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「トルグ」
 食堂で食べ終えた皿を片づけようとしていると、誰かが声をかけてきた。
「やあ、イルー」
 広い食堂に十ばかり並んだ長テーブルは、そろそろ学生たちで賑わうころだった。厨房から夕食の盆を運んで来た者が、思い思いの場所に座を占めはじめる。
 開け放った大きな窓からおだやかな風が吹き抜けて、立ちこめるシチューや焼きたてのパンの匂いを拡散していた。それにつられたように学生たちは次々とやってくる。
 日はだいぶ長くなっていて、まだ明かりは灯されていなかった。人混みがあまり好きではないトルグは、いつもこの時刻に夕食をすますことにしている。
 本舎に来て四度目の夏が訪れようとしていた。
 トルグは十九になっていた。
 背丈はだいぶ伸びたつもりだったが、同年代の者に比べると小柄なことに変わりない。 茶色の目は考え深げに深みを増し、黒かった髪はこの一二年で白髪が増えて、ほとんど灰色に見えた。
 めずらしくはないことだ、と今の師であるエチューダが言っていた。〈力〉が髪の色素を消耗させるのだ。そういう質の者もいる。
 いっそのこと、真っ白になれば魔法使いになれるだろうか、とトルグは思う。だったら、髪の色など惜しくはないのに。
「ごはんは済んだのね。ちょっといい?」
「うん」
 イルーはトームの教室に残っていて、このごろではめったに会うことはなかった。ファロムとウゲンは一昨年相次いで塔に上り、それきりだ。二人が魔法使いに認可されたかどうかは判らない。
 イルーとトルグは中庭に出た。木々の明るい若葉は夕刻になるにつれ緑を深め、涼しい川風にそよいでいた。ダリアやクレマチスが咲く花壇のベンチにイルーは腰を下ろした。
 トルグは立ったままイルーを見つめた。ふっくらとした優しい感じは変わらなかったが、表情に寂しげな影が落ちていた。
「わたしね」
 イルーは膝の上で両手を組み合わせ、トルグを見上げた。
「アイン・オソを出ることにしたの」
「出る?」
 トルグは驚いて目を見張った。
「それって、魔法使いをあきらめるってこと?」
「そうよ」
「ここまで頑張ってきたのに」
「頑張っても、魔法使いになれるとは限らないのよ」
 イルーは穏やかに言った。
「ハルトは目的を果たせなかった。ファロムとウゲンはどうなったかわからないけど。わたしは怖いの。魔法使いに認可されなかったら、これまでの力がなくなってしまう。だったら今のうちにここを出た方がいいわ。ランフェル先生の本も持って行けるし、今のわたしでも人の役に立つことはできる」
 トルグは何も言えず、イルーの脇に腰を下ろした。
 目を上げると、橙色に染まりはじめた西空を背に、黒々とそびえ建つ塔が見えた。
 あの上で何が待っているのだろう。
 理不尽なことだと思う。試験に落ちた者は、これまで培ってきた〈力〉を一瞬で奪われ、アイン・オソを出て行かなければならないという。しかも、合否の基準がわからない。まわりから〈力〉を認められた者でも、合格するとは限らないのだ。──リイシャでさえ。
 いや。リイシャがアイン・オソにいるのは確かだとトルグは思っている。魔法使いにだって、なっているはずだ。それなのになぜ、トルグの前に現れてくれないのだろう。
「決めたのよ」
 イルーは、きっぱりと言った。
 トルグは、我に返ってうなずいた。
「ランフェル先生がなぜ亡くなったのか、結局わからずじまいだったわ。それだけが心残りね」
「できるだけのことをするよ、ぼく」
「無理はしないで」
 イルーは優しくトルグの手をとった。
「あなたは、自分のことだけを考えていいのよ。魔法使いになるためにアイン・オソに来たんでしょ」
「うん」
 トルグは目を伏せた。イルーや他の仲間たちに申し訳なかった。今のトルグの心を占めているのはランフェルではなくリイシャだったから。リイシャのことを知りたいからこそ、早く魔法使いになりたいと思う。
「わたし、行くわ」
 イルーは立ち上がった。
「さよなら、トルグ。元気でね」」
「イルー」
 それ以上言葉は出なかった。
 イルーは軽く片手を上げ、行ってしまった。
 トルグは肩を落としてベンチに座りつづけた。
 深くなった花壇の影は、やがてすっかり闇につつまれた。 

 エチューダは三十を過ぎたくらい。赤みを帯びた豊かな褐色の髪と深緑色の目、大柄で筋肉質の身体の持ち主だった。
 デュレンの教え子だと聞いていた。ラウドとはすれ違いにデュレンの教室に入ったらしい。
 トルグはランフェルとは反対の立場の人を師に選んだわけだった。ランフェルの死の真相をつきとめるため? 
