1 / 1
月と水と
しおりを挟む
この間、実朝が三浦義村の歓待を受けた三浦の海辺で見た月は格別だったとか。
御台所が幼い頃見た京の鴨川の水辺に映る月も美しかったとか。
将軍夫婦は、御所の縁側で、夜空に冴えわたる銀色の月を共に見上げながら、仲睦まじく語り合っていた。
そこから話が弾んだのか、実朝は、突然、御台所を連れて夜のお忍びに出かけたいと言い出した。
まだ日の出前に時鳥の初音を聞きに行ったり。
永福寺に御台所と一緒に夜桜を見に行ったり。
主君が、突然お忍びでのお出かけを強行することは実はよくあることだった。
「相変わらず、仲の良いご夫婦であることだ」
泰時の他に供をすることになった者達は、やれやれいつものことだと半ば呆れつつも、仲睦まじい主君夫婦の姿を微笑ましく見守りながら、支度を始めた。
「この間、三浦の海辺で見た月は格別だったが、あの時は御台はいなかったから。今夜は船を浮かべて、川辺に映る月を共に見よう」
実朝はそう言って、御台所に手を貸して同じ牛車に乗り込んだ。
実朝の瞳は、夜空に輝く銀色の月のように澄んでいた。
だが、月の光は万人を照らすが、実朝の瞳に映るのは、いつも愛する妻ただ一人だった。
泰時は、そんな主君を見るたびに、胸が締め付けられるように痛んだ。
主君夫婦が川辺に浮かべて乗った小舟に、警護のために泰時も同乗した。
「ちはやぶるみたらし川の底きよみのどかに月の影は澄みにけり。ここは本当はみたらし川ではないのだけれど」
実朝は、歌を口ずさんで御台所に語りかける。
「川の底が清らかなので、月の光は澄んでいるのだね。川の水のようにあなたが清らかで美しいから、月も澄んで輝いていられるのだよ」
サラサラと流れる川の音以外は何も聞こえない静寂のせいか、実朝が御台所の耳元でそっとささやいた言葉が、泰時の耳にも聞こえてきた。
月の美しさを女性の美しさにたとえるのが通常であるところ、川の澄んだ美しさを愛する妻に重ねて先に見たのが、実朝独特の感性であるともいえようか。
「まあ、そのようなことをおっしゃっては。私はどのようにお返ししたらいいのかわかりませんわ」
「御台は返歌をくれないそうだ。ならば、太郎。御台の代わりに、御台の気持ちになって詠んでみてくれないか」
夫婦だけの会話から、突然矛先を自分に向けられて泰時は大いに動揺した。
実朝の目はいたずらっ子のように輝いている。
(私の気持ちも知らないで。無邪気な顔で何と意地の悪いことをおっしゃるのか)
涙目になりそうなのを必死で堪えて、泰時は目を閉じて、主君の問いかけに思案する様子を見せた後、やがて歌を口ずさんだ。
「ちはやぶる神世の月のさえぬればみたらし川もにごらざりけり」
神の世から月が冴えて澄んでいるからこそ、みたらし川もにごらずにすんでいる。
月のように御所様が澄んでいらっしゃるからこそ、私もにごらずにいられるのですよ。
「私にとっては御所様こそが澄んだ月なのです。太郎殿、ありがとう」
「そう言われると、私の方も嬉しいような、恥ずかしいような」
微笑み返す実朝の瞳には、やはり御台所しか映っていない。
(聡明だが、こういうことには鈍い方だから。永遠に気づきはしないだろうな)
万人を優しく温かく照らす月の光のような実朝。その澄んだ姿があればこそ、泰時を始め、実朝を慕う多くの者達はにごらずにいられるのだ。
けれども、ほんの一時でもいいから、万人を照らす月を自分一人だけのものにできないだろうか。
泰時は、大きなため息をついて、舟の縁にしゃがみこみ、澄んだ川の水を両手でひとすくいし、水に映る月をそっとその手に閉じ込めた。
御台所が幼い頃見た京の鴨川の水辺に映る月も美しかったとか。
将軍夫婦は、御所の縁側で、夜空に冴えわたる銀色の月を共に見上げながら、仲睦まじく語り合っていた。
そこから話が弾んだのか、実朝は、突然、御台所を連れて夜のお忍びに出かけたいと言い出した。
