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叩いたら割れそうな僕らの関係はこうして始まった
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運命的なことって、この世の中にどれくらい転がっているのだろう。
僕は考える。
案外と、道端に落ちているエロ雑誌とか、片方だけの長靴とか、ハンバーガー店の空き袋だとか、運転していて見かけるそれらと同じくらいの頻度で、そこそこに落ちているものなんじゃないのだろうか、って。
見つけても、そんなもの、誰もわざわざ停車して拾い上げたりはしない。
だけど、拾って逆さまにした長靴からリングが転がり出てきて、それをきっかけに物語がはじまる可能性だって、なきにしもあらずだって思う。
それは、手にして初めて、その必然性に気づく。
うまく言えないけど、運命って、そういうものなんじゃないのかな。
僕は、ロータリーに立っていた。
この街唯一の私鉄の駅前のほうじゃない。
まるで遅刻ギリギリの生徒を、さぁ急げ! まだ間に合う! と送り出すように、昇降口の手前まで大きく湾曲したそのカーブの先端で、横に停めた愛車のボンネットに手を置いていた。
空を仰ぐようにしていた首の角度が、そろそろ限界。
だけど、そのダルさにさえも郷愁を感じるもんだから、どうしようもなく、ただのでくのぼうみたいに、僕はそこに突っ立っていた。
彼女に再会したのは、そんなときだ。
「蜜成」
僕を呼ぶ声は、後頭部、つまり正門の方向から聴こえてきた。
懐かしいと感じたのは、振り返ってその正体を確認してから。
くすんだピンク色のワイドパンツを穿いて、白いニット、その上にボアの付いたデニムジャケットを羽織った無表情な女性は、今どき珍しい黒髪を肩下まで伸ばしていた。
「柚子先輩?」
そんな名前が僕の声帯を震わせたのは、実に十年ぶりになる。
「覚えてたんだなぁ」
彼女の声には、感慨も驚きも滲んでいなかった。
ショートブーツのヒールでカツカツとアスファルトを踏み、僕の隣に並んだ彼女は、さっきまでの僕と同じように校舎の屋上を見上げた。
「なくなってしまうのですって」
「らしいね。昨年度の卒業生で最後だったとか」
「母校がなくなってしまうのって、あれかな、自宅が地上げ屋に奪われてしまうのと一緒の気分なのかしら」
「どうだろうね。僕は地上げ屋に遭ったことがないからわからないけど」
「わたし、蜜成のそういうとこ、今でも好きよ」
彼女のどこまで本気なのかわからないところに、僕はあいかわらず感心する。
ジロジロ見つめているのもなんなので、僕も再び視線を上げる。
まだまだ新しい淡いピンク色の校舎と、雲ひとつない青い空が、まるでポートレートを眺めているようで嘘くさい。
「後ろ姿で僕だってわかった?」
覚えていてくれたんだ、っていう言い方は、驕っているようでよした。
先程彼女からこぼれたセリフが、いかに嫌味じゃなく自然な感想だったのかが、しみじみとわかる。
「そうね」
「まぁ、十年くらいじゃ、そんなに変わんないのかな」
「十年って一昔? 一昔って長い」
会話が微妙にチグハグだ。
だからと言って、今さら驚いたり、不快に感じたりはしないのだけど。
むしろ、この間がやっぱり懐かしく、楽しいとさえ思ってしまうのは、それだけ心のゆとりを育てる時間が二人の間に流れたということで、そういう意味では、やっぱり十年の月日は長かったんだろうと思う。
「きれいになったね」
それは、お世辞ではなかった。
「そう言われるように努力してる」
必要以上に喜んだり、逆に卑屈になったりしないのは、彼女の長所だ。
三年間お世話になった県立高校が廃校になる連絡は、とくにこなかった。
たまたま入ったコンビニで、ホットの缶コーヒーを片手にレジに並んでいたとき、前に立っていた女子高生二人の会話で知った。
制服がかわいかったのに残念、そう嘆く彼女たちがかつては志望していたというその高校の名前は、僕にあのロータリーを思い出させた。
ショックと言うより、なるほど、と納得した。
だから、卒業以来、同窓会のハガキの一枚も届かなかったんだなぁ、と。
