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恐怖という感情

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 隣国からどんぶら流れてきた娘。

 いつ開戦してもおかしくない緊張状態の国出身の娘を砦に置いてくれて、自由に動き回らせてくれる領主にリラは感謝していた。
 自分を放り出した生国に、良い感情を持てるほどリラは出来た人間ではないが、とりあえず生きているからまあいいかと思っている。これもリラの自動発現の魔法があったからで、他の貴族令嬢なら心が折れていたり死んでいたりするのではないか。
 などと考えて、思い至ったのだ。
 リラが耐えられてしまったからこんなことになったのではないだろうか。なんとなく嫌がらせを受けていたりいじめられていたりするな、とは感じていたが、リラに実害はなかった。暇にあかせてメイド仕事は楽しかったし。なので放置していたが、普通はどこかの時点で王子妃候補を辞退とか、実家に泣きつくとかするべきだったのではないだろうか。途中で脱落した令嬢たちは賢い選択をしたのではないか。
 流されるまま王宮で暮らし続けてきたが、リアルに川に流されてまたここでもなんとなくやって行けている。
 まあ最後に濡れ衣を着せられたのは根に持っているけれど。

 ここまで流されて何にも考えてないっぷりが少し恥ずかしい。
 だからリラは自分の恥をしのんで領主に告白した。バカだなあこいつー。と思われるだろうけれど。
 だって執務室の掃除がしたかったのだ。
 流石にリラが辺境伯の執務室に立ち入るのは拙い。マルカ国の間諜のつもりはないが、そう思われても仕方ない。だったら身分を明かそう。信じてもらえたら執務室に入る許可がもらえるかもしれない。

 他の部屋はかなり綺麗になった。だから余計に執務室の、磨いていない窓ガラスが目立つようになってしまった。このガラスを磨きたい。外から近付いて、中を覗き込んでいると思われたくなかったから外も磨いていない。大手を振って磨きたい。執務室の窓だけが磨き残しのようになっているのだ。
 ついでに気になるのは、部屋の中は掃除しているのだろうか。リラがここに来た時には、使っていない部屋は埃がこんもり積もっていた。頻繁に使っている部屋はなんとか綺麗に保たれていたが、よく見ると細かなところが雑だった。掃除メイドをしていた目線で言うと、やり直しである。
 この様子では執務室もだいぶん薄汚れているのではないだろうか。ソファの端は擦り切れていないだろうか。気になり出したらとても黙っていられなくなって、とうとう領主にお願いをしてしまった。
 本当は居場所をもらえているだけで感謝しなければならないものを。

 執務室への立ち入り許可のために身の上話をしてみると、領主はびっくりするくらい怖い顔になった。
 リラの考えなしを鼻で笑ってくれると思っていたのに、何か怒りに触れたのだろうか。それともシュークリームで弄んだことがバレてしまったのだろうか。
 笑い話でスベった感が寒い。てへぺろで許される雰囲気ではない。
 みずいろの冷えた瞳に射られてリラは恐怖、という感情を思い出した。
 慌ててもう一度同じ願いを口にする。
 鍛えられた無表情は声を震わせることもなく、寒い空間にお願い事が吸い込まれて落ちた。

 しばらくの沈黙。
 リラは背中がゾクゾクした。これが恐怖。謝って許してもらえるものだろうか。何に対して謝罪すれば。あまり深傷を負わないリラでも、首を落とされたら流石に死ぬと思う。そんな一撃で致命傷を負わされるような恐怖だった。

「任せる」

 領主の声に、知らず下に落ちていた視線が上がる。

 場を支配していた恐怖が消えていた。
 とりあえず掃除してもいいらしい。ありがとう領主。これで南側の窓ガラス全部がピカピカにできる。
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