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しおりを挟む東都までは、芳と出会った村から半月ほどの道程だ。
陽気で話好きの芳は、側にいるだけで楽しくなる人間だった。
交易船を浮かべてゆったりと流れる川は、澄んだ秋の日差しを受けてきらめいていた。川を見下ろす街道ぞいを歩きながら、ぼくたちは、それぞれの旅先で見聞きした珍しいことなどを教え合ったりした。
芳が一番興味を持っているのは、月の伝説だということもわかった。
月の誕生と死についての伝承には、二つの形があるという。
「そもそも、わたしが各地の伝説とかを調べたいと思ったのも月の物語が始まりでね」
芳は説明してくれた。
「子供の時に聞いた語りの話が忘れられなかったんだ」
「どんな?」
「世界の始め、まず初めに生まれた生命が月界王だ。月界王は混沌とした大地から月を引き上げ、虚空に居場所を定めた。月があった場所は大海となり、今の世界が形づくられた。月が大海に帰る時、その時が世界の終焉である、というのが、わたしが平地で聞き慣れてきた話だ。ところが、その語りの話は違っていた。続きがあるんだよ。月界王に死の時が訪れ、月は大海に沈んだ。世界は大洪水になるが、〈世界の縁〉にいた男の子と女の子が生き残った。やがて月界王はよみがえり、月は再び空へと登った。子供たちの子孫は、新しい世界を作りあげた」
「初めて聞くな」
「だろ。語りを生業としている人間が知らないんじゃ、すこぶる貴重な話だよ」
少しの皮肉もなく芳は言った。
「この話をしてくれた語りは南の山岳地帯出身だった。〈世界の縁〉にも近い村だと言っていたな。平地では、まず聞かれない話だ。わたしは、これが語りの故郷だけに伝わる話なのか、それとも〈世界の縁〉の近くには東西南北、同じような話が伝わっているのか知りたかった」
「だから旅を?」
「うん。たった四年じゃあ、全部を調べることなんてできなかったけどね。でも、面白いことがわかった。山岳地帯の辺境には、少なからず同じような話が残っていた。そりゃあ、話の細部は少しづつ違っている。たとえば大洪水の後に生き残ったのは、ひとつの家族だったり、大木にしがみついて助かった人々だったり」
芳は言葉を区切り、ぼくの顔をのぞき込んだ。
「それぞれが遠く離れた辺境で、語りの交流があったなんて考えられるかい?」
「つまり、その昔、辺境の人たちはみな同じ体験をしたというわけですか」
「その通り」
芳は、嬉しそうににっと笑った。
「昔、この世界は壊滅的な大洪水にみまわれたんだ。山岳地帯の人々だけが辛くも生き残った。凄まじい体験は、伝説としてその地に残り続けた」
ぼくは、半信半疑で首をかしげた。
「でも、月が海に沈むなんて、ありえることでしょうか」
「わからない。そこが伝説だからね。だが、洪水に月が関わっているのは確かじゃないかと思うんだ。月の満ち欠けは、潮の満ち引きを左右するだろ。この伝説にあわせて、南の辺境では一つの言い伝えがあった。月が赤くなったら〈縁〉に向かえ、ってね」
月が赤くなった時、大洪水が起きたというわけか。
「月が赤くなった話なら、聞いたことがありますよ」
昔、魔女のことを教えてくれた語りの話を思い出した。
「傲慢な人間に怒った月が、地陸にのしかかってきたんです。地陸は大嵐にみまわれたって」
「おもしろい。それも変形した洪水譚じゃないのかな」
月が落ちて、世界は終焉を迎えるだって?