懐かしいねと肩を叩き合うために、どこでどう生きているか知れない卒業生の連絡先を、改めて洗い直している場合じゃなかったのかもしれない。
寂しさを感じないわけではないけど、しかたない。
人だって、建物だって、生きていくため目の前の困難に立ち向かうことで精一杯だ。
翌日、午前中から車を走らせた。
バイトをしているカラオケボックスのシフトは休みだったし、これといって予定もなかった。
思い立ったら、その情熱が冷めてしまう前に動かないとなんとも気持ちが悪くなるのは、僕の性格の良い部分だと思っている。
そうして、着いた場所で昔の恋人に会ってしまうとか。
こうなると、人生をもてあそぶ何か大きな力っていうものは、確かにこの世に存在するのではないかと考えてしまう僕は、ずいぶんかわいい。
「どうして知ったの? 廃校になるって」
屋上のフェンスの、さらに上空でクルクル旋回するとんびを眺めながら、僕は隣に尋ねた。
眼下に獲物でもいるのだろうか。
「蜜成の夢を見て」
僕は静かに視線をずらし、頭一個分は小さい彼女の横顔に落とした。
白い陶器のような肌をした彼女のまつ毛は長く、ぴんと上を向いていた。
「懐かしくなって、なんとなくネットで名前を検索してみたの」
「……え? 載ってた?」
「載ってた。今冬には解体に入っちゃうみたいだったから、くるなら今のうちしかないなって思って」
「……あぁ」
予想と違う回答が返ってきたことに落胆はしなかったけど、そんなことを確認したがった自分に驚いている自分はいた。
第一に、母校のホームページに名前や所在、ましてや今日一日のスケジュールが記載されるほど、僕は有名人でも何でもない。
昔関わった人間が、脈絡もなく夢に出てくることはよくあることで。
彼女が純粋に校舎を見たくて訪れただけであることを察した僕は、また空を仰いだ。
「蜜成は、あいかわらず美形ね」
キャッシュディスペンサーみたいに平淡な声で、彼女は言った。
もしかして、さっき僕が褒めたことへのお返しのつもりなのかとも思ったけど、どうやらそうではないようだ。
「そういう枠の人って、独特な美しさがあるよね。歳も取らない感じだし。あの頃は気づかなかったけど」
僕には、話した人が本音で話しているのかそうではないのか、見定められる特技がある。
「そうなのかな。自分ではよく」
「そういうもんか」
「それに、あの当時はまだ僕だってそうなんだって自覚がなかったからね」
「うん」
「そうじゃなかったら、柚子先輩の告白を受け入れたりしなかった」
「わかってる」
彼女もまた、嘘と本当の区別をしっかり見極められる人だった。
そういう意味で、僕と柚子先輩は似ている。
きっと、僕が女性であったり、僕たちの過去に交際していた事実がなかったりしたなら。
僕たちは、おそらくいい友人同士になれただろう。
校舎の中にも、外にも、僕たち以外の人影はなく、ひっそりとしていた。
灯が消えたようだとは、たぶんこういうことを言う。
わりと最近まで、あの中で奇声を上げてはしゃいでいた生徒たちがいたはずで、それがまるで遠い思い出の中のセピア色の花火のように思える。
事務的なものも、物理的なものも、作業はすべて済んで、あとはもう取り壊しを待つだけなんだろうか。
例えば、僕たちみたいに、なくなってしまう前に姿をなんとなく目にしておこうと考える、他の卒業生たちはいないのだろうか。
それとも、この世にそんなセンチメンタルな人間はわずかなのだろうか。
「蜜成、今何してるの?」
物思いから引っ張り出された僕は、再び隣に顔を向ける。
つるんとした表情のない横顔は、マネキンを見ている錯覚にもおちいりそうなほどで、おおよそ郷愁を抱いているようには見受けられない。
「仕事だったら、カラオケボックスのアルバイトだけど」
「就職してないんだ」
彼女の声は責めているようでも、呆れているようでもなかった。
だから、僕は素直に状況を吐き出すことができる。
「やりたいことがあって。できるだけフットワークを軽くしておきたいから、定職に就いちゃうのは嫌だったんだ」
「やりたいこと?」
彼女の目がこっちを向いた。
黒目がちで、虹彩の部分がダージリンティーの色に似た、あの頃からひとつも変わらないまっすぐな目だ。
