25 / 26
猫と北風
2
しおりを挟む
虎太郎を貰い受けることを決めたのは、佐川さんだ。
わたしはその頃、病気のせいで、まったく仕事に行けなくなっていた。身体は至って健康なのに、心がうまく機能しない。
そのショックで、趣味にも手がつかず、親や友達にすら怖くて会えず、生への執着すら失いかけていて、酸素を吸って吐くだけの毎日をやっと送っていた。
「猫を貰おうかと思うんだけど」
ある日の朝、ポンコツ状態のわたしの代わりに食器を片づけたあと、しばらくスマホとにらめっこしていた佐川さんは、唐突に言った。日曜日で、佐川さんは仕事が休みだった。
「知り合いの家で、仔猫が産まれたんだって」
わたしは座椅子に沈み込んだまま、返事をしなかった。物事を考える余裕がなかった。イエスとノーでさえ、すんなり導き出せない。
ただ、佐川さん、猫触れないくせに、と思った。
わたしは幼い頃から猫が大好きで、物心ついた時から、自分のそばにいつも猫がいたことを覚えている。実家を出て、佐川さんと二人でアパート暮らしを始めてからは、よくデートと称して猫カフェへ出向いた。
そんな時も佐川さんは、猫を遠巻きに見ているだけで、結局触れられなかった。どうしてそんな人が、猫と一緒に生活しようなんて言うのだ。
「見てごらん。可愛いよね」
佐川さんが、友達がスマホに送ってくれたという仔猫の写真を、腕を伸ばしてわたしに見せる。
そのとたん、わたしは涙を流した。胸が詰まって、しばらく涙を止められなかった。
仔猫の譲渡の話は、わたしをよそにトントン拍子に進み、次の佐川さんの休日の午後、初めて対面することになった。その時も、わたしはやっぱり泣いてしまい、仔猫のこんがり焦げたみたいな黒い頭に、ぽとぽとと涙の粒を落とした。
愛おしいわけではなかった。わたしはただ、大きな後悔の念に押し潰されそうでいた。
故障した家電の応急処置であるとか、冠婚葬祭のマナーであるとか、そういった知識では、わたしは佐川さんに敵うことは一個もない。
でも、猫のことに関しては、わたしは佐川さんなんかよりずっとずっとエキスパートだ。そんなわたしだけど、長い間、猫を家族に迎え入れることを避けてきた。
それは、中学生の頃に受けたトラウマが起因している。その事実を、婚姻届を提出する前夜の告白で、佐川さんは初めて知った。
「きっと誰もが持つ可能性のある感情だと思うよ。それに、君はまだ子供だった」
布団の中で、佐川さんは眠気なんか感じさせない声で、当然のことのようにスパッと言った。
わたしはたぶんそう言って欲しかったので、そんな自分がひどく醜く恥ずかしく思えて、布団を頭から被って「違う違う」と泣きじゃくった。
「そうやって後悔するってことは、ちゃんと愛していたってことだよ」
「違う。きっと本当に愛していなかった」
そうじゃなかったら、いくらあの子の足が膿んでしまったからって、距離を置いてしまうはずがないもの。臭うからって、おざなりに扱うはずがないもの。
独りきりで死なせてしまうはずがないもの。
「じゃあ、これから愛そうよ。一生懸命愛そうよ」
佐川さんは照れることもなく、青空みたいにスカッと言った。
わたしの心がそれで気持ちよく晴れ渡るなんて、そんなに事は都合よくいかない。だけど、厚い雲の隙間から、チカッと光の気配を感じたことは確かだった。
まったく同じセリフを、虎太郎と会った時にも言ってくれた。
佐川さんは強い。
佐川さんはしゃんとしている。
でも、わたしは知っている。
二人の挙式が済んで、お披露目のパーティーも終わって、出席できなかった方々へのお礼回りも無事終了した夜。倒れて、急激に神経を病んでしまったわたし。
取り乱すわたしを、持ち前のおおらかさでなだめ、落ち着かせて、寝かしつけたあとで。
佐川さんは、独りで泣いていた。
台所の小さな明かりをつけて、コップにビールを半分くらい注いで、でも、それに口をつけることもしないまま、しくしくと泣いていた。惨めなくらいささやかな蛍光灯の光が、佐川さんの濡れた頬を照らしていた。
これから本格的にやってくるだろう冬は、優しすぎるこの人にはきっと厳しい。わたしは、優しさと弱さは紙一重だと考えていた。
