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しおりを挟む久丹は、思わず頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
なんてこった!
目の前をとうとうと瀬也川が流れている。
この川を渡り、半刻も歩けば久丹の住む瀬座村だった。今日中に、我が家にたどり着けるはずだった。
それなのに。
「なんてこった──」
久丹は、うらめしそうに前を見た。
橋が消えている。
平地ではたいした雨ではなかったが、上流の方では思いのほか降ったらしい。
増水した川は、古い木の橋を、ものの見事に押し流していた。なんとか残った橋桁にぶつかって、水が白いしぶきを上げていた。
瀬也橋の老朽化は、長い間瀬座の村人たちの懸案事項だった。多治の国府や他の村への幹線道も、橋が無ければ寸断される。壊れる前に何とかしなければ。
木材の数やら人夫の日当やら、こまごまと算盤を弾いたのは久丹だった。予算を組み立て、国守の許しも出た。棟梁も決まり、ようやくこの秋が過ぎたら架けかえることになっていたのだ。
よりにもよって、自分が渡ろうとするその時に、こんなありさまになっているとは。
対岸の、穂を出しかけた葦の茂みが、そよそよと風になびいている。早く来いとまねいているようだ。
泳いでいけない距離ではなかった。だが、あいにくと泳ぎは久丹の得意とするところではない。飛んでも行けないとなると、ぐるりと回り道するしかないわけだ。
久丹がため息ついたとき、後ろに人影がさした。
振り返ると、一人の男が立っていた。
年の頃は自分と同じ、二十歳を少し超したくらいだろうか。まっすぐな黒髪を背中に長く垂らしている。髪を結わないのは、漂泊の民の証だ。
旅嚢を肩に掛け、大きな革袋を背負っていた。その形からすると、中身は琵琶か。
大那中を巡る旅芸人。遍歴の琵琶弾きは、これまでにも何度か見かけたことがあった。
中背で、ほっそりとした面立ちはなかなか美しい。こんな田舎をうろついているよりも、どこかの館のお抱えにでもなっている方が似合いそうだ。
一方、琵琶弾きの方でも久丹を観察しているようだった。人の良さそうな細い目にとがった鼻。痩せて、やけに長くひょろひょろした手足。筒袖の上衣も袴も、あきらかに丈が足りていない。
久丹は立ち上がった。いくぶん猫背だが、琵琶弾きを充分見おろせる背丈だ。
「あんたも、向こうに行くつもりだったのかい」
琵琶弾きはうなずいた。
「瀬座村は、こっちの方だと聞いてきた」
低かったが、涼やかで落ちついた声音だった。
「うん。だが、橋が流れちまった」
「他に道は?」
「山越えするしかないな。だいぶ遠回りになるが」
「そうか」
琵琶弾きは、川の上流の、ほんのり色づきはじめた山を見やった。
「しかたがない」
「道はおれが知ってるよ。迷ってもめんどうだ。一緒に行こうか」
琵琶弾きは眉を上げた。久丹は笑ってみせた。
「おれは鴉の一門の久丹。瀬座の村役人だ。国府に文書を届けた帰りでね」
琵琶弾きは、軽く頭を下げた。
「そうしてもらえれば、ありがたい」
琵琶弾きは、羽白と名乗った。
「しかし、瀬座に何の用があるんだい」
歩きながら、久丹は首をかしげた。
「会いたい人間がいる」
「ほう」
村に住んでいる者なら、ほとんど知っている。しかし、琵琶弾きと結びつく人間など、皆目見当がつかなかった。
「名は?」
「名は知らない。彫師だ」
「彫師」
「遠海の市で、見事な木彫りの鳳凰を見た」
「なんだ」
久丹は笑って頷いた。
「景だな、それは」
「知り合いか」
「幼なじみだ」
背中を丸めて、一心不乱に鑿を動かしている景の姿が思い出された。
久丹が村を出たのは三日前だったが、ちゃんと食事はとっているだろうか。こちらから声をかけなければ、眠ることさえ忘れているようなやつだから。
「よく知ってるよ。あいつは鳳凰しか彫らない」
「なぜ?」
「いくら彫っても、思うような物ができないらしい」
鳳凰は大昔に死滅した。
龍よりも古い生きものなのだ。伝説に残っているだけで、その姿を見た者は誰もいない。それらしい鳥を彫ればみな鳳凰になるはずなのに、景は常に自分の鳳凰を追い求めている。
「充分すばらしかったが」
羽白は言った。
「翼を広げて飛び立つまぎわの鳳凰だ。羽の一枚一枚まで緻密で、いまにも啼き声をあげそうだった。その目で見たのではないかと思えたほどだ」
「あいつの腕はみんな認めている」
久丹は頷いた。
「だが、自分が満足しなければしかたがないな」
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