく頭が回ってきたのか、ヘリオの顔つきがいつもの様相に変わる。
「第三皇女ならばまだ十にも満たないでしょうに…アルケノスが溺愛している第一皇女のプシュケーではなくよもや第三皇女のメティスですか」
「それでも…こちらが断れないと踏んでの求婚書なのだろう。王妃は即座に突っぱねていたが…陛下は思案している様子だったからな…」
「………」
この大陸の北部を支配しているロマ帝国は、二十年前にシャダーリンの西側に隣接するモートン王国を属国にしていた。
そのモートン王国は数年前から、関税の引き上げから始まり国境地帯でのトラブルが頻発するなど、シャダーリンと積極的に戦争の火種を作ってきた。
元々はモートン王国との戦争で国力が低下したところをロマ帝国が蹂躙するという目論見があったようだが…
今回の国婚で無血開城してもらえるのならばそれも良し、という考えなのだろう。
だが未婚で歳の近い第一皇女のプシュケーではなく、年端もいかないメティスを皇太子妃に…と言ってくるあたり、欲深い皇帝アルケノスは国婚を拒んだシャダーリンへの報復という侵略のための口実作りも念頭にあるはずだ。
「そろそろ、イーリスともモートン王家のことを一度話さなければならないな…」
「…彼女の血筋の件は折を見て自分から先にお話しておきます…どの道、陛下の御決断を待ってからの返答になるでしょうし…イーリス嬢自身、社交界をかなり気にされている様子でしたから」
「そうか…俺がイーリスに会うのは全てが片付いてからの方が良いだろう。引き続き彼女のことをよろしく頼む…」
「…はっ!」
それから一ヶ月後…
正式にロマ帝国の外交使節団が到着した。
薄桃色の巻き髪と銀色の瞳を持つ九歳の女児 《メティス・バロッズ・ラ・ロマ》を連れて…
王太子妃候補に変更はなし、第三皇女メティスで納得出来なければ国婚は白紙…という最終通告に他ならなかった。
我がシャダーリン王家をあからさまに見下す外交官と幼い第三皇女の横柄な態度は腹に据えかねたものの、最低限の礼儀として我慢して受け入れた二週間の歓待の末…
国王陛下は最終的にロマ帝国との国婚を受け入れられないと返答してくれたのだった。
「……戦争が始まるな」
帰国する使節団を見送りながらついヘリオに零してしまう。
避けられるものなら、戦争など避けたかった…
もし、送られてきたのが第一皇女のプシュケーだったなら、王族の責務として政略結婚を受け入れる覚悟はあった。
「陛下の御決断です…我々は陛下の期待に応えられるよう全力を尽くしましょう」
「…あぁ、そうだな」
シャダーリンからあの使節団が帰国するまでの一ヶ月…
早馬を飛ばされれば二週間も残されていないだろう。
モートン王国との最前線に送っている兵士を調整しつつ、北からの侵攻も視野に入れて準備を進めなければならない。
アルケノスがどこまで本気なのかは分からないが…
ロマ帝国の準備が整い次第、全軍を上げて出陣してきてもおかしくない。
いずれにしても…
冬になる前にはロマ帝国との全面戦争になるだろう。
それから士官学校の有能な生徒を選抜させ、ロマ帝国との戦争に備えてモートン王国の前線を保っている兵士達の大規模な入れ替えを行った。
戦闘域にあたる国境近くの村からはすでに多くの平民が首都へ避難して来ている。
首都の南東側へ避難民の居住地を準備したりと、ロマ帝国が本格参入する前に後方支援の体制を整えることに奔走する日々が続いた。
しかし…
増え続ける避難民との摩擦や、戦争の本格化に備えて各地で物価の高騰も始まり、力仕事を担っていた若い男子が徴兵されたことによる国民の不満は高まるばかりだった。
モートン王国との前線が保たれていることだけが朗報ではあったが、ロマ帝国がいつ侵攻してくるのかが読めないところも大きく国力を疲弊させていた。
そんな中、一つの報せが俺の元へ届いた。
「───…アネスティラ・マクレーガンが見つかった?いつアストラスから戻っていたのだっ?!」
「そこまではまだ…しかし、昨夜マクレーガン伯爵邸へ忍び込んでいたところを、マクレーガン伯爵が発見し拘束に至ったそうです」
「身柄の拘束は有難いが…なんでこんなタイミングなんだっ!くそっ…!」
思わず机を思いっきり殴ってしまう。
イーリスの誘拐事件を起こし、彼女が妃候補から外されるよう画策したのが義姉であるアネスティラ・マクレーガンだった。
俺を愛してるとのたまい…狂った執愛を向けてくるアネスティラを王国の貴族裁判にかけ、これまでの罪を償わせる…
そのためにここまで努力してきた。
だが、今は国内で高まりつつあるフラストレーションを解消させるためにも、一つでも多くの勝戦報告を持ち帰れるよう戦場にいる兵士達の士気を高めることに注力すべきだろう。
「いえ……殿下、むしろ今すぐアネスティラ・マクレーガンの処刑を行うべきです」
「………なんだと?」
この状況下で王国貴族を公開処刑をしても国民をいたずらに混乱させるだけだ。
王侯貴族への不信感を煽りかねない。
そんなことはヘリオも分かっているはずだが…
「国民の不満を解消させるのには良い機会です」
「………だが、アネスティラの件では…」
「アネスティラ・マクレーガンがかつて社交界を混乱させたドラッグはモートン王国経由で流されたロマ帝国の計略によるものです。今は何より、ロマ帝国への徹底抗戦の意思表示と、間諜の疑いがある者には厳正なる処罰を下すという王家の強い姿勢を国民に見せるべきです」
「………」
「何より…イーリス嬢のためにも…この機会は決して逃せません」
実際はオフィーリア・オルロン侯爵令嬢が間諜の口車に乗り、ドラッグの流通を請け負ったことが発端だった。
だがオフィーリアに利用されたアネスティラが、未来の王妃というただ一つの座を手に入れるため…
俺の婚約者候補達を排除すべく積極的にドラッグを融通していたのも事実だ。
ようやく…イーリスと俺を決別させた元凶であるアネスティラへの遺恨を晴らすことが出来るのか…?