まだ日の出前に時鳥の初音を聞きに行ったり。
永福寺に御台所と一緒に夜桜を見に行ったり。
主君が、突然お忍びでのお出かけを強行することは実はよくあることだった。
「相変わらず、仲の良いご夫婦であることだ」
泰時の他に供をすることになった者達は、やれやれいつものことだと半ば呆れつつも、仲睦まじい主君夫婦の姿を微笑ましく見守りながら、支度を始めた。
「この間、三浦の海辺で見た月は格別だったが、あの時は御台はいなかったから。今夜は船を浮かべて、川辺に映る月を共に見よう」
実朝はそう言って、御台所に手を貸して同じ牛車に乗り込んだ。
実朝の瞳は、夜空に輝く銀色の月のように澄んでいた。
だが、月の光は万人を照らすが、実朝の瞳に映るのは、いつも愛する妻ただ一人だった。
泰時は、そんな主君を見るたびに、胸が締め付けられるように痛んだ。
主君夫婦が川辺に浮かべて乗った小舟に、警護のために泰時も同乗した。
「ちはやぶるみたらし川の底きよみのどかに月の影は澄みにけり。ここは本当はみたらし川ではないのだけれど」
実朝は、歌を口ずさんで御台所に語りかける。
「川の底が清らかなので、月の光は澄んでいるのだね。川の水のようにあなたが清らかで美しいから、月も澄んで輝いていられるのだよ」
サラサラと流れる川の音以外は何も聞こえない静寂のせいか、実朝が御台所の耳元でそっとささやいた言葉が、泰時の耳にも聞こえてきた。
月の美しさを女性の美しさにたとえるのが通常であるところ、川の澄んだ美しさを愛する妻に重ねて先に見たのが、実朝独特の感性であるともいえようか。
「まあ、そのようなことをおっしゃっては。私はどのようにお返ししたらいいのかわかりませんわ」
「御台は返歌をくれないそうだ。ならば、太郎。御台の代わりに、御台の気持ちになって詠んでみてくれないか」
夫婦だけの会話から、突然矛先を自分に向けられて泰時は大いに動揺した。
実朝の目はいたずらっ子のように輝いている。
(私の気持ちも知らないで。無邪気な顔で何と意地の悪いことをおっしゃるのか)
涙目になりそうなのを必死で堪えて、泰時は目を閉じて、主君の問いかけに思案する様子を見せた後、やがて歌を口ずさんだ。
「ちはやぶる神世の月のさえぬればみたらし川もにごらざりけり」
神の世から月が冴えて澄んでいるからこそ、みたらし川もにごらずにすんでいる。
月のように御所様が澄んでいらっしゃるからこそ、私もにごらずにいられるのですよ。
「私にとっては御所様こそが澄んだ月なのです。太郎殿、ありがとう」
「そう言われると、私の方も嬉しいような、恥ずかしいような」
微笑み返す実朝の瞳には、やはり御台所しか映っていない。
(聡明だが、こういうことには鈍い方だから。永遠に気づきはしないだろうな)
万人を優しく温かく照らす月の光のような実朝。その澄んだ姿があればこそ、泰時を始め、実朝を慕う多くの者達はにごらずにいられるのだ。
けれども、ほんの一時でもいいから、万人を照らす月を自分一人だけのものにできないだろうか。
泰時は、大きなため息をついて、舟の縁にしゃがみこみ、澄んだ川の水を両手でひとすくいし、水に映る月をそっとその手に閉じ込めた。
0
お気に入りに追加
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
夢占
水無月麻葉
歴史・時代
時は平安時代の終わり。
伊豆国の小豪族の家に生まれた四歳の夜叉王姫は、高熱に浮かされて、無数の人間の顔が蠢く闇の中、家族みんなが黄金の龍の背中に乗ってどこかへ向かう不思議な夢を見た。
目が覚めて、夢の話をすると、父は吉夢だと喜び、江ノ島神社に行って夢解きをした。
夢解きの内容は、夜叉王の一族が「七代に渡り権力を握り、国を動かす」というものだった。
父は、夜叉王の吉夢にちなんで新しい家紋を「三鱗」とし、家中の者に披露した。