その目で見つめられると、僕は嘘がつけなかった。
もとより、彼女をあざむこうと企んだことなんて一度もなかったけど。
「ロックバンドやってる。ゴリゴリのではないけど。もう少しで、インディーズではあるけど、アルバムを出させてもらえそうなんだ」
「蜜成がうたうの?」
僕は肩をすくめた。
「メインではないけどね。ツインボーカルなんだ。僕がやってるのはもっぱら作詞で」
「すごい」
彼女が瞳を瞬かせてまばたきをした。
二十代も後半になって何を夢みたいなこと言っているんだと、そう鼻白まれることがほとんどだった僕には、それは新鮮な反応だった。
「ありがとう。まぁ、ウケてるのはまだ本当に一部なんだけど。アルバムが出ることで、今よりもっと認知度が上がればと思ってる」
「いいと思う。蜜成、顔が良いから、ファンがたくさんつきそう」
「ルックスだけでウケても嬉しくないよ。歌と演奏が評価されないと」
「そうか。うん。そうだね。恋人は?」
「いや、今はひとり」
「そう」
彼女は、話が一区切りついたとでもいうように、校舎へ視線を戻した。
浮かび上がるみたいな白い肌に、椿色の唇が咲いている。
既製品の色を塗らなくてもじゅうぶんに美しいそれに、蜜蜂が引き寄せられるように僕が触れた日が、やけに遠く感じられた。
ごめんね、って裸のままうなだれたあの日も。
柚子先輩は、確か、あのとき泣いていた。
「蜜成」
視線は高い位置をとらえたまま、彼女の唇が小さく動いた。
「ゲームしよう」
「ゲーム?」
僕の頭にとっさに浮かんだのは、いっとき、社会現象を巻き起こすほどに大ブームになった、愛嬌のあるモンスターを収集するゲームだった。
目の前のクールな柚子先輩とは到底結びつかなくて、面食らう。
「簡単なゲーム。一緒に暮らして、どちらかに本気で恋愛感情が芽生えたら、負け。すぐに同居を解消して、もう二度と会わない。どう?」
こっちを向いた彼女は、椿の花がほころぶように、その日初めて笑った。
どこかで姿の見えないとんびが、ひょろろろ、と鳴いた。
「恋愛感情が芽生えたら、そのまま一緒に暮らし続ければいいのでは?」
ハンドルを大きく左に切る僕は、それがおかしな主張とは思わなかった。
「だめ」
キッパリと言い切る彼女のまつ毛は、あいかわらず上を目指したままで、その下の瞳孔はカーブの先を見つめている。
家まで送っていくよ、と切り出した言葉に他意はなかった。
彼女が母校にくるまでの足にした市営のバスは、この辺では一時間に一本程度しか走っていない。
寒い中待たせるのはかわいそうだし、どうせ僕は暇だった。
ゲームにのるかそるかはまだ決めていなくて、ドライブしながら彼女の真意を確かめるのもいいかもしれない、とはあとから思った。
彼女の実家には、二度ほど訪れたことがある。
だけど、先程彼女が告げた住所は、そことはまったく反対の方角だった。
特別、奇妙なことではない。
僕が独り立ちしているように、彼女だってひとりで生活をしていることに何の疑問も持たれない年齢だ。
「わたしは好きな人と暮らしたくないし、わたしを好きになった人には一緒に暮らして欲しくない」
「そんなこと言ってたら、結婚できないじゃない」
なにげなく口にしてしまってから、まさに適齢期の彼女に対しては失言だったかな、と口角を引き下げた。
ハッキリ明言されたわけじゃないけど、そんなゲームの提案をしてくるくらいなのだから、今はそういう相手がいないのだろう。
話の矛先を変えてみる。
「そのゲーム、賭けの相手を僕にするのって意味があるのかな。僕は女性を好きになれないよ。わかってると思うけど」
僕はフロントガラスを通してまっすぐに伸びる道路を見ていたけど、助手席の彼女がこちらを向いたのがわかった。
「だからいいんじゃない」
「だから? いい?」
そういう返答がくるとは思わなかった。
「蜜成は一生わたしを好きにならない。そしたら、一生一緒に暮らせるじゃない」
「それって」
まるで僕のことが好きみたいじゃないか、というセリフはそれこそ失言のような気がして、口をつぐんだ。
そもそも、ゲームの言い出しっぺは彼女だ。
それはつまり、自分は負けない自信がじゅうぶんにあるということだし、意表をつく理由で振ってきた昔の恋人に、今でも恋愛感情があるとも思えない。