「………」
「今はあくまでもアネスティラが主犯である、とした方が国民の余計な混乱は避けられるでしょう」
「そう、だな…アネスティラの件を片付けられれば…モートン王国との停戦も持ちかけやすくなる。何よりイーリスのためにも…アネスティラは排除しなければならない…」
「………」
「イーリスはモートン王家の血筋であることを明かすことには納得してくれたのか?」
「ええ…問題ないそうです」
「そうか!ようやく…ようやくイーリスに会えるんだな…!」
「………」
複雑な生い立ちを持つイーリスは、モートン王家の末裔だった。
現在のモートン王国には正統な後継者がいない。
最後の直系子孫とされるモートン五世が、ロマ帝国の手により処刑されたことで現在は王妃の甥が国王として国事を取り仕切っていた。
もちろん統治者の器もない名ばかりの王であり、ロマ帝国の息がかかった宰相が実権を握っている。
しかし、モートン王家の唯一の末裔であるイーリスがシャダーリン王国の王太子である俺と婚姻するとなれば…
この複雑な状況を一気に片付けることが出来る。
正統性のない現王では、初代モートン女王の血を引くイーリスに害を及ぼすことは出来ない…
賢王と名高い初代モートン女王を敬愛するモートン王国の民は、決してそれを許さないだろう。
「今すぐ…騎士団を率いてアネスティラ・マクレーガンの捕縛に向かってくれ」
「はっ…!」
だが、アネスティラの捕縛を決意した俺の元に届いたのは…
アネスティラがマクレーガン伯爵領へ逃亡したという報せだった。
さすがにヘリオを領地までは行かせられないため、ヘリオの代わりに伯爵領地へ派遣する騎士達の選別していたところ…
逃亡中のアネスティラが見つかり、郊外にあるマクレーガン伯爵家所有の別宅にて既に拘束されているとの報せが届いた。
それからは、アネスティラの貴族裁判に向けての準備に追われる慌ただしい日々が続いた。
王妃である母上だけは、この戦時下での死刑執行に難色を示していたものの…
俺と父上でなんとか説得してしぶしぶだが最後には納得してくれた。
形だけの貴族裁判と即刻刑が執行されるよう、全ての手続きを済ませた時には一週間も経っていた。
移送のための騎士が出発すると同時に公開処刑の告知が行われた。
郊外にある別宅に拘束されているはずのアネスティラを、首都の処刑場まで移送するのに約一日の準備時間を設けてはいたものの…
各所への最終手続きと処刑場の整備など細々したこともあり、俺とヘリオは寝る間も惜しんで抜かりなく準備を進めた。
全ては貴族から反対の声が上がる時間的猶予を作らせないためであり、今さらダリアが現れたところで、アネスティラの処刑執行が覆らされることがないようにするためだった。
イーリスが一日でも早く安心して暮らせるようにと…
それだけを望んでいた。
*
翌日。
日が傾き始め…予定時刻より遅くなったもののアネスティラは無事処刑場まで連行されてきた。
移送車から降りてきた彼女は足を怪我しているのか、大袈裟に足を引きずって歩いていた。
「なんだ?あの赤い目隠しは…アネスティラへの配慮では無いだろうな?」
真っ赤な目隠しが彼女の自慢だった金髪をより際立たせているように見えて気に触る。
だが、痩せこけた手足や傷だらけの肌を隠すことすら許されない今の姿は、自身の美貌をひけらかしていたアネスティラへの罰のように思えてどこか滑稽でもあった。
「あの目は…逃亡を謀っていたアネスティラを捕らえた民衆によるものだと報告を受けています。どうやら目を焼かれたそうですね…」
「ふん、いい気味だ。それでイーリスは…?」
「……我が侯爵邸で保護しております、イーリス嬢がこちらに来ることはありませんので御安心下さい」
「そうか、彼女は優しすぎる。アネスティラの処刑を聞きつければ助命を嘆願しに来るかもしれないからな」
「……そうですね」
ふと…こちらへ向けられた彼女の表情が喜んでいるように見えて顔を顰めてしまう。
まさか、こんな状況になっても未だに俺を慕っているとでも言うつもりなのだろうか?
だが、彼女はこちらを嘲るように嗤うと再び歩き出してしまう。
轡は噛ませていないというのに…
「……相変わらず気味の悪い女だ…」
ヘリオが呟いた言葉には同意しかなかった。
目を潰されたとはいえ…
死刑を目前にして、弁明も命乞いすらしない彼女の姿に俺はどこか畏怖を覚えていた。
だが、彼女はそのまま騒いだり暴れることなく騎士の先導に従って断頭台へと登っていく。
決してこちらを振り返ることなく、芯の強さを表すかのように背すじを伸ばして歩く姿に何故か違和感と胸の痛みを覚える。
その姿はまるで…
かつて自分を拒絶したイーリスを彷彿とさせる姿に見えた。
アネスティラの罪状は《大逆罪》だった。
国内の社交界で悪質なドラッグを故意に広め、次代を担う有能な人材を陥れ若い子女らの心身に深い弊害を与えたこと。
また、ロマ帝国との国婚が優位に運ぶよう王子妃候補者への直接的な危害に加え、モートン王国と友好を結んでいるアストラス神聖国にシャダーリンの機密情報を漏洩させたこと。
ドラッグの購入資金を対戦国であるモートン王国へ流したことなどが背信行為として読み挙げられる。
当然のように雷のような激しい怒号が湧き起こる。
そして、断頭台に彼女の頭が置かれる様子を見た瞬間…
…何故か焦燥感に駆られた。
「………」
切実に望んでいた光景のはずだった。
だが集まった国民達の異様な狂気にあてられてしまったのか、俺はこの状況を止めるべきか悩んでいた。
恐らく、先ほど見たあの姿のせいだろう。
幼子の頃から知るアネスティラが、あのような芯の強さを持っていたは思わず…
単に驚いただけだ…ここで処刑を止めるわけにはいかない。
今を逃せばまた全てが後手後手になってしまうはずだ、とそう言い聞かせて…
処刑の中断に繋がりかねない心のざわめきを必死に抑え込む。
ようやくアネスティラの罪状が全て読み上げられ、決められていた判決を侍従であるヘリオから言い渡される。
俺の合図一つで…念願のアネスティラの処刑が執行されることになる。
この手を振り下ろすだけで、あの処刑台にいる…一人の人間の命が失われることになるのだ。
「………」
一瞬の逡巡の後、掲げた腕を振り下ろす。
それを見ていた執行官が、ギロチンを持ち上げていた綱を一寸の躊躇いもなく切り離してしまう。
まるで処刑場がまるごと隔絶されたかのような静寂の中…
────ザンッ…!!
ギロチンが落とされる無情な音が処刑場を支配する。
首と共に斬られた金髪が舞い上がり…
執行官の手により掲げられた首からは、彼女の目を覆っていた赤い布が風に飛ばされていく…
「「………」」
ヘリオが言っていた通り、彼女の両目は焼き潰されていた。
「「───…うぉおおおおおおおおおお!!」」
「………───」
地鳴りのような歓声に揺れる処刑場で、隣から聞こえてきたのは何故か息を飲む声で…
「?」
「……んな…まさか……なぜ……?」
「…ヘリオ?」
「何故だ…?シリウス・マクレーガン…何故彼女を…───」
目を見開き瞳を揺らしながら呆然と呟くヘリオ。
いつになく取り乱しているヘリオの姿に嫌な予感を覚える。
「……シリウス?何の話だ?何故…シリウスの名前が出てくるのだ?」
「殿下……あれは…────」
「「うぉおおおおおおおおおお!!」」
あぁ…煩いな…少し黙ってくれないか?