ほどなくして、夜叉王の家族は、夢解きのとおり、鎌倉時代に向けて、歴史の表舞台へと駆け上がる。
夜叉王自身は若くして、政略結婚により武蔵国の大豪族に嫁ぐことになったが、思わぬ幸せをそこで手に入れる。
しかし、運命の奔流は容赦なく彼女をのみこんでゆくのだった。
首切り女とぼんくら男
hiro75
歴史・時代
―― 江戸時代
由比は、岩沼領の剣術指南役である佐伯家の一人娘、容姿端麗でありながら、剣術の腕も男を圧倒する程。
そんな彼女に、他の道場で腕前一と称させる男との縁談話が持ち上がったのだが、彼女が選んだのは、「ぼんくら男」と噂される槇田仁左衛門だった………………
領内の派閥争いに巻き込まれる女と男の、儚くも、美しい恋模様………………
ちはやぶる
八神真哉
歴史・時代
政争に敗れ、流罪となった貴族の娘、ささらが姫。
紅蓮の髪を持つ鬼の子、イダテン。
――その出会いが運命を変える。
鬼の子、イダテンは、襲い来る軍勢から姫君を守り、隣国にたどり着けるか。
毎週金曜日、更新。
射干玉秘伝
NA
歴史・時代
時は鎌倉、越後国。
鎌倉幕府の侵攻を受けて、敗色濃厚な戦場を、白馬に乗った姫武者が駆け抜ける。
神がかりの強弓速射を誇る彼女の名は、板額御前。
これは、巴御前と並び日本史に名を残す女性武者が、舞台を降りてからの物語。
烏孫の王妃
東郷しのぶ
歴史・時代
紀元前2世紀の中国。漢帝国の若き公主(皇女)は皇帝から、はるか西方――烏孫(うそん)の王のもとへ嫁ぐように命じられる。烏孫は騎馬を巧みに操る、草原の民。言葉も通じない異境の地で生きることとなった、公主の運命は――?
※「小説家になろう」様など、他サイトにも投稿しています。
父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし
佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。
貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや……
脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。
齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された——
※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
春暁に紅緋の華散る ~はるあかつきにくれなひのはなちる~
ささゆき細雪
歴史・時代
払暁に生まれた女児は鎌倉を滅ぼす……鶴岡八幡宮で神託を受けた二代将軍源頼家は産み落とされた女児を御家人のひとりである三浦義村の娘とし、彼の息子を自分の子だと偽り、育てることにした。
ふたりは乳兄妹として、幼いころから秘密を共有していた。
ときは建保六年。
十八歳になった三浦家の姫君、唯子は神託のせいで周囲からはいきおくれの忌み姫と呼ばれてはいるものの、穏やかに暮らしている。ひとなみに恋もしているが、相手は三代将軍源実朝、血の繋がりを持つ叔父で、けして結ばれてはならないひとである。
また、元服して三浦義唯という名を持ちながらも公暁として生きる少年は、御台所の祖母政子の命によって鎌倉へ戻り、鶴岡八幡宮の別当となった。だが、未だに剃髪しない彼を周囲は不審に思い、還俗して唯子を妻に迎えるのではないか、将軍位を狙っているのではないかと憶測を絶やさない。
噂を聞いた唯子は真相を確かめに公暁を訪ねるも、逆に求婚されて……
鎌倉を滅ぼすと予言された少女を巡り、義理の父子が火花を散らす。
顔に牡丹の緋色の花を持つときの将軍に叶わぬ恋をした唯子が選んだ未来とは?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる