彼女のキスは甘く冷たい

氷川瑠衣

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いたずらなキス、不自然な再会

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 沙織の死に関して、ぼくは警察からの追求を受けた。沙織の家族からすれば、ぼくとデートした翌朝に娘が自殺を図ったのだから、なんらかの因果関係いんがかんけいがあると考えるのは当然のことだ。 

 警察の事情聴取に応じると、まず最初に薬物検査をされた。その後、沙織との関係など一通りの事情を説明させられた。沙織の家族は、娘がぼくにレイプされたのではないかと疑っていた。司法解剖の結果、ぼくと沙織が肉体関係を結んでいたことは判明したが、暴力によって強制的に関係を結ばされたかどうかまでは分からなかったようだ。仮にそんな形跡があったとしても、轢死れきしした沙織の遺体の損壊状況そんかいじょうきょうからして、証明は困難だったろう。 
 
 沙織の葬儀に出席したかったが、それは叶わなかった。警察による一通りの調査の結果、ぼくと沙織の関係は良好で、沙織の自殺は発作的なものではないかとされた。沙織の家族は、表だってぼくをそしりはしなかったけれど、葬儀への出席は拒否された。 
  
 あの晩、通話が切れる瞬間、愛してるとぼくに告げたのは沙織だったのだろうか?常識的に考えるなら、それが正解となる。沙織はなんらかの理由で精神を病み、いるはずもない彼女の影に怯え自ら命を絶った。そう考えるのが妥当だ。だがあのとき、沙織のスマートフォンから聞こえたあの囁き声は、沙織の声ではなかった。 
  
 ぼくは飲食店のバイトを始めた。表参道沿いにあるカフェだった。ひどく忙しい店だったが、それで丁度良かった。ぼくはもう、恋人も友人も欲しいとは思わなかった。 

 バイト先に新藤茉奈しんどうまなという女の子がいた。調理系の専門学校に通い、栄養士の資格を取る為に勉強していた。とてもよく動き、よく喋る活発な女の子だった。仕事振りは熱心で、将来、自分も同じようなカフェを開業したいという夢を持っていた。 
 茉奈は人気者で、同じバイト仲間や、店に来る常連の中にも、茉奈のファンがいた。誰とでも物怖じせず喋り、ケラケラとよく笑うその姿は、確かに見ていて気持ちが良かった。
 
 ぼくはバイト先でも大学でも、必要なこと以外喋らないように気をつけていた。バイト仲間との交流も避け、黙々と仕事をこなし、時間になればすぐに職場から離れた。当然バイト仲間からは好かれてはいなかったが、店長からは信頼されていた。
 
 ある晩、バイト先の事務所で休憩していると、仕事を終えたはずの茉奈がぼくを訊ねてきた。大きなギターケースを抱え、息を切らせながら事務所に入ってきた茉奈は、ぼくにギターの調弦ちょうげんを頼んできた。 

「チューニングメーターってしってるか?」 

 ギターを取り出してチューニングしながら、ぼくは茉奈に訊ねた。
 
「知りません」 

「スイッチを入れて、玄を爪弾つまびけば、メーターが動いて音が狂ってるかどうか教えてくれる。通販なら千円前後じゃないかな」 

「そんなハイテク装置があるんですね。初耳です」 

 茉奈の受け答えに、ぼくは思わず笑みを零した。茉奈はなんというか、冬を前にした小動物のように、いつでも忙しそうだ。
 
「高校生の頃、演奏してるのを見ました」 

 茉奈はぼくがギターを担当していたバンドの名前を口にした。茉奈が言う通り、ぼくは何度かそのバンドで渋谷のライブハウスに立ったことがある。
 
「ここのバイトで初めて会ったとき、ショックで心臓ばくばくでした。嘘でしょうって。うれしくてその日は眠れませんでした」 

 チューニングを終えたギターを返すと、茉奈はうれしそうにケースにしまい、ぼくに頭を下げた。
 
「ありがとうございます。まだ初心者なんで、またチューニングしてくれますか?」 

「断る。その代わり、おれが使ってたチューニングメーターをプレゼントする。自分でやってみるといい」 

 茉奈は目を丸く見開いてぼくを見つめ、そのあと満面の笑顔を見せた。 

「ほんとですか?ありがとうございます。絶対ですよ。絶対、約束ですからね」
 
 頷くと茉奈は、ぼくの顔をまじまじと見つめて顔を寄せてきた。
 
「先輩、髪の毛、なんかついてます」
 
 茉奈の手がぼくの前髪に伸びた。ぼくは自分の前髪に気を取られて、茉奈の顔が近づいてきていることに気づかなかった。 
 茉奈の暖かな唇がぼくの唇に触れた。ほんの僅か、0.2秒ほど。 
 驚いて茉奈を見た。茉奈はいたずらっ子のように舌を出し、身を引いた。 

「やった。もらっちゃった」
 
 そいうと茉奈は、ギターケースを抱えて立ち上がった。 

「先輩、彼女さんがいたらごめんなさい。でも、わたしちょっと本気です」 

 顔を真っ赤にして、茉奈は事務所から出て行った。 
 
 事務所は店から5分ほどの雑居ビルの3階にあった。休憩を終えたぼくは事務所のドアを施錠し、階段を降りて店に向かった。 茉奈の不意の訪問と子供のいたずらのようなキスのことは考えないようにした。わずか半年足らずの間に、親しかった女の子二人が死んでいる。茉奈の気持ちは嬉しいが、誰かと恋に落ちるような気にはなれなかった。 
 
 階段の途中、1階と2階の中間にある踊り場に人が立っていた。身体に似合わぬ大きなギターケースを提げていたことから、それが茉奈であることが知れた。 
 階段のライトは、人が通ると自動的にライトが点灯する人感感知センサーだった。ぼくが階段を降りてくるまでライトは点灯していなかったから、おそらく茉奈は、事務所を出てからずっとここに一人で立っていたのだろう。
 
「新藤さん?」 

 背中を向けたままの茉奈に声を掛けたが、反応は無かった。肩に触れようとして手を伸ばしたけど、茉奈の髪の変化に気づいて手を止めた。 
 ベリーショートだったはずの茉奈の髪の毛が、肩先にまで伸びていた。 

 茉奈がゆっくりと振り返った。動画を極限きょくげんまで速度を落として再生しているような動きだった。滑らかだが、人の筋力で行えるような動きではない。
 
 そこには彼女がいた、茉奈の服、茉奈の体、茉奈の香りをなとってはいたけれど、そこに立っていたのは紛れもなく彼女だった。 
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