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#3 うたっておどるひと

3-3 うたっておどるひと

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私物が置かれたままの楽屋に一歩踏み入れると、メンソールの残り香が漂ってくる。
その中にわずかに燻ぶる、酔ってしまいそうなラム酒の香り。紫音が所属する事務所のトップが愛煙する銘柄だ。
ソファでくつろいでいた彼はスマホから顔を上げると、従業員に対面の席を勧めた。

「お疲れ様。今日のステージはどうだった?」

手入れの行き届いた肌に、健康的なえくぼが刻まれる。
時代劇の舞台のために伸ばしたポニーテールの髪型が、今なお俳優として表舞台に立つ彼をますます年齢不詳に見せていた。

「はっ、はい……新曲のお披露目も無事にできて……良かったです」
「それは良かった。上がり聞いたけど、なかなか良い曲だったよ」
「あ……ありがとうございます……」

彼自身も現役で忙しく、タレントの管理はマネージャー任せで、事務所やシェアハウスにも気が向いた時にしか顔を出さない。会社経営と人材育成はあくまでも趣味らしい。事務所と言っても代表の持ち家の一室を使うという、ごく小規模なプロダクションだ。所属しているのも≪SPLASH≫のメンバーと数名のキッズモデルだけである。

滅多な事では顔を会わせない代表と二人きり。デビューから5年経った今でも、嫌でも緊張してしまう。普段はニコニコしていても、腹の底では何を考えているのかさっぱりわからない。そんな業界特有の人間。それも舞台稽古の後、直々に現場に足を運ぶとは。

代表は目を細めると、紫音が持っていたファイルに印字されている会社ロゴを見遣った。

「お姉さん、今日も来て下さってたのか」
「ええ。それで……明日、ZAZATOWNの撮影に行ってきます」

姉から斡旋してもらった案件については、スターゲイツとの業務提携ということになっている。いつ誰とどんな仕事をする予定か、逐一報告を欠かさなかった。

「そうか、また呼んでもらえて良かったじゃないか。しっかり頑張るんだよ」
「あっ、はいっ!一生懸命頑張ります……!」

思いがけない激励に、紫音はつむじが見えるまで深々と頭を下げた。
歌もダンスも素人同然だった頃、可能性に託してグループへの追加加入を認めてくれただけではない。寮として都心部の住居を提供してもらい、毎週末の舞台に立たせてもらっているのも、すべて代表のおかげなのだ。幼い頃から密かに抱いていた夢を、叶えてくれた恩人には変わりなかった。

頭を上げるよう代表が促すと、几帳面なノックが数回響いた。

「ああ、やっと来たね。隣に座って」

書類の束を抱えたマネージャーが、神妙な面持ちで入ってくる。
不定期の面談を彷彿とさせる構図に、紫音の背中に緊張が走った。思えば、月末最後のライブだった。

「お疲れ様です。紫音さんもお時間いただいてありがとうございます」
「いえ……」

すると、代表は立ち上がり、自ら淹れたコーヒーを紫音の目の前に置いた。
続いてマネージャーの手により、人数分のカップが並べられる。芳しいコーヒーの香りと暫しの沈黙の後、ようやく代表が切り出した。

「紫音。君がウチに来てもう5年になったのかな」
「っは、はい……」

落ち着きなくカップの中を見つめていた紫音は、思わず顔を上げる。

「歌もダンスも人一倍努力して、随分上達したと思う。来年の夏で6年目か」

入所当時からの歳月を思い出しているのか。代表の口調は至極穏やかだ。
だが、次に並べられたのは厳格な言葉だった。

「だけど……思うように結果が付いてきていないのは分かるね?」
「っ……すみません……」

真摯な眼差しで射抜かれ、紫音は伏せ目がちにカップを握り締めた。
デビュー後いつまで経っても、メンバー内の人気イコール集客力は最下位。特典会の売上も然りだった。その実態は、本人が一番痛感している。

「俺はね、番付なんてどうでもいい。どうせ、メンヘラ暇人無職粘着クソニート共が上位層に重複投票してるだけだろうし」
「……」

番付――もとい正式名称はメンズ地下アイドルランキング。SNSのフォロワー数やオンライン投票を基に、専用サイトで年間を通して集計されている。
代表の一存により、『濡れた美少年』をコンセプトに結成された≪SPLASH≫。事務所主催の新人発掘オーディションで選ばれた大地と櫂人に後発組の三人が加わり、今の顔ぶれになった。半年間の準備期間を経て、地下のライブハウスを拠点として活動6年目に差し掛かる。グループ部門ではトップ10圏内に出入りする中堅的存在になりつつあった。一方、個人部門で紫音は万年不動の最下位だ。
集客目的の配信や個人動画すら、他メンバーと比べて再生回数が二桁少ない。テコ入れしようとも、最早手の施しようがなかった。

「正直、金の事もどうだっていいんだ。自分が見込んだタレント達が輝く瞬間を見るのが好きで、育成を始めたからさ」

代表はカップを啜ると、無造作に足を組み直した。満ち足りた微笑も、次の瞬間にはフッと立ち消える。

「でも……同時に、金が無いと続けられないのも事実だ」

そして、ある迫りくる危機に、代表は溜息を吐くのだった。

「マネージャーが作ってくれた資料を見て……このままじゃさすがに不味いと思ってね」

隣で黙って聞いていたマネージャーが、今度は躊躇いがちに口を開く。
書類を捲った一枚目には、カラー印刷でグラフが整備されていた。横這い状態の売上線に対し、右肩上がりの支出線が上回る勢いだ。

「実は、紫音さんのグッズの発注数というのが……他メンバーの1/50なんです。
お姉様が在庫を買い占めてくださっても、高額にならないようにと……」
「……そう……だったんですか」

目の前に弾き出された、衝撃的な数字。
状況を過大評価して、呑気に構え過ぎていたのだ。そして、不要な気遣いをさせてしまったことが情けなくて仕方ない。

「昨今の物価高騰で、グッズ製作費だけでなく光熱費もどんどん上がっています。
結論から言うと、シェアハウスの運営費をライブや物販の収益から賄うのが難しくなっているんです」

鈍い眩暈が紫音を襲う。
自分一人がグループの足を引っ張っているのだ。そんな事、前々からわかっていたことなのに……。
紫音が茫然とグラフを見つめる中、マネージャーはついに核心に触れた。

「実質お姉様一人に負担していただくのは……健全ではありません。
紫音さんには、一人でも多くのご新規を作っていただく必要があります」

地元での順風満帆な未来を犠牲にしてまで、我が事のように応援してくれる気丈な姉。
そんな彼女に、多大な苦労や余計な出費を強いてしまっている。無条件の厚意にいつまでも甘えてしまったことに、紫音は無力感を感じ始めていた。

「年内までは様子を見ようとは思ってる……だけどね」

代表はなおも畳みかける。
次の通達までの一拍は、まるで余命宣告のように感じられた。

「あと二か月で実績を上げられなかったら……俺達も別のメンバーを探さないといけない」
「――……!」

ドクドクと心臓が激しく脈打つ。それは、紫音が最も恐れていた通告だった。
マネージャーは申し訳無さそうに俯いている。それ以上は口を噤んでしまった彼の代わりを、代表が引き取った。

「厳しいようだけど、これも現実なんだ。
ウチみたいなスポンサーもままならない弱小事務所では、特にね」

何年も忍耐強く面倒を見てくれていた二人に、恩を仇で返している。
大切な師とも呼べる存在に、追放を言い渡させたのだ。

「ショービジネスの世界ではね、観客の心を掴めないとただの独り善がりで終わるんだ。
どうして他の子達より遅れを取っているのか、しっかり自分と向き合ってほしい」

業界に30年以上身を置く重鎮からの、重みのある忠告。
代表はおもむろに立ち上がると、微かに震える肩を叩いた。

「ファンを愛し……そして、もっと愛されるアイドルになってくれ」

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