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しおりを挟むとにかく、芳の家を出ようとぼくは思った。
それからのことは、後で考えよう。
彼の家族といるのが、辛かった。
特に咲と。
ぼくの布団を直してくれながら、咲は窓の外の別棟に目を向けて、けげんそうに眉をひそめた。
「不思議ね」
ぼくと目が合うと、咲は首をかしげてつぶやいた。
「何か、とっても大事なことを忘れているような気がするのよ。変な感じ」
凪は、消えてしまった。
玻麻がぼくの記憶を消して行かなかったことは、せめてもの幸いだった。最後まで、彼を憎んでいられるから。
そして、ぼくの後悔は、あの時、なぜ玻麻と向き合うままになっていたか、ということだ。思い切り、ひっぱたいてやればよかった。
意識を取り戻してから四日目。ぼくは、庭のあたりを散歩できるほどに回復していた。
朝食後、芳がぼくのところにやってきた。
そろそろ別れを言うきっかけを探さなければと思っていた時、外で咲の声がした。
芳を呼んでいる。
「どうしたんだい、姉さん」
芳は、窓の下をのぞきこんだ。庭木の手入れをしていたらしい咲は、水差しを手にしたまま空を示した。
「月がおかしいの。ちょっと見て」
ぼくは、ぎくりとして空を見上げた。
数日ぶりに空は晴れていた。
昼間の月は、いつも白い雲のひとひらのようにうっすらと霞んでいるだけなのだが、今は違っていた。
半月から膨らみつつある月が、どんよりとした肌色に揺らいでいる。
輪郭がにじんでいるせいか、一まわり大きくなったような気さえする。
「光線の歪みか何かでそう見えるんだよ、姉さん」
芳は、なだめるように言った。
「大騒ぎしなさんな」
「大騒ぎじゃないわよ」
咲は、頬をふくらませた。
「毎晩、月が赤くなった話ばかり聞かされていたから、神経質になってしまうんだわ」
咲は、やがて家の中に引っ込んだ。
「ちょっと、おどかしすぎてたかな」
芳は苦笑し、もう一度月に目を向けてつぶやいた。
「でも、いやな色だ」
ぼくは、言葉を失っていた。動悸が激しくなってきた。
こんなにも早く?
月が赤くなりはじめたのだろうか。
玻麻が言っていたばかりではないか。ぼくは、玻麻が魔法使いとして目ざめるまさに直前に、彼に追いついたわけなのか。
「心配ないさ」
芳は、ぼくの様子に気づき、あわてて言った。
「すぐ元に戻るよ」
だが、夜になると、月の赤みはますますきわだった。
しんと晴れ渡った濃紺の夜空に、月は、橙色のにごった光を放っていた。
誰が見ても不安をかきたてる色だった。
「信じられないよ。まさか、本当に月が赤くなるなんて‥‥」
髪の毛をかきむしりながら、芳がつぶやいた。
「昔に起きたことだ。今またこんなことが起きるなんて、思ってもみなかった」
「ええ」
「やはり、天変地異の前触れなんだろうか」
ぼくは、黙り込んだ。
月もろともに世界は消滅するなんて、芳に言うことはできなかった。
「わたしは、王宮に行ってくる」
芳は、決心したように言った。
「王には会えないだろうが、宰相ぐらいには話が届くはずだ。彼に仕えている伯父がいるんでね」
「そして?」
「大昔、月が赤くなって大洪水が起こった。もし、今回もそうなら、早く手を打たなくてはならない。出来るかぎりのことをして、被害を防ぐんだ」
家族には心配をかけたくないからと、芳はぼくにだけ言い残して家を出た。
ぼくは、芳の外套が門の外に消えるのを窓辺でぼんやりと見送った。結局、彼に別れを言い出せないうちにこんなことになってしまったのだ。