冷静になって考えれば、ルームシェアを懇願されているようにも取れる。
それならばそれでかまわないけど、だとしたら、恋愛感情が芽生えたらうんぬんのくだりは必要がない気がする。
それが、僕の気道にいささか引っかかってしかたがなかった。
「それ、ゲームとして成立する? 勝負が決まらないって最初からわかってるのに」
「CD聴いていい?」
ひょうひょうと僕をかわす彼女が頭を傾けて、黒髪がすぐ脇で流れる。
そこから漂う香りは、凝り性ではない僕がいろいろ手を出しながら、今月実に三つ目になる芳香剤が放つ人工的なものとは、少しだけ違った。
「どうして、好きな人とは暮らしたくないの?」
それは、純粋な疑問だった。
人を愛する心を持っている人間だったなら、好きな人のそばに長くいたいと考えるのが普通で、必然と一緒に暮らしたくなるものだと思う。
僕の知る彼女は、多少素っ気ないけども、取り立てて変わったところもなかったはずなので、どうしてそんなふうに思うのか聞いてみたかった。
だけど、少々踏み込んだ質問だという自覚はあった。
感情の起伏の波が人より目立ちにくい僕だけど、そこまで鈍くはない。
だから、気分を悪くしたのなら答えてくれなくてもいいと考えていた。
「嫌いになりたくないから」
手に取った数枚のCDケースをカシャカシャさせながら、迷いのない声で彼女は言った。
「一緒に暮らすと粗が見えてくるでしょ。慣れてくるとお互いを思いやる気持ちも薄れていくし。そうやって崩壊していく関係は、もう嫌なの」
「なるほど」
僕は、それ以上詮索することをやめにした。
僕の知るよしのない、彼女の悲しい傷に触れてしまうと気づいたからだ。
そして、もうひとつ。
きっと、彼女は今、寂しい。
「これ、蜜成の歌ね?」
一枚のプラスチックケースを、運転中の僕を気遣いながら彼女は示す。
不透明の、膝で叩いたらすぐに割れそうな安っぽいケースで、曲のタイトルどころか、自分たちのバンド名すら表記していないものだ。
「そうだよ。何が入ってたかな」
「かけてみよう」
僕の質問に気分を害したふうでもなく、そして、さして興味もなさそうに、彼女はそれをカーステレオに差し込んだ。
結果から言うと、僕は彼女が言い出したゲームにのった。
彼女を送り届けた日の二日後、僕は彼女のアパートへと引っ越した。
引っ越しと言っても、彼女の部屋には男性もののスリッパから、食器、バスタオルに至るまで必要なものは一通り揃っていたので、僕がそれまで住んでいたアパートから運んだのは、衣類と、タブレットだけだった。
それらがいつまで使われていたのかなんて、野暮なことは訊かない。
まさか本気で一生一緒に暮らす気はないのだろうし、部屋の解約はしないでおいた。
僕は考える。
案外と、道端に落ちているエロ雑誌とか、片方だけの長靴とか、ハンバーガー店の空き袋だとか、運転していて見かけるそれらと同じくらいの頻度で、そこそこに落ちているものなんじゃないのだろうか、って。
見つけても、そんなもの、誰もわざわざ停車して拾い上げたりはしない。
だけど、拾って逆さまにした長靴からリングが転がり出てきて、それをきっかけに物語がはじまる可能性だって、なきにしもあらずだって思う。
それは、手にして初めて、その必然性に気づく。
うまく言えないけど、運命って、そういうものなんじゃないのかな。
僕は、ロータリーに立っていた。
この街唯一の私鉄の駅前のほうじゃない。
まるで遅刻ギリギリの生徒を、さぁ急げ! まだ間に合う! と送り出すように、昇降口の手前まで大きく湾曲したそのカーブの先端で、横に停めた愛車のボンネットに手を置いていた。
空を仰ぐようにしていた首の角度が、そろそろ限界。
だけど、そのダルさにさえも郷愁を感じるもんだから、どうしようもなく、ただのでくのぼうみたいに、僕はそこに突っ立っていた。
彼女に再会したのは、そんなときだ。
「蜜成」
僕を呼ぶ声は、後頭部、つまり正門の方向から聴こえてきた。
懐かしいと感じたのは、振り返ってその正体を確認してから。
くすんだピンク色のワイドパンツを穿いて、白いニット、その上にボアの付いたデニムジャケットを羽織った無表情な女性は、今どき珍しい黒髪を肩下まで伸ばしていた。
