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第一章 ヴァイスハイト帝国の若き皇帝
第4話
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ひとりの男がヴァイスハイト帝国から馬を飛ばし、プラテリーア公国へと向かっていた。
皇帝ゲオルグ崩御。
この朗報を一刻も早く公国へ届けねばならない。男は公国から帝国へと、旅商人として潜りこんだスパイ。前々からゲオルグ帝が重い病で倒れたという噂はあったが、影武者を立てるなどをして民衆の目をごまかしてきたとの噂が、まことしやかに囁かれていた。ここ二、三日ほど宮殿からの客が増えている。しかも平静を装ってはいるが、どこかぎこちなく、また生花を扱う商人の姿を求める数が、圧倒的に多いことが気になった。
皇太子の婚約が整ったという噂は流れてこない。慶事ならば、もっと晴れ晴れとした表情のはずだが、買い物に出てくる女官たちの顔は、みな一様に暗い。
(これは、もしや?)
旅商人に扮し諸国に潜入してきた経験から、男の第六感がゲオルグ帝の崩御を捉えた。
ヴァイスハイト帝国には皇帝が亡くなるとひと月ほど死を隠し、その間に皇太子が戴冠式を終える習わしがあることを知っている男は、確信に似た思いを胸にすぐさま馬に飛び乗った。念のために密書を鳩の足に括り付け、プラテリーア公国に向けて飛ばすことも忘れない。これで自分に何かあっても、密書は届く。
葬儀そして新皇帝の即位までひと月の間、宮殿は慌ただしくなる。平行して軍備も整えられるが、動揺が広がっていることは否めない。
『ゲオルグ帝が死んだら、すぐに伝えよ』
プラテリーア公国からそう密命を受けている男は、多額の報奨金を脳裏に思い浮かべて、ひとりほくそ笑んだ。
国境付近に横たわる森。そこはまだ帝国の領土内であることを、男は失念していた。近道をしようと街道を避け、森を突っ切っていこうと考えたのが、運の尽きだった。金に目がくらんだ男の、哀れな末路というべきか。森の中を、全速力で馬を走らせる。やがて森全体がざわざわと、言い表しようのない緊迫感に包まれていく。いくつもの殺気が疾走する馬へと向けられ、徐々にそれは男を包囲していく。
まだゲオルグ帝が崩御してから一時間ほどしか経っていない。なのに、国境警備隊にはすでにこの訃報が届いており、人の出入りを厳しく制限するよう厳命が届いていた。国境を超えるには正式な手続きが必要で、男のように森を抜けるなどという行為は、密出入国である。ましてや今回は、戒厳令が敷かれている。怪しい者は、その場で処刑してよいとの勅命が出ていた。
男は殺気にまったく気づかなかった。包囲網は音もなくじりじりと狭められ、討つ機会を狙っている。
「どれ、この辺で少し休むか」
馬に疲れが出てきたことを察した男が、速度を落とすよう促す。大人しく命令に従った馬は、やがて歩くようになった。男の記憶では、近くに泉があったはずだった。木立を抜けると、澄んだ泉が広がっていた。急ぐ旅ではあるが、泉のあまりの美しさに男もふと、疲れと喉の渇きを覚え、馬とともに水辺に近づく。両膝をつき、冷たい泉水に手をひたした刹那。
ヒュッ! ヒュッ! ヒュッ!
