賢君源実朝

shingorou

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第二章引き継ぎしもの

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   一
「千幡は千幡のまま、大きゅうなっておくれ」
 頼朝にとって幼い末っ子の千幡は、残していくのが気がかりな可愛い子であり、千幡にとっても父は偉大な為政者というよりも、慈愛深い大好きなととさまだった。
 だが、後を継ぐ頼家にとっては事情が全く異なる。
「さすが我が自慢の嫡男じゃ。頼もしいのう。後は頼んだぞ」
 父からそう託された時から、頼家は、いかなる時も武家の棟梁として強くあり続けよう、そう心に誓った。
 父頼朝の死は、遠い京の地においても、大きな影響を及ぼした。
 鎌倉将軍家と縁戚関係にある一条能保・高能は頼朝が亡くなる少し前に世を去っていたが、一条家の遺臣達が一条家の後ろ盾であった頼朝が亡くなったことで、主家が冷遇されることを恐れ、形勢挽回のために、今上帝(土御門天皇)の外祖父であり、当時朝廷で絶大な力を持っていた土御門通親を襲撃する事件が起きたのである。捕えられた後藤基清、中原政経、小野義成の三人がいずれも左衛門尉であったことから、三左衛門事件とも言われる。
 三左衛門は一旦鎌倉に護送されたが、鎌倉方は三左衛門の身柄を受け取らず、京に送り返した。三左衛門は、院(後鳥羽上皇)の御所に連行され、関係者と共に京方で処罰された。
「朝廷の処分に対応した措置をとるならば、後藤基清の相模の守護職は罷免すべきだと思うが。それで間違いないか」
 若き鎌倉殿頼家の適切な判断と問いに、中原広元(後の大江広元)は、満足そうに頷いた。
 それから間を置かずして、頼家は、広元の助言のもと、伊勢神宮領六箇所の地頭職を停止するとの命を発した。これは、伊勢神宮側に犯人逮捕権を認め、同神宮側に配慮した判断であった。
 しかし、その六箇所のうちの尾張国の一柳神宮荘園側の方から地頭を追い出し、地頭の取り分を押さえるという暴挙を起こした。
「父上が亡くなったことに乗じて、こうも次々と問題ばかりが起きるとは……」
 頼家は、深いため息をついた。
「右幕下が亡くなられたとたん、新たな利権を求めての濫訴が頻発しておりますな。些細な争い事で、お父君の後を継がれたばかりの若い御所様の負担にならぬよう、重臣達で予め案件の重要度を選別して御所様にお取次ぎするというのはいかがでございましょうか」
 広元の進言に頼家は深く頷いた。
「儂が父上の後を継いで立派な鎌倉殿になるには、父上を支え続けてきてくれた皆の力が必要だ。よろしく頼む」
「家臣一同、一丸となってお父君の時と同様、御所様の御世をお支えいたす所存」
 父頼朝の右腕であった梶原景時も若い主君に頭を垂れた。
 こうして、新しい鎌倉殿を支え、その訴訟取次の窓口となるための重臣達十三人が選出された。
 ただ、それに関連して、いくつかの懸念事項もあった。
 頼家には、未だ確固とした立場の正妻はいなかったが、事実上頼家の妻としての待遇を受けている者がおり、その中で辻殿と若狭局と呼ばれる二人の女性は比較的高い地位にあった。
若狭局は、父頼朝と頼家のめのとである比企氏出身で、昨年に頼家の長男一幡を産んでいた。十三人の重臣の一人、比企能員は、この若狭局の実父である。
 辻殿は、父方母方ともに源氏の血を引いており、若狭局よりも血筋はよかったが、実父足助重長は既に亡くなっていて後見の力が弱く、先に男子を産んだ若狭局の勢力に押されがちであった。頼家の父頼朝が存命であったならば、今後辻殿が男子を産めば、その子どもが頼家の跡取りとなり、辻殿が正妻となる可能性はあったであろう。
 だが、後見や出生の順序など現在の状況から、よほどのことがない限り、若狭局が生んだ一幡が頼家の次の後継者となるであろうことは確実である。それほどに、当時比企氏は強い勢力を持っていた。
 十三人の重臣の一人梶原景時もまた頼家のめのとであり、父頼朝の信頼が厚い人物だったが、同じめのと同士でも、景時と能員は仲が悪かった。頼家は、何かと外戚としての権勢を誇って勝手なことをしでかすおそれの高い能員よりも、教養が高く実務に優れた忠臣である景時の方を頼りにしていた。
 頼家の後見を巡る争いのおそれは、梶原氏と比企氏だけにとどまらなかった。父頼朝の異母弟の阿野全成は、頼家の母方の祖父北条時政の娘阿波局を妻としており、全成夫婦が千幡のめのととなり、北条氏が千幡の後見となっていた。
 景時の妻は頼家の母尼御台政子の信頼が厚かったから、頼家の後をゆくゆくは一幡が継ぐ流れとなったとしても、景時が比企の独断化を牽制しつつうまく均衡を保って父頼朝の路線を継承してゆくことができるならば、母政子もそれを了承するはずであった。
 しかし、何かと母政子に対抗しようと躍起になって分不相応な振る舞いを隠そうともしない祖父時政の後妻牧の方と、その影響を受けつつ自分自身も野心の強い時政が、それに納得するはずがなかった。
 十三人の重臣達の中には、一人だけ三十代後半で他の者達よりも若い、母政子の弟義時が入っていた。これは、比企一族の女性姫の前を正妻に迎えており、柔軟な穏健派の義時を通じて、比企氏との争いを防止しつつ、暴走するおそれのある時政と牧の方を抑止することを期待した母政子の意をくんでのことだった。
(若手を使っての宿老達に対する儂の対抗措置だと思われはしないか。だが、まだ若い小四郎叔父ならばじじ殿よりは話が分かるやもしれぬ)
 そう思った頼家は、思い切って自分の意見を義時に話してみることにした。
「父上の後を継いだ鎌倉殿としての儂の威光を下々にまで行き渡らせたいのだ。下々の者が儂の近習に礼を尽くすよう触れを出したいのだが」
 義時は、鎌倉殿としての気概をみせようとする若い甥の姿に目を細めながら言葉を返した。
「御所様の堂々としたお姿をお示しになるのは良きことと思いますよ」
「逆に、御所様の御威光を笠に着て、無法な振る舞いをする者がいないか、近習の者達の性質を見極める良き機会ともなりましょう」
 そう言って、臨席していた景時も賛意を示した。
 また、頼家は世代交代をきっかけとして、東国の荒野の開発についても意欲的な姿勢を見せた。
「土地が荒れて不作となり、年貢が減少しているなどと不満を申しているようだが。その原因は、領主の方が、荒野を水利のよい土地となるように開発する務めを怠ったからではないのか」
 若い鎌倉殿の鋭い指摘に、この件についての奉行を務める広元は感心した。
 それから間を置かずして、宿老達によって、更なる案件が頼家のもとに取り次がれた。父頼朝を奉る法華堂領の美濃国富永荘の領家が、地頭側の中条家長の不当性を訴えてきたのである。
 中条家長は、宿老の一人である八田知家の養子であったが、父頼朝の許可を得ずに任官したり、尊大な態度が原因で諍いを起こすなど過去に何かと問題行動を起こした人物でもあった。案の定、どう見ても領家側の主張に理があった。頼家は、宿老らの縁者であろうとも、それに肩入れすることなく、公平な態度を崩さなかった。
 若い鎌倉殿の果敢で堂々とした姿を目の当たりにしたある者は感嘆し、ある者は一種の恐れを抱くようになっていく。

   二
 頼家は、死の床に臥した妹を励ますように、必死の笑顔で言った。
「喜べ。そなたの院様への入内が内定したぞ。もうじき女御の宣旨が発せられるはずだ」
 兄の気遣いを感じた三幡は、苦しい息の中でも気丈さを崩そうとはせず、病床の中から、誇らしげな笑みを返した。
 しかし、千幡は、翡翠の数珠をぎゅっと握りしめながら、あふれる涙を堪えきれないでいた。
「泣かないの。男の子でしょ」
 いつもと変わらない様子で幼い弟を叱る三幡に、母の政子もまた、泣きながら三幡の髪を撫でている。
「千幡は、まだ小さいの。許してやってね」
 千幡は、涙を袖で拭って、姉に向かって精いっぱいの笑顔を見せて言った。
「三幡姉上。私はもう、泣き虫は終わりにします」
 千幡の大人びた様子に、三幡は満足しながら頷いた。
 正治元年、西暦一一九九年、六月三十日、三幡は、家族に看取られながら、父頼朝の後を追うように息を引き取った。

 七月になって、三河国で、室重広という男が強盗まがいの行為をして庶民が大いに迷惑しているとの報告が頼家のもとにもたらされた。
「そなたの父は三河守護であったな。様子を見て参れ」
 頼家は、安達景盛に命じたが、景盛はこれを辞退した。景盛は、この春、京から連れ帰って妾とした舞女と一時も離れたくないからだろうと近習達は噂しあっていた。
(馬鹿馬鹿しい。女一人のことで、職務怠慢もいいところだ)
 腹が立った頼家が、自分の家の領地の問題でもあるのだから、さっさと行くように命じると、景盛は不服そうな顔を残してしぶしぶながら鎌倉を出発した。
 そうは言っても、父譲りの色好みの若き貴公子頼家は好奇心が抑えられなかった。
(それほどのいい女なのか)
 頼家は、女に艶書を送ってみたが、一向に靡く様子を見せない。坂東一の若い権力者を頑なに拒む女の態度が憎らしくもあり、新鮮でもあり、ますます頼家の女に対する征服欲は高まって行った。とうとう、頼家は、近習に命じて、景盛の妾を無理やり盗み出させてしまった。
 若い権力者の無体な振る舞いに、顔を合わせた女は酷く震えて怯えてばかりいる。その様子が、一層いじらしくも哀れにも見えて男の本能をくすぐる。
「怖い思いをさせてすまなかった。だが、これも前世の縁だと思って諦めて儂のものになってはくれぬか」
 そう言って、頼家はそっと後ろから女の肩を抱きしめて耳元で甘くささやく。
 武骨で荒々しいだけの典型的な坂東武者である景盛とは違い、強引さの中にも優しさを感じさせる若い美貌の貴公子に、女は一瞬で堕ちた。その様子に満足した頼家は、更に女に優しく振舞った。
「こちらへおいで。可愛い人」
 心身ともに蕩けさせるかのような激しくも優しい頼家の愛撫に身をゆだねていくうちに、女は景盛のことなどすっかり忘れてしまった。
「お前をこれから何と呼ぼうか」
 生まれながらの貴人らしく、取ってつけた様子のない自然な感じで優しく語り掛ける頼家に対し、女はうっとりとしつつも、か細い声で言った。
「空蝉(うつせみ)と呼んで下さいまし。私の光る君様」
 身分が低いとはいえ、京の出の女であるだけに、それなりの教養はあるのだろう。光源氏に略奪された人妻に自分を例えてそう言った女の言葉に、頼家は笑いながら答えた。
「儂は源氏には違いないが、京とは違ってここは田舎だからなあ。儂は田舎源氏の中将じゃ。ははは」
 屈託のない頼家の笑みに、女の方もすっかり打ち解けた様子で笑い返した。
 空蝉が気に入った頼家は、そのまま御所にこっそり連れ帰ってますます可愛がった。
 
 事件の捜査を終えて鎌倉に戻って見れば、家に女の姿が見えない。これはどうしたことかと景盛が使用人達を問いただすと、あろうことか、自分が鎌倉を離れている隙に、女は主君に盗まれてしまっていた。
 大概の坂東武者というのは、自分が力づくで手に入れた土地への執着がものすごく、面子というものに異常に拘る。それは女に関しても同様だった。頼家にとっては貴人の風流事にすぎないが、坂東武者にその理屈は通用しない。粗野で短気な性格で典型的な坂東武者である景盛もまたその例に漏れず。
「よくも儂の女を盗りやがったな!御所様だからといって容赦しねえぞ!」
 外見をはばかることなく、景盛は声高に騒ぎ始めた。
 これを聞いた頼家の近習達も、「安達弥九郎があのようなことを言っております!これは謀反です!」と大袈裟に言い立て。それがあっという間に広まって、気づいた時には、「安達が謀反!御所様の御為にいざ鎌倉!」と言わんばかりに武者達が続々と集まり、鎌倉中はすわ合戦かという大騒ぎとなった。
 
 事態を聞きつけた母の尼御台政子が血相を変えてすっ飛んできた。
「これは一体どういうことですか!御所!」
(たかが女絡みでこんな大騒ぎになるなんて思ってもいなかったんだよ!)
 言いたいことはいろいろあるが、そのようなことを口にすれば火に油を注ぐだけだということが分かっているから、頼家は黙っていた。
「まあまあ。都のやんごとなきお方にも似たような例があり、そう珍しいことでもございません。そう、目くじらを立てることもありますまい」
 広元はそう言って頼家を庇ってくれたが。頼家を懐妊中に父の頼朝が浮気をした際、浮気相手の女の家を壊して鎌倉中に知れ渡る大喧嘩を繰り広げたこともある気の強い母が、広元の言葉に納得するはずがない。
「ここは京ではありませんよ!もともとは、他人のものに手を出すという御所の不行状が招いたことではありませんか!三幡が亡くなったばかりだというのに、さらにこの母を泣かせるおつもりですか!」
 母にこっぴどく叱られて、さすがにガックリと来た頼家は、いつにない気弱な様子で景時に愚痴った。
「馬鹿なことをしたとそなたも思っているのであろうな」
 景時は、首を横に振って至って冷静な様子で答えた。
「馬鹿なのは御所様ではなく、坂東の男達の方です。奴らは、実に小さなものに執着し、欲望の赴くままに動く獣(けだもの)と同じです。しかし、獣ゆえに、何をしでかすか分からず、一旦暴れ出したら抑えようがない。それゆえに、油断がならないのです。今後、くれぐれもお気を付けください。」
 父頼朝の右腕として辣腕を振るってきた景時の言葉だけに、重みが感じられ、頼家は深く頷いた。