「柚子先輩?」
そんな名前が僕の声帯を震わせたのは、実に十年ぶりになる。
「覚えてたんだなぁ」
彼女の声には、感慨も驚きも滲んでいなかった。
ショートブーツのヒールでカツカツとアスファルトを踏み、僕の隣に並んだ彼女は、さっきまでの僕と同じように校舎の屋上を見上げた。
「なくなってしまうのですって」
「らしいね。昨年度の卒業生で最後だったとか」
「母校がなくなってしまうのって、あれかな、自宅が地上げ屋に奪われてしまうのと一緒の気分なのかしら」
「どうだろうね。僕は地上げ屋に遭ったことがないからわからないけど」
「わたし、蜜成のそういうとこ、今でも好きよ」
彼女のどこまで本気なのかわからないところに、僕はあいかわらず感心する。
ジロジロ見つめているのもなんなので、僕も再び視線を上げる。
まだまだ新しい淡いピンク色の校舎と、雲ひとつない青い空が、まるでポートレートを眺めているようで嘘くさい。
「後ろ姿で僕だってわかった?」
覚えていてくれたんだ、っていう言い方は、驕っているようでよした。
先程彼女からこぼれたセリフが、いかに嫌味じゃなく自然な感想だったのかが、しみじみとわかる。
「そうね」
「まぁ、十年くらいじゃ、そんなに変わんないのかな」
「十年って一昔? 一昔って長い」
会話が微妙にチグハグだ。
だからと言って、今さら驚いたり、不快に感じたりはしないのだけど。
むしろ、この間がやっぱり懐かしく、楽しいとさえ思ってしまうのは、それだけ心のゆとりを育てる時間が二人の間に流れたということで、そういう意味では、やっぱり十年の月日は長かったんだろうと思う。
「きれいになったね」
それは、お世辞ではなかった。
「そう言われるように努力してる」
必要以上に喜んだり、逆に卑屈になったりしないのは、彼女の長所だ。
三年間お世話になった県立高校が廃校になる連絡は、とくにこなかった。
たまたま入ったコンビニで、ホットの缶コーヒーを片手にレジに並んでいたとき、前に立っていた女子高生二人の会話で知った。
制服がかわいかったのに残念、そう嘆く彼女たちがかつては志望していたというその高校の名前は、僕にあのロータリーを思い出させた。
ショックと言うより、なるほど、と納得した。
だから、卒業以来、同窓会のハガキの一枚も届かなかったんだなぁ、と。
懐かしいねと肩を叩き合うために、どこでどう生きているか知れない卒業生の連絡先を、改めて洗い直している場合じゃなかったのかもしれない。
寂しさを感じないわけではないけど、しかたない。
人だって、建物だって、生きていくため目の前の困難に立ち向かうことで精一杯だ。
翌日、午前中から車を走らせた。
バイトをしているカラオケボックスのシフトは休みだったし、これといって予定もなかった。
思い立ったら、その情熱が冷めてしまう前に動かないとなんとも気持ちが悪くなるのは、僕の性格の良い部分だと思っている。
そうして、着いた場所で昔の恋人に会ってしまうとか。
こうなると、人生をもてあそぶ何か大きな力っていうものは、確かにこの世に存在するのではないかと考えてしまう僕は、ずいぶんかわいい。
「どうして知ったの? 廃校になるって」
屋上のフェンスの、さらに上空でクルクル旋回するとんびを眺めながら、僕は隣に尋ねた。
眼下に獲物でもいるのだろうか。
「蜜成の夢を見て」
僕は静かに視線をずらし、頭一個分は小さい彼女の横顔に落とした。
白い陶器のような肌をした彼女のまつ毛は長く、ぴんと上を向いていた。
「懐かしくなって、なんとなくネットで名前を検索してみたの」
「……え? 載ってた?」
「載ってた。今冬には解体に入っちゃうみたいだったから、くるなら今のうちしかないなって思って」
「……あぁ」
予想と違う回答が返ってきたことに落胆はしなかったけど、そんなことを確認したがった自分に驚いている自分はいた。
第一に、母校のホームページに名前や所在、ましてや今日一日のスケジュールが記載されるほど、僕は有名人でも何でもない。
昔関わった人間が、脈絡もなく夢に出てくることはよくあることで。
彼女が純粋に校舎を見たくて訪れただけであることを察した僕は、また空を仰いだ。