止まない歓声に耳鳴りのような痛みを覚えてしまう。
「ヘリオ…煩くてよく聞こえなかったんだ…悪いが、もう一度言ってくれないか?……そんなはず…ないよな…?」
《あれは…イーリス・マクレーガンです…》
そう言われたような気がした。
違うと言ってくれ。
俺がお前の口を読み間違えただけだ、と…
だがヘリオは顔を歪ませるばかりで…
「────」
「……何故だ…?何故…彼女がアネスティラ・マクレーガンとして処刑場に連れてこられることになるのだ…?そんなこと…ありえない…有り得るはずがない。アネスティラとイーリスは身長が…」
先ほど感じた違和感の理由に気づいてしまう。
気づいていた…
俺なら止められたはずなのに…
膝から崩れ落ちて呆然と処刑台を見上げる。
止まない歓声の中心で掲げられていた彼女の首が歪んでいくのが分かった。
「………ッ────!!」
イーリスと添い遂げるために全てを投げ打って走り続けてきた。
そんな俺が………彼女を殺したのか?
あの嗤顔は気づけなかった俺への嘲笑だったのか…?
何故…
何故なんだ…イーリスッ…!
一言だけでも君の声を聞けていたなら…───!!
*
「……ヘリオ・ミリオン侯爵が自室で亡くなられていたそうです」
「───…はは…あいつ…ふざけやがって…!!」
───ガンッ…!!
予想外な報告に思わず右手に持っていた万年筆をへし折り、怒りのままに目の前にあったインク壷を本棚へと投げつけてしまう。
あの日…
本来ならば処刑場で一週間晒しておく予定だった大罪人アネスティラの…いや、イーリスの首と身体はすぐに回収させた。
処刑を急ぐあまり、本来ならば行うべき手順を省いたために起こった悲劇だった。
アネスティラへの事実確認も、弁明の機会も奪った結果…
俺は最愛の人を自らの手で処刑するという失態を演じたのだ。
「───…何故だッ!お前はイーリスを侯爵邸で保護していると言っていたではないかッ!!」
「申し訳ありません…!」
「謝罪が聞きたいのではないっ!何故、このようなことになったのか…!俺は…それを聞いているんだッ!!」
ヘリオから聞かされた事実はとても受け入れられるものではなかった。
四ヶ月前、療養中だったイーリスを迎えに行かせたヘリオの前に現れたのは、彼女の義弟であるシリウス・マクレーガンだった。
モートン王家の血筋であることを聞かされたイーリスは、俺が政争の道具として利用しようとしているというシリウスの言葉を信じ…
あろうことか彼女はシリウスの手を取ることを選んだらしい。
俺はそんなことも知らずに…
アネスティラの処刑が終われば、イーリスと共に生きていけるものだと…
「つまり……お前は…俺を…裏切ったのだな…?」
「───…決してそんなつもりは…!!」
「黙れッ!!イーリスは俺ではなくシリウスを選んだ!お前はそれを報告しなかった!あの時、お前がイーリスを保護していないと打ち明けてくれていたなら…俺は何を置いても彼女の所在を確認させたはずだッ!!」
「───」
「ヘリオ………お前を、侍従から解任する…」
「っ…………今まで…お世話になりました。本当に、申し訳ございませんでした…」
当然、このようなことを公表出来るはずもなく…
水面下ではアネスティラ・マクレーガンの捜索は続けられた。
処刑場での経緯を知った王妃は倒れてしまい、国王からは一週間の謹慎を言い渡されていた。
そして、一週間の謹慎が明けてヘリオの様子を見に行かせた結果がこれとは…
首都にあるミリオン侯爵邸へ向かうと、検分が行われている最中だった。
「………」
「……自死と見て間違いないでしょう。元よりこの侯爵邸の人間が外部からの侵入に気づけなかったとは思えません…」
「そうか…それで?何故、一週間もの間…誰一人気づく者がいなかったのだ…?」
「「………」」
「つまり…お前達は主人が自室に籠って、一週間も飲まず食わずで居ても平然としていたということか…随分と、見上げた忠誠心だな…?」
「「………」」
集まっていた邸宅内の使用人達に厳しい視線を向ける。
八つ当たりなのは分かっていた。
それでも…この行き場のない怒りを誰かにぶつけなければ気が済まなかった。
「…恐れながら…閣下より執務室には近づくなと厳命を…」
「そんなことは分かっているッ!!…それでも…翌日、せめて…二日目には発見されるべきだった…!!このような変わり果てた姿になる前にッ…!!」
秋とはいえ夏の暑さは未だ残り、日中は軽く身体を動かすと汗ばむこともあるほどだ。
一週間…
イーリスの処刑日当日に自死を選んだヘリオの遺体は腐敗が進んでしまっていた。
部屋に充満する腐敗臭に感覚が麻痺していくようだった。
「何故なんだ…───!!」
お前なら死ぬ気でアネスティラ・マクレーガンを捜し出して、俺の前に連れてきてくれるものだと信じていたのに…
ミリオン侯爵家当主…ヘリオの若すぎる死は病死と公表された。
対外的には、俺は持病の悪化によりヘリオを侍従から解雇していたことになっている。
訪れた多くの弔問客が帰った深夜…
俺は新しく建てられたヘリオの墓を人知れず訪れていた。
「……シリウス・マクレーガンにも報せなければいけないな…あいつは今士官学校にいるのか?アネスティラの…処刑にも顔を見せないで…」
「いえ、シリウス・マクレーガンでしたらモートン王国との国境地帯に送られておりますが…?」
「……なん、だと…?」
『何故だ…?シリウス・マクレーガン…何故彼女を…』
ヘリオの言葉に合点がいく。
おそらくヘリオは、イーリスがシリウスに保護されているものだと思っていたのだろう。
「……そうか…ヘリオ、お前も知らなかったのだな…」
「?ああ、その可能性はあるかと…アネスティラ・マクレーガンの処刑の報せは士官学校へ送られていたそうなので。先日担当教諭が不在だったということで、こちらへ転送の問い合わせがあったので代わりに私が対応しておいたのですが…もしかすると、ミリオン侯爵も把握していなかったかもしれませんね」
「………」
ぽつりと呟いた言葉を新しく付けられた補佐官が律儀に拾ってくれる。
ヘリオ…お前の減らず口を聞くことは、もうないのだな…
*
結局アネスティラは見つけだすことは出来ず…
ダリアは病床に伏しているセドリック・マクレーガン伯爵と共に別宅に引きこもっているらしい。
イーリスを失ってしまってからは、あれほど憎んでいたダリアのことすらどうでも良くなっていた。
変わりゆく戦況に応じて、必要な業務を淡々とこなす日々…
そんな陰鬱な日々をただただ無気力に過ごしていた俺は、息を潜めるように静かだった城内が久しぶりに騒がしくなっていることに気づいた。
「「───!」」
「……?」
……とうとうロマ帝国の本隊でも動いたか?
「コンラッド王太子殿下!!……シリウス・マクレーガンが正門にて騒ぎを…」
「……シリウスが…?」
国境の最前線にいたにしては随分と早いな?