 兄の艶聞を噂で聞いた千幡は、感情的に母の味方をしたい気になった。父頼朝の果敢な姿を見ながら期待された嫡男として育てられた兄頼家と、年の離れた末っ子として周囲に慈しまれ純粋培養な環境で育てられた千幡とでは、物事の感じ方が全く異なる。
 千幡は、ある時、子猫を追いかけて、頼家が空蝉の女を住まわせているあたりに近づいてしまった。
 頼家は、髻を紫色の紐で結わえた千幡よりも三つか四つくらい年上の美少年と戯れていた。
「三郎、可愛い奴だ」
「ああ、御所様、お許しください」
 頼家と三郎と呼ばれた美少年は服がはだけて乱れかかっていた。頼家は三郎少年を後ろから抱きすくめ、唇と唇を突き合わせていた。
 幼い千幡には、まだ性的な詳しい知識はない。
 だが、何か見てはいけないものを見てしまったと直感した千幡は、急いでその場を立ち去った。
兄頼家には既に多くの女人が側におり、長男一番が誕生している。そのうえ、他人の恋人まで奪い、少年とも戯れていた。
(三幡姉上が亡くなったばかりなのに!兄上は、何て不実な人なんだろう!)
千幡の中で、兄への反抗心が湧いてきた。
自分だったら、きっと、縁があって一緒になったたった一人の妻を大事にして、いつまでも仲良く暮らすのに。
仏さまのお使いからもらった翡翠の数珠をぎゅっと握りしめて、千幡はそう思った。

 一方で、いつまでもくよくよするような性格でもない頼家は、気を取り直して、自分の務めを果たすべく邁進していく。
 高野山領である備後国大田荘は、宿老三善康信が地頭を務めていたが、領家側が地頭改補を要求してきた。その際にも、頼家は、大田荘が平家没官領(平家が没落・滅亡した際に没収された領地)であり、父頼朝によって三善康信は謀反人の跡に補任された正当な由緒を持っていることを理由として、領家側の主張を退けた。父頼朝の決定をもとにした、筋の通った判断である。
 また、頼家は、父頼朝と同様、朝廷とも良好な関係を維持しようと努めた。その一環として、怠慢になりがちな京都大番役の務めをきちんと果たすよう、諸国の守護らに厳命を下した。
 頼家は、鎌倉殿としての威厳と強さを印象づけるよう振舞うことが多かったが、他方で、身体能力が高く、活発で気さくで親しみやすく、若い者達の間でも人気が高かった。
 永福寺に出かけた際のこと。蹴鞠をしようと計画していたが、残念ながら雨がひどく降り出してしまい、蹴鞠をする際の晴れやかな装束が台無しになってしまうため、中止することになった。その代わり、頼家は宿老の一人和田義盛邸に立ち寄り、勇敢な若者たちを集めて、泥んこになるのも構わず、相撲の勝負をみんなと楽しんだ。
 それが、これから起こる大嵐の前の束の間の穏やかな時間であることを、まだ誰も知る由もなかった。

   三
 それは本当に何気ない一言に過ぎないはずだった。
「御遺言で家臣達の出家を禁じられたとはいえ、あれほど御恩を受けた右幕下がお亡くなりになった際に出家しなかったことが悔やまれる。忠義者は二君に仕えずというではないか。これからの政局はどうなるのだろうか」
 亡き主君頼朝を慕う気持ちとともに、頼朝の死によって有力御家人間の均衡が崩れて派閥争いが表面化しそうな状況下の中で、結城朝光はつい愚痴のような言葉を吐いてしまった。その言葉を耳にした梶原景時は、眉根をしかめて厳しい顔つきで言った。
「故右幕下をお慕いする気持ちから出た言葉とは言え、不謹慎ではないか。不安な状況だからこそ、家臣達が一丸となって、故右幕下の跡を継がれた若い御所様をお支えせねばならぬというのに。二君に仕えずなどと、あれでは父君にはお仕えできても、御所様にお仕えすることはできぬと受け止められかねん」
 景時としては、朝光に言動には気を付けるよう厳重注意をしたにすぎない。
 だが、それを利用して一波乱起こそうという者がいた。
「結城七郎殿も御気の毒なことだ。梶原平三殿が、二君に仕えずとは御所様への謀反であると申しているそうだ。このままでは、いずれ結城殿も謀反人として討たれるだろう。そなたは、御所女房として顔も広い。結城殿に、誰か親しい者に相談してこの危機を乗り切った方がよいと教えてやってはどうか」
 阿野全成は、妻の阿波局にそうささやいた。
 全成は、頼朝の異母弟であり、妻の阿波局は北条時政の娘で、尼御台政子の妹であった。この夫婦は、頼家の同母弟千幡のめのとを務めていた。
 全成は、次々と頼朝によって他の兄弟達が粛清されていく中で、頼朝の信頼を勝ち取り、唯一生き残っただけあって、強かな男であった。頼朝が生きている間は大人しいふりをしていたが、頼朝が亡くなった今、末子千幡のめのとであることを利用して、己の勢力拡大を図ろうと目論んでいた。
 政治的なことがよく分かっていない阿波局は、同情心から、夫のいうとおりに結城朝光にそのことを伝えた。
(あの平三ならそれくらいのことはやりかねない!)
 阿波局の言葉を聞いて、結城朝光は真っ青になり、親友である三浦義村に相談した。
「梶原平三という奴は、故右幕下の権威を笠に着て、何て卑劣な奴だ!何とかしてやりたいが、若手の儂一人ではその力はない。だが、平三に恨みを持つ輩はたくさんいるからな。父上に相談して、みんなで力を合わせて平三の不当性を訴えれば、きっと何とかなる!いや、大事な友のためだ!何とかしなきゃならん!」
 義憤にかられた義村は、親友のため一肌脱ごうと、宿老の一人である父三浦義澄に話を持ち掛けた。そこからどんどん話が大きくなっていく。
 比企能員は、梶原景時同様に頼家のめのとであるが、娘若狭局が頼家の長男一幡を産み、いずれ次の鎌倉殿の外祖父として権勢を独り占めしたい能員にとっては、景時の存在が邪魔で仕方がない。これは景時を追い落とすよい機会だと考えた能員は、景時を糾弾する同志を募った。
 三浦の親族であり、和田義盛には、景時に侍所長官の座を奪われた恨みがあった。それだけでなく、一本気で直情的な義盛には、景時の行いが、些細なことを理由に多くの者を粛清してきた情け知らずで卑劣なものに思えたのであろう。沈着冷静な切れ者の景時と、情に厚い典型的な坂東武者の気質を持つ義盛は、もともとそりが合わなかった。若手の義村、義村の父義澄に同調して、義盛も景時糾弾に名乗りを上げた。
 比企、三浦、和田らに続き、景時に恨みや不満を持つ有力御家人達が景時糾弾に名を連ねていった。
 事態を知った北条一族でも、対応を迫られていた。
「何故このような大事(おおごと)になっているのか!梶原殿は、確かに様々な厳しい処置をされてこられたが、それはすべて右幕下のご命令があればこそ。私心によって動く方ではありませぬ。まして、若い御所様をお支えせねばならぬこの時に、些細な発言を理由に結城殿を謀反人として処罰してことを荒げるような真似を、冷静な梶原殿がなさるとは思えぬ!」
 まずは、景時糾弾のもととなった、景時が結城朝光を謀反人にしたてあげようとしたという事実の真偽自体を確かめるべきであると義時は主張した。
「これだけ多くの者が名を連ねておるのだぞ!今更そのような悠長なことは言ってはおれんのだ!問題は、我が北条が、他の宿老達と共に梶原糾弾に名を挙げるかどうか。その一点のみじゃ!」
 父時政は、息子の反論を遮って、焦ったようにまくし立てた。そこに、娘婿の阿野全成が口を挟んできた。
「梶原殿は、夫婦で御所様のめのとも務められ、尼御台様のご信任も厚いお方です。尼御台様の御心を慮るならば、北条は糾弾状に名を連ねず、あくまで中立の立場を保って、ここは静観して様子を見るのがよろしいのではありませんか」
「確かに、それが一番無難であろう」
 当主である時政が全成に賛意を示したことによって、北条の方針は決まった。
 梶原景時への糾弾状を見せられた広元は、ひどく戸惑った。景時は亡き頼朝の命で時には厳しい処断をしてきたが、冷静な彼がこの時期に私心で自ら世を騒がせるだろうかと広元もまた疑問に思わずにはいられなかった。  
 しかし、義憤に駆られた和田義盛に、広元の考えは通じない。
「ここまで、多くの諸将が訴えておるのだぞ!それを無視するとは、おかしいではないか!ともかく御所様にこの糾弾状をお見せして、ご判断を仰ぐべきである!」
 ここで自分の独断で無視したならば、糾弾状に名を連ねた多くの有力御家人達は黙ってはおらず、頭に血がのぼって返って大勢で何をしでかすか分からない。事態の深刻さを悟った広元は、頼家に景時への糾弾状を提出した。
 
 事態を知った頼家は驚愕した。
「弁明があるならば聞く。申したいことがあるならば何か申せ!」
 何かの間違いであることを願いながら、評定の場で頼家は景時に言った。
「この身に恥じることは何一つございません!儂への糾弾状は、むしろ、御舎弟千幡君を次の後継者に担ぎ上げようとする千幡君のめのとである北条殿の陰謀に相違ありませぬ!」
 景時の言葉に、名指しされた時政は烈火のごとく怒った。
「聞き捨てならぬ!我が北条は、事の真偽を確かめるまではと、あくまで中立を保って名を連ねなかったのだぞ!このような言い草をして主筋の千幡君を貶めようとするお主こそ、謀反人ではないか!」
 いつもの冷静さを欠いて声を荒げて時政の怒りを誘発させるような景時の物言いを聞いた頼家は何かがおかしいと感じた。
「もうよい。平三言葉が過ぎよう。じじ殿も落ち着かれよ。他に言うことはないのか、平三」
 景時は、開き直ったような様子で言葉を返した。
「こうなった以上、どうとでもなさるがよろしかろう。されど、この梶原平三、たとえどこにいようとも御所様への忠義だけは捨てたりはせぬ!」
 景時の言葉に、「この期に及んで何を抜かすか!佞臣が!」などの怒号が次々と飛び交った。
「無念である。正式な沙汰は追ってするゆえ、下がれ」
 そう言って、頼家は景時を下がらせた。
 間を置かずして、景時は、一族を連れて、自らの領地のある相模国一ノ宮に退いた。
(平三の真意はどこにあるのだ)
そう感じた頼家は、景時への糾弾状が差し出された経緯を丹念に探ることにした。
(結城七郎の物言いを平三が咎めだてしたのは事実だ。しかし、平三はそのことをもって結城を謀反人に仕立て上げようとまでは考えていなかった。結城の方が平三の過去の振る舞いから、自分が標的になると思い込んで焦ったと考えるべきか。平三が結城を謀反人にしようとしていると言ったのは阿波局だ。女人である阿波局に深い考えがあるとは思えん。とすれば、北条のじじ殿が裏で糸を引いているとも考えられるが。評定の場でのじじ殿の慌てようからすると、北条は本当に糾弾状に名を連ねるつもりがなく様子を見るつもりだったようだ。母上の立場に近い小四郎叔父には平三を糾弾する理由がない。ならば、誰か)
 頼家は、評定の場で、景時が彼らしからぬ言葉を言った意味を考えた。
(確かに、一幡の世となって外戚の比企が力を持てば、北条のじじ殿は面白くなかろう。将来的に比企と北条が対立するおそれがないとはいえない。だが、今はまだそれほどの状況にはなっていない。なのに、平三はあの場で、千幡のめのとである北条が千幡を担ぎ出そうとしていると言って、じじ殿をわざと怒らせた)
 そこまで考えて、頼家ははっとなった。
(全成叔父か!全成が妻の阿波局を使って、平三が自分を陥れようとしていると結城に思い込ませて事が動くように仕向けたのだとしたらすべてのつじつまが合う。だが、今の段階では確たる証拠はない。下手に動けば、余計な争いを生じさせて、千幡や母上を巻き込むことにもなりかねん)
 正式な処分がなされる前に、梶原一族は一ノ宮に退いたが、景時の三男景茂はまだ鎌倉に残っていた。
「平三はこれからどうするつもりなのだ」
 頼家は景茂を呼び出して問うた。
「父は、縁者を頼って都に上り、朝廷にお仕えしながら、御所様を陰からお守りしたいと、そう申しておりました」
 景時と影茂の言葉に嘘はなかろうと頼家は思った。
 間もなくして、正式に梶原景時を鎌倉から追放する旨の処分が言い渡された。
 
 年が明けて正治二年、西暦一二○○年。梶原景時が一族を連れて上洛しようとしているとの報がもたらされた。
「この大雪ですぞ!」
「梶原一族が謀反を企てて上洛しようとしているこの時期に危険です!」
 正月十八日。家臣達が口々に言うのも聞かず、奥州合戦から凱旋した父頼朝が雪の中大庭野に狩猟に出かけた例を持ち出して、頼家は、鎌倉殿になって初めての狩りに出かけた。
(全成がじじ殿を動かして一件に絡んでいるのなら、北条の領地の近くで何か動きがあるはずだ。すまん、平三。今の儂にはそなたに何もしてやれぬ。せめて、無事に都にたどり着いてくれ)
 頼家は、祈るような気持ちだった。
 その数日後、梶原一族は、北条時政と阿野全成の領地のある駿河国において、在地の武士達と戦闘となって討ち死にした。
 報告を受けた頼家は、部屋で一人になると、ぎゅっと瞼を閉めて涙を堪えた。
(一幡を守るために比企の力は必要だが、あやつらは、私心で動くことのなかった平三とは違う。比企が専横化の動きを見せれば、北条のじじ殿は黙ってはいまい。結局、儂は一人だ。今以上に強くなるしかないのだ)
 悔いたところで後戻りはできない。頼家には、自らを何とか鼓舞して突き進むしか道は残されていなかった。

   四
 梶原景時が討死してから、その縁者が関与した事件が頻発するようになる。頼家は景時の忠心を信じていたが。
 それでも、梶原景時が謀反人として討伐された以上、それに関連する事件に関しても、厳粛な措置をとらざるをえなかった。父頼朝と景時が頼家による継承を守るために疑いがあれば容赦のない粛清をせざるをえなかったのと同じ道を頼家もまた進まざるをえなかった。
「よきかな、かあ。いい名前だなあ。善哉(ぜんざい)。そなたはきっと、よい子に育ってくれる」
 千幡は、頼家と辻殿との間に生まれた次男善哉の顔を覗き込みながらはしゃいでいた。父頼朝が亡くなって以来、急に大人びてきた印象を受けるが、嬉しそうに赤子の甥の顔を覗き込んで語りかけている様子からは、まだまだ無邪気な子どものようにも見える。生まれたばかりの我が子とまだ幼い童の部類に入る弟の様子を見て、頼家は複雑な思いに駆られる。
 景時が指摘したとおり、千幡の後見を務める叔父阿野全成や祖父北条時政はいずれ、千幡を後継者として立てようと動き出し、いずれ、頼家や頼家の息子達との争いが生じることになるかもしれない。
 だが、北条は頼家の母政子の実家でもあり、千幡は、大姫と三幡を亡くした頼家にとっては、同じ両親を持つ、たった一人の血のつながった弟なのだ。頼家自身があるいは目の前の赤ん坊の我が子が、いつか我が弟を手にかけねばならない呪われた未来がやってくるのであろうか。歳の近い甥と戯れているまだ幼い弟の様子を見て、未来永劫そのような事態が起きないでほしいと頼家は願わずにはいられなかった。