「蜜成は、あいかわらず美形ね」
キャッシュディスペンサーみたいに平淡な声で、彼女は言った。
もしかして、さっき僕が褒めたことへのお返しのつもりなのかとも思ったけど、どうやらそうではないようだ。
「そういう枠の人って、独特な美しさがあるよね。歳も取らない感じだし。あの頃は気づかなかったけど」
僕には、話した人が本音で話しているのかそうではないのか、見定められる特技がある。
「そうなのかな。自分ではよく」
「そういうもんか」
「それに、あの当時はまだ僕だってそうなんだって自覚がなかったからね」
「うん」
「そうじゃなかったら、柚子先輩の告白を受け入れたりしなかった」
「わかってる」
彼女もまた、嘘と本当の区別をしっかり見極められる人だった。
そういう意味で、僕と柚子先輩は似ている。
きっと、僕が女性であったり、僕たちの過去に交際していた事実がなかったりしたなら。
僕たちは、おそらくいい友人同士になれただろう。
校舎の中にも、外にも、僕たち以外の人影はなく、ひっそりとしていた。
灯が消えたようだとは、たぶんこういうことを言う。
わりと最近まで、あの中で奇声を上げてはしゃいでいた生徒たちがいたはずで、それがまるで遠い思い出の中のセピア色の花火のように思える。
事務的なものも、物理的なものも、作業はすべて済んで、あとはもう取り壊しを待つだけなんだろうか。
例えば、僕たちみたいに、なくなってしまう前に姿をなんとなく目にしておこうと考える、他の卒業生たちはいないのだろうか。
それとも、この世にそんなセンチメンタルな人間はわずかなのだろうか。
「蜜成、今何してるの?」
物思いから引っ張り出された僕は、再び隣に顔を向ける。
つるんとした表情のない横顔は、マネキンを見ている錯覚にもおちいりそうなほどで、おおよそ郷愁を抱いているようには見受けられない。
「仕事だったら、カラオケボックスのアルバイトだけど」
「就職してないんだ」
彼女の声は責めているようでも、呆れているようでもなかった。
だから、僕は素直に状況を吐き出すことができる。
「やりたいことがあって。できるだけフットワークを軽くしておきたいから、定職に就いちゃうのは嫌だったんだ」
「やりたいこと?」
彼女の目がこっちを向いた。
黒目がちで、虹彩の部分がダージリンティーの色に似た、あの頃からひとつも変わらないまっすぐな目だ。
その目で見つめられると、僕は嘘がつけなかった。
もとより、彼女をあざむこうと企んだことなんて一度もなかったけど。
「ロックバンドやってる。ゴリゴリのではないけど。もう少しで、インディーズではあるけど、アルバムを出させてもらえそうなんだ」
「蜜成がうたうの?」
僕は肩をすくめた。
「メインではないけどね。ツインボーカルなんだ。僕がやってるのはもっぱら作詞で」
「すごい」
彼女が瞳を瞬かせてまばたきをした。
二十代も後半になって何を夢みたいなこと言っているんだと、そう鼻白まれることがほとんどだった僕には、それは新鮮な反応だった。
「ありがとう。まぁ、ウケてるのはまだ本当に一部なんだけど。アルバムが出ることで、今よりもっと認知度が上がればと思ってる」
「いいと思う。蜜成、顔が良いから、ファンがたくさんつきそう」
「ルックスだけでウケても嬉しくないよ。歌と演奏が評価されないと」
「そうか。うん。そうだね。恋人は?」
「いや、今はひとり」
「そう」
彼女は、話が一区切りついたとでもいうように、校舎へ視線を戻した。
浮かび上がるみたいな白い肌に、椿色の唇が咲いている。
既製品の色を塗らなくてもじゅうぶんに美しいそれに、蜜蜂が引き寄せられるように僕が触れた日が、やけに遠く感じられた。
ごめんね、って裸のままうなだれたあの日も。
柚子先輩は、確か、あのとき泣いていた。
「蜜成」
視線は高い位置をとらえたまま、彼女の唇が小さく動いた。
「ゲームしよう」
「ゲーム?」
僕の頭にとっさに浮かんだのは、いっとき、社会現象を巻き起こすほどに大ブームになった、愛嬌のあるモンスターを収集するゲームだった。
目の前のクールな柚子先輩とは到底結びつかなくて、面食らう。