うなだれ、窓の側を離れようとした時、ふいに近くに人影が立った。
ぼくは、はっとして顔を上げた。
〈月〉だ。
一度だけ会った月界王よりも、いくぶん若かった。思い詰めたような表情は、月界王が決して見せないものだ。完全に成熟していない少年期と成年期のはざまの姿。
ぼくは、声も出せず、つっ立っていた。
彼は目を伏せ、つぶやいた。
「すまない。時を早めてしまったようだ」
「本当なんですね」
ぼくは、ようやく言った。
「玻麻の言っていたことは全部」
「そうだ」
〈月〉は、冷たい怒りをこめて答えた。
「玻麻の気配を感じた時、すぐに追いかけたが遅かった。彼はまたしても気配を断ってしまっている。おそらく、もうこの世界にはいないだろう」
「逃げたんだ!」
「思いの外、力を使ってしまった。このありさまだが、きみに頼みがある」
〈月〉は、ぼくの両肩に手を置いた。
「助けが必要だ」
「ぼくの?」
「玻麻と話がしたい。知っているだろう。きみと玻麻の結びつきは、思いのほか強いんだ。玻麻が立ち去ってから時間が浅い。今なら、玻麻を呼び出せるかもしれない」
ぼくは、とまどった。
ぼくが玻麻と、いまいましいほど深く結びついているのは本当だ。
だが、呼び出すことなんてできるのだろうか。
「わたしの力は満ちていない。だが、それを待っては遅すぎる」
〈月〉は、美しい顔を歪めた。
「もうこれしか方法がない。きみには負担をかけることになるだろうが、わたしはこの世界を滅ぼしたくない」
「玻麻なら、何とかできると言うんですか」
「ああ」
「だけど、三千年前は、三人がかりで」
「わざわざ時間を引き戻したからだ。そうしなくとも、地陸を守ることはできる」
かすかな希望が生まれた。月が、地陸がこのまま消滅するなんて、すべてが無くなるなんて、許せるはずがない。
ぼくに出来ることなら、どんなことでもやってやろうと思った。
「どうすれば?」
「玻麻のことを、強く念じてくれ。時空を越えても、きみの意志なら届くはずだ。あとは、わたしが引きずり出す」
ぼくは、寝台の端に腰を下ろした。
〈月〉が、ぼくの手をしっかりと握っていた。
ぼくは目を閉じた。
穏に似た、しかし穏とはまるで違う顔を思い浮べた。
この世界をもてあそび、穏を悲しませ、ぼくを常人でないものにした、憎んでも憎みきれない魔法使いに呼びかけた。
冷たかった〈月〉の手が、じんわり温かくなってきた。
さらに熱く。
手のひらを通して、それはぼくの身体中に押し広がり、皮膚をちりちりさせた。
と同時に、ぼくの魂の一部が弾け、すさまじい勢いで身体から離れた。
あまりの衝撃に、ぼくは声を上げて〈月〉の手をふりほどこうとした。
〈月〉はぼくを寝台に押さえつけ、耳元でささやいた。
「頼む。耐えてくれ」
ぼくは半狂乱になって、彼方へ飛び去った魂のかけらを捜し出そうとした。
引き裂かれた魂は、肉体以上の苦痛を感じていた。
気が遠くなった。
ほとんど意識がとぎれる寸前、ぼくは細い一本の糸のような魂の尾にしがみついた。
ぼくは、やっとのことでぼくの魂をたぐり寄せた。
魂は、一つの存在を捕らえていた。
玻麻。
「無茶なことを」
ぼくの唇が、勝手に動いた。
「死期を早めたな。時間はまだあったというのに」
身体は、しびれたように感覚がなくなっていた。
意識も、保っているのが精一杯だった。
ぼくの口を使っているのは、玻麻の意志だ。どこか時空を越えた場所に落ち着いたまま、玻麻は小手先でぼくを動かしている。
「おまえに心配してもらうつもりはない」
〈月〉は、冷ややかに言った。
「どちらにせよ、あと一年が限界だった」
「なぜ呼び出した」