 鎌倉殿となった頼家は、蹴鞠と狩猟を頻繁に行っている。もともと頼家は身体能力が高く、部屋の中でじっと書物を読むなどの勉学よりも、外で活発的に動き回るのを好んだのもあるが、それだけではなかった。
 蹴鞠は、武家の頂点に立つ頼家が朝廷と繋がりを持つのに重要な手段であった。狩猟は、武家の棟梁としての威光を示した軍事訓練、偵察の面も持っていた。頼家は、蹴鞠を通じて朝廷側の動きを、狩猟を通じて坂東武士達の動きを探っていた。
 頼家は、多聞という老雑色を呼んだ。彼は、母の尼御台政子が父頼朝の妻となる前、まだ片田舎の豪族の童女に過ぎなかった頃から仕えており、母が父の妻となってからは、両親の手足となって諜報活動を行っており、父が亡くなってから頼家付きとなった。
 頼家が多聞に探るように命じたことは、場合によっては母政子に内容が伝わるかもしれない。
 だが、頼家はそれでよいと思っていた。
 頼家の跡を継ぐことになるであろう長男一幡の後見として、外戚の比企の力は不可欠である。
 しかし、若く力不足の自分では、比企の専横化を抑えることができず、比企の力に取り込まれてしまい、それが、母政子の実家北条と比企との間の対立を激化させることになるかもしれない。頼家はそのことをよく理解していた。頼家の周りの動きを母が知ることで、逆に母によって北条と比企との均衡が保たれることを頼家は密かに期待してもいた。
 頼家の見るところ、その北条も必ずしも一枚岩ではない。祖父時政及び後妻牧の方と、母政子や母に近い立場の叔父義時との間には、北条家自体の後継も絡んで確執があった。弟千幡のめのとである父方母方双方の叔父阿野全成が、千幡を利用して自らの勢力拡大のために、祖父時政との結びつきを深めようとしていたならば、母は千幡を守るためにどうするのか。それも知らなければならなかった。
 その北条時政は、頼家によって、従五位下駿河守に叙され、諸大夫身分に列せられた。それは、十三人の宿老の中に、比較的若い叔父義時を入れ込んだのと同様、母政子の意向を受けての時政が暴走することを抑止するための一種の懐柔策でもあった。
 しかし、未だ一階級下の侍身分で、家格の上で北条に先を越された比企能員は黙ってはいなかった。
「お世継ぎ一幡様を御世話申し上げている、我ら比企をないがしろになさるおつもりか!」
 能員の横やりに頼家は冷めた表情で言い返した。
「儂は、比企だけを格別に扱うつもりはない。北条四郎は、儂のじじ殿に当たる故、礼を尽くしたまでだ」
 それから間を置かずして、比企能員の息子で、頼家の近習である比企時員の家来達が、専修念仏を主張する私僧らとひと悶着を起こした。
 頼家は、以前、鎌倉殿としての威光を示すために、庶民に対して、頼家の近習らに礼を尽くすようにとの触れを出していた。それに背いて、時員に対して礼を取らなかったことに腹をたてた時員の家来たちが、坊主達の衣を引き裂いて燃やすという暴挙に出たのである。
 法然が広めた専修念仏の教えは、鎌倉を中心とする坂東にも広まっており、熊谷直実のように有力御家人の中にも浄土門の教えに帰依する者も少なくなかった。
 法然自身は、京の上級貴族達とも深い付き合いがあり、学識高く、良識的で穏健な人物であったが、専修念仏を唱える末端の私僧の中には、粗野な無法者も少なくなかった。秩序維持のため、場合によってはそういった者達を為政者として取り締まるのはある意味当然のことであった。
 だが、頼家は、末端の私僧などよりも、外戚の威光を笠に横柄な態度を取る比企一族の動きこそ、注意せねばならないと感じていた。

 自らの責務を果たそうと努めている頼家であるが、それでも若さゆえに、ときには短気を起こしてしまうこともあった。
 頼家に取り次がれる訴訟は、頼家の負担になりすぎないようにと重臣達によって、予めある程度選り分けされているのであるが。それでも、代替わりに乗じて、父頼朝時代よりも自らに有利な決定を得ようとの訴えが頻発していた。
 陸奥国の神社を巡る境界争いの件でのことだった。他にも多くの案件を抱えている上に、事案の複雑さに、頼家はついイライラしてしまった。
「父上がお決めになったことを覆そうと、勝手な訴えばかり起こしおって!ええい!そんなに決めてほしければ、こうしてやる!土地の広い狭いは運しだいだ!それが嫌なら今後つまらんことで揉め事を起こすな!」
 そう言って、頼家は、差し出された絵図の境界線付近に、筆で適当に線を一本入れた。
「御所様、お腹立ちは分かりますが……」
 遠慮がちに頼家を宥めようとする叔父の義時に対し、頼家ははっとなった。
「すまん、つい。分かっておる。むろん、現地に調査を派遣してきちんと調べてから、最終判断を致すゆえ」
 頼家は、後日、この件も含め、奥州に派遣した調査の結果を踏まえて判断を下し、地頭の権限につき、頼朝時代の慣例に従うように命じている。
 続いて、佐々木経高が、朝廷の警備を怠ったばかりか、京で略奪を行ったり、阿波国の国司の取り分を横取りするなどの横暴を繰り返し、院が激怒しているとの報がもたらされた。
「佐々木中務丞の過去の功績はなかなかのものですし。お父君のお許しになった権限をそう容易く取り上げるのはいかがなものかと」
重臣達の中にはそのようなことを言う者も多く、審議は長引いた。
 だが、頼家は、きっぱりと言った。
「過去にどれだけの功績があったとしても、院様の御心をわずらわせるほどの職務怠慢と横暴を見過ごすわけには行かぬ!父上が生きておられたとしても、決してお許しにはならぬであろう!」
 様々な意見があったが、最終的に重臣達は筋の通った頼家の意見に従った。佐々木経高は、守護職を停止させられ、領地を没収された。

 まつりごとのことであれこれと頭を悩ませることの多い頼家にとって、外でみんなと何かをするのは、よい気分転換にもなった。
 小坪の海辺に出かけた折の話である。
 笠懸の後、みんなで船の上で酒を楽しんでいたところ。頼家は、和田義盛の息子義秀が水練が得意であったことを思い出し、戯れに、海に潜って見ろと命じた。
「かしこまりました!」
 義秀ははりきって返事をした後、そのまま海に飛び込んだが、なかなか顔を見せない。
「溺れてしまったのではないのか!」
「おい、大丈夫か!」
 心配になった頼家と他の家臣達は、口々にそう言い、救助の準備を始めていたところ。
「お待たせいたした!」
 そう言って、義秀は、刺殺してまだ息のある鮫三匹を持ち帰って来た。
 頼家は驚きつつも、ひどく感心して言った。
「大した奴だ!褒美に儂の名馬をやろう!」
 義秀は大いに喜んだが、これに対して義秀の兄の常盛が文句を言った。
「その名馬は儂も欲しい!水練では弟には適わぬが、相撲ならば儂の勝ちじゃ!」
「それならば、馬は相撲で勝った方にやるとしよう」
 頼家は、笑ってそう言った。かくして、名馬を巡っての兄弟での相撲対決が始まった。
 義秀と常盛はがっつり組み合ったまま、互角の様相を見せており、なかなか勝負がつかない。
「ここは引き分けでいいじゃありませんか」
 酔ったふりをした北条義時がそう言って勝負を終わらせようとしたところ。
 常盛は、素っ裸なままいきなり頼家の乗って来た名馬の方に一目散に走って行き、そのまま馬に乗ってどこかへ行ってしまった。
「兄者め!とんずらしやがった!儂の馬が!」
 地団太を踏んで悔しがる義秀の姿を見た頼家や周りの者達はみな大笑いだった。
 若い頼家の周りは活気に溢れていた。頼家は、みんなで様々な催し物を楽しむことを通して、派閥争いによる緊張を緩めようと考えていた。
 浜の御所へ行ったある時のことである。
 祖父の北条時政が張り切って酒の席を用意し、和田義盛、小山朝政、三浦義村ら多くの御家人達が集っていた。その中に、工藤行光という馬術の名手がいた。
「そなたには勇猛な家来がいると聞いているが、顔が見てみたいので、連れて来てくれないか」
 頼家は、行光に気さくに声をかけた。
 行光は、主君の仰せとあらばと自宅に戻って、衣装を着替えさせて家臣達を連れて戻って来た。みななかなかに勇敢な面構えをしていた。その様子がすっかり気に入った頼家は、行光の家来を直臣に取り立てたいと申し出た。
 行光は、頼家の言葉をありがたいことだと謝意を示しつつも、控えめに言葉を返した。
「彼らはみな、亡き父と戦場を共にしており、父は何度も彼らに命を救われました。御所様には、多くの勇猛な方々がお仕えしていらっしゃいます。ですが、儂が頼りにできる家来は、彼ら三人だけなのです」
 頼家は、行光の謙虚さと彼ら主従の深いつながりに感動した。
(彼らのように心から信頼し合える者が儂には幾人いるだろうか。羨ましいことだ)
 同時にそのような思いが浮かんで来て、頼家は、少し寂しい気になった。

 叔父阿野全成への警戒を強めていたこともあってか、頼家は、全成がめのとを務めている弟の千幡としばらく顔を合わしていなかった。
(元気にしているだろうか。たまには顔を見に行ってやるか)
そう思った頼家は、千幡のもとへ足を運んだ。
 千幡は、和漢朗詠集などの教材をそばに置いて、いつものように大人しく一人で手習いに励んでいた。
「都府楼はわずかに瓦の色をみる、観音寺はただ鐘の声を聞く……」
 詩文を読み上げるまだ童の年齢の愛らしい弟の声が聞こえてくる。
(誰の詩だったかな。儂も千幡くらいの時に一応学んだはずだが。儂は、千幡と違って勉強が嫌いで、隙を見つけては外に遊びに行ってたからなあ)
 頼家は苦笑しながら、千幡に声をかけた。
「おのこなら、少しは外で遊んだらどうだ。今日は天気もいい。ついて来い」
 頼家はそう言って、気乗りのしない千幡を半ば強引に連れ出した。
「ほら、お前もやってみろ」
 そう言って、頼家は千幡に蹴鞠用の鞠を渡した。
 身体能力が高い兄とは違って、運動の得意ではない千幡は、何度やってもうまくいかない。
 短気な頼家は、弟の鈍くささに苛立ってつい言葉を荒げてしまった。
「下手くそめ!」
 頼家の言葉に、千幡は涙を堪えてぶすっとしたふくれっ面のまま俯いてしまった。
(蹴鞠の目的は楽しむことにあるんじゃないのか。怒るくらいなら最初から私を連れ出したりなんかしなければいいんだ)
 短気な兄のことだ。このようなことを口に出せば、余計逆上させるだけだ。だから、千幡は黙っているのだが、心の底では、兄への反発が沸き上がっていた。
「誰でも最初からうまくいくわけではないのは当たり前ではありませんか。ましてや、千幡様はまだ小さいんですから」
 叔父の五郎時連はそう言って頼家を嗜め、千幡を庇った。
 大人たちが軽快に鞠を蹴り上げていく。
「わあ!すごいなあ!」
 兄に怒鳴られて少し意固地になっていた千幡であるが、鞠が連続して優美に舞い上がる姿をみて、思わず歓声をあげた。
 子どもらしい千幡の明るい笑顔につられるように頼家も笑みを浮かべながら、僧侶姿の蹴鞠仲間を紹介した。
「大輔房源性だ」
「儂は蹴鞠だけでなく、算術の達人でもあり、弘法大師様を超える書の達人でもあるのです!」
 自慢げにそういう源性に対し、千幡は目をきらきらさせた。
「さてな。大ぼら吹きの似非坊主だからな、こやつは」
 頼家の言葉に、みなが大笑いした。
「儂は、部屋に籠って学問何ぞ真っ平ごめんだがな。お前にはちょうどよかろう。いろいろと教えてもらうがよい」
 それ以来千幡は、兄頼家とは反対に、源性の話す書物や算術に打ち込むようになった。
 その源性に命じて、頼家は諸国の大田文(国単位での荘園・公領の田地面積、所有関係などを調査した土地台帳)を取り寄せて算勘させている。これをもとに、頼家は、五百町を超える田地を持つ富裕武士から、その余剰分を無足の士すなわち弱小武士に分け与えて、生計の途を図ることを提案した。
 だが、残念ながら、既得権益を侵されることを嫌がった宿老達に反対されて、この政策は実現されなかった。
 とはいっても、以前に荒地の開発を命じたように、土地政策に積極的な頼家は、何度も大田文の調進を命じており、このことは、不作時の年貢の徴収方法の決定等その後の政策の基礎となり、大いに役立ったものと推察する。
  
   五
 正治三年、西暦一二〇一年。
 頼家に、三男千寿が誕生した。生母は、頼家の側室の一人、一品房昌寛の娘である。彼女は、勢力と後見においては若狭局、家柄と血筋においては辻殿と大きな差があり、頼家の妻妾の中での序列は低かった。
 頼家の居室には、頼家、政子、千幡、そして頼家の三人の息子達が集まっていた。
 千幡は、嬉しそうな顔で、一幡の遊び相手をしていた。
「善哉もこっちへおいで」
 千幡は、善哉に優しく手招きをした。
 善哉は、おぼつかない足で、叔父と兄のもとに行こうとする。
 しかし、何せ、よちよち歩きの幼児だったから、足がもつれて盛大に転んでしまった。善哉は、痛さのあまり、泣きだしてしまった。
「大丈夫だ、痛くない、痛くないよ」
 そう言って、千幡は、善哉を助けて抱き上げようとした。
 その時だった。突然、頼家が大声で怒鳴った。
「余計なことをするな、千幡!甘えるな、善哉!お前は、男、ましてや武家の棟梁の息子だろうが!さっさと一人で立て!」
 まだ赤ん坊の範疇に入る善哉に、父の言葉の意味など分かるはずもない。善哉には、ただ、鬼の面のように恐ろしい顔の父が何か怒って叫んでいるとしか思えなかった。
 父の大声で目が覚めた千寿は、火が付いたように祖母の腕の中で大声で泣き出した。父の形相にびくっと怯えた一幡も、しくしくと泣き出してしまった。善哉も、へたり込んだまま、ますます大声を張り上げて泣いている。頼家の部屋には、幼い兄弟三人の大合唱が響き渡った。
「まだいとけない我が子に、何と恐ろしい。悪いととさまじゃ」
 腕の中の千寿をあやしながら、政子は、頼家に批難の目を向けた。頼家は、バツが悪そうな不愛想な顔をしてますます大声で怒鳴った。
「お前ら、喧しいぞ!」
 これではどちらが子どもか分からない、千幡はそう思った。同時に、千幡の中で、またもや兄に対する反抗心が湧いてきた。
 生まれた時から期待された世継ぎとして育てられた兄頼家は、自分にも他人にも厳しく、強い人だ。
 だが、それだけに、兄は、弱い者の気持ちを考えたことがあるのだろうか。せめて、まだ幼い間は、無条件に我が子を抱きしめてやる、それが親の情愛というものではないか。今は亡き慈父頼朝が、千幡に対してそうであったように。
 千幡は、善哉の膝と頭を撫でて立ち上がらせ、善哉と一幡を両手に抱き留め、子どもらしくないやけに落ち着いた様子で、兄に対して言った。
「武家の棟梁の御子といえども、皆まだ幼く言葉もよく分からぬというのに。一人で立てと言われても、誰かの力を借りねば立てぬ者もいるのです」
 頼家は、ますます不貞腐れた様子で怒鳴った。
「ふん。そのような軟弱者は、我が子にあらず。勝手に一人で朽ち果てていくが定めよ!」
(どうして、この人はこうも天邪鬼なんだ!)
 千幡は、呆れ返った。
「心にもない情け知らずのことをおっしゃいますな」
「お前は、餓鬼のくせに、坊主のように説教臭い!」
「二人とも、兄弟喧嘩はもうそれくらいにしておきなさい」
 政子は、兄と弟を宥めるように言った。

 また、頼家は恋多き男だった。頼家が愛した女の中に、愛寿という遊女がいた。華やかで大変美しい容姿の女だった。頼家はしばしば彼女を呼び出しては、楽しいひと時をすごしていた。
 江の島明神参拝の帰りの日のことである。頼家は、家臣達を労うため、美しい遊女たちを招いて宴会を開いていた。
「今日は愛寿の姿が見えないが。どうしたのか」
 ほろ酔い加減の頼家が問うと、愛寿の遊女仲間が答えた。
「愛寿は、あいにく体調がすぐれないようでして」
 遊女仲間の言葉に、頼家は心底がっかりした様子を見せて言った。
「それは、残念だな。見舞いに何か贈ってやらねば」
「今日は、代わりに私たちが心を込めてお相手いたしますわ」
 女達は、若い美貌の貴公子をうっとりと眺めながら、競って相手をしようとする。育ちのいい頼家は、女達の影でのたくらみに気づくことなく、夜を明かした。
 次の日の朝、頼家のもとに、突然愛寿が髪を降ろしたとの報がもたらされた。
「よほどの重い病であったのか!」
 これはどうしたことかと大変驚いた頼家は、豪華な見舞いの品とともに、愛寿の消息を尋ねた。その時、頼家はようやく真相を知ったのである。
 愛寿は、病で来れなかったのではなく、頼家が愛寿ばかりを寵愛することを妬んだ遊女仲間に頼家の元へ行かれないよう仕組まれたのだ。愛寿は、自分だけ頼家から呼ばれないことにひどく傷つき、悲しさのあまり世をはかなんで出家してしまったのである。
「知らなかったとはいえ、儂が悪かった。戻って来ておくれ」
 頼家は何度も懇願したが、愛寿の決心は変わらなかった。
「賤しい女の身にも、誇りというものがございます。この身を憐れと思ってくださるなら、どうかそのことだけはお忘れくださいますな」
 そう言って愛寿は頼家からの贈り物をすべて寺に寄進して行方をくらませてしまった。
 これまで一度も女に拒否されたことのない若い貴公子の頼家にとって、初めての手痛い失恋となった。頼家はひどく落胆し、去って行った愛寿のことを思い出しては深いため息をついた。
その頃、梶原景時追討事件の余波を受けて、梶原の縁者であった城一族が反乱を起こして鎮圧され、一味が捕らえられた。その中に、城資盛の叔母にあたる板額御前という女性がいた。板額御前は、女人ながら大変な弓の名手で、男たちを相手に奮闘したが、左右の股に矢を射かけられ、倒れたところを生け捕りにされた。
 報告を聞いた頼家は、ため息交じりに言った。
「女人相手に、随分と手荒な真似を」
 板額御前を生け捕った藤沢清親が恐縮しながら言葉を返した。
「女人ゆえ、殺すのは憐れと思い。されど、女人と思って手加減などすればこちらが大損害を受けるほどの大変な勇婦でして。やむをえなかったのです。捕えてみれば、大変美しく、実に堂々としており、返って殺すのが惜しいと思うほどでした。懇ろに手当てをいたしましたので、傷はかなり快方に向かっているようです」
 頼家は、処分を検討するため、板額御前を検分した。
 板額御前は、多くの男達の好奇な視線にさらされながら、少しも媚びへつらう様子もなく、世に名高い猛将達に負けず劣らず、実に堂々としていた。そして、噂どおり大変美しかった。
 気丈な板額御前の姿は、別れを告げられた愛寿の凛とした姿と重なり、頼家は思わず、板額御前に魅入ってしまった。
(処分としては、知人縁者に預けての流罪といったところか。いい女だが、まさか、儂の側に置くわけにもいくまいよ)
 そのようなことを考えていたところ。浅利義遠という男が、奇特なことを申し出てきた。
「板額御前に惚れたので、妻にしとうございます!あれだけの勇婦との間にできる子なら、さぞかしたくましい子にちがいありません!」
「確かに大変な美人だが、武士(もののふ)にも負けず劣らずの豪傑だぞ。手弱女のように優しく可愛がるというわけにはいくまいに。そなたの好みはよく分からんよ」
 義遠の言葉を聞いた頼家は、思わず板額御前が男と交わる姿を想像して笑いが出てきた。
(愛寿のいうとおり、女人にも、誇りというものがあるのだ。心から大事にしてくれる者と末永く添い遂げられるならば、これに勝る幸せはないのかもしれん。儂も、もっと愛する女を大事にしてやるべきだった)
 そう思った頼家は、義遠の申し出を許してやった。義遠の妻となった板額御前は、彼との間に一男一女を授かり、幸せに暮らしたと伝えられている。

 その年は、大雨と大風のため、穀物が壊滅的な打撃を受けた。頼家は、京の院から遣わされた蹴鞠の師匠である紀行景から、西国の被害状況を聞いた。頼家は、各地の被害状況と、頼家が以前から調進を命じていた大田文などをもとに、重臣達と相談しながら、全国的な救済策を検討していた。
 そこへ、近習の中野能成から、次のような取次ぎがあった。
「国中が飢饉で苦しんでいる時に、わざわざ京から名人を呼び寄せて蹴鞠遊びなど何を考えておられるのでしょうか。貴殿から申し上げてお諫めしてはいかがか」
 頼家の従弟の泰時がそのように言ってきたという。泰時の筋違いの物言いに対し、頼家は、きっぱりと言い返した。
「祖父や父を差し置いてのその物言いは僭越である。それでも、己が正しいと思うのであれば、堂々と儂に直接言えばよいではないか。あたかも能成に内々に話しただけの体を装って、自分が諫言したのではないなどと、影でぶつぶつと何ともずるい男だ。蹴鞠は遊びではない。京方と良き関係を築くうえでの重要なまつりごとの道具だ。己の小さな領地のことだけを考えていればよいあいつとは違って、儂は朝廷のこと、この日の本全体のことを考えねばならぬ。各地の被害状況と大田文などをもとに、重臣達と様々なことを話し合ってそれでも良い策はなかなかに見つからぬものを。部屋住の身のあいつにどれほどの策があるというのだろうな」
 頼家の言葉を伝え聞いた泰時は、改めて頼家と自分との立場の違いを思い知らされた。
 父の義時でさえ北条の傍流扱いされ、当主である祖父時政には逆らえず、さしたる力も持っていない。泰時はそんな父の庶子に過ぎない。将軍家の期待された世継ぎとして育った頼家との差は歴然としている。広い視野を持ち、常に堂々としている頼家に比べて、自分は何と狭量でちっぽけな存在であることか。泰時とて、領民達の嘆願を受け、これから領地のある伊豆に向かい、救済策を講じるところであった。
 しかし、それはせいぜい数十人程のことに過ぎない。泰時が考えていた程度の救済策など、まともに領地経営を行っている領主であれば誰でも考えて実行していることであり、特別なことではない。泰時は、自分がひどく惨めに思えて仕方なかった。
 
 その年の終わり頃。頼家は、余りに目に余る横暴な振る舞いが原因で処罰された佐々木経高を許し、ひとまずその領地のうち一か所を返還するとの決定を下した。頼家のこの判断に対して不満のある泰時は、父義時に対して愚痴った。
「佐々木入道殿の没収された領地は、すべて手柄によって賜ったものです。あの方の功績は大変大きいものだというのに。罪を許すのならば、すべて返してあげればいいではありませんか。随分とせこいことをなさる」
 これに対して、義時は、顔をしかめながら息子を叱責した。
「過去の功績を考慮してもなお、入道殿の横暴は目に余るものであり、許されるものではなかった。それをお許しになっただけでも、ありがたすぎることなのだぞ。御所様は、重臣の方々と話し合われて、いずれ時期を見て、他の領地も返されることを検討されておられる。何も分からぬ若輩者のそなたが、影でこそこそと口を出すことではない!」
 泰時が父親にひどく叱責されたことを知った頼家は、泰時を呼び出して言った。
「前にも言ったが、言いたいことがあるなら、遠慮せずに儂に直接言え」
 泰時は、深くうなだれたまま、言葉を返した。
「私は所詮部屋住の庶子です。何にも分からないことばかりです」
 頼家は、そんな泰時を気遣うように言った。
「分からないことだらけなのは儂だって同じだ。なら、これから共に一緒に少しずつ学んでいけばよいではないか。日々努力を怠らぬそなたならば、やってできぬことはない。そなたも儂も若いのだからな。」
 頼家の明るい励ましに、泰時は涙を流しながら深く頷いた。
「兄上!太郎!」
 そこへ、手を振りながら千幡がやってきた。千幡は、犬好きの頼家が最近飼い始めた白い雄犬と赤毛の雌犬の猟犬のつがいを連れていた。
「シロとハチはすっかり千幡様に懐いたようですね」
 泰時が笑って千幡に話しかけると、千幡は呆れたような顔をして言った。
「また兄上は、面倒くさいからって適当な名前をつけて!」
 生意気な弟の物言いに短気な頼家は怒鳴った。
「何だと!」
 まあまあと間に入って泰時が兄弟を宥めた。
「シロじゃありきたりすぎます。こっちは女の子ですよ。それを八幡宮に由来するからって、ハチじゃあんまりかわいそうだ。そうだ、菅原道真公が好きだった梅にちなんで、白梅と紅梅にしよう!」
「犬の癖に随分豪勢な名前だな」
「何と雅な良い名前でしょう!」
 千幡の提案に、頼家と泰時は笑いながら答えた。