鋭く空を切る音が、男の周辺から響いた。数本の毒矢が男の身体に突き刺さり、声を上げる間もなく、猛毒が全身を駆け巡る。大きく瞠った目は、もはや何も映してはいなかった。力が抜け泉に身を落とす寸前に、狩人の格好をした男が遺体を支えた。
「汚らわしい身で、泉を汚すことはならぬ」
サッと手を挙げると男たちが木立から現れ、屍を何処《いずこ》かへと運び出す。彼らは、ヴァイスハイト帝国軍に属する森林警備隊《レンジャー》である。国境付近に横たわる森を警護する、ゲリラ戦のスペシャリストたち。主に弓矢を中心に攻撃を仕掛ける、神出鬼没の辺境警備部隊だ。
密偵が放った伝書鳩は迷うことなく、確実に隣国を目指して飛んでいた。
皇帝ゲオルグ崩御。
この朗報を一刻も早く公国へ届けねばならない。男は公国から帝国へと、旅商人として潜りこんだスパイ。前々からゲオルグ帝が重い病で倒れたという噂はあったが、影武者を立てるなどをして民衆の目をごまかしてきたとの噂が、まことしやかに囁かれていた。ここ二、三日ほど宮殿からの客が増えている。しかも平静を装ってはいるが、どこかぎこちなく、また生花を扱う商人の姿を求める数が、圧倒的に多いことが気になった。
皇太子の婚約が整ったという噂は流れてこない。慶事ならば、もっと晴れ晴れとした表情のはずだが、買い物に出てくる女官たちの顔は、みな一様に暗い。
(これは、もしや?)
旅商人に扮し諸国に潜入してきた経験から、男の第六感がゲオルグ帝の崩御を捉えた。
ヴァイスハイト帝国には皇帝が亡くなるとひと月ほど死を隠し、その間に皇太子が戴冠式を終える習わしがあることを知っている男は、確信に似た思いを胸にすぐさま馬に飛び乗った。念のために密書を鳩の足に括り付け、プラテリーア公国に向けて飛ばすことも忘れない。これで自分に何かあっても、密書は届く。
葬儀そして新皇帝の即位までひと月の間、宮殿は慌ただしくなる。平行して軍備も整えられるが、動揺が広がっていることは否めない。
『ゲオルグ帝が死んだら、すぐに伝えよ』
プラテリーア公国からそう密命を受けている男は、多額の報奨金を脳裏に思い浮かべて、ひとりほくそ笑んだ。
国境付近に横たわる森。そこはまだ帝国の領土内であることを、男は失念していた。近道をしようと街道を避け、森を突っ切っていこうと考えたのが、運の尽きだった。金に目がくらんだ男の、哀れな末路というべきか。森の中を、全速力で馬を走らせる。やがて森全体がざわざわと、言い表しようのない緊迫感に包まれていく。いくつもの殺気が疾走する馬へと向けられ、徐々にそれは男を包囲していく。
まだゲオルグ帝が崩御してから一時間ほどしか経っていない。なのに、国境警備隊にはすでにこの訃報が届いており、人の出入りを厳しく制限するよう厳命が届いていた。国境を超えるには正式な手続きが必要で、男のように森を抜けるなどという行為は、密出入国である。ましてや今回は、戒厳令が敷かれている。怪しい者は、その場で処刑してよいとの勅命が出ていた。
男は殺気にまったく気づかなかった。包囲網は音もなくじりじりと狭められ、討つ機会を狙っている。
「どれ、この辺で少し休むか」
馬に疲れが出てきたことを察した男が、速度を落とすよう促す。大人しく命令に従った馬は、やがて歩くようになった。男の記憶では、近くに泉があったはずだった。木立を抜けると、澄んだ泉が広がっていた。急ぐ旅ではあるが、泉のあまりの美しさに男もふと、疲れと喉の渇きを覚え、馬とともに水辺に近づく。両膝をつき、冷たい泉水に手をひたした刹那。
ヒュッ! ヒュッ! ヒュッ!
鋭く空を切る音が、男の周辺から響いた。数本の毒矢が男の身体に突き刺さり、声を上げる間もなく、猛毒が全身を駆け巡る。大きく瞠った目は、もはや何も映してはいなかった。力が抜け泉に身を落とす寸前に、狩人の格好をした男が遺体を支えた。
「汚らわしい身で、泉を汚すことはならぬ」
サッと手を挙げると男たちが木立から現れ、屍を何処《いずこ》かへと運び出す。彼らは、ヴァイスハイト帝国軍に属する森林警備隊《レンジャー》である。国境付近に横たわる森を警護する、ゲリラ戦のスペシャリストたち。主に弓矢を中心に攻撃を仕掛ける、神出鬼没の辺境警備部隊だ。
密偵が放った伝書鳩は迷うことなく、確実に隣国を目指して飛んでいた。
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