……あぁ、ヘリオが先に報せを出していたんだったな。
「ミリオン侯爵を連れてこいと…門兵の一人が人質に取られております!」
「………そうか…」
シリウス…
イーリスの義弟であり、アネスティラの実弟でもあるシリウス・マクレーガン。
父親譲りの金髪と深い青の瞳を持つ優秀な青年…
本来ならば、今すぐにでもマクレーガン伯爵家の当主の座につくべき人物だ。
報告にあった城門へ向かうと、緊迫した様子で兵士がずらりと並んでいた。
その中心に立つ人物…
久しぶりに見たシリウスは、記憶の中の姿よりもずっと成長していた。
シリウスとの出会いはヘリオと二人で市内をお忍びで視察していた時だったから…彼はまだ十三歳になる前だったはずだ。
恋い慕うイーリスを下街でエスコートしていたシリウスは、突然現れた俺に取られまいと敵意を剥き出しにしていた。
この国の王子である俺に対抗するべく、必死に背伸びをしていたあの幼かったシリウスが…今や青年と呼ぶに相応しい風貌に変わっていた。
このような再会でなければ、俺はきっと笑顔でお前を迎えられたはずなのに…
「「………」」
一体何があったのか…
全身を返り血で染めているシリウスは、肉が裂け骨が剥き出しになった指で剣を握りしめ…
燃え盛る炎のような力強い光を宿した青い瞳は、あの頃と変わらず…怯むことなく王太子である俺をまっすぐ捉えていた。
「……ヘリオに会いに来たと聞いた…」
「…はい、彼に話があります。隠しても無駄です、彼はどこにいるんですか?」
「───…イーリスの件は…本当に済まなかった……」
全てを知ってしまったのだろう。
シリウスの全身を染め上げている血が誰のものなのか…
見通しがついてしまい、思わず目を閉じる。
シリウスの凄惨な様相が、まさしく彼の怒りを表しているようだった。
「殿下から詫びてもらっても彼女は戻ってきません。私もそんな言葉を聞きたくて来た訳では無いので、ヘリオ・ミリオン侯爵を早く連れてきてもらえませんか?でないと…」
顔色を変えることなく、人質である門兵の首に剣をあてるシリウス。
シリウスには剣の才能がある。
士官学校の学生でありながら、戦争の最前線に送られてしまったのはシリウスが優秀すぎたせいでもある。
そんな頼もしい剣を…自国の兵に向けられるとは思わなかったが。
「………」
ここでシリウスの望みを利けないと返すことは門兵の死を意味する。
だが…
「ヘリオを連れてくることは出来ない…」
俺は包み隠さずシリウスに全てを打ち明けた。
上層部の中でも一部の人間しか知らされていない最高機密…
大逆罪で処刑された罪人が別人であったことを、初めて聞かされた兵士達の顔色が変わっていくのが分かった。
それでも話を中断する気にはなれなかった。
そして、ヘリオの自死についても…
「───」
瞳から鋭さは消え失せ、どこか呆然としているシリウスを見ても安堵することは出来なかった。
それほどまでに、今のシリウスは狂気的な空気を纏っていた。
まるで死地をくぐり抜けてきたかのようにボロボロな身なりとは対照的に、人間離れした容貌がどこか底の見えない異質な存在のように彼を見せていた。
そっと閉じられた瞳…
心臓を鷲掴みされたかのように苦しみ、何度も何度も自分の胸を殴りつけるシリウスの痛ましい姿に、とうに枯れ果てたはずの涙が溢れてしまう。
行き場を失った怒りの矛先をシリウスがどうするのか…
この先の展開は、俺の予想とそう大差はないだろう。
「………」
再び開かれた青い瞳には憎悪の炎が宿っていた。
躊躇うことなく引かれた剣により門兵の首から赤い血を噴き上がり…
首へと手を伸ばす門兵を突き飛ばして駆け出すシリウス。
…あぁ、ここが俺の死に場所なのだろう。
呆気なく逝ってしまったヘリオが羨ましかった。
この地獄のような世界から俺も早く解放されたいと、心のどこかで願っていた。
恐らく、アネスティラもダリアも…イーリスを失ったシリウスの怒りでその命を散らしたことだろう。
叶うなら、いっそのこと俺もシリウスの手で…
「誰も手を出すな…「「止まれぇえええ───!!」」
俺の言葉は兵士たちの怒号にかき消され…
剣をしっかり握りしめ全力で駆けて来るシリウスも槍を構える兵士達も、まるで世界が止まってしまったかのようにゆっくりに見えて…
「放てぇ───!!」
「────…やめろォぉぉおおおおお!!」
周囲を取り囲んでいた兵士たちから一斉に槍が投擲されてしまう。
「───…ごふっ…!!」
血を勢い良く吐き出しながらようやくシリウスの手から剣が離される。
カラン…と渇いた金属音が打ち付けられる音がやけに大きく響いた。
全身を槍に貫かれながらも、シリウスの視線が俺から外されることはなかった。
「「………」」
おびただしい血が真っ白な石畳を染めて行く中…
その中心に立つシリウスの青い瞳が一際目を引いた。
シリウスが膝から崩れ落ちても誰一人動けないまま…俺を含め、ここにいる全ての者がシリウスの壮絶な最期に釘付けになっていた。
最期…
そう、俺だけを残して…みんな居なくなってしまった。
一人残される恐怖につい息苦しさを覚えてしまう。
頼むから…俺を置いて逝かないでくれ…!!
シリウスがそんな臆病な俺を見ながら嗤っていることに気づく。
暴れるだけ暴れて…俺の弱さを嗤いながら勝手に死のうとしているシリウスが、どこか満たされているように見えて…
「………───」
イーリスを死なせた罪を背負い、この地獄でお前は一人足掻き苦しむがいい…
そう言われたような気がした。
「─────…シリウスっ!!」
兵士たちの制止を振り切って駆け寄る。
だが…
光を失ったシリウスの青い瞳が再び俺を見て嗤うことはなかったのだった…────
申し訳程度の軽いノックの後、王太子の執務室に堂々と無言で入室してきた人物を確認する。
「───…コンラッド王太子殿下、ただいま戻りました…」
どこか呆然とした様子で入って来たのは侍従のヘリオ・ミリオン侯爵だった。
いつもは無駄に笑顔を振りまいて俺には疲れたという表情すら徹底的に隠すあのヘリオがどこか気落ちしているように見えて、それまで休むこともなく走らせていたペンをつい止めてしまう。
「………」
今日は、ヘリオの別荘地で療養しているイーリスを迎えに行っていたはずだが…
なにか気ががりなことでもあったのだろうか…?