 明けて、建仁二年、西暦一二〇二年。
頼家は、今度は、花見の席で、微妙という舞女を見初めた。微妙は、歌も踊りも抜群で、大変美しく、別れを告げて去って行った愛寿を思い出させた。
 頼家が微妙から話を聞くと微妙は涙ながらに己の事情を語った。微妙は、藤原右兵衛尉為成の娘で、元々はそれなりに身分のある家の出の者であった。
 ところが、微妙が幼い頃に、父は冤罪で捕らえられて奥州に連れていかれてしまい、行方が分からなくなってしまった。微妙の母親は体調を崩して間もなく亡くなってしまった。微妙は、父の行方を捜すために、舞の修行を積んで東国にやって来たのである。
 孝行者で可憐でいじらしい微妙の様子にすっかり心奪われ、微妙のことを哀れに思った頼家は、雑色の多聞を奥州にやって微妙の父親の行方を捜してやることにした。
「御所様のお優しいお心遣い、なんとお礼を申し上げて良いのか」
 目に涙をためて上目遣いに見つめてくる微妙に頼家はぐっと来て答えた。
「安心いたせ。これからは、儂がそなたを守ってやるゆえ」
 こうして、微妙を自分の住まう場所で保護しようとした頼家に、待ったをかけたのが母の尼御台政子だった。情の厚い政子もまた、微妙のことを大変哀れに思い、何とかしてやりたいと思っていたのだが。
 若い息子と夫の菩提を弔う尼の母とでは、若い娘を保護する理由が全く異なる。父親譲りの色好みの息子の魂胆を見抜いた母は、微妙を自分の屋敷に連れ帰ってしまった。母の素早い行動に、頼家は呆然となった。
 しばらくして、奥州からの使いが帰参し、微妙の父がすでに死亡していたことが判明した。
 微妙は父の死を悲しみ、頼家が帰依している栄西のもとでそのまま出家してしまった。
 尼御台政子は、ますます微妙を哀れんで、微妙の居所を用意して生活のめどが立つようにしてやった。
 それを聞いた頼家は、出家して頼家の元を去っていた愛寿と微妙の姿が重なり、ますます落胆した。
 その微妙には、古郡保忠という恋人がいた。父の死の悲しみに耐え切れなかった微妙は、保忠に相談することなく出家してしまった。それに怒った保忠が、騒ぎを起こし、微妙を出家させた栄西の弟子達の住む僧坊に乗り込んで、僧侶達に対して暴行を加えたのである。
 その年の七月に正式に征夷大将軍となった頼家は、京に建仁寺を建てるなどして栄西を厚遇していた。その矢先に起きた保忠の事件に頼家は怒りを隠せなかった。
「僧侶達の任務を妨げて、理に合わぬ行動をとるとは!本当に女を愛しいと思うならば、静かに見守って身を引くのが男の愛情というものだ。それを何としつこくて男らしくない奴だ!」
 だが、そういう頼家自身、微妙への未練を断ちがたく、何とかして微妙を還俗させることができないかと考えていた。頼家の考えを見抜いている母政子は、呆れたように言った。
「いい加減に諦めなさい、御所。御所のお側には、他にも多くの女人がお仕えしているではありませんか。それなのに全く」
 若い頼家は、正妻である御台所を定めてなかったが、頼家の子を産んだ女性だけでも四人もいた。
 比企能員の娘、若狭局は、頼家の後継者と目されている長男一幡を産んでおり、最も勢力がある。
 次男善哉を産んだ辻殿は、既に父が亡くなって後見の点で不安があったが、父方母方共に源氏の血を引いており、血筋の点では若狭局よりも上であり、重んじられていた。
 父頼朝の右筆を務めた一品房昌寛の娘は、身分においては、若狭局や辻殿よりも劣るが、三男千寿と四男十幡を続けて産んでいた。
 源義仲の娘で木曽殿と呼ばれる女性は、頼家の姉大姫の許婚であった義仲の息子義高が父の連座を受けて討たれた後、その境遇を哀れに思った母政子が保護し、大姫に仕えていた。大姫亡き後も政子が引き続いて庇護していたが。頼家が密かに見初めて通うようになり、この春、頼家にとっては初めての女児となる竹姫を出産したが、産後の肥立ちが悪く、そのままはかなく逝ってしまった。
 女児であれば後継者争いとは無縁であるが、後見がいないのを心配した頼家は、長男一幡の母である若狭局のもとで竹姫を養育させることにし、比企氏との均衡を保つため、北条氏縁の美濃という女性を竹姫の乳母にしたのだが、頼家は、その美濃とも情を交わしていた。
 次男善哉のめのとは三浦氏が務めているが、養育を担当する乳母とは別に、実際に母乳を与える三浦の被官の娘がおり、頼家はその娘とも情を交わしていた。 
「これほど多情な御方だというのに。よくもまあ、奥で大きな諍いが起こらないことですこと!」
 皮肉を言う母に対し、頼家はどこか勝ち誇ったかのような顔で言葉を返した。
「儂は、父上のように陰でこそこそとしたりはしませんからな。情を交わした女は、不満が出ぬよう、できるだけ平等に深く可愛がっておりますから」
 それを側で聞いていた千幡は、母譲りの潔癖な性格もあってか、露骨に嫌な顔をして兄に言った。
「なんてあだびとだ、兄上は!まるで、光源氏か在五中将のようではないか!」
「これ、千幡!」
 さすがに、口が過ぎると母政子が注意しようとしていたところ。頼家は、大笑いしながら言った。
「ははは!そうじゃ!儂は鎌倉の光源氏よ!千幡、お前も男だ。いずれ分かるようになるさ!」
 からかうような兄の言葉に、千幡は顔を真っ赤にして反論した。
「私は和歌の勉強に必要だから仕方なく物語を読んでいるだけです!私は、絶対、縁があって一緒になったたった一人の妻だけを生涯大事にするんだから!」
「うん、そうか、そうか!」
 頼家は、そう言ってまた大笑いして、弟の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

 頼家は、我が子らとともに、母と弟の今後のことに想いを巡らせていた。
 千幡のめのとであり、叔父の阿野全成は、兄弟の中で父頼朝の信頼を勝ち取り、唯一生き残っただけあって、父が生きていた頃からかなりの力を持っており、強かな男だった。その全成が、父の生存中は隠していた野心をあらわし始め、祖父時政や時政の後妻牧の方ら一派とつるんで、妙な動きをしていることを頼家は把握していた。
 頼家は、雑色の多聞らによって得た情報をもとに、有力者達の派閥関係を整理してみることにした。
 頼家の長男一幡が頼家の次の後継者となる路線は、ほぼ確定している。そうなると、一幡の外戚の比企氏が今まで以上に勢力を持つようになり、千幡の後見をしている北条側、とりわけ時政、牧の方、阿野全成の一派はこれを快く思うはずがない。
 時政は、後妻牧の方の縁を利用して、京方と何かと頻繁に連絡をしている節がある。阿野全成も、勢力拡大のため、水面下で各有力者と通じようと動きを見せている。
 一方で、母政子は、比企の専横を快く思ってはいないが、頼家の長男一幡が次の後継者となること自体には反対しておらず、時政とは一線を画している。母は、苦楽を共にした父頼朝の意思を第一としている。
 宿老達の中で、中原、二階堂、三善の実務官僚ら、北条家内の後継問題で父時政と確執がある叔父義時、頼家の次男善哉の乳母を務める三浦義村、三浦と同族の和田義盛も母の立場に近いと言えよう。
 八田知家及びその縁者の宇都宮一族は、今のところ、様子見をしながら中立を保とうとしているようだ。
 以前、頼家は安達景盛の妾である空蝉の女と密通した事件を起こしたことがあるが。そのことと直接のかかわりはないものの、父の安達盛長が病死して、景盛の代になった頃から、景盛は母方の親族である比企氏とは何かとそりが合わず、距離を置くようになった。その隙に乗じて、全成と時政一派が景盛に接近する動きを見せている。
 一幡のめのとは、比企能員の他に、仁田忠常が務めているが、同じめのと同士でも、比企と仁田は仲が良くない。やはりそこを狙って、全成と時政一派が仁田を取り込もうとしているようだ。

 年が明けて、建仁三年、西暦一二〇三年。
 頼家の長男一幡が鶴岡八幡宮に参拝すると、それに対抗するかのように、千幡もまた鶴岡八幡宮に参拝するなど、比企と北条の対立がより表面化して行く。
 そんな中、阿野全成は、鎌倉を離れて領地に戻って不穏な動きを見せている。全成が、千幡擁立のため、頼家を呪詛しているという噂まで流れ始めた。間の悪いことに、頼家はそれから間もなく、体調不良で床に臥した。幸い、若く体力のある頼家はすぐに回復したが。
 頼家は、呪詛が直接の原因で自分の体調不良が起きたとは思ってはいない。
 しかし、一般的には呪詛自体に人を殺す力があると信じられていた当時、主君への呪詛は反逆の証と取られても仕方がない面があった。
 この際、阿野全成が、実際に頼家を呪詛していたかの真偽はたいした問題ではない。千幡のめのとであり、後見人と言う立場にある全成が、自らの勢力拡大のために何らかの動きを見せ、そのような噂が立つこと自体問題があったと言える。
 父頼朝は、頼家への継承を守るために、様々な粛清を行って来た。頼家もまた、我が子一幡への継承を守る必要があった。
 一方で、全成を処罰すれば、下手をすると、全成が後見する頼家の弟千幡にも累が及ぶ危険性がある。
 また、全成は、唯一生き残った父頼朝の弟でもある。このまま全成を野放しにして、全成の勢力を増大させれば、千幡を利用して全成、時政、牧の方らが専横を極め、母政子と千幡がないがしろにされ、結果として、父頼朝の権威と血統が侵されることにもなりかねない。
 このたびはすぐ回復したが、若いとはいえ、頼家とていつ何時その身に何が起こるか分からない。自分が動けなくなっている間に、もしものことがあったらどうなるのか、そのことを考えて頼家に戦慄が走った。
 我が子、母、弟、父頼朝の系統を守るため、頼家は決断を迫られていた。

   六
 建仁三年、西暦一二〇三年、五月十九日。
 父頼朝が頼家の継承を守るために粛清を行ったのと同じ論理で、覚悟を決めた頼家は、阿野全成捕縛の命を下した。全成は、武田信光によって捕らえられ、宇都宮一族に預けられた。
「あの若造め!今度は儂の番だ!婿の口から儂の名が漏れたら、儂はしまいだ!あの若造は、祖父の儂だとて容赦はすまい!」
 突然の頼家の行動に、時政は、焦って周囲に怒りをまき散らすばかりだった。
 義時は、父を宥めようと必死だった。
「全く身に覚えがないということでもありますまい。父上も全成殿に乗せられてやりすぎたのです。ここは、なるべく全成殿に寛大な処分をお願いするとともに、恭順の姿勢を示して、御所様の最終判断を待つしかありますまい」
 義時の言葉に、継母牧の方は、時政以上に感情的になって義時を責め立てた。
「おお!父上の一大事と言うのに、何という腰抜けか!ここは、婿殿がすべて一人で仕組んだこと、殿(時政のこと)と我らは何も知らぬ存ぜぬで通し、次の一手を考えねばなりますまい!」
(黙れ!このような事態を招いてしまったのは、分不相応な野心から、出しゃばって、周りをかき乱したお前にも原因があるのだ!この女狐めが!)
 継母に対して、喉から出かかっている怒りの言葉を義時は必死で飲み込んで抑えた。
 翌五月二十日。調子に乗った比企能員は、さらに北条時政に打撃を与えようと、全成の妻阿波局の身柄も捕縛するよう頼家に迫った。
 頼家は、女人である阿波局を処罰するのは乗り気ではなかったが、先手を打って、時政側の動きを封じ込めるためにはやむをえず、「相手は女人だ。決して手荒な真似をいたすな」とよくよく言い聞かせて命を出した。
 比企能員の息子、時員らが、大勢の侍達を連れて、尼御台政子の館に乗り込んできた。
「御所様の御命令です!阿波局殿の身柄をお引渡し願いたい!」
(何故、このようなことになってしまったの!)
 政子は、受けた衝撃でよろめく己の体を必死で抱きしめて立ち上がって、無遠慮に侵入してきた横暴な侍達を一喝した。
「無礼者が!ここを、鎌倉殿の母の館と知っての狼藉か!」
 比企時員は、先の将軍の妻であり、現将軍の母である尼御台の威厳と迫力に恐れをなしたが、弱い犬がおそれを抱く者に吠え立てるように虚勢を張って声を荒げた。
「再度申し上げる!阿波局殿には、阿野全成謀反に関わる嫌疑がかけられております!早々にその身柄をお引渡し願いたい!」
 比企の権勢を笠に着る若造ごときに負ける政子ではなかった。
「阿波局は、ずっとこの尼の館にいたのです。二月に駿河国へ行って以来、夫の全成からは何一つ連絡を受けてはおらぬ!女人である局が、表向きのまつりごと、まして謀反の事情など何一つ知らないことは、この尼が一番よく知っておる。それでも局を連れて行こうというのならば、まず、鎌倉殿の母であるこの尼を縄にかけてからにいたせ!さあ!どうなのじゃ!」
 さすがに、将軍の実の母にそこまでのことはできようはずもない。比企時員は、仕方なくその場を立ち去った。
 時員が去った後、政子はその場に泣き崩れた。
「阿波局の次は千幡か。母である私に、腹を痛めた兄と弟のいずれかを斬り捨てよというのか!全成に父上、義母上も、己の野心のためだけに、大事な私の子を利用して傷つけてまで権力を欲しがるとは!」
 阿波局の拘束命令は撤回されたが、五月二十五日、阿野全成は謀反の疑いで流罪に処された。
 全成が流刑に処された翌日から、頼家は、将軍としての威光を示すためと、軍事訓練と偵察を兼ねての狩りに出かけた。とりわけ、祖父の時政が取り込もうとしている仁田忠常、安達景盛には注意が必要だった。
 六月二十三日、頼家は、八田知家に命じて、阿野全成を処刑した。
 千幡は、翡翠の数珠をぎゅっと握りしめて、目を固く閉じた。己の身近な人間を兄の命によって殺害された事実を目の当たりにして、もはや自分と兄もまた相容れない存在になってしまったのだということを理解せざるを得なかった。
続いて、頼家からの命を受けた京方において、源仲章らが、七月十六日、全成の息子頼全を討ち取った。
 その四日後の七月二十日。一度三月頃に病にかかり、体調に波があるなかでいろいろと無理をし続けた頼家は、京方からの報告を待っていた中、中原広元邸で、起き上がれない程の重体に陥った。
(儂は、今倒れるわけには行かぬ!)
 頼家は、何とか気力を振り絞り、己の病の回復を願って般若心経を書写したが、体は衰弱するばかりで、思うようには行かない。頼家は出家し、長男の一幡に家督を譲ることとし、一幡の継承を守るために、一幡のことを後見人である比企一族に任せようと決心した。
 だが、そうなれば、比企一族の優勢は明らかとなり、北条時政と牧の方一派の出る幕はなくなる。それを案じて対策を講じねばと思っていた矢先の八月三十日、ついに頼家が危篤状態に陥ったとの報がもたらされた。
「生意気な青二才が。ようやくくたばってくれたか!」
 ほくそむ時政の顔には、もはや孫を案じる祖父の面影はどこにもなかった。
 妖艶な笑みを浮かべて、夫にしなだれかかりながら、牧の方は言った。
「この機を逃す手はありませんよ、あなた!」
 妻の言葉に、時政は大きく頷いた。
「尼御台も、朝廷から千幡の将軍宣下がなされれば、これを承諾せざるをえまい。小四郎の奴は、我が息子とはいえ、比企の娘を娶っていて油断がならんからな。奴には用心せねばなるまい」
 時政は、牧の方の縁を通じて、千幡の将軍宣下を得るために、朝廷に頼家が既に死亡し、次の継承者が千幡に決まったとの虚偽の報告をした。
 それと並行して、一幡が次の後継者になることが決定していると思って油断している比企能員に対して、時政は、「一幡君の世になっても、どうぞ我らをお見捨てにならないでください」と下出に出て呼び出し、同じ一幡のめのとではあるが、比企と対立している仁田忠常を唆して能員を謀殺した。
 時政は、間を置かずして、中原広元邸に兵を送って頼家の動きを封じると共に、一幡が暮らす小御所にも兵を送るように、息子の義時らに命じた。
 義時には、亡き頼朝の仲介で娶った姫の前という恋妻がいた。
「決して別れぬと神かけて誓ったものを。すまぬ。せめて、そなただけは、生き延びてくれ」
 もはや取り返しのつかないところまできていることを知った義時は、泣く泣く姫の前を離縁して、京に逃がした。
 政子もまた、せめて女性の若狭局、幼い孫の一幡と竹姫は助けようと密かに手を尽くすだけで精いっぱいだった。政子の手引きによって、若狭局と一幡は小御所を脱出して逃げ延び、女児である竹姫と乳母の美濃は政子のもとに保護された。
 仁田忠常は、同じ一幡のめのとである比企氏と対立しており、比企を排除することについては賛同していたが、自らの権力の根幹ともなる一幡を害そうとまでは考えていなかった。
 一幡のいる小御所が襲撃されて、一幡が行方不明になっていることを知った忠常は、どういう了見かと時政に食って掛かった。
(尼御台め!情に流されて勝手なことをしおって!事情を知った仁田もこれまでだな)
 時政は、「そなたも、我が身と我が子らが可愛いのであれば、父の儂に逆らわぬことだ」そう言って義時に釘を刺して、仁田忠常討伐を命じた。
 九月七日、時政の策略で朝廷から千幡を次の征夷大将軍とする旨の宣旨が発せられた。
 若い頼家は、奇跡的に危篤状態から脱して回復したが、すべてを知った時には遅かった。
 怒りにまかせて、太刀を取ろうとする頼家を、見舞いに来ていた母政子が抱き留めた。
「何もできなかったこの母を恨むなら、恨むがよい!されど、我が子が死んで喜ぶと思う親があろうか!何があっても、生き延びなさい!」
(この人もまた、千幡を守らねばならないのだ。我が子一幡のためと、北条に対して先手を打ったのは儂の方なのだ。これもまた、報いと言うべきなのだろう。儂に運がなかったのだ。母上のいうとおりに一時的に生きながらえたとしても、じじ殿は儂の存在を許しはしないだろう)
 頼家は、すでに覚悟を決めていたが、母に対して返す言葉がなかった。失脚した頼家は、北条氏の息のかかった地にある修禅寺へと送られることとなった。
 数え十二歳の千幡は、征夷大将軍の位を授かり、後鳥羽院直々に実朝の名を授かった。三代目鎌倉殿源実朝の誕生である。
「千幡は千幡のままで大きくなっておくれ」
父頼朝は、慈愛に満ちた表情でいつもそう言ってくれた。
 だが、もはや、千幡のままでいることは許されなくなった。実朝。恐れ多くも院様から賜った誉れ高く輝かしいはずの名。
 しかし、千幡との永遠の決別を意味するその名が、呪いのように重く感じられてならなかった。