だけど、佐川さんを解放してあげることなど、できなかった。わたしは佐川さんがいなかったら、独りでは何もできない。生きていくことさえ。
でも、そんな心配は不要だった。
そんな時でさえ、佐川さんはちゃんと自分で解決策を見つけていたのだ。
それが、虎太郎を譲り受けること、だった。
わたしはその頃、病気のせいで、まったく仕事に行けなくなっていた。身体は至って健康なのに、心がうまく機能しない。
そのショックで、趣味にも手がつかず、親や友達にすら怖くて会えず、生への執着すら失いかけていて、酸素を吸って吐くだけの毎日をやっと送っていた。
「猫を貰おうかと思うんだけど」
ある日の朝、ポンコツ状態のわたしの代わりに食器を片づけたあと、しばらくスマホとにらめっこしていた佐川さんは、唐突に言った。日曜日で、佐川さんは仕事が休みだった。
「知り合いの家で、仔猫が産まれたんだって」
わたしは座椅子に沈み込んだまま、返事をしなかった。物事を考える余裕がなかった。イエスとノーでさえ、すんなり導き出せない。
ただ、佐川さん、猫触れないくせに、と思った。
わたしは幼い頃から猫が大好きで、物心ついた時から、自分のそばにいつも猫がいたことを覚えている。実家を出て、佐川さんと二人でアパート暮らしを始めてからは、よくデートと称して猫カフェへ出向いた。
そんな時も佐川さんは、猫を遠巻きに見ているだけで、結局触れられなかった。どうしてそんな人が、猫と一緒に生活しようなんて言うのだ。
「見てごらん。可愛いよね」
佐川さんが、友達がスマホに送ってくれたという仔猫の写真を、腕を伸ばしてわたしに見せる。
そのとたん、わたしは涙を流した。胸が詰まって、しばらく涙を止められなかった。
仔猫の譲渡の話は、わたしをよそにトントン拍子に進み、次の佐川さんの休日の午後、初めて対面することになった。その時も、わたしはやっぱり泣いてしまい、仔猫のこんがり焦げたみたいな黒い頭に、ぽとぽとと涙の粒を落とした。
愛おしいわけではなかった。わたしはただ、大きな後悔の念に押し潰されそうでいた。
故障した家電の応急処置であるとか、冠婚葬祭のマナーであるとか、そういった知識では、わたしは佐川さんに敵うことは一個もない。
でも、猫のことに関しては、わたしは佐川さんなんかよりずっとずっとエキスパートだ。そんなわたしだけど、長い間、猫を家族に迎え入れることを避けてきた。
それは、中学生の頃に受けたトラウマが起因している。その事実を、婚姻届を提出する前夜の告白で、佐川さんは初めて知った。
「きっと誰もが持つ可能性のある感情だと思うよ。それに、君はまだ子供だった」
布団の中で、佐川さんは眠気なんか感じさせない声で、当然のことのようにスパッと言った。
わたしはたぶんそう言って欲しかったので、そんな自分がひどく醜く恥ずかしく思えて、布団を頭から被って「違う違う」と泣きじゃくった。
「そうやって後悔するってことは、ちゃんと愛していたってことだよ」
「違う。きっと本当に愛していなかった」
そうじゃなかったら、いくらあの子の足が膿んでしまったからって、距離を置いてしまうはずがないもの。臭うからって、おざなりに扱うはずがないもの。
独りきりで死なせてしまうはずがないもの。
「じゃあ、これから愛そうよ。一生懸命愛そうよ」
佐川さんは照れることもなく、青空みたいにスカッと言った。
わたしの心がそれで気持ちよく晴れ渡るなんて、そんなに事は都合よくいかない。だけど、厚い雲の隙間から、チカッと光の気配を感じたことは確かだった。
まったく同じセリフを、虎太郎と会った時にも言ってくれた。
佐川さんは強い。
佐川さんはしゃんとしている。
でも、わたしは知っている。
二人の挙式が済んで、お披露目のパーティーも終わって、出席できなかった方々へのお礼回りも無事終了した夜。倒れて、急激に神経を病んでしまったわたし。
取り乱すわたしを、持ち前のおおらかさでなだめ、落ち着かせて、寝かしつけたあとで。
佐川さんは、独りで泣いていた。
台所の小さな明かりをつけて、コップにビールを半分くらい注いで、でも、それに口をつけることもしないまま、しくしくと泣いていた。惨めなくらいささやかな蛍光灯の光が、佐川さんの濡れた頬を照らしていた。
