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LESSON:4
第38話
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最近の梨乃には自信が感じられるようになったと思っていたので、原因が判って指導教員としてはホッと胸を撫で下ろした。きっかけが何であれ、これで梨乃が大舞台でも極度に緊張せずに練習通りの実力を発揮してくれたら、言うことはない。熊坂が優しい眼差しで見守る中、完璧と言えるほどの演奏を終えた梨乃は満足そうに微笑んだ。
こうして音楽の素晴らしさを再認識した梨乃は少しずつ、だが確実に己の心に十年も巣くうトラウマの克服を進めていった。
「最近の梨乃って、雰囲気変わったよね」
親友の美由紀にまで言われるようになり梨乃はやはり自分が変わってきたのだと自覚したが、表面上は敢えてとぼけてみせた。
「そうかな? いつも通りだと思うけれどな」
小首を傾げて聞き返してみるが、長い付き合いの親友はそんな梨乃の態度が何かを隠しているときの癖だと見抜いている。周囲に誰もいないことを素早く確認すると梨乃の肩を抱き、悪戯っぽい表情で囁く。
「お隣さんと何か進展でもあったの? 素直に白状しなさいよ」
何もかも見透かしたような目で覗き込まれどうやって誤魔化そうかと思案していたが、絶対に聞き出すわよと言わんばかりの美由紀の目に早々に白旗を揚げることにした。放課後の廊下は皆が練習室にこもり黙々と練習しているせいで、彼女たちの他に人がいない。もちろん二人とも自主練習をしなければいけないが、今は美由紀の試験が終わったばかりという解放感に包まれていたので、梨乃の部屋でじっくりと泥を吐かされることになってしまった。
さっきまで行われていた声楽コースの試験について、ああだこうだと反省点を述べながら仲良く帰路につく。梨乃の部屋に上がり込むと、ジュースとスナック菓子を用意した梨乃は好奇心に満ち溢れた美由紀の眼差しに負け、恭一に勧められてアルバイトを始めたことや、円果の部屋で言われたことを説明し、そのお陰で呪縛から解き放たれていく感覚を味わっていると告白させられた。
「最近、練習でもピアノを弾くことが楽しいの。アルバイト先でもお客さんが私個人に拍手を送ってくださったり、嬉しいことにリクエストしてくださってね。神保さんの台詞を、実感している最中なの」
「ふーん、随分と心を許しているんだね。頬が緩みっぱなし」
そう言って梨乃のやわらかい頬をむにっとつまんだ美由紀は、反応を楽しむかのように軽く引っ張った。
「ちょ、ちょっと痛い! 美由紀、痛いってば!」
「ごめんごめん。でも、すごく幸せそうな顔をしている。やっぱり好きになったの? お隣さんのこと」
アップルジュースが入ったグラスを口元に運んでいた梨乃は、親友のその台詞に動きを止めた。考え込むように中空の一点を見つめ、うーんと煮え切らない返事をする。問われても答えられないだろうと自分でも判っていたので、何とかしてこの場を誤魔化したいが相手が美由紀では逃げられない。まだ自分でも漠然としているこの間情をどう説明したら良いのか、暫し思案したが、長いようで短い沈黙の後に素直に告げることを決めた――ありのままに、自分の心の状態を。
「判らない。今の段階では、まだ何とも言えないの。確かに良い人だけれど、それは隣人としてかもしれないし、兄のように慕っているだけかもしれない」
何とも煮え切らない返事を寄越する親友に向けて大きく息を吐いた美由紀は、まぁ梨乃らしいといえばらしいと納得をした。ひとり娘で今まで恋愛経験の無い梨乃にとって、歳がそう変わらない男性に初めて会ったのだ。憧れなのか恋なのか本人が判別できないのだ、いわんや他人が判るはずがない。
「でも気になることは確かでしょう? だったら、今はそれでいいじゃない。縁があるならば自然と関係は変わっていくでしょうし、自分の気持ちにも気付くでしょうよ」
「美由紀……本当に同い年なのか、時々疑うわ。なに? その胡散臭い物の言い方は」
「胡散臭いって失礼ね梨乃! わたしと梨乃だって縁があるから、こうして親友やっているんでしょう?」
美由紀は時々、妙に年寄り臭いことを言うことがある。彼女が祖父母と同居しているせいもあるのだろう。思わず憎まれ口を叩いてしまったが、美由紀の言うことも尤もだと思う。焦らなくても自分の中にある、恭一に対する感情の正体に気付く時が来るだろう。ただ、今の関係が変わってしまうのが怖いような……そんな気持ちがあるのは否定できない。だが今は、目の前の目標に向かって邁進する時だ。梨乃は気合いを入れるように、軽く自分の頬を叩いた。