 兄が鎌倉を去る日。
 自ら望んだわけではないとしても、結果として兄の地位を奪って将軍となった自分には、もはや兄と会う資格はない。実朝は、ぎゅっと翡翠の数珠を握りしめながら、目を固く閉じ、溢れ出しそうになる涙を必死で堪えていた。
幼い善哉は、祖母の政子に手を引かれて父の見送りに来ていた。いつもは気丈な祖母が今にも泣きそうな様子であるのが幼心にも伝わったのか、善哉は、去って行こうとする父の前に縋り付いて泣き出してしまった。
「行かないで!ととさま!ととさま!」
だが、頼家は、そんな幼い我が子を抱きしめることもなく、優しい言葉一つかけることもなく。
「将軍家の男子ともあろう者が、べそべそと泣くなどもってのほかじゃ!そのような軟弱者は、我が子ではない!とっとと朽ち果ててしまえ!」
 怒って叫んで、頼家は輿に乗って行ってしまった。
 輿の中で、頼家は、泣いていた。
(許せ、善哉。父のことなど忘れて生き抜いてくれ)
 まだ少年だが、賢い弟は、きっとすべてを理解しているはずだ。弟は、自分とはまた違った方法で世を治めることだろう。
 兄が行った後、母は善哉を抱きしめて泣いていた。母と幼い甥の姿を見て、実朝は、別れの際にとった兄の態度がどのようなものであったのかを理解した。
 厳しい人だ、そしてどこまでも意地っ張りな人だ。でもきっと、今頃は一人で泣いているに違いない。実朝はそう思った。
 実権のほとんどを祖父が握り、まだ少年の実朝に、為政者としてまつりごとに携わる出番はほとんどないと言っていい。それでも、実朝は、父と兄から継いだ鎌倉殿としての責任をできるだけ全うしようと心に決めた。
 もとから得意ではない武芸の上達は、指南を受けても、あまり芳しくなさそうだった。
 だが、書物や文献を読むことは好きだ。実朝は、漢籍や亡き頼朝が作成した文章を懸命に学んでいる。

 修禅寺についてからも、夜一人、月を眺めて、我が子のことなどを思い出しては沈んだ様子を見せている頼家に、雑色の多聞は言った。
「詳しい所在は分かりませぬが。若狭局様と一幡様は、尼御台様の手引きで密かに落ち延びたとのこと。希望を捨ててはなりませぬ」
「そうか。母上が。そうか」
 頼家は、涙を流しながら、手を合わせ、母への感謝とともに妻子の無事を願った。
 だが、そんな頼家のわずかな願いも打ち砕かれてしまった。
「尼御台が密かにかくまっていた一幡の居場所が分かった。安達弥九郎の手の者が知らせて来てくれたわい。この藤馬という男が案内してくれる。やるべきことは分かっておるな、小四郎」
「姉上の御心を傷つけるようなことを私は……!」
 もうこれ以上やめてくれと懇願しようとする義時に対して、時政は冷たく言い放った。
「一幡を生かしておいては禍根の種となることはそなたも分かっておろう!尼御台が、大姫の許婚だった清水冠者を密かに逃がした時も、故右幕下は容赦されなかった。九郎殿(義経のこと)の妾静が生んだ男子の時もだ。あの時と何が違うというんじゃ!今更後戻りはできん!それを尼御台にも分かってもらわねばな!」
 十一月三日、時政の命を受けた義時の郎等らによって、その居場所を見つけ出された頼家の長男一幡は殺害された。
 そのことを伝え聞いた頼家は、三浦義村を通じて、母政子に文を送った。
「母上の深いお心に感謝しつつ。武家の男子に生まれた習いゆえ、致し方のないこととは分かってはいますが。それでも、親として、罪のない幼い一幡が哀れでならず。とりわけ、密告した安達弥九郎が憎くてたまりません」
 頼家からのその文を読んだ政子もまた、我が子と幼くして逝った孫のことを思って涙を流さずにはいられなかった。
 政子は、せめてもの慰みにと、一匹の白い雌の子犬を頼家に贈った。
「殿、白梅と紅梅のことを覚えておいでですか」
 語りかける雑色の多聞に対し、頼家は弱弱しく頷いた。白梅と紅梅は、犬好きの頼家が以前飼っていた猟犬のつがいだった。
「白梅は、小御所の合戦で矢を射かけられ、その死骸が発見されました。紅梅はその時白梅の子を身ごもっており、この子を産んで白梅の後を追うように亡くなりました」
 多聞から子犬を受け取った頼家は、ぎゅっとその子犬を抱きしめた。
「白梅と紅梅にも可哀そうなことをした。そなたも、親を亡くしてさぞ寂しいことであろうなあ」
 その様子を見た多聞もまた涙をぬぐった。
「お殿様、雪、こっちだよ!」
 頼家の周りには、修禅寺の近所の幼い子らがたくさん集まっている。
 頼家は、もはや会うことの叶わない幼い我が子のことを思い出したのか、母政子が贈った雌の子犬に雪という名を与えて、近所の子どもらと無心に遊んで日々を過ごすことが多くなった。
「今日は何をして遊ぼうかのう。」
 頼家は、子ども達に笑顔で笑いかけた。
 そんな頼家のささやかで穏やかな日常にも終わりを告げる日が近づいていた。
 
 元久元年、西暦一二〇四年、七月。
 北条時政に不満を持つ者達が、頼家の復権を図ろうと不穏な動きを見せていた。
「これは、今の御所様に対する明らかな謀反であるぞ!」
 そう言って、時政は、現将軍実朝の命であると称して、討伐を命じた。北条の監視下に置かれ、制限の多い頼家自身が不満分子たちと関りをもっていようはずもないことは明らかであったが、時政は、これを機に、密かに頼家も殺害することを決め、その実行を息子の義時に命じた。
(右幕下、尼御台。大切な御子息をこの手にかける儂をお許しください!)
 義時は、断腸の思いで、姉政子に黙ったまま、頼家のもとに刺客を差し向けた。
 いつものように、頼家が近所の子ども達と遊んでいる時だった。
「禅閤様、お覚悟あれ!」
 そう言って、刺客達は頼家と子ども達に迫って来た。
 祖父の時政が頼家が生きていることをいつまでも許すはずがない、いつかこのような時が来るであろうことを頼家は覚悟していた。
 恐怖に震える子ども達を庇いながら、頼家は、雑色の多聞ら頼家の警護を務めるごくわずかの者達に対して命じた。
「儂のことはよい。この子らには何の罪もないのだ。早う逃がしてやってくれ」
 多聞は、頼家の命に頷いて子ども達を安全な場所へと誘導して行った。
 頼家は、応戦を開始し、あっという間に刺客の武器を奪って次々とその息の根を止めていく。応戦した頼家によって殺された刺客の中には、一幡を殺害した藤馬という男も含まれていた。
 武勇で名高い頼家に、刺客達は思った以上の苦戦を強いられていた。
「表向きは御病死ということにしろと、それゆえ御首(みしるし)は奪うな、五体満足で逝かせて差し上げろとのことだ」
「しかし、あれほどの強さですぞ。どうやって!」
 刺客達の話し声を聞いた頼家は、かっと目を見開いて言い放った。
「武家の棟梁であった儂も舐められものよ!遠慮はいらぬ!かかって参れ!すべて返り討ちにしてくれるわ!」
 流れてくる弓矢さえも軽々とよけて斬り捨てていく頼家に、刺客達は恐れをなした。
 やがて、殺されることを覚悟の上で、刺客の一人が、低い姿勢のまま、ひたすらに頼家の急所めがけて突進していった。頼家がその刺客の頸動脈を斬るのとほぼ同時に、その刺客によって頼家の急所に刃が刺さった。
 急所を痛めつけられた頼家は、激痛のあまり、地に手を突いた。
「今だ!」
 そう言って、とどめを刺そうと襲い掛かって来た刺客の最後の一団を頼家は、激痛に耐えて立ち上がって全て倒した。
 だが、そのうちの一人が向けてきた刃が頼家の脇腹に深く突き刺さり、刺客を全滅させた後、頼家は倒れ伏して、とうとうその場から動けなくなった。
「殿!」
 子ども達を避難させた雑色の多聞が戻ってきたときには、頼家の命はもはや風前の灯火だった。
「ワンワン!」
 主人の異変を感じ取った頼家の愛犬の雪が、異常なほどに大きく吠えたてるが、頼家の反応はあまりに弱弱しかった。
「母上。不肖な息子をお許しください。源実朝は、父上を超える賢君となれ。愚かな兄のようにはなるな」
 そう囁いたあと、頼家は、確実に薄れゆく意識の中で、我が子一人一人の顔を懸命に思い出そうとし、子らの名を順に呼んだ。
「一幡、善哉、千寿、十幡、竹姫……」
 頼家の脳裏に、我が子の声が聞こえてくる。
「ととさま!ととさま!」
 親を求めて泣く子らを抱きしめ返してやりたい気持ちでいっぱいなのに、もはや頼家にはそのような力は残されていない。頼家はそのまま、息絶えた。

 実朝のもとに、兄頼家の死が伝えられた。表向きは病死であるとされているが、状況から見て北条の者が手をまわしたのは間違いがなかった。
 実朝が自ら望んだことではなかったとしても、実朝の命令という名のもとに、北条が手をまわして実行したのであれば、それは実朝自身が行ったのと同じことだった。人の噂というものは、止めようと思っても止められるものではない。
 実朝は、祖父時政の命を受けた叔父義時が、手をまわして兄の子一幡だけでなく、兄頼家も殺害したのだとの噂を耳にした。叔父もまた、比企の乱で、実朝が生まれた年に父頼朝の仲介で、起請文までしたためて結ばれた比企氏出身の妻の命を助けるため、断腸の思いで離縁をし、京に逃がしたのだと聞く。兄が修禅寺に送られてからも、兄の復権をもくろんで北条に反撃しようとの不穏な動きがあったともいう。兄と北条は、どちらかが生き残るためにはどちらかを殺すしかない、そこまで追い込まれていたのだ。北条が守るべきもの、その中には、実朝自身も含まれているはずだった。実朝は、叔父義時を責める気にはなれなかった。
 ただ、実朝は兄の最期の真実が知りたかった。
 祖父時政に聞いても、適当にあしらわれるだけだろう。母の政子は、おそらく聞いているだろうが、実朝は母の心の傷をえぐり出すようなことはしたくはなかった。叔父の義時にとっても、苦渋の決断だったはずなのだ。土足で人の心に踏み入るようなことは、実朝はしたくはなかった。
 兄の雑色だった多聞から、兄の最期を聞いた実朝は、懐の翡翠の数珠をぎゅっと握って、あふれそうになる涙をこらえるために、固く目をつぶった。意地っ張りで天邪鬼だった兄もまた、子煩悩だった父頼朝や情に厚い母政子と同様に、小さな子を慈しむ優しい人だったのだ。
 父頼朝との思い出の梅の木の近くには、実朝が作った小さな石塚があった。そこには、兄の最期を見届けた子犬の雪の両親である白梅と紅梅が眠っていた。その石塚のそばで、実朝は、雪をぎゅっと抱きしめた。

 やがて、実朝は、叔父義時に密かにあることを掛け合った。
「兄上の近侍だった源性が、幼くして亡くなった一幡の遺骨を高野山に納めたいと願い出ている。北条のしたことを責めるつもりはないのだ。まつりごとのことをよく分かっていない若輩者の私にそのような資格もない。ただ、一人の人として、幼くして亡くなった命を憐れに思う気持ちが少しでもあるのなら、源性の願いが叶うよう、内密に取り計らってほしい。力のない将軍ではあるが、これくらいの願いをかなえる力くらいはあろう」
 多くを語らない実朝の言葉から、義時はこの若い甥がすべての事情を知ったことを理解した。もとより賢く、優しい子だった。こそこそと大人たちが隠そうとしても隠し通せるものではないのだった。
そして、義時は、父の時政ではなく、自分にあえてそれを頼んだ実朝の意図を正確に読み取った。実朝は、時政と義時の確執も見抜いているのだ。
「この叔父が、御所様の仰せのとおりに取り計らいましょう」
 義時は、深々と甥に頭を下げた。頼朝と頼家が覇者ならば、実朝は王者だ。いずれ、この少年は父頼朝をも上回る賢君となるだろう。
だが、父の時政は、実朝の本当の賢さに気づいてはいないだろう。いつ昨日の味方が今日の敵となってもおかしくはない世の中だ。だが、かなうことなら、頼朝と同様に、この少年を生涯の主君として仕えたい。義時は、心からそう思った。

