月語り

ginsui

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 ぼくは、よろめきながら立ち上がり、窓のカーテンに手を掛けた。
 月が見えるはずもない。
 雨と風はますます激しくなり、音をたてて窓枠をゆさぶっていた。
「何が起こるというんです」
 ぼくは、玻麻を見た。
「月が、本当に海に沈むとでも言うんですか。ただの言い伝えじゃ‥‥」
 玻麻は椅子に座ったまま、自分の手を眺めていた。
 怒鳴りつけたくなるほど、変化のない表情だった。
「この世界の月は、決して不死ではない。成長し、若返り、たえず再生しているが、それは永遠には続かない不完全なものだ。魂の再生サイクルに、もともと僅かな歪みがあったらしい。ある時、月は赤みを帯び、成熟期から欠けることなく老年へと向っていく。やがて天空に留まる力も失せて落下するだろう。すさまじい力だ。この世界は消滅する」
 ぼくは、混乱して首を振った。
「芳さんが伝説を集めていた。月は、以前にも赤くなったことがあるらしい。でも、大洪水だけで‥‥消滅なんて‥‥」
「ああ」
 玻麻は、ささやいた。
「その時はくい止めた」
 ぼくは、息をのんだ。
「あなたが!」
 玻麻は、またしても肩をすくめた。
「いかにわたしとて、一つの世界の終焉を止めることなど不可能だ。たまたま同時期、わたしの他に二人の魔法使いが居合わせていたのだよ。この世界を残したいという思いは一致した。われわれは力を放ち、落下寸前の月の寿命を引き戻した。三千年ほどだ。ほとんどの生きものは死滅したが、この世界は無事だった」
「なにが目的だったんです?」
 ぼくは即座にたずねた。
 魔法使いが力を合わせて、ご親切にも世界を救ったとは思えない。理由は必ずあるはずだ。
「この世界は、小さな美しい硝子皿のようだ。壊すには惜しかったし、〈月〉の存在も魅力的だった」
「‥‥」
「われわれは、様々な魔物を放った。彼らがどのような社会を築いていくのか興味があったのでね」
「あなたがたには、吐き気がする」
 ぼくがどんなに怒りをこめても、玻麻は平然と話を続けた。
「わかったのは、魔物には大きな社会を作る力はないということだ。家族か、同種の群れ単位がせいぜいだった。やがて生き延びた人間が殖え、魔物をおびやかした。魔物の種としての寿命も、限度があったようだ。世代を経るにつれ数少なくなり、今ではほんの一握りのものしか生きていない。人間のしぶとさには、到底かなわなかったというわけだ」
「月界王は、知っているんですね」
 ぼくは言った。
「自分の死が、あなたがたの気紛な大実験のせいで引き伸ばされたことを」
「もう思い出しているだろうな」
 玻麻は認めた。
 そうだ。魔法使いを探している、と月界王は言っていたのだ。玻麻に貸しがある、と。あまりに巧みに玻麻が気配を断っていたために、彼は玻麻を見つけ出すことができなかった。魔法使いはここにいると、すぐにでも教えてやらなければ。
「〈月〉は、わたしを憎んでいるだろう」
「あたりまえだ」
 ぼくは、叫んだ。
「あんたがたは、月の命をもてあそんだんだ。この世界を」
「あのまま、世界が滅びてもよかったと?」
「運命だったんだ。三千年前、そこで終わるはずの運命だった。だけど、あなたがたはまた新しい運命を創ってしまった。生まれることもなければ死ぬこともなかったぼくたちは、こうして生きている」
「では、生まれない方がよかったかね。初めから存在しない方が」
「今になって、そんなことを言うのは卑怯でしょう。ぼくたちは、現にここにいる。どうしようもない真実なんだ」
「そう、真実だ」
 玻麻は、静かに立ち上がった。
 あまり静かすぎて、ぼくは彼がこのまま姿を消してしまうのではないかと思った。用の終わったこの世界から、さっさと立ち去るのは魔法使いらしいやり方だ。
「あと二人の魔法使いは、どこにいるんです?」
「他の時空に立ち去った。この世界のことなど、とうに忘れているだろう」
「あなた一人の力で、なんとかできないんですか。月を、この世界を救うことは」
「今しがた、きみはわれわれが三千年前にしたことを非難したばかりではなかったかね」
「ああ、だけど‥‥」
 ぼくは、髪の毛をかきむしった。魔法使いを罵りながら、その力に懇願してしまう自分が悔しかった。
 身勝手さは重々承知だ。
 でも、月を死なせたくなかった。
 この世界を終わらせたくなかった。
 その時、軽い足音が聞こえ、部屋の扉が開いた。
 咲だった。
 彼女は、不思議そうにぼくと玻麻とを見比べた。
「何をしてるの? 伽惟。どうして、こんなところに」
 咲は、はっとして口をつぐんだ。
 彼女には、凪の変化がはっきりと見て取れたのだろう。
 咲を見返した玻麻の顔が、一瞬、苦しげに歪んだような気がした。
 魔法使いが、初めて乱した表情だった。
 咲が、両手で口を押さえ、小さな叫び声を上げた。
 ぼくは、思わず咲に駈け寄った。彼女の手をとったとたん、
 意識を失った。

