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こちらをまっすぐに見てくるトケルさんの目は、とても澄んでいて、見つめていると深く吸い込まれそうに思います。
もしかして、この世の方ではないのでは、なんて、あり得ないことがふと過りました。
だけど、そのうち春の日の凪いだ海のように、心がなだらかに、落ち着いていくのが、自分でわかりました。
「ありません」
キッパリと言い切ったわたしの答えに、トケルさんは、わずかにだけ瞳を揺らしました。
「わたしは、確かに、少し大変な時期を過ごしたことがあります」
「自律神経を乱したり、会社が倒産したり」
「妊娠中毒症にかかったり。でも、それらをすべてなかったことにしたいとは、ちっとも思いません。例え可能だとしてもです」
例え、から後ろのセリフを少し強めに発しました。
「……覚えていたら、辛いのでは?」
「辛いなんて」
わたしは頬が緩みました。
「思い出して、辛いと感じる過去など、わたしには一つもありません。だって、そうでしょう? わたしの過去はすべて、今の娘がここに在ることに繋がっているんです」
「そういう考えもありますね」
「もし、そのうちの一つでも欠けてしまったら、愛する娘と出会えていなかったかもしれません。思い出すたびに、娘と出会えた奇跡を、感謝を、いつでも噛みしめることができる、わたしの想い出は、どれをとっても愛おしいのです」
トケルさんはじっとこちらを見たあと、ゆるやかに微笑み、静かに目を閉じました。
つられるようにして、視線をテーブルの上のカップに下げると、アイスクリームは少しも溶けていません。あいかわらずカチンコチンのままです。
気がつくと、トケルさんはまぶたを開いていました。大切なものでも眺めるみたいに、アイスクリームの光る表面を眺めています。
「……溶けませんね。でも、言い出しっぺのくせになんですが、僕にはこれ以上待っていられる時間がないのです」
「え?」
「申し訳ありません。そちらは、どうぞ二つともいただいてください」
それなら、娘と、裕美と久しぶりに食べようかしら。そう考えると、なんだかワクワクしてきました。
トケルさんは椅子から立ち上がりました。
「どうやら、僕は必要なかったようですね。だけど、よかった。お会いできて、嬉しかったです」
もしかして、この世の方ではないのでは、なんて、あり得ないことがふと過りました。
だけど、そのうち春の日の凪いだ海のように、心がなだらかに、落ち着いていくのが、自分でわかりました。
「ありません」
キッパリと言い切ったわたしの答えに、トケルさんは、わずかにだけ瞳を揺らしました。
「わたしは、確かに、少し大変な時期を過ごしたことがあります」
「自律神経を乱したり、会社が倒産したり」
「妊娠中毒症にかかったり。でも、それらをすべてなかったことにしたいとは、ちっとも思いません。例え可能だとしてもです」
例え、から後ろのセリフを少し強めに発しました。
「……覚えていたら、辛いのでは?」
「辛いなんて」
わたしは頬が緩みました。
「思い出して、辛いと感じる過去など、わたしには一つもありません。だって、そうでしょう? わたしの過去はすべて、今の娘がここに在ることに繋がっているんです」
「そういう考えもありますね」
「もし、そのうちの一つでも欠けてしまったら、愛する娘と出会えていなかったかもしれません。思い出すたびに、娘と出会えた奇跡を、感謝を、いつでも噛みしめることができる、わたしの想い出は、どれをとっても愛おしいのです」
トケルさんはじっとこちらを見たあと、ゆるやかに微笑み、静かに目を閉じました。
つられるようにして、視線をテーブルの上のカップに下げると、アイスクリームは少しも溶けていません。あいかわらずカチンコチンのままです。
気がつくと、トケルさんはまぶたを開いていました。大切なものでも眺めるみたいに、アイスクリームの光る表面を眺めています。
「……溶けませんね。でも、言い出しっぺのくせになんですが、僕にはこれ以上待っていられる時間がないのです」
「え?」
「申し訳ありません。そちらは、どうぞ二つともいただいてください」
それなら、娘と、裕美と久しぶりに食べようかしら。そう考えると、なんだかワクワクしてきました。
トケルさんは椅子から立ち上がりました。
「どうやら、僕は必要なかったようですね。だけど、よかった。お会いできて、嬉しかったです」
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