   七
 元久元年、西暦一二〇四年、数え年十三歳の将軍実朝の縁談が進んでいた。結婚も、将軍としての務めの一つとはいえ、兄頼家の死からまだ一月しか経っていないにもかからず進められていく慶事に実朝は複雑な思いを抱いていた。
 幕府の首脳部は、足利義兼の娘を候補に挙げていたが、祖父の北条時政は、前権大納言坊門信清卿の姫君を推していた。足利義兼の娘の母親は、時政の娘で、実朝の母政子の同母の妹に当たる。信清卿の子息忠清卿には、時政とその後妻牧の方の娘が嫁いでいる。いずれにしろ、北条家とは縁戚関係にある。
 だが、時政の思惑はどうあれ、選択肢が極めて限られている政略結婚の相手として選ぶならば、実朝は、坊門家の姫君の方がよいと思った。兄頼家の閨閥であった比企氏と母政子の実家北条氏との間で血の争いが起きたばかりで、今また、実朝の妻を関東の御家人の中から選べば、御家人間の勢力の均衡が崩れ、同じことが繰り返される恐れがあったからだ。
 坊門信清卿は、後鳥羽院の生母の兄弟であり、その娘西の御方は院の後宮で、子女を設けている。実朝の花嫁候補の姫君は、院の従兄妹で、義妹でもあり、院の血筋に連なる貴種であったから、もう一人の候補が関東では勢力を持つ有力御家人の娘であるとはいっても、家柄・血筋には雲泥の差がある。坊門家の姫君ならば、将軍の正室たる御台所として、誰が見ても文句のつけようがない。
 しかし、一方で、坊門家の姫君が実朝の御台所となれば、父頼朝の妻であり、現鎌倉殿の母である政子を差し置いて、時政の後妻牧の方が大きな顔をしてしゃしゃり出て、彼女の分を弁えぬ僭越な振る舞いが増すことは明らかだった。
時政は、実朝の外祖父として権勢を誇ることができたとしても、実朝と血のつながりのない牧の方自身には、実朝を擁立することにそれほど大きな利点はない。
 むしろ、先妻の子である政子が、鎌倉殿の妻であり、母として君臨している姿は、牧の方にとってみれば妬ましいばかりに違いなかった。
 時政の後は、年齢、経験、能力、人望、誰が見ても、父頼朝の時代から仕えてきた叔父義時が継ぐのが順当である。
 しかし、牧の方は、自分の産んだ政範を時政の後継者にしようと企んでいる。
若輩者の政範が、時政の後を継いだところでまつりごとが立ち回るわけがなく、その信望も得られないだろう。それくらいのことは、政範よりも年下の実朝でも分かる。実朝の後見を母政子が行うように、それに対抗して、牧の方は、政範の後見をしようと考えているのだろう。
 だが、母政子と牧の方とでは決定的な違いがあると実朝は感じずにはいられなかった。鎌倉殿の妻として父頼朝と苦楽を共にし、御家人達の信望を集め、的確に政治的な判断を下す能力を母は持っている。何よりも、実朝は、母の慈愛深さをよく知っている。母は、我が子を決して己の野望のためだけに利用しようとしたりはしない。
 それに対して、牧の方には、為政者として、鎌倉のために尽くそうという意思は微塵もない。あるのは、分不相応な妬みと自己中心的な野心だけだ。実朝にとって、父頼朝と苦労を共にしてきた母政子を蔑ろにする牧の方の態度はとうてい許容できるものではなかった。
 だが、牧の方に、年少の実朝が道理を説いたところで、それが通じる相手ではないことは明らかであるから、今の実朝は沈黙するしかない。牧の方の専横を許している祖父時政にも、実朝は本心を明かす気にはなれなかった。
 実朝は、己の野望と憎しみに満ちた牧の方の目を思い出す。御台所を迎えたとしても、いずれ、自分は、牧の方の意を受けた者達に排除される、実朝は本能的にそのことを悟っていた。実朝は、自分の身を守るためにも、当分の間は、「無邪気な少年」でなければならなかった。
「私は、京の姫君がいいなあ。気が強くておっかない焼き餅焼きの坂東の娘に、家を壊されるのはまっぴらごめんだよ。淑やかな京のお姫様ならそんなことはないだろうからねえ」
 父頼朝と母政子の壮大な大喧嘩を茶化したような言葉に、大人たちの反応は様々だった。
「まあ!御所!なんて言い草ですか!大事な話をしているというのに!」
 母政子は、あからさまに不機嫌な表情を見せた。
「御所様、その物言いはどうかと……」 
 叔父義時は、政子の顔色を窺いつつ、呆れた様子で若い実朝を窘めた。
「そうでしょうとも、そうでしょうとも。御所様には、田舎臭い坂東の娘なんぞよりも、雅な京の姫君の方がお似合いですとも」
 時政だけは、ぶっと吹き出して笑いをこらえながら、我が意を得たりと言った勝ち誇った表情をしていた。
「じゃあ、その方向で進めておくれ、じじ殿。正式な返事はまた後でゆっくりとね」
 実朝の返答に満足した時政は、「このじじがうまくとりはからいますゆえ、どうぞお任せください。」と大喜びしていた。
 
 話し合いの後、政子と義時は頭を抱えていた。
「何ですか!あの親を馬鹿にしたような物言いは!」
「いえ、姉上、問題はそこではなく。ご自分のご結婚というものがどういう意味を持つのか、お若い御所様は、本当に分かっていらっしゃるのでしょうか」
 姉と兄に対して、時房はのんびりした様子で答えた。
「その点は、大丈夫でしょう。御所様なりに、考えたうえでのことじゃないですか」
 時房の言葉の意味がよく分からない義時は、「どういうことだ?」と聞き返した。
「坂東の御家人の娘を娶って、御家人間の勢力の均衡が崩れるようなことはしたくないのしょう」
 時房の言葉で、古傷が疼いた政子は、うつむいてしまった。
(あの子は賢い。おそらくいろいろなことを見抜いたうえで、耐えているのだ)
 政子も義時も、時房のいうとおりであろうと思った。
 
 実朝の縁談が進むにつれて、牧の方の横柄な態度はますます目立つようになった。京育ちの立ち振る舞いは一見洗練されているようにも見えるが、自己中心的な野心と傲慢さに裏打ちされたそれは、返って品性の卑しさを目立たせる。素朴な坂東の娘ながらも、苦労と経験を重ねて貫禄を身につけ、温かみのある母政子の方が、実朝にはよほど上品だと思った。
 その母に、自分の身を守るためとはいえ、なんという物言いをしてしまったのだろう。実朝は、ひどく後悔した。父と兄姉も亡くなり、母にとって自分は残されたただ一人の子なのだ。牧の方の愚かな野心のために、自分は、きっと、母よりも先に逝くだろう。その時、母はどう思うだろうか。あの優しい母を誰が守ってくれるのだろう。
 牧の方のおぞましい視線にさらされ続けた実朝は、大きな疲れを覚えた。実朝は、母に会いに行きたいと無性に思ったが、母を侮辱するような言葉を口にしておきながら、母に甘えようとしている自分を恥じた。
 実朝は、気分を変えようと、突然思い立ったように、叔父義時の邸を訪問した。
「特に用事があったわけではないのだが。何となく叔父御に会いたくなったのだ」
 実朝が照れたように言うと、叔父は、突然の訪問だったにもかかわらず、大喜びで実朝を迎えてくれた。
 すぐに帰るからと実朝は言ったのだが、今夜は月食で夜道は暗いから、ぜひ泊まっていってくれという叔父の言葉に実朝は甘えることにした。
 闇夜の中、実朝は叔父に静かに語りかけた。
「母上に会いたいと思ったのだが、随分とひどいことを言ってしまったから、気が咎めてしまってな」
 すべてを語ろうとはしない甥の言葉の端々から、義時は、時房の言っていたことが本当だったのだと確信した。やはり、自分なりの考えがあったのだ。やはり、賢く、そして優しい子だ。義時はそう思った。
「まあ、ある焼き餅焼きの坂東の娘が、家を壊して浮気性の夫と大喧嘩したのは、誰もが知っている本当のことですからなあ。今更隠す必要もありますまい」
 義時は、はははと笑いながら答えた。
「だが、私は、その浮気者の夫よりも、焼き餅焼きの妻の方に味方したくなるなあ。私は、かなうことなら、縁があって妻となってくれたたった一人の人と、いつまでも仲良く暮らしたいと思う。」
 実朝もまた笑っていた。
「御所様のそういうところは、母君や大姫様に似られたのでしょうなあ。御台所となられる姫君と末永くお幸せになられることを祈っておりますぞ」
 叔父の言葉に、実朝はまるで遺言のような言葉を返した。
「私は、体があまり丈夫ではないから。迎える御台所には気の毒なことだが、それほど長生きはできないかもしれない。私が、母上よりも先に逝くことになったら、その時は、叔父御、あなたが母上を守ってさしあげてほしい」
 この賢く優しい甥に、一体何がこのような言葉を言わせるのだろう。義時は、たまらなく切ない思いがした。
 
 まもなくして、実朝の御台所として坊門家の姫君を迎えるための使者の顔ぶれが決まった。有力御家人の若い子息達の中で、特に容姿端麗な者が選ばれた。その中には、時政と牧の方との間の息子政範も含まれていた。
 近習をつとめているいとこの泰時が、使者に選ばれた者たちを紹介していく。
「和田義盛殿の孫で、和田三郎朝盛どのです」
 実朝よりも、三つ四つ年上の端正な若者がいた。実朝は、その顔をどこかで見たような気がした。兄頼家と戯れていた紫色の紐で髻を結った美少年。それを思い出した途端、実朝の顔色が変わった。
「御所様?いかがされましたか?」
 実朝の異変を察した泰時が、心配気な様子で実朝の側に駆け寄ってくる。
「何でもない。無事務めを終えて戻ってくることを祈っておる。よろしく頼む」
 実朝の言葉に、朝盛は、深々と頭を垂れた。
 一方、泰時は、御前を退出した後も、実朝の様子が気になっていた。泰時の前での実朝は、まだ少年ながらも、大人びて落ち着いている。泰時には、その実朝が、らしくもなくかなり動揺していたように見えた。叔父の時房に事情を話したところ、いつもは朗らかな時房が、少し難し気な表情をして声を潜めて言った。
「御所様は、もしかしたら、噂を聞いたか、勘付かれたのかもしれない」
「噂?勘付くとは何を?」
「和田三郎朝盛は、御先代のお手つきの寵童だった」
 時房の話す内容に泰時は衝撃を受けた。これから花嫁を迎えようという時期に、何ということだ。実朝の近習として仕えるのに、朝盛の人物に何の問題もない。
 だが、泰時の見たところ、実朝は、色事の盛んだった父や兄とは異なり、母政子や大姫に似て純情で潔癖なきらいがある。後の憂いとならねばよいが。泰時は、まだ少年の実朝の身が案じられてならなかった。
 花嫁を迎える使者が京に到着してまもなくのこと。鎌倉に、時政と牧の方の愛息政範が急死したとの報が伝えられた。
 元久元年の暮れ。実朝の花嫁となる坊門家の姫君倫子(ともこ)が鎌倉に到着した。倫子は実朝の一歳年下の数え十二歳という幼さだった。
 愛息の死にも関わらず進められていく実朝の慶事の準備。牧の方の更なる憎しみに満ちた顔。実朝は、鎌倉に新たな血の嵐が吹くであろうことを敏感に感じ取っていた。

   八
実朝は、御台所となる坊門家の姫君倫子と対面した。
(縁があって一生を共にする人なのだ。できるだけのことはして差し上げたい)
 実朝は心からそう思った。
 倫子は、絵巻物から抜け出てきた姫君そのものだった。可憐な少女の姿に実朝は、ぼうっとなってしまった。じろじろと見つめるような不躾な真似はしたくなかった。実朝がちらりと倫子の方に視線を向けると、ばっちりと目が合ってしまった。実朝は、恥ずかしくなって、思わずうつむいてしまった。
(何か言わなければ)
 実朝は、頭の中で考えていた言葉をしどろもどろに口にし始めた。
「京の都に比べれば、ここは田舎です。ですが、坂東にも良いところはたくさんあるのです。海にも、寺社にもたくさん連れて行って差し上げたい。少しずつでいいのです、この鎌倉を好きになっていってほしいのです」
 倫子もまた、緊張していたのだろう。実朝の言葉を聞いた途端安心したのか、実朝の方を見つめて、にっこりと愛らしく笑い、こくんと小さくうなずいた。実朝は、その笑顔に、不思議な懐かしさを覚えた。
 実朝は、倫子の部屋で、倫子が京から持参した様々な珍しいものを一緒に見ていた。その中から、実朝は、どこかで見たことがあるような紫水晶の数珠を見つけた。それは、幼い頃、実朝が長姉大姫からもらったものによく似ていた。
「これは、あなたの物なのか?」
 食い入るように紫水晶の数珠を見つめる実朝に、倫子は淑やかに答えた。
「いいえ、本当は違うのです。私が、三つの頃、女房達とお忍びで参った寺で、同じくらいの歳の男の子が首にかけていたのです。あまりに綺麗で、私がそれをじっとみつめていると、男の子が私にそれをくれたのです。男の子は、同じように私が首にかけていた翡翠の数珠を見つめていました。それで、取り換えっこをしたのですわ。その男の子は、すぐに姿を消してしまって、あの子は、仏さまのお使いだったのではないかと今も時々思うのです」
 倫子の話を聞いた実朝は、ある光景をはっきりと思い出した。
「きれいねえ」
 小さな女の子は、まだ千幡と呼ばれていた頃の幼い実朝の首にかけられた紫水晶の数珠に魅入られるように近づいていき、小さな手でそっとそれに触れる。千幡も、同じように童女が首からかけている翡翠の数珠を見つめている。
「あげるよ」
 そう言って、千幡が紫水晶の数珠を女の子の首にかけてあげると、女の子は自分の翡翠の数珠を指さして言った。
「あげる」
 幼い頃の思い出から目が覚めたかのようにはっとなった実朝は、懐の中にしまっている翡翠の数珠を取り出して言った。
「もしかしたら、あなたが小さな男の童と取り換えっこしたという数珠はこのようなものではなかったか?」
 倫子は、実朝が差し出した翡翠の数珠に、見覚えがあった。
「どうして、御所様がこれを?」
 実朝は、嬉しさを隠しきれない様子で笑って答えた。
「実は私は、幼い頃、一度だけ京の都へ行ったことがあるのだよ。亡き父が上洛した際に、家族皆でついて行ったのだ。その時分に、私も母や姉達と一緒に寺参りをしたことがあってね。その時に、私も、み仏のお使いである小さな女の子に出会って、一番上の姉からもらって私が首にかけていた紫水晶の数珠と、その女の子が同じように首からかけていた翡翠の数珠とを取り換えっこしたのだよ」
 倫子は、感極まって涙を流した。
「御所様が、あの時の、仏さまのお使いの男の子だったのですね!」
「私にとっても、あなたが、み仏のお使いだったのだ、御台!」
 仏の導きによる再会に、実朝は深い縁を感じずにはいられなかった。
 それからというもの、実朝は倫子のもとに出向いて様々な話をするようになった。実朝は、京生まれの倫子の影響で、和歌を本格的に学び始めた。和歌は、兄の頼家にとっての蹴鞠がそうであったのと同様に、朝廷とうまく渡り合っていくために武家の棟梁たる将軍が学ぶべき教養の一つであり、まつりごとの一環でもあった。
 実朝は、政略結婚でありながら、深い縁で再会した倫子にどんどん惹かれていくのと同じように、美しい和歌の世界にも魅せられていった。
 実朝が、倫子と和歌の話をするとき、叔父の北条時房、いとこの北条泰時、和田朝盛ら、和歌に関心のある近習達が側に控えることが多くなった。
 和田朝盛は、父頼朝の代から仕えている重臣和田義盛の孫だ。朝盛は、実際に接してみると、武だけでなく文にも優れ、控えめで真面目な良い若者だった。
 実朝には、穏やかな朝盛が、不健全な兄頼家との関係を望んだとはどうしても思えなかった。朝盛は、立場上、主君であった兄の命を拒むことができなかっただけなのだ。そのように思うことにした実朝の中で、朝盛自身に対するわだかまりは、ほとんどなくなっていった。
 頼家と朝盛の関係に、潔癖な実朝が気づき、今後の主従関係に影響が出るのではないかと心配していた時房と泰時は、普段と変わらず落ち着いた感じで朝盛に接する実朝の様子を見て、安堵していた。
 朝盛は、互いに慣れ親しんでいく初々しい実朝と倫子の様子を、眩しいものでもみるように見つめていた。今は、清い兄妹のような関係の二人だが、いずれは似合いの真の夫婦となるであろう。
 朝盛の目の前には、朝盛が決して入っていけない実朝と倫子の二人だけの世界が広がっていた。実朝は、倫子に対して、少年らしいはにかんだ様な優しい笑みを浮かべていた。実朝のその姿を見て、朝盛は、なぜかひどく胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