《イーリス・マクレーガン伯爵令嬢》
彼女は華やかな金髪とシャダーリンでは珍しい紫眼を持つ美しい女性で、かつて妃候補として名を連ねたこともある俺の初恋の人でもある。
だが、義母ダリアから凄惨な虐待を受けたイーリスは、生死の境をさ迷っていたところをヘリオに保護され…
二年前から郊外にあるミリオン侯爵家所有の別荘にて人知れず療養させていた。
心身に深い傷を負ってしまったイーリスに少しでも心穏やかに過ごしてもらおうと、ヘリオの部下であり諜報員として戦闘スキルも持つノワを護衛兼侍女としてイーリスに付けていたのだが…
モートン王国との戦争で国内が荒れる可能性が高まったこともあり、腹心であるヘリオにイーリスを迎えに行かせていた。
「イーリスは元気だったか?」
「……はい、問題ありません」
「ミリオン侯爵邸に住まいを移したのだろう?」
「……はい、経営していた酒屋も全て処分してきました。ノワも一緒です」
珍しく歯切れの悪い返答に引っかかりを覚えてしまう。
だがヘリオがこう言うからには特に気にする必要はないのだろう。
ヘリオは茶髪と茶眼を持つ先代国王…つまり俺らのお爺様によく似ていた。
王妃の実家であるペルージャン公爵家の色である白金髪と金眼を受け継いだ中性的な容姿の俺と違い…
癖のある茶髪と茶眼を持つ小柄なヘリオは、体格にさえ恵まれていれば彼の父親だけでなく現国王…つまり俺の父にも雰囲気が似ていたことだろう。
そんな王家の血を色濃く受け継いだヘリオは、幼少時から自身の本心を隠すことを得意としていた。
相手を煙に巻くようなヘリオの態度は一見優柔不断にも見えるが、状況に応じて的確に考えを改められる柔軟さも持ち合わせている。
俺が生まれていなければ…
確実にこの国の王太子の座に着いたはずだ。
だが様々な事情が複雑に重なり…
家系図では従兄弟であり信頼できる唯一の乳兄弟でもあるヘリオは、俺に忠誠を近った上で侍従を務めてくれている。
「そうか、ご苦労だった。戻ってすぐで悪いのだが…今朝ロマ帝国からの求婚書が届いてな…」
「………」
「ヘリオ?」
「あ、申し訳ありません。ロマ帝国ですか?」
「……疲れているようなら今日は休みにしても構わないぞ?急ぐ案件でもないしな」
「……いえ、大丈夫です。ところでロマ帝国は誰を…?」
「あぁ、案の定というか…メティス姫からの求婚書だったさ」
「……ははっ…随分と見くびられたものですね」
「………」
ようやく頭が回ってきたのか、ヘリオの顔つきがいつもの様相に変わる。
「第三皇女ならばまだ十にも満たないでしょうに…アルケノスが溺愛している第一皇女のプシュケーではなくよもや第三皇女のメティスですか」
「それでも…こちらが断れないと踏んでの求婚書なのだろう。王妃は即座に突っぱねていたが…陛下は思案している様子だったからな…」
「………」
この大陸の北部を支配しているロマ帝国は、二十年前にシャダーリンの西側に隣接するモートン王国を属国にしていた。
そのモートン王国は数年前から、関税の引き上げから始まり国境地帯でのトラブルが頻発するなど、シャダーリンと積極的に戦争の火種を作ってきた。
元々はモートン王国との戦争で国力が低下したところをロマ帝国が蹂躙するという目論見があったようだが…
今回の国婚で無血開城してもらえるのならばそれも良し、という考えなのだろう。
だが未婚で歳の近い第一皇女のプシュケーではなく、年端もいかないメティスを皇太子妃に…と言ってくるあたり、欲深い皇帝アルケノスは国婚を拒んだシャダーリンへの報復という侵略のための口実作りも念頭にあるはずだ。
「そろそろ、イーリスともモートン王家のことを一度話さなければならないな…」
「…彼女の血筋の件は折を見て自分から先にお話しておきます…どの道、陛下の御決断を待ってからの返答になるでしょうし…イーリス嬢自身、社交界をかなり気にされている様子でしたから」
「そうか…俺がイーリスに会うのは全てが片付いてからの方が良いだろう。引き続き彼女のことをよろしく頼む…」
「…はっ!」
それから一ヶ月後…
正式にロマ帝国の外交使節団が到着した。
薄桃色の巻き髪と銀色の瞳を持つ九歳の女児 《メティス・バロッズ・ラ・ロマ》を連れて…
王太子妃候補に変更はなし、第三皇女メティスで納得出来なければ国婚は白紙…という最終通告に他ならなかった。
我がシャダーリン王家をあからさまに見下す外交官と幼い第三皇女の横柄な態度は腹に据えかねたものの、最低限の礼儀として我慢して受け入れた二週間の歓待の末…
国王陛下は最終的にロマ帝国との国婚を受け入れられないと返答してくれたのだった。
「……戦争が始まるな」
帰国する使節団を見送りながらついヘリオに零してしまう。
避けられるものなら、戦争など避けたかった…
もし、送られてきたのが第一皇女のプシュケーだったなら、王族の責務として政略結婚を受け入れる覚悟はあった。
「陛下の御決断です…我々は陛下の期待に応えられるよう全力を尽くしましょう」
「…あぁ、そうだな」
シャダーリンからあの使節団が帰国するまでの一ヶ月…
早馬を飛ばされれば二週間も残されていないだろう。
モートン王国との最前線に送っている兵士を調整しつつ、北からの侵攻も視野に入れて準備を進めなければならない。
アルケノスがどこまで本気なのかは分からないが…
ロマ帝国の準備が整い次第、全軍を上げて出陣してきてもおかしくない。
いずれにしても…
冬になる前にはロマ帝国との全面戦争になるだろう。
それから士官学校の有能な生徒を選抜させ、ロマ帝国との戦争に備えてモートン王国の前線を保っている兵士達の大規模な入れ替えを行った。
戦闘域にあたる国境近くの村からはすでに多くの平民が首都へ避難して来ている。
首都の南東側へ避難民の居住地を準備したりと、ロマ帝国が本格参入する前に後方支援の体制を整えることに奔走する日々が続いた。
しかし…
増え続ける避難民との摩擦や、戦争の本格化に備えて各地で物価の高騰も始まり、力仕事を担っていた若い男子が徴兵されたことによる国民の不満は高まるばかりだった。
モートン王国との前線が保たれていることだけが朗報ではあったが、ロマ帝国がいつ侵攻してくるのかが読めないところも大きく国力を疲弊させていた。
そんな中、一つの報せが俺の元へ届いた。
「───…アネスティラ・マクレーガンが見つかった?いつアストラスから戻っていたのだっ?!」
「そこまではまだ…しかし、昨夜マクレーガン伯爵邸へ忍び込んでいたところを、マクレーガン伯爵が発見し拘束に至ったそうです」
「身柄の拘束は有難いが…なんでこんなタイミングなんだっ!くそっ…!」
思わず机を思いっきり殴ってしまう。
イーリスの誘拐事件を起こし、彼女が妃候補から外されるよう画策したのが義姉であるアネスティラ・マクレーガンだった。
俺を愛してるとのたまい…狂った執愛を向けてくるアネスティラを王国の貴族裁判にかけ、これまでの罪を償わせる…
そのためにここまで努力してきた。
だが、今は国内で高まりつつあるフラストレーションを解消させるためにも、一つでも多くの勝戦報告を持ち帰れるよう戦場にいる兵士達の士気を高めることに注力すべきだろう。
「いえ……殿下、むしろ今すぐアネスティラ・マクレーガンの処刑を行うべきです」
「………なんだと?」
この状況下で王国貴族を公開処刑をしても国民をいたずらに混乱させるだけだ。
王侯貴族への不信感を煽りかねない。
そんなことはヘリオも分かっているはずだが…
「国民の不満を解消させるのには良い機会です」
「………だが、アネスティラの件では…」
「アネスティラ・マクレーガンがかつて社交界を混乱させたドラッグはモートン王国経由で流されたロマ帝国の計略によるものです。今は何より、ロマ帝国への徹底抗戦の意思表示と、間諜の疑いがある者には厳正なる処罰を下すという王家の強い姿勢を国民に見せるべきです」
「………」
「何より…イーリス嬢のためにも…この機会は決して逃せません」
実際はオフィーリア・オルロン侯爵令嬢が間諜の口車に乗り、ドラッグの流通を請け負ったことが発端だった。
だがオフィーリアに利用されたアネスティラが、未来の王妃というただ一つの座を手に入れるため…
俺の婚約者候補達を排除すべく積極的にドラッグを融通していたのも事実だ。
ようやく…イーリスと俺を決別させた元凶であるアネスティラへの遺恨を晴らすことが出来るのか…?