「簡単なゲーム。一緒に暮らして、どちらかに本気で恋愛感情が芽生えたら、負け。すぐに同居を解消して、もう二度と会わない。どう?」
こっちを向いた彼女は、椿の花がほころぶように、その日初めて笑った。
どこかで姿の見えないとんびが、ひょろろろ、と鳴いた。
「恋愛感情が芽生えたら、そのまま一緒に暮らし続ければいいのでは?」
ハンドルを大きく左に切る僕は、それがおかしな主張とは思わなかった。
「だめ」
キッパリと言い切る彼女のまつ毛は、あいかわらず上を目指したままで、その下の瞳孔はカーブの先を見つめている。
家まで送っていくよ、と切り出した言葉に他意はなかった。
彼女が母校にくるまでの足にした市営のバスは、この辺では一時間に一本程度しか走っていない。
寒い中待たせるのはかわいそうだし、どうせ僕は暇だった。
ゲームにのるかそるかはまだ決めていなくて、ドライブしながら彼女の真意を確かめるのもいいかもしれない、とはあとから思った。
彼女の実家には、二度ほど訪れたことがある。
だけど、先程彼女が告げた住所は、そことはまったく反対の方角だった。
特別、奇妙なことではない。
僕が独り立ちしているように、彼女だってひとりで生活をしていることに何の疑問も持たれない年齢だ。
「わたしは好きな人と暮らしたくないし、わたしを好きになった人には一緒に暮らして欲しくない」
「そんなこと言ってたら、結婚できないじゃない」
なにげなく口にしてしまってから、まさに適齢期の彼女に対しては失言だったかな、と口角を引き下げた。
ハッキリ明言されたわけじゃないけど、そんなゲームの提案をしてくるくらいなのだから、今はそういう相手がいないのだろう。
話の矛先を変えてみる。
「そのゲーム、賭けの相手を僕にするのって意味があるのかな。僕は女性を好きになれないよ。わかってると思うけど」
僕はフロントガラスを通してまっすぐに伸びる道路を見ていたけど、助手席の彼女がこちらを向いたのがわかった。
「だからいいんじゃない」
「だから? いい?」
そういう返答がくるとは思わなかった。
「蜜成は一生わたしを好きにならない。そしたら、一生一緒に暮らせるじゃない」
「それって」
まるで僕のことが好きみたいじゃないか、というセリフはそれこそ失言のような気がして、口をつぐんだ。
そもそも、ゲームの言い出しっぺは彼女だ。
それはつまり、自分は負けない自信がじゅうぶんにあるということだし、意表をつく理由で振ってきた昔の恋人に、今でも恋愛感情があるとも思えない。
冷静になって考えれば、ルームシェアを懇願されているようにも取れる。
それならばそれでかまわないけど、だとしたら、恋愛感情が芽生えたらうんぬんのくだりは必要がない気がする。
それが、僕の気道にいささか引っかかってしかたがなかった。
「それ、ゲームとして成立する? 勝負が決まらないって最初からわかってるのに」
「CD聴いていい?」
ひょうひょうと僕をかわす彼女が頭を傾けて、黒髪がすぐ脇で流れる。
そこから漂う香りは、凝り性ではない僕がいろいろ手を出しながら、今月実に三つ目になる芳香剤が放つ人工的なものとは、少しだけ違った。
「どうして、好きな人とは暮らしたくないの?」
それは、純粋な疑問だった。
人を愛する心を持っている人間だったなら、好きな人のそばに長くいたいと考えるのが普通で、必然と一緒に暮らしたくなるものだと思う。
僕の知る彼女は、多少素っ気ないけども、取り立てて変わったところもなかったはずなので、どうしてそんなふうに思うのか聞いてみたかった。
だけど、少々踏み込んだ質問だという自覚はあった。
感情の起伏の波が人より目立ちにくい僕だけど、そこまで鈍くはない。
だから、気分を悪くしたのなら答えてくれなくてもいいと考えていた。
「嫌いになりたくないから」
手に取った数枚のCDケースをカシャカシャさせながら、迷いのない声で彼女は言った。
「一緒に暮らすと粗が見えてくるでしょ。慣れてくるとお互いを思いやる気持ちも薄れていくし。そうやって崩壊していく関係は、もう嫌なの」
「なるほど」
僕は、それ以上詮索することをやめにした。
僕の知るよしのない、彼女の悲しい傷に触れてしまうと気づいたからだ。
そして、もうひとつ。
きっと、彼女は今、寂しい。