 いいや。トルグは正直に首を振る。それは二の次だ。なによりも、リイシャに少しでも近づきたいと思ったからだ。今は自分の前から消えてしまったリイシャと。
 エチューダは、ほとんど教室を使わなかった。トルグを含めて十人ほどの学生をたちを引き連れて毎日のように魔法の実践を行った。
 トルグは野外に出て精神を放ち、高く飛ぶ鳥の目で中州を見下ろした。風を起こして雲を集め、雨や雪を自在に降らせた。ランフェルやトームのもとでもやった訓練だが、エチューダは何事にも最大限の〈力〉を使わせた。鳥は、できるだけ遠くにいるものを捕らえた。風雨から雷や竜巻を起こし、それを長時間操り続けなければならなかった。
 実験棟は、がらんとした堅固な空間だ。エチューダは火の魔法が得意で、皆はよくそこに行った。燃焼物を自然発火させる方法、蝋燭の炎を巨大な火球にする方法、普通の水から凄まじい爆発物を生み出す方法などを彼は嬉しそうに手ほどきした。さらには火球を細かくして四方八方に飛び散らせたり、実験棟が揺るぐほどの爆風も作った。それを鎮めるのも魔法の訓練だった。怪我をした学生たちは互いの魔法で治しあった。
 ランフェルなら必要のない魔法だと言うだろうな。トルグは思った。魔法のための魔法。普通に生活する人々には縁のない魔法。
「これらは古い魔法だ」
 トルグの思いを察していたように、エチューダが言った。実験棟から帰ろうとしていた時だ。トルグひとりをエチューダは引き留めた。
「むかしむかし、魔法使い同士が戦っていた時の魔法だ。当時はもっと凄まじいものだったがね。今の時代にはふさわしくないかもしれない。しかし、アンシュのような者が二度と現れないと誰が言い切れる?」
「アンシュを再び生み出さないためにアイン・オソがあるのでは」
「そうだ」
 エチューダは鼻に皺をよせた。
「結果、ヴェズにいるのは凡庸な魔法使いばかりになった」
「凡庸……」
 トルグはつぶやいた。
 エチューダはどの程度の魔法使いを凡庸というのだろう。少なくともリイシャは凡庸ではなかった。なのに、塔から降りて来なかった。
 エチューダはうなずいた。
「アイン・オソは並外れた力を持つ魔法使いが生まれることを怖れてきた。世界がヴェズだけで完結するならそれもいい。しかし、海の向こうにも大陸はある。さらには、時空間を隔てて違う世界も存在する。アンシュの穴は、それらに繋がっているかもしれない」
 トルグは、はっと身を硬くした。
 アンシュの穴については、ランフェルも語っていた。見つけたらすぐに結界を張り、誰も近づかないようにするべきだと。さもなければ、〈穴〉に呑み込まれてしまうだろうと。
 トルグは呑み込まれかけたのだ。
 あれはラウドが生み出した〈穴〉もどきだったが、今思い出しても恐怖が甦ってくる。
 引き込まれ、自分を失うところだった。
 それが、他の空間に繋がっている?
「他空間からアンシュなみの存在がやってきたら」
 エチューダはトルグの当惑にかまわず言葉を続けた。
「いまのままでは、とても太刀打ちできまい」
 デュレンは魔法使いの〈力〉はもっと解放されてしかるべきと言っていたという。エチューダの言うような脅威に備えてのことなのか。しかし、その脅威とは魔法使いの〈力〉を大きくするための方便では──。
 めぐるましく考えても答えが出ず、トルグはエチューダを見上げた。
「なぜ、ぼくにこんな話を?」
「塔に上る前の心構えのようなものかな」
 エチューダは、わずかな笑みを浮かべた。
「願書は出した。卒業試験は十日後だ」
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