 気がついたのは、寝台の上だった。
 ぼくを覗き込み、咲が微笑んでいた。
「熱が下がったみたいね、よかった」
 ぼくは身を起こした。
 開いたカーテンから、灰色の空が見えた。
 朝だ。雨は止んでいた。
「凪は?」
 咲は、きょとんと首を傾げた。
「誰のこと?」
 間もなく、芳とその父親がやって来た。
 老いた医師は、ぼくを診察して、あと三日は安静にしているようにと言い、なるべく栄養をつけることだと付け足した。
 すぐさま咲は、母親といっしょに台所にこもった。温かいスープの匂いが漂ってくる中で、芳は何くれとなくぼくの世話を焼いてくれた。
 誰も凪のことを憶えていなかった。
 玻麻は立ち去ってしまったのだ。
 凪の記憶をきれいに消して。
 咲は一度も結婚せず、両親の手伝いに明け暮れていた。敷地内の別棟は、いずれ家庭を持つだろう芳のために、使われずに閉ざされたままだった。
 芳の家族に、はじめから凪など存在しなかった。
 玻麻が最後に咲を見た時の、辛そうな表情が、妙に心に残った。自分の痕跡を、完全に消してしまうことへの悲しみか?
 凪になりすましていた時間のぶん、人間の感情の残り滓がよぎったのかもしれない。
 自業自得だと思ってみる。魔法使いの気紛の報いだと。
 玻麻はどこへ行ったのだろう。
 別の世界に旅立ったのだろうか。
 それとも、穏のところへ?
 いずれ戻るつもりだと言っていた。しかし、それは今日か、一年後か、百年後か。
 魔法使いには、時間などあってないようなものだ。
 穏が蘇る日は来るのだろうか。
 もう、確かめる術はないかもしれない。
 ぼくは身震いした。
 月は、じきに赤くなる。
 玻麻の言っていたことなど、信じたくはなかった。世界の終わり、月が落ちるなんて。
 ふと、三日月のことを思い出す。
 このごろ淋しいんだ、と三日月は言っていたっけ。
 自分の死が近いことを、彼なりに感じていたとすれば‥‥。
 そう、月界王も三日月と同じことを言った。穏のところに帰れ、と。
 おそらく、この世界が滅びないうちに。
 玻麻が創った空間は、地陸が消滅した後でも残り続けるのだろう。だが、そうと知ったぼくが、どうして〈月〉やこの世界を背に逃げ去ることができる?
 今、月は成熟期に入ろうとしているころだ。
 半月よりも大きい〈月〉が、ぼくの前に現われたことはない。そのころの〈月〉は、何もかも知っているのだろう。だからこそ、成熟期に入るにつれて、地陸との接触も拒むのだろう。
 それでも〈月〉に会いたかった。月界王に。
 玻麻のことを話し、彼自身の口から、真実を聞かせて欲しかった。
 そしてなにより、ぼくはぼくを抱きとめてくれる腕が必要だった。
 あの時の三日月のように、ぼくは心細かったのだ。
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