「………」
「今はあくまでもアネスティラが主犯である、とした方が国民の余計な混乱は避けられるでしょう」
「そう、だな…アネスティラの件を片付けられれば…モートン王国との停戦も持ちかけやすくなる。何よりイーリスのためにも…アネスティラは排除しなければならない…」
「………」
「イーリスはモートン王家の血筋であることを明かすことには納得してくれたのか?」
「ええ…問題ないそうです」
「そうか!ようやく…ようやくイーリスに会えるんだな…!」
「………」
複雑な生い立ちを持つイーリスは、モートン王家の末裔だった。
現在のモートン王国には正統な後継者がいない。
最後の直系子孫とされるモートン五世が、ロマ帝国の手により処刑されたことで現在は王妃の甥が国王として国事を取り仕切っていた。
もちろん統治者の器もない名ばかりの王であり、ロマ帝国の息がかかった宰相が実権を握っている。
しかし、モートン王家の唯一の末裔であるイーリスがシャダーリン王国の王太子である俺と婚姻するとなれば…
この複雑な状況を一気に片付けることが出来る。
正統性のない現王では、初代モートン女王の血を引くイーリスに害を及ぼすことは出来ない…
賢王と名高い初代モートン女王を敬愛するモートン王国の民は、決してそれを許さないだろう。
「今すぐ…騎士団を率いてアネスティラ・マクレーガンの捕縛に向かってくれ」
「はっ…!」
だが、アネスティラの捕縛を決意した俺の元に届いたのは…
アネスティラがマクレーガン伯爵領へ逃亡したという報せだった。
さすがにヘリオを領地までは行かせられないため、ヘリオの代わりに伯爵領地へ派遣する騎士達の選別していたところ…
逃亡中のアネスティラが見つかり、郊外にあるマクレーガン伯爵家所有の別宅にて既に拘束されているとの報せが届いた。
それからは、アネスティラの貴族裁判に向けての準備に追われる慌ただしい日々が続いた。
王妃である母上だけは、この戦時下での死刑執行に難色を示していたものの…
俺と父上でなんとか説得してしぶしぶだが最後には納得してくれた。
形だけの貴族裁判と即刻刑が執行されるよう、全ての手続きを済ませた時には一週間も経っていた。
移送のための騎士が出発すると同時に公開処刑の告知が行われた。
郊外にある別宅に拘束されているはずのアネスティラを、首都の処刑場まで移送するのに約一日の準備時間を設けてはいたものの…
各所への最終手続きと処刑場の整備など細々したこともあり、俺とヘリオは寝る間も惜しんで抜かりなく準備を進めた。
全ては貴族から反対の声が上がる時間的猶予を作らせないためであり、今さらダリアが現れたところで、アネスティラの処刑執行が覆らされることがないようにするためだった。
イーリスが一日でも早く安心して暮らせるようにと…
それだけを望んでいた。
*
翌日。
日が傾き始め…予定時刻より遅くなったもののアネスティラは無事処刑場まで連行されてきた。
移送車から降りてきた彼女は足を怪我しているのか、大袈裟に足を引きずって歩いていた。
「なんだ?あの赤い目隠しは…アネスティラへの配慮では無いだろうな?」
真っ赤な目隠しが彼女の自慢だった金髪をより際立たせているように見えて気に触る。
だが、痩せこけた手足や傷だらけの肌を隠すことすら許されない今の姿は、自身の美貌をひけらかしていたアネスティラへの罰のように思えてどこか滑稽でもあった。
「あの目は…逃亡を謀っていたアネスティラを捕らえた民衆によるものだと報告を受けています。どうやら目を焼かれたそうですね…」
「ふん、いい気味だ。それでイーリスは…?」
「……我が侯爵邸で保護しております、イーリス嬢がこちらに来ることはありませんので御安心下さい」
「そうか、彼女は優しすぎる。アネスティラの処刑を聞きつければ助命を嘆願しに来るかもしれないからな」
「……そうですね」
ふと…こちらへ向けられた彼女の表情が喜んでいるように見えて顔を顰めてしまう。
まさか、こんな状況になっても未だに俺を慕っているとでも言うつもりなのだろうか?
だが、彼女はこちらを嘲るように嗤うと再び歩き出してしまう。
轡は噛ませていないというのに…
「……相変わらず気味の悪い女だ…」
ヘリオが呟いた言葉には同意しかなかった。
目を潰されたとはいえ…
死刑を目前にして、弁明も命乞いすらしない彼女の姿に俺はどこか畏怖を覚えていた。
だが、彼女はそのまま騒いだり暴れることなく騎士の先導に従って断頭台へと登っていく。
決してこちらを振り返ることなく、芯の強さを表すかのように背すじを伸ばして歩く姿に何故か違和感と胸の痛みを覚える。
その姿はまるで…
かつて自分を拒絶したイーリスを彷彿とさせる姿に見えた。
アネスティラの罪状は《大逆罪》だった。
国内の社交界で悪質なドラッグを故意に広め、次代を担う有能な人材を陥れ若い子女らの心身に深い弊害を与えたこと。
また、ロマ帝国との国婚が優位に運ぶよう王子妃候補者への直接的な危害に加え、モートン王国と友好を結んでいるアストラス神聖国にシャダーリンの機密情報を漏洩させたこと。
ドラッグの購入資金を対戦国であるモートン王国へ流したことなどが背信行為として読み挙げられる。
当然のように雷のような激しい怒号が湧き起こる。
そして、断頭台に彼女の頭が置かれる様子を見た瞬間…
…何故か焦燥感に駆られた。
「………」
切実に望んでいた光景のはずだった。
だが集まった国民達の異様な狂気にあてられてしまったのか、俺はこの状況を止めるべきか悩んでいた。
恐らく、先ほど見たあの姿のせいだろう。
幼子の頃から知るアネスティラが、あのような芯の強さを持っていたは思わず…
単に驚いただけだ…ここで処刑を止めるわけにはいかない。
今を逃せばまた全てが後手後手になってしまうはずだ、とそう言い聞かせて…
処刑の中断に繋がりかねない心のざわめきを必死に抑え込む。
ようやくアネスティラの罪状が全て読み上げられ、決められていた判決を侍従であるヘリオから言い渡される。
俺の合図一つで…念願のアネスティラの処刑が執行されることになる。
この手を振り下ろすだけで、あの処刑台にいる…一人の人間の命が失われることになるのだ。
「………」
一瞬の逡巡の後、掲げた腕を振り下ろす。
それを見ていた執行官が、ギロチンを持ち上げていた綱を一寸の躊躇いもなく切り離してしまう。
まるで処刑場がまるごと隔絶されたかのような静寂の中…
────ザンッ…!!