   九
 実朝が、御台所倫子との穏やかな時間をいつまでも楽しんでいることはできなかった。実朝が恐れていた、祖父時政の後妻牧の方の身勝手な野望が現実化する事件が起こった。
 きっかけは、実朝の御台所倫子の輿入れのために京へ赴いた牧の方の子息政範が亡くなったという情報と、牧の方の娘婿平賀朝雅と畠山重忠の息子の重保が激しい言い合いをしたとの情報がほぼ同時に鎌倉に届いたことにある。
 政範の死に畠山氏が関わっていたという讒訴が平賀朝雅から牧の方になされ、それを聞いた牧の方の憎しみが畠山一族に向かったのか。平賀朝雅と畠山重忠との間に、武蔵の国の覇権を巡る確執があり、武蔵の国に対する権益を手にしようと企んでいた北条時政が、それに乗じたのか。
 いずれにしろ、元久二年、西暦一二〇五年六月。畠山親子は、北条時政の意を受けた稲毛重成から、鎌倉に出頭するようにとの連絡を受けた。百数十騎というわずかな手勢で鎌倉に向かっていた重忠は、先に息子重忠が殺害されたことを知って初めて自分が謀反人とされていることに気づいた。覚悟を決めた重忠は、そのまま、僅かな手勢で、一万を超す討伐軍と激戦の上、命を落とした。重忠の清廉な人柄と僅かな手勢しか率いていなかったことから、重忠に謀反の意思がなかったことは明らかであった。
 自らの力のなさゆえに、将軍である実朝の名を祖父時政に利用され、無実の者が殺されてしまった。叔父義時から報告を受けて事実を知った実朝は、何よりも無力の自分自身に激しい怒りを覚えた。
 畠山重忠が無実であるとはいえ、それでも討伐軍として参加した者への論功行賞を行わなければならない。まだ少年の実朝を矢面に立たせないために、母政子が、実朝に代わって論功行賞を行った。
 しかし、政子が将軍の母として、重い政治的判断を下すさまを見た牧の方の憎悪は増すばかりだった。
 実朝の慶事のために向かった京で我が子が亡くなったにもかかわらず、実朝は生きて華燭の典を挙げて、御台所となった倫子との交流を楽しんでいる。その姿を見た牧の方が、実朝のことを憎むのはある意味、仕方のないことなのかもしれない。子を泣くした母の悲しみというのは、何物にも耐えがたいものであろうとも実朝は思う。実朝の兄姉をすべて亡くした母政子がそうだったのだから。
 だが、母政子は、牧の方とは違う。母は、子を失った悲しみを一度として己一人のための野心へと転化させたことなどなかった。政範は病で亡くなったのであって、戦や謀略などで誰かによって殺されたわけではない。牧の方は、果たして本当に政範のことを慈しみ、その死を悲しんだのだろうか。子を失って悲しみにくれる母が、野心を隠そうともせず、己が権力を持つためだけに、多くの者の血を流させたりするだろうか。
 この時の実朝は、祖父時政の監視下にその身柄を置かれていた。牧の方は、実朝を廃し、自らの野心を満たしてくれる者を次の将軍にしようとするであろう。実朝は、牧の方の憎悪が今度こそ、実朝自身に直接向けられるであろうことをはっきりと自覚し、覚悟を決めた。実朝は、倫子との短くも楽しかった日々を思い出し、心の中で先に逝くことを詫びた。
 
 最初に、牧の方に畠山への讒訴を行ったのは、平賀朝雅であったか。牧の方と朝雅の目的は、何なのか。考えを巡らせている義時の脳裏に、月食の夜の実朝の遺言のような言葉が浮かんだ。
「私は、体があまり丈夫ではないから、それほど長生きはできないと思う。私が、母上よりも先に逝くことになったら、その時は、叔父御、あなたが母上を守ってさしあげてほしい」
 牧の方の目的は、将軍実朝の抹殺か!義時は、今までにない戦慄を覚えた。まだ少年の実朝は、多くを語らなかったが、やはり、牧の方の野望を見抜いていたのだ。将軍は今、父時政の屋敷にいる。事は一刻を争う。義時は、甥を助け出すため、父と継母に歯向かうことを決心した。
 時政の屋敷に、義時の意を受けた兵が大勢押しかけた。
「尼御台様の御命令です!将軍家のお身柄をお引き取りに参った!相州殿の屋敷にお移しする!」
 だが、時政と牧の方の命を受けた者達は、実朝の身柄を渡そうとはしなかった。
 一族の確執と怨恨から、畠山重保殺害に手を染め、義時と共に畠山討伐に加わった三浦義村だったが、無実だった畠山重忠の武士の誇りをかけた壮絶な最期を思い出し、義村は、時政の意を信じた己を恥じた。
(牧の方に、鎌倉を思う気持ちも、誠に母親として子を思う気持ちも存在しない。あの女の愚かで醜い自分勝手な野心のためだけに、多くの血が流れたのだ。そのことにあの女が心を寄せることもない。結果として、あの女の専横を許した時政も同罪だ。これ以上、時政と牧の方の勝手を許すわけには行かない。ここは、強行突破するしかない)
 義村はそう思った。
 実朝がいる場所の見当をつけた義村は、実朝に聞こえるような大音声で言った。
「御所様!聞こえますか!母君のお迎えが来ております!出てきてください!」
 義村の声に反応した実朝は、先を行かせまいとする時政邸の兵達に、「私は将軍である!私が行く道を阻む者は、今ここで謀反人になったものと心得よ!」と一喝した。大人しいばかりの操り人形だと思っていた少年の威厳に満ちた姿に動揺した兵達は、次々と道を開けた。姿を現した将軍に対し、義村は、「ご無礼つかまつります!」と一礼して、将軍を体ごと担ぎ上げて輿が待つ場所まで一目散に走った。
 実朝を乗せた輿は、多くの屈強の兵達に守られながら、義時の邸に向かった。
 勝敗は決した。時政と牧の方は、鎌倉を追放され、伊豆に流罪となることが決まった。
 だが、牧の方にだけは、どうしても言わねばならないことがあると実朝は思った。時政と牧の方が伊豆に護送される日、牧の方の前に突如として現れた実朝の姿を見て、牧の方は、憎しみに満ちた目で実朝を睨みつけた。
 実朝は、牧の方に向けて厳かに語った。
「牧の方よ。故右幕下と尼御台の子である鎌倉の主の言葉として、心して聞け。大罪を犯したそなたが、今こうして命を助けられたのは、すべて我が母上、尼御台の存在があればこそである。罪人とはいえ、時政は尼御台の父であり、そなたは、血がつながらぬとはいえ、尼御台の義母に当たる。尼御台に親不孝者の汚名を着せるのは、あまりに恐れ多いことゆえ、そなたは助かったのだ」
 実朝は、牧の方への怒りで、感情が高ぶっていった。
「母上が父上と共に、どれほどの苦しみを抱えて大きな道を歩み、この東国を守ろうとしたか、そなたには決して分かるまい。そなたは息子を亡くしたが、母上はわが子を三人亡くされた。だが、母上は、そなたのように、一度たりとも我が子を己の野望のためだけに利用しようとしたことはない。母上がどれだけ慈愛深いお方であるかは、子の私が一番よく知っている。人として大切な者を忘れたそなたに、母上に代わって万人の上に立つ資格などあろうはずがない!いい加減身の程を知れ!」
 実朝の姿は、すべての坂東武者達に畏怖された父頼朝そのものだった。大人しくひ弱な操り人形だとばかり思っていた少年将軍の威厳と迫力に満ちた怒気に、牧の方は、この時初めて心の底から恐怖を覚えて、震えが止まらなかった。
 実朝の言葉を静かに聞いていた祖父の時政は、実朝に対して深々と頭を下げた。
「儂らの負けです、御所様」
 そして、時政は、牧の方の肩をそっと抱きしめた。
「この愚かな女には、愚かな儂しかおらんのです」
 牧の方は、時政の腕の中で赤子のように泣きじゃくった。実朝の中に、敗者への怒りはもはやなく、あるのは哀れみだけだった。
「じじ殿、ばば殿。達者で穏やかに余生を過ごされよ」
 実朝は、そう言って祖父母を送り出した。
 牧氏事件の後、事件に関わったとして娘婿の平賀朝雅は京で誅殺された。

   十
 それからしばらくして、京からできたばかりの新古今和歌集の写しが届けられた。正式にはお披露目も公表もされていなかったが、内藤朝親は新古今集の編纂者である藤原定家に師事しており、そのつてを頼ってのことであった。
 新古今集には、敬愛する父頼朝の和歌も二首入選していることもあって、実朝は大変喜んだ。
 道すがら富士の煙(けぶり)もわかざりき晴るる間もなき空のけしきに
 晴れる間もない空の景色のために、旅の途中、富士の煙もはっきりとは分からなかった。
 これは、頼朝が上京した際の旅路で詠んだものらしい。
「建久六年の御父君の御上洛の際には、御所様も御一緒でいらしたのでしょう?やはり、富士のお山は見えなかったのですか?」
 語りかける倫子に、実朝は首をかしげた。
「さあ、どうだっただろうなあ。あの時は私も本当に幼かったから。見えなかったのではなく、見ていなかったから覚えていないのかもしれないね。御仏のお使いの女の子のことだけはしっかりと覚えているのだけれどねえ」
 そう言って、実朝は倫子にはにかんだような笑みを見せた。
 みちのくのいはでしのぶはえぞ知らぬ書き尽くしてよ壺の石ぶみ
 これは、慈円による、「思ふこといなみちのくのえぞ言はぬ壺の石ぶみ書き尽くさねば」に対する頼朝の返歌である。
 壺の石ぶみとは、征夷大将軍坂上田村麻呂の奥州の蝦夷征伐ゆかりの岩のことである。蝦夷と得ぞなどの掛詞を使い、坂上田村麻呂と同じ征夷大将軍であり、奥州征伐を行った頼朝に対して、思うことを書き尽くすことができませんと慈円は言ったのであろうか。
 それに対し、頼朝は、慈円の贈歌に折り込まれた言葉を引用し、地名の岩出と言はで、信夫と忍ぶ、踏みと文をかけて、言わないで耐え忍んでいたのでは分からないので、手紙に書き尽くして下さいよと即興で応答したものと思われる。
「さすが父上だなあ。よし、私も頑張ってみよう」
 そう言って、実朝は、いくつかひねり出した和歌を倫子に見せた。
 富士の嶺(ね)の煙(けぶり)も空にたつものをなどか思ひの下(した)に燃ゆらむ
 富士の煙も空に立っているのに、どうして私の思いは下燃え(片思い)なのだろう。
 みちのくの真野の萱原(かやはら)かりにだにこぬ人をのみ待つが苦しさ
 みちのくの真野の葛原は、かりそめに、狩りにやって来る人すらいないのに、それを待つ苦しさといったら……。
 信夫山下ゆく水の年をへて沸きこそかへれ逢ふよしをなみ
 信夫山の下を流れていく水が長い年月を経て湧きかえるように、私の心も長い間耐え忍んで湧きかえっているのだ、あなたに遭う方法もないのに……。
 漏らしわびぬ信夫の奥の山深み木(こ)隠れてゆく谷川の水
 信夫の山深く木陰を密かに谷川の水が流れていくように、私も心の内を漏らしかねているのだ。
 心をし信夫のさとに置きたらば阿武隈川は見まくも近けむ
 信夫の里ではないが、耐え忍ぶことをこころがけたなら、阿武隈川の名のとおり、あなたに逢う日も近いだろう。
「まあ……」
 実朝から贈られた和歌を見て、倫子は顔を紅く染めた。その様子を見て、実朝もまた、頬を染めた。
 とは言っても、言葉遊び、練習のために作った範囲のものに過ぎず、色好みだった父とは違って、奥手の実朝は、性的な知識に乏しく、真の夫婦や恋人同士が実際にどんなことをするのかはほとんど分かっていない。まだ少年と少女の初々しい将軍と御台所は、届いたばかりの最新の和歌集を眺めては、穏やかに楽しそうに笑い合っている。
 新しい言の葉を紡ぐ若い将軍の新しい時代がやって来ようとしていた。
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