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LESSON:5
第50話
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上手く弾かなければ、楽譜通りに弾かなければとそればかりが頭にあって、せっかく恭一から教えてもらった『音を楽しむ』ということから再び遠ざかっていた。こうやってさりげなく音楽への愛情を思い出させてくれる恭一の優しさ、気遣いが嬉しくて胸の奥がジンと温かくなる。
(出会ったときからずっと神保さんは、私が行き詰まったときに手を差し伸べてくれる。今だってナーバスになっていることに気付いて、ここまで連れてきてくれた……)
トクンと心臓が大きく脈打った。今まで経験したことがない胸の高鳴り――苦しいような、それでいてどこか安心感を伴うこそばゆい感情が彼女を支配していき、唐突に私は神保さんが好きなんだと自覚した。今までの訳の分からない感情や胸の痛みは、異性を想う気持ちだったのかと――恋愛初心者の梨乃は初めて知った。
手を伸ばせば互いに触れあえる距離に立つ恭一は、いつの間にか再び視線を眼下の夜景に戻していた。その横顔は冷たいほどに無表情で、彼が自分のことをどう思っているのか――ひとりの女として見てくれているのかどうかはハッキリと判らないが、何かと気遣ってくれる事は確かだ。その優しさにどっぷりと甘え、いつの間にか……ひとりの男性として見ており虜になっていた。自覚したら急に緊張で身体が震えてくる。
「鮎川さん、寒い?」
梨乃の震えを寒さのためと勘違いした恭一は、そっと身を寄せてきた。だが近付かれるほど緊張はピークに達し、ますます小刻みに震えてしまう。
「あのさ、手を……繋いでもいいかな?」
躊躇いがちに言われた台詞は確かに梨乃の耳に届いているのに、彼女は返事が出来ない。ただ細かく身体を震わせ、視線を合わせないように天を仰ぐのみ。気まずい沈黙が降りるが、やがて梨乃の手が大きくて温かいものに包まれた。それが恭一の手だと気付いたとき、不思議と震えが止まった。
「ほら、こんなに手が冷えている。ごめんな、寒かったんだね」
くいと手を引かれ向き合う形となり、包み込むようにして握られると羞恥から梨乃の頬がほんのりと染まる。生まれてこのかた、父親以外の男と手を繋いだことなどなかった。しかも父親との触れ合いも彼女が七歳くらいまでで、十年以上も前の話だ。他人の、しかも大人の男性に手を握られたことのない梨乃がどうして良いのか判らず固まっていると、ふっと小さく笑った恭一がもう片方の手で彼女の頬にそっと触れた。赤くなっている顔を見られたくなくて俯こうとしても、大きな掌に阻まれている。
「鮎川さんは卒業したら、音大へ進学するの?」
「いえ、ドイツへ留学する予定です」
「ドイツ……?」
気のせいか恭一の手が一瞬だけ震えた気がした。俯くことも出来ずに視線を合わせる二人は、見つめ合う格好になっている。恭一の目が切なげに細められ、小さなため息が洩れた。何かを我慢するような――それでいて諦めを含んだ苦しげな表情。恭一は頬に触れていた手を外し、視線を斜め上に逸らせて星を見る。
「来年の春には、ドイツに行ってしまうんだね」
「両親がドイツに赴任している間に住むところを探して、それから大学の教授にコンタクトを取り演奏を聴いて貰います。だから渡独は来春でも、受験は夏頃ですね」
それでも卒業したら日本を離れることには、変わりはないのだ。もうあと半年もしない内に、彼女は日本を発ってしまう……恭一の気持ちを知らないままに。
留学だけなら日本の音大へ進んでからでも問題はないが、ドイツの音大は十六歳から入学が可能だ。それにある程度の年齢制限があるので十代の内に向こうの大学に入り、勉強をした方が有利である。向こうに行ってから言葉で苦労しないよう語学の勉強も幼い頃からしているので、その点は問題がない。問題は無事に大学の教授に師事できるかどうかだ。人気のある教授には当然ながら生徒が殺到する。新入生の数も多く、梨乃が師事したいと思っている先生は特に人気が高いのだ。コンクールが終わるまではそれに集中するが、終わったらさっそくメッセージを送ろうと梨乃は考えていた。
(出会ったときからずっと神保さんは、私が行き詰まったときに手を差し伸べてくれる。今だってナーバスになっていることに気付いて、ここまで連れてきてくれた……)
トクンと心臓が大きく脈打った。今まで経験したことがない胸の高鳴り――苦しいような、それでいてどこか安心感を伴うこそばゆい感情が彼女を支配していき、唐突に私は神保さんが好きなんだと自覚した。今までの訳の分からない感情や胸の痛みは、異性を想う気持ちだったのかと――恋愛初心者の梨乃は初めて知った。
手を伸ばせば互いに触れあえる距離に立つ恭一は、いつの間にか再び視線を眼下の夜景に戻していた。その横顔は冷たいほどに無表情で、彼が自分のことをどう思っているのか――ひとりの女として見てくれているのかどうかはハッキリと判らないが、何かと気遣ってくれる事は確かだ。その優しさにどっぷりと甘え、いつの間にか……ひとりの男性として見ており虜になっていた。自覚したら急に緊張で身体が震えてくる。
「鮎川さん、寒い?」
梨乃の震えを寒さのためと勘違いした恭一は、そっと身を寄せてきた。だが近付かれるほど緊張はピークに達し、ますます小刻みに震えてしまう。
「あのさ、手を……繋いでもいいかな?」
躊躇いがちに言われた台詞は確かに梨乃の耳に届いているのに、彼女は返事が出来ない。ただ細かく身体を震わせ、視線を合わせないように天を仰ぐのみ。気まずい沈黙が降りるが、やがて梨乃の手が大きくて温かいものに包まれた。それが恭一の手だと気付いたとき、不思議と震えが止まった。
「ほら、こんなに手が冷えている。ごめんな、寒かったんだね」
くいと手を引かれ向き合う形となり、包み込むようにして握られると羞恥から梨乃の頬がほんのりと染まる。生まれてこのかた、父親以外の男と手を繋いだことなどなかった。しかも父親との触れ合いも彼女が七歳くらいまでで、十年以上も前の話だ。他人の、しかも大人の男性に手を握られたことのない梨乃がどうして良いのか判らず固まっていると、ふっと小さく笑った恭一がもう片方の手で彼女の頬にそっと触れた。赤くなっている顔を見られたくなくて俯こうとしても、大きな掌に阻まれている。
「鮎川さんは卒業したら、音大へ進学するの?」
「いえ、ドイツへ留学する予定です」
「ドイツ……?」
気のせいか恭一の手が一瞬だけ震えた気がした。俯くことも出来ずに視線を合わせる二人は、見つめ合う格好になっている。恭一の目が切なげに細められ、小さなため息が洩れた。何かを我慢するような――それでいて諦めを含んだ苦しげな表情。恭一は頬に触れていた手を外し、視線を斜め上に逸らせて星を見る。
「来年の春には、ドイツに行ってしまうんだね」
「両親がドイツに赴任している間に住むところを探して、それから大学の教授にコンタクトを取り演奏を聴いて貰います。だから渡独は来春でも、受験は夏頃ですね」
それでも卒業したら日本を離れることには、変わりはないのだ。もうあと半年もしない内に、彼女は日本を発ってしまう……恭一の気持ちを知らないままに。
留学だけなら日本の音大へ進んでからでも問題はないが、ドイツの音大は十六歳から入学が可能だ。それにある程度の年齢制限があるので十代の内に向こうの大学に入り、勉強をした方が有利である。向こうに行ってから言葉で苦労しないよう語学の勉強も幼い頃からしているので、その点は問題がない。問題は無事に大学の教授に師事できるかどうかだ。人気のある教授には当然ながら生徒が殺到する。新入生の数も多く、梨乃が師事したいと思っている先生は特に人気が高いのだ。コンクールが終わるまではそれに集中するが、終わったらさっそくメッセージを送ろうと梨乃は考えていた。
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