ギロチンが落とされる無情な音が処刑場を支配する。
首と共に斬られた金髪が舞い上がり…
執行官の手により掲げられた首からは、彼女の目を覆っていた赤い布が風に飛ばされていく…
「「………」」
ヘリオが言っていた通り、彼女の両目は焼き潰されていた。
「「───…うぉおおおおおおおおおお!!」」
「………───」
地鳴りのような歓声に揺れる処刑場で、隣から聞こえてきたのは何故か息を飲む声で…
「?」
「……んな…まさか……なぜ……?」
「…ヘリオ?」
「何故だ…?シリウス・マクレーガン…何故彼女を…───」
目を見開き瞳を揺らしながら呆然と呟くヘリオ。
いつになく取り乱しているヘリオの姿に嫌な予感を覚える。
「……シリウス?何の話だ?何故…シリウスの名前が出てくるのだ?」
「殿下……あれは…────」
「「うぉおおおおおおおおおお!!」」
あぁ…煩いな…少し黙ってくれないか?
止まない歓声に耳鳴りのような痛みを覚えてしまう。
「ヘリオ…煩くてよく聞こえなかったんだ…悪いが、もう一度言ってくれないか?……そんなはず…ないよな…?」
《あれは…イーリス・マクレーガンです…》
そう言われたような気がした。
違うと言ってくれ。
俺がお前の口を読み間違えただけだ、と…
だがヘリオは顔を歪ませるばかりで…
「────」
「……何故だ…?何故…彼女がアネスティラ・マクレーガンとして処刑場に連れてこられることになるのだ…?そんなこと…ありえない…有り得るはずがない。アネスティラとイーリスは身長が…」
先ほど感じた違和感の理由に気づいてしまう。
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俺なら止められたはずなのに…
膝から崩れ落ちて呆然と処刑台を見上げる。
止まない歓声の中心で掲げられていた彼女の首が歪んでいくのが分かった。
「………ッ────!!」
イーリスと添い遂げるために全てを投げ打って走り続けてきた。
そんな俺が………彼女を殺したのか?
あの嗤顔は気づけなかった俺への嘲笑だったのか…?
何故…
何故なんだ…イーリスッ…!
一言だけでも君の声を聞けていたなら…───!!
*
「……ヘリオ・ミリオン侯爵が自室で亡くなられていたそうです」
「───…はは…あいつ…ふざけやがって…!!」
───ガンッ…!!
予想外な報告に思わず右手に持っていた万年筆をへし折り、怒りのままに目の前にあったインク壷を本棚へと投げつけてしまう。
あの日…
本来ならば処刑場で一週間晒しておく予定だった大罪人アネスティラの…いや、イーリスの首と身体はすぐに回収させた。
処刑を急ぐあまり、本来ならば行うべき手順を省いたために起こった悲劇だった。
アネスティラへの事実確認も、弁明の機会も奪った結果…
俺は最愛の人を自らの手で処刑するという失態を演じたのだ。
「───…何故だッ!お前はイーリスを侯爵邸で保護していると言っていたではないかッ!!」
「申し訳ありません…!」
「謝罪が聞きたいのではないっ!何故、このようなことになったのか…!俺は…それを聞いているんだッ!!」
ヘリオから聞かされた事実はとても受け入れられるものではなかった。
四ヶ月前、療養中だったイーリスを迎えに行かせたヘリオの前に現れたのは、彼女の義弟であるシリウス・マクレーガンだった。
モートン王家の血筋であることを聞かされたイーリスは、俺が政争の道具として利用しようとしているというシリウスの言葉を信じ…
あろうことか彼女はシリウスの手を取ることを選んだらしい。
俺はそんなことも知らずに…
アネスティラの処刑が終われば、イーリスと共に生きていけるものだと…
「つまり……お前は…俺を…裏切ったのだな…?」
「───…決してそんなつもりは…!!」
「黙れッ!!イーリスは俺ではなくシリウスを選んだ!お前はそれを報告しなかった!あの時、お前がイーリスを保護していないと打ち明けてくれていたなら…俺は何を置いても彼女の所在を確認させたはずだッ!!」
「───」
「ヘリオ………お前を、侍従から解任する…」
「っ…………今まで…お世話になりました。本当に、申し訳ございませんでした…」
当然、このようなことを公表出来るはずもなく…
水面下ではアネスティラ・マクレーガンの捜索は続けられた。
処刑場での経緯を知った王妃は倒れてしまい、国王からは一週間の謹慎を言い渡されていた。
そして、一週間の謹慎が明けてヘリオの様子を見に行かせた結果がこれとは…
首都にあるミリオン侯爵邸へ向かうと、検分が行われている最中だった。
「………」
「……自死と見て間違いないでしょう。元よりこの侯爵邸の人間が外部からの侵入に気づけなかったとは思えません…」
「そうか…それで?何故、一週間もの間…誰一人気づく者がいなかったのだ…?」
「「………」」
「つまり…お前達は主人が自室に籠って、一週間も飲まず食わずで居ても平然としていたということか…随分と、見上げた忠誠心だな…?」
「「………」」
集まっていた邸宅内の使用人達に厳しい視線を向ける。
八つ当たりなのは分かっていた。
それでも…この行き場のない怒りを誰かにぶつけなければ気が済まなかった。
「…恐れながら…閣下より執務室には近づくなと厳命を…」
「そんなことは分かっているッ!!…それでも…翌日、せめて…二日目には発見されるべきだった…!!このような変わり果てた姿になる前にッ…!!」
秋とはいえ夏の暑さは未だ残り、日中は軽く身体を動かすと汗ばむこともあるほどだ。
一週間…
イーリスの処刑日当日に自死を選んだヘリオの遺体は腐敗が進んでしまっていた。
部屋に充満する腐敗臭に感覚が麻痺していくようだった。
「何故なんだ…───!!」
お前なら死ぬ気でアネスティラ・マクレーガンを捜し出して、俺の前に連れてきてくれるものだと信じていたのに…
ミリオン侯爵家当主…ヘリオの若すぎる死は病死と公表された。
対外的には、俺は持病の悪化によりヘリオを侍従から解雇していたことになっている。
訪れた多くの弔問客が帰った深夜…
俺は新しく建てられたヘリオの墓を人知れず訪れていた。
「……シリウス・マクレーガンにも報せなければいけないな…あいつは今士官学校にいるのか?アネスティラの…処刑にも顔を見せないで…」
「いえ、シリウス・マクレーガンでしたらモートン王国との国境地帯に送られておりますが…?」
「……なん、だと…?」
『何故だ…?シリウス・マクレーガン…何故彼女を…』
ヘリオの言葉に合点がいく。
おそらくヘリオは、イーリスがシリウスに保護されているものだと思っていたのだろう。
「……そうか…ヘリオ、お前も知らなかったのだな…」
「?ああ、その可能性はあるかと…アネスティラ・マクレーガンの処刑の報せは士官学校へ送られていたそうなので。先日担当教諭が不在だったということで、こちらへ転送の問い合わせがあったので代わりに私が対応しておいたのですが…もしかすると、ミリオン侯爵も把握していなかったかもしれませんね」
「………」
ぽつりと呟いた言葉を新しく付けられた補佐官が律儀に拾ってくれる。
ヘリオ…お前の減らず口を聞くことは、もうないのだな…
*
結局アネスティラは見つけだすことは出来ず…
ダリアは病床に伏しているセドリック・マクレーガン伯爵と共に別宅に引きこもっているらしい。
イーリスを失ってしまってからは、あれほど憎んでいたダリアのことすらどうでも良くなっていた。
変わりゆく戦況に応じて、必要な業務を淡々とこなす日々…
そんな陰鬱な日々をただただ無気力に過ごしていた俺は、息を潜めるように静かだった城内が久しぶりに騒がしくなっていることに気づいた。
「「───!」」
「……?」
……とうとうロマ帝国の本隊でも動いたか?