これから本格的にやってくるだろう冬は、優しすぎるこの人にはきっと厳しい。わたしは、優しさと弱さは紙一重だと考えていた。
だけど、佐川さんを解放してあげることなど、できなかった。わたしは佐川さんがいなかったら、独りでは何もできない。生きていくことさえ。
でも、そんな心配は不要だった。
そんな時でさえ、佐川さんはちゃんと自分で解決策を見つけていたのだ。
それが、虎太郎を譲り受けること、だった。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
愚かな父にサヨナラと《完結》
アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」
父の言葉は最後の一線を越えてしまった。
その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・
悲劇の本当の始まりはもっと昔から。
言えることはただひとつ
私の幸せに貴方はいりません
✈他社にも同時公開
陛下から一年以内に世継ぎが生まれなければ王子と離縁するように言い渡されました
夢見 歩
恋愛
「そなたが1年以内に懐妊しない場合、
そなたとサミュエルは離縁をし
サミュエルは新しい妃を迎えて
世継ぎを作ることとする。」
陛下が夫に出すという条件を
事前に聞かされた事により
わたくしの心は粉々に砕けました。
わたくしを愛していないあなたに対して
わたくしが出来ることは〇〇だけです…
旦那様に離縁をつきつけたら
cyaru
恋愛
駆け落ち同然で結婚したシャロンとシリウス。
仲の良い夫婦でずっと一緒だと思っていた。
突然現れた子連れの女性、そして腕を組んで歩く2人。
我慢の限界を迎えたシャロンは神殿に離縁の申し込みをした。
※色々と異世界の他に現実に近いモノや妄想の世界をぶっこんでいます。
※設定はかなり他の方の作品とは異なる部分があります。
思い出を売った女
志波 連
ライト文芸
結婚して三年、あれほど愛していると言っていた夫の浮気を知った裕子。
それでもいつかは戻って来ることを信じて耐えることを決意するも、浮気相手からの執拗な嫌がらせに心が折れてしまい、離婚届を置いて姿を消した。
浮気を後悔した孝志は裕子を探すが、痕跡さえ見つけられない。
浮気相手が妊娠し、子供のために再婚したが上手くいくはずもなかった。
全てに疲弊した孝志は故郷に戻る。
ある日、子供を連れて出掛けた海辺の公園でかつての妻に再会する。
あの頃のように明るい笑顔を浮かべる裕子に、孝志は二度目の一目惚れをした。
R15は保険です
他サイトでも公開しています
表紙は写真ACより引用しました
【完結】「心に決めた人がいる」と旦那様は言った
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
「俺にはずっと心に決めた人がいる。俺が貴方を愛することはない。貴女はその人を迎え入れることさえ許してくれればそれで良いのです。」
そう言われて愛のない結婚をしたスーザン。
彼女にはかつて愛した人との思い出があった・・・
産業革命後のイギリスをモデルにした架空の国が舞台です。貴族制度など独自の設定があります。
----
初めて書いた小説で初めての投稿で沢山の方に読んでいただき驚いています。
終わり方が納得できない!という方が多かったのでエピローグを追加します。
お読みいただきありがとうございます。
懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。
梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。
あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。
その時までは。
どうか、幸せになってね。
愛しい人。
さようなら。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる