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LESSON:4
第35話
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次の曲はこの店に来る途中で、二人で演奏したいねと恭一が提案し決めたナンバーだ。恭一がサックスを構え、梨乃も伴奏の準備に入った。三橋と相坂は見守っている。やがて二人の指が同時に動き、曲が始まった。一瞬だけ店内がざわつく。この店は常連客しか来ないので、前奏のワンフレーズだけで一気に熱を帯びた。期待と興奮――そんな熱気に負けることなく、恭一は尊敬している渡辺貞夫の代表曲『カリフォルニアシャワー』を吹き始めた。外はようやく春めいてきたというのに、店内は一気にカリフォルニアの夏の空気に包まれていく。軽やかで爽やかな音色が聴衆を乗せ、煽っていく。
レストランの営業時間終了が迫っていた。生演奏を聴きながら客は食事を済ませ、曲が終わると会計へという流れができはじめる。ウェイターたちは各テーブルの食器類を片付け、客が全員外へ出てからテーブルの移動を始めた。パーティションを撤去するとバーカウンターが姿を現し、照明も暗めになり、大人の夜の空間が出来上がった。ジャズとアルコールを楽しむ客たちが、ちらほらと入店してくる。
バーテンダーが二名カウンターに入り、さっそくバーボンのロックやカクテルなど注文を受けている。梨乃たちは一曲だけ客たちのために『Mr.PC』を演奏する。神崎夫妻がステージに上がり、恭一はステージを降りた。『この素晴らしき世界~What a Wonderful World~』の演奏が始まり、美和のボーカルが再び店内に流れた。神崎のトランペットもソウルフルに響き、客たちは酒とジャズに酔いしれた。二十二時になったところで梨乃のアルバイトは終了となり、ステージを妻と駆けつけてきた他の奏者たちに任せると、神崎も一旦事務所に戻ってきた。
「週末と祝日は来られるんだよね? また来週末もお願いしてもいいかな」
「はい、よろしくお願いします」
笑顔で答えると、神崎も嬉しそうに笑顔で頷いた。
「恭一君も梨乃ちゃんが出るときは、必ず来てくれよ」
「勿論ですよ。未成年を深夜まで働かせないよう、監視を兼ねて来ますから」
珍しくおどけた物の言い方に、神崎はニヤリと笑い、軽く恭一の肩を叩くと
「お疲れさん」
と言って彼らを送り出してくれた。
「帰りにコンビニに寄らなくても、大丈夫?」
「はい。このまま帰って、また練習します」
梨乃としては今の楽しかった気分が消えない内に、練習をしたかった。先程まで感じていた聴衆との一体感。あの感覚を忘れない内にクラシックの世界に戻りたかった。そんな彼女の心情を察したらしい恭一は
「そう」
とだけ呟くと、真っ直ぐにマンションに向かって車を走らせた。
初めてのアルバイトの感想を聞かれ、とても楽しかったと伝えると、ハンドルを握る横顔が嬉しそうになった。その笑顔を見た梨乃も、何だか嬉しくなった。
「神保さんがおっしゃっていた、奏者と聴衆が一緒に音を楽しむという意味が、少し判った気がしました」
「そう? だとしたら、ちょっとは役に立てたのかな」
「はい、それはもう。演奏することがこんなにも楽しいって事を、私は忘れていました」
窓の外を流れる、夜の街並み。一見静かに見えるこの風景の中にも、聞こえないだけで必ず音楽は流れている。生演奏なのか、それとも音楽プレーヤーを通して再生されたものかは判らないが、世界中で今この瞬間にも誰かが音楽を楽しんでいる。少なくとも自分がSORRISOで演奏したあの瞬間に店に居合わせた者たち全員は、音楽という至福の時間に酔いしれたはずだ。
あの高揚した気分。初めて味わう会場の熱気。梨乃は思い出しただけでも、躯の奥がじんと熱くなるのを覚えた。
「すごく楽しかったんです!」
興奮を抑えきれない様子で熱く語る梨乃に対し、恭一はただ黙って話を聞いていた。彼女が音楽についてこんなに熱く語ることは初めてで、そんな一面に彼自身も興味を惹かれて口を挟めなかった。
レストランの営業時間終了が迫っていた。生演奏を聴きながら客は食事を済ませ、曲が終わると会計へという流れができはじめる。ウェイターたちは各テーブルの食器類を片付け、客が全員外へ出てからテーブルの移動を始めた。パーティションを撤去するとバーカウンターが姿を現し、照明も暗めになり、大人の夜の空間が出来上がった。ジャズとアルコールを楽しむ客たちが、ちらほらと入店してくる。
バーテンダーが二名カウンターに入り、さっそくバーボンのロックやカクテルなど注文を受けている。梨乃たちは一曲だけ客たちのために『Mr.PC』を演奏する。神崎夫妻がステージに上がり、恭一はステージを降りた。『この素晴らしき世界~What a Wonderful World~』の演奏が始まり、美和のボーカルが再び店内に流れた。神崎のトランペットもソウルフルに響き、客たちは酒とジャズに酔いしれた。二十二時になったところで梨乃のアルバイトは終了となり、ステージを妻と駆けつけてきた他の奏者たちに任せると、神崎も一旦事務所に戻ってきた。
「週末と祝日は来られるんだよね? また来週末もお願いしてもいいかな」
「はい、よろしくお願いします」
笑顔で答えると、神崎も嬉しそうに笑顔で頷いた。
「恭一君も梨乃ちゃんが出るときは、必ず来てくれよ」
「勿論ですよ。未成年を深夜まで働かせないよう、監視を兼ねて来ますから」
珍しくおどけた物の言い方に、神崎はニヤリと笑い、軽く恭一の肩を叩くと
「お疲れさん」
と言って彼らを送り出してくれた。
「帰りにコンビニに寄らなくても、大丈夫?」
「はい。このまま帰って、また練習します」
梨乃としては今の楽しかった気分が消えない内に、練習をしたかった。先程まで感じていた聴衆との一体感。あの感覚を忘れない内にクラシックの世界に戻りたかった。そんな彼女の心情を察したらしい恭一は
「そう」
とだけ呟くと、真っ直ぐにマンションに向かって車を走らせた。
初めてのアルバイトの感想を聞かれ、とても楽しかったと伝えると、ハンドルを握る横顔が嬉しそうになった。その笑顔を見た梨乃も、何だか嬉しくなった。
「神保さんがおっしゃっていた、奏者と聴衆が一緒に音を楽しむという意味が、少し判った気がしました」
「そう? だとしたら、ちょっとは役に立てたのかな」
「はい、それはもう。演奏することがこんなにも楽しいって事を、私は忘れていました」
窓の外を流れる、夜の街並み。一見静かに見えるこの風景の中にも、聞こえないだけで必ず音楽は流れている。生演奏なのか、それとも音楽プレーヤーを通して再生されたものかは判らないが、世界中で今この瞬間にも誰かが音楽を楽しんでいる。少なくとも自分がSORRISOで演奏したあの瞬間に店に居合わせた者たち全員は、音楽という至福の時間に酔いしれたはずだ。
あの高揚した気分。初めて味わう会場の熱気。梨乃は思い出しただけでも、躯の奥がじんと熱くなるのを覚えた。
「すごく楽しかったんです!」
興奮を抑えきれない様子で熱く語る梨乃に対し、恭一はただ黙って話を聞いていた。彼女が音楽についてこんなに熱く語ることは初めてで、そんな一面に彼自身も興味を惹かれて口を挟めなかった。
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