「できるなら、おまえたち魔法使いをこの世界に引きずり込んで、もろともに滅ぼしたいくらいだ」
〈月〉は、一言一言かみしめるように言った。
「おまえは、わたしを裏切った」
「初めから、約束など交わした憶えはない」
「ああ、そうだろう。懇願し、おまえに受け入れられたと思ったわたしが愚かだったわけだ」
「‥‥」
〈月〉と玻麻は、何の話をしているのだろう。
しびれたような意識を、ぼくは必死で研ぎ澄ました。
玻麻の心を掴もうとしたが、どこにも掴み所はなかった。
玻麻がぼくの唇を動かすだけの一方通行なのだ。
悔しいことに、ぼくからはもう、玻麻の存在に手を伸ばす事はできはしない。
「おまえ一人でもできたはずだ」
〈月〉は、語っていた。
「わたしの寿命を引き戻す必要などなかった。わたしを破壊しさえすれば、地陸は生き延びた」
「地軸が狂い、どちらにせよ地陸は惨憺たるものになっていただろう」
「だが、二度とわたしの脅威にさらされることはなかった。どんな状況でも、地陸に棲むものたちは生き抜くことができる。長い時間がかかったが、人間は文明を取り戻した。それなのに、わたしはまた彼らを滅ぼさなければならない」
玻麻は、沈黙したままだった。
「なぜ、わたしの頼みを聞いてくれなかった。わざわざ他の魔法使いの力を借りて、時間を引き戻すことなどなかった。わたしを破壊しても、地陸に魔物は放てたのに」
「この世界は、月と地陸の均衡で成り立っている」
ややあって、玻麻は言った。
「地陸は、月で支えられた美しい箱庭だ。月が無くなれば、その地形までも歪んでしまう。醜い土砂の塊など、わたしは、まったく興味がない」
〈月〉は、唇をかみしめていた。
三千年前、月は自分の身を捨てても、地陸を守り切ろうとしたのだ。
しかし、玻麻は、それを拒んだ。魔法使いの傲慢さで。
「おまえにとっては、用済みの世界だ」
辛抱強く〈月〉は言った。
「もう、どうなってもいいはずだ。わたしの寿命を、三千年間もてあそんだ借りを返してもらいたい」
「‥‥」
「わたしを、今すぐ破壊しろ」
玻麻は、何も答えなかった。
静寂が続いた。
〈月〉が、玻麻の応えをうながした。
「玻麻!」
「断わる」
ようやく、玻麻は言った。
「なぜだ」
「いま言ったはずだ。月があるからこそ、地陸の美しさは完璧なものになる。月のない地陸は存在する価値もない。壊してしまった方がましだろう」
ぼくの声が、こんな冷ややかな言葉を発しているなんて、許せなかった。できるなら、玻麻を捕らえて八つ裂きにしてやりたいとも思う。
だが、今のぼくはただのよりましにすぎなかった。横たわったまま、自分の身体すら動かせない。
〈月〉はうなだれ、深々とため息をついた。
「魔法使いなど、呪われてしまえ」
「とっくに呪われているさ」
玻麻の最後の言葉は、ぼくの心をかすめた思考の切れ端だった。
ふっつりと、玻麻の気配は消えた。
まだ身体に力が入らなかった。
ぼくは、やっとのことで〈月〉に手を伸ばした。
「すまない」
〈月〉は、ぼくを抱き起こしてささやいた。
「玻麻を見つけるために、力を使いすぎてしまった。わたしは、世界の終わりを早めてしまったようだ」
ぼくは、繰り返し首を振った。
〈月〉は何も悪くない。
彼にできる精一杯のことをしてくれた。悪いのは、この世界の運命をもてあそんだ魔法使いなのだ。
〈月〉を、なぐさめてやりたかった。
だが、もう声が出なかった。
とてつもない疲れを覚えたぼくは、そのまま深い眠りに落ちた。
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