「コンラッド王太子殿下!!……シリウス・マクレーガンが正門にて騒ぎを…」
「……シリウスが…?」
国境の最前線にいたにしては随分と早いな?
……あぁ、ヘリオが先に報せを出していたんだったな。
「ミリオン侯爵を連れてこいと…門兵の一人が人質に取られております!」
「………そうか…」
シリウス…
イーリスの義弟であり、アネスティラの実弟でもあるシリウス・マクレーガン。
父親譲りの金髪と深い青の瞳を持つ優秀な青年…
本来ならば、今すぐにでもマクレーガン伯爵家の当主の座につくべき人物だ。
報告にあった城門へ向かうと、緊迫した様子で兵士がずらりと並んでいた。
その中心に立つ人物…
久しぶりに見たシリウスは、記憶の中の姿よりもずっと成長していた。
シリウスとの出会いはヘリオと二人で市内をお忍びで視察していた時だったから…彼はまだ十三歳になる前だったはずだ。
恋い慕うイーリスを下街でエスコートしていたシリウスは、突然現れた俺に取られまいと敵意を剥き出しにしていた。
この国の王子である俺に対抗するべく、必死に背伸びをしていたあの幼かったシリウスが…今や青年と呼ぶに相応しい風貌に変わっていた。
このような再会でなければ、俺はきっと笑顔でお前を迎えられたはずなのに…
「「………」」
一体何があったのか…
全身を返り血で染めているシリウスは、肉が裂け骨が剥き出しになった指で剣を握りしめ…
燃え盛る炎のような力強い光を宿した青い瞳は、あの頃と変わらず…怯むことなく王太子である俺をまっすぐ捉えていた。
「……ヘリオに会いに来たと聞いた…」
「…はい、彼に話があります。隠しても無駄です、彼はどこにいるんですか?」
「───…イーリスの件は…本当に済まなかった……」
全てを知ってしまったのだろう。
シリウスの全身を染め上げている血が誰のものなのか…
見通しがついてしまい、思わず目を閉じる。
シリウスの凄惨な様相が、まさしく彼の怒りを表しているようだった。
「殿下から詫びてもらっても彼女は戻ってきません。私もそんな言葉を聞きたくて来た訳では無いので、ヘリオ・ミリオン侯爵を早く連れてきてもらえませんか?でないと…」
顔色を変えることなく、人質である門兵の首に剣をあてるシリウス。
シリウスには剣の才能がある。
士官学校の学生でありながら、戦争の最前線に送られてしまったのはシリウスが優秀すぎたせいでもある。
そんな頼もしい剣を…自国の兵に向けられるとは思わなかったが。
「………」
ここでシリウスの望みを利けないと返すことは門兵の死を意味する。
だが…
「ヘリオを連れてくることは出来ない…」
俺は包み隠さずシリウスに全てを打ち明けた。
上層部の中でも一部の人間しか知らされていない最高機密…
大逆罪で処刑された罪人が別人であったことを、初めて聞かされた兵士達の顔色が変わっていくのが分かった。
それでも話を中断する気にはなれなかった。
そして、ヘリオの自死についても…
「───」
瞳から鋭さは消え失せ、どこか呆然としているシリウスを見ても安堵することは出来なかった。
それほどまでに、今のシリウスは狂気的な空気を纏っていた。
まるで死地をくぐり抜けてきたかのようにボロボロな身なりとは対照的に、人間離れした容貌がどこか底の見えない異質な存在のように彼を見せていた。
そっと閉じられた瞳…
心臓を鷲掴みされたかのように苦しみ、何度も何度も自分の胸を殴りつけるシリウスの痛ましい姿に、とうに枯れ果てたはずの涙が溢れてしまう。
行き場を失った怒りの矛先をシリウスがどうするのか…
この先の展開は、俺の予想とそう大差はないだろう。
「………」
再び開かれた青い瞳には憎悪の炎が宿っていた。
躊躇うことなく引かれた剣により門兵の首から赤い血を噴き上がり…
首へと手を伸ばす門兵を突き飛ばして駆け出すシリウス。
…あぁ、ここが俺の死に場所なのだろう。
呆気なく逝ってしまったヘリオが羨ましかった。
この地獄のような世界から俺も早く解放されたいと、心のどこかで願っていた。
恐らく、アネスティラもダリアも…イーリスを失ったシリウスの怒りでその命を散らしたことだろう。
叶うなら、いっそのこと俺もシリウスの手で…
「誰も手を出すな…「「止まれぇえええ───!!」」
俺の言葉は兵士たちの怒号にかき消され…
剣をしっかり握りしめ全力で駆けて来るシリウスも槍を構える兵士達も、まるで世界が止まってしまったかのようにゆっくりに見えて…
「放てぇ───!!」
「────…やめろォぉぉおおおおお!!」
周囲を取り囲んでいた兵士たちから一斉に槍が投擲されてしまう。
「───…ごふっ…!!」
血を勢い良く吐き出しながらようやくシリウスの手から剣が離される。
カラン…と渇いた金属音が打ち付けられる音がやけに大きく響いた。
全身を槍に貫かれながらも、シリウスの視線が俺から外されることはなかった。
「「………」」
おびただしい血が真っ白な石畳を染めて行く中…
その中心に立つシリウスの青い瞳が一際目を引いた。
シリウスが膝から崩れ落ちても誰一人動けないまま…俺を含め、ここにいる全ての者がシリウスの壮絶な最期に釘付けになっていた。
最期…
そう、俺だけを残して…みんな居なくなってしまった。
一人残される恐怖につい息苦しさを覚えてしまう。
頼むから…俺を置いて逝かないでくれ…!!
シリウスがそんな臆病な俺を見ながら嗤っていることに気づく。
暴れるだけ暴れて…俺の弱さを嗤いながら勝手に死のうとしているシリウスが、どこか満たされているように見えて…
「………───」
イーリスを死なせた罪を背負い、この地獄でお前は一人足掻き苦しむがいい…
そう言われたような気がした。
「─────…シリウスっ!!」
兵士たちの制止を振り切って駆け寄る。
だが…
光を失ったシリウスの青い瞳が再び俺を見て嗤うことはなかったのだった…────
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それは何でもない日常の延長の筈だった。
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七月十一日という日に閉じ込められた二人の男と一人の女。
サトウヒロシはこの事態の打開を図り足掻くが、世界はどんどん嫌な方向へと狂っていく。サトウヒロシはこの異常な状況から無事抜け出せるのか?
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