「さて、また練習するとしますか!」
駅まで美由紀を送り別れた梨乃は、いつものようにスーパーに立ち寄り、食材を買い終えると自室に入った。スマホをリビングのテーブルの上に放置すると、ピアノの蓋を開けて目を閉じた。
こうして音楽の素晴らしさを再認識した梨乃は少しずつ、だが確実に己の心に十年も巣くうトラウマの克服を進めていった。
「最近の梨乃って、雰囲気変わったよね」
親友の美由紀にまで言われるようになり梨乃はやはり自分が変わってきたのだと自覚したが、表面上は敢えてとぼけてみせた。
「そうかな? いつも通りだと思うけれどな」
小首を傾げて聞き返してみるが、長い付き合いの親友はそんな梨乃の態度が何かを隠しているときの癖だと見抜いている。周囲に誰もいないことを素早く確認すると梨乃の肩を抱き、悪戯っぽい表情で囁く。
「お隣さんと何か進展でもあったの? 素直に白状しなさいよ」
何もかも見透かしたような目で覗き込まれどうやって誤魔化そうかと思案していたが、絶対に聞き出すわよと言わんばかりの美由紀の目に早々に白旗を揚げることにした。放課後の廊下は皆が練習室にこもり黙々と練習しているせいで、彼女たちの他に人がいない。もちろん二人とも自主練習をしなければいけないが、今は美由紀の試験が終わったばかりという解放感に包まれていたので、梨乃の部屋でじっくりと泥を吐かされることになってしまった。
さっきまで行われていた声楽コースの試験について、ああだこうだと反省点を述べながら仲良く帰路につく。梨乃の部屋に上がり込むと、ジュースとスナック菓子を用意した梨乃は好奇心に満ち溢れた美由紀の眼差しに負け、恭一に勧められてアルバイトを始めたことや、円果の部屋で言われたことを説明し、そのお陰で呪縛から解き放たれていく感覚を味わっていると告白させられた。
「最近、練習でもピアノを弾くことが楽しいの。アルバイト先でもお客さんが私個人に拍手を送ってくださったり、嬉しいことにリクエストしてくださってね。神保さんの台詞を、実感している最中なの」
「ふーん、随分と心を許しているんだね。頬が緩みっぱなし」
そう言って梨乃のやわらかい頬をむにっとつまんだ美由紀は、反応を楽しむかのように軽く引っ張った。
「ちょ、ちょっと痛い! 美由紀、痛いってば!」
「ごめんごめん。でも、すごく幸せそうな顔をしている。やっぱり好きになったの? お隣さんのこと」
アップルジュースが入ったグラスを口元に運んでいた梨乃は、親友のその台詞に動きを止めた。考え込むように中空の一点を見つめ、うーんと煮え切らない返事をする。問われても答えられないだろうと自分でも判っていたので、何とかしてこの場を誤魔化したいが相手が美由紀では逃げられない。まだ自分でも漠然としているこの間情をどう説明したら良いのか、暫し思案したが、長いようで短い沈黙の後に素直に告げることを決めた――ありのままに、自分の心の状態を。
「判らない。今の段階では、まだ何とも言えないの。確かに良い人だけれど、それは隣人としてかもしれないし、兄のように慕っているだけかもしれない」
何とも煮え切らない返事を寄越する親友に向けて大きく息を吐いた美由紀は、まぁ梨乃らしいといえばらしいと納得をした。ひとり娘で今まで恋愛経験の無い梨乃にとって、歳がそう変わらない男性に初めて会ったのだ。憧れなのか恋なのか本人が判別できないのだ、いわんや他人が判るはずがない。
「でも気になることは確かでしょう? だったら、今はそれでいいじゃない。縁があるならば自然と関係は変わっていくでしょうし、自分の気持ちにも気付くでしょうよ」
「美由紀……本当に同い年なのか、時々疑うわ。なに? その胡散臭い物の言い方は」
「胡散臭いって失礼ね梨乃! わたしと梨乃だって縁があるから、こうして親友やっているんでしょう?」
美由紀は時々、妙に年寄り臭いことを言うことがある。彼女が祖父母と同居しているせいもあるのだろう。思わず憎まれ口を叩いてしまったが、美由紀の言うことも尤もだと思う。焦らなくても自分の中にある、恭一に対する感情の正体に気付く時が来るだろう。ただ、今の関係が変わってしまうのが怖いような……そんな気持ちがあるのは否定できない。だが今は、目の前の目標に向かって邁進する時だ。梨乃は気合いを入れるように、軽く自分の頬を叩いた。
「さて、また練習するとしますか!」
駅まで美由紀を送り別れた梨乃は、いつものようにスーパーに立ち寄り、食材を買い終えると自室に入った。スマホをリビングのテーブルの上に放置すると、ピアノの蓋を開けて目を閉じた。
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