そんなことは、ただの話にちがいなかった。
月は、常にそこにある。成熟と若返りを繰り返して。
衰えも死も寄せつけず、絶えず変化することで、月は永遠を手にしているのだ。
月界王が一度死んでいるなんて、信じられるわけがなかった。
とはいえ、月に何か異常なことが起きたことは確からしい。大洪水が本当にあった出来事ならば。
「いったい、どのくらい昔のことなんでしょうね」
ぼくは、言った。
「その大洪水が起きたのは」
「わからない。わたしも、それを知りたいのさ」
芳は目を輝かせた。
「何千年も前のことだろうけど。一度滅びてしまった世界から、人間は這い上がった。そしてまた、今の文明を築き上げたんだ。偉いものだと思うよ。今残っている歴史書には、大洪水のことは書かれていない。それぞれの王家の系図や正当性を語るばかりでさ。必要なのは、普通の人々の歴史だよ。わたしたちがここにいるのは、過去の人々が生活を積み重ねてきたおかげなんだ」
芳の口調は、だんだん熱を帯びてきた。
「こんどは、もっと辺境の村をまわるつもりさ。古い物語をどんどん集めて、比べて、分類して、そうして大系立てれば、歴史の輪郭なりともたどれるはずだ」
うらやましいくらいの夢と好奇心だ。ぼくは、ますます芳が好きになり、くすりと笑いかけた。
「家に帰る前から、次の旅のことを考えているわけですか」
「まったくだ」
声を上げて芳は笑った。
「どうしようもないな、こればかりは」
夜中、頬にひやりとしたものが触れて目がさめた。
小さな子供の手だった。
彼は、ぼくの顔をちょっとふくれっ面をして覗き込んでいた。
三日月だ。
ぼくは、寝台から身を起こした。
宿屋の一室で、隣の寝台には芳が軽い寝息をたてていた。
「この人が一緒だと、つまらない。ぼくのこと、忘れているんだもの」
「忘れたわけじゃないよ」
ぼくは、芳を起こさないようにささやいて、〈月〉を膝の上に抱き上げた。
芳と旅するようになってからは、一人でいる夜がなかったから、〈月〉に会う機会もなかったわけだ。
三日月の小さな子供となった彼は、とうとう堪えきれずやってきたらしい。
「東都に行っても、何も楽しいことはないよ、伽惟。もう穏のところに帰ったら」
彼がそんなことを言うのは、初めてだった。よっぽど芳の存在が腹に据えかねているのだろう。子供特有のやきもちか。
「芳とだって、そんなに長くいられるはずがないさ。せいぜいこの冬ぐらいだよ」
「ぼくのこと、嫌いにならないでくれる」
「あたりまえだろ」
ぼくは、〈月〉の柔らかい髪の毛をゆっくり撫でてやった。
「ぼくの友達は、ずっときみだけだ」
くすんと〈月〉は鼻をならした。
「芳は面白いことを調べているんだよ。大昔、地陸に大洪水があったらしいって」
「うん」
〈月〉は、こくりとうなずき、眉をひそめた。
「憶えてるよ、なんとなく」
「洪水のこと?」
「地陸は水浸しだった。きれいだったよ。どこもかしこも、青くて、きらきらしていて」
「そう……」
芳の推測は、あっさり証明されたわけだ。大洪水は、まさしくあったことなのだ。
ぼくは、たたみかけてたずねた。
「なぜ、そんなことが起きたんだろう」
「ぼくには、わからない」
〈月〉は、哀しげに首を振った。
「でも、とっても悪いことが起きたのは確かだと思う。考えると、すごく嫌な感じがするもの」
「無理して思い出さなくてもいいよ」
「満月の時には、きっと何もかも知っているんだろうけど」
〈月〉は、ぽつりと言った。
「でも、大きくなったら、話したくなくなっちゃう気がするよ。そんなこと」
ぼくは、頷いた。
月界王に会って、たずねてみたいとは思う。芳でなくとも、月と地陸の歴史は突きとめてみたい大きな謎だ。
しかし、彼は話してくれそうにないらしい。人間の踏み込む先ではないということか。
「つまらないよ、何かお話して」
〈月〉が、せがんだ。ぼくは、我にかえった。
「そうだね、どんな話がいい?」
「面白い話」
〈月〉は、ぼくを見上げて微笑んだ。
「淋しいんだ、このごろとても。伽惟がかまってくれないせいだよ」
芳が、ちょっとうなって寝返りをうった。
ぼくたちは、同時に人差し指を口に立て、そっと部屋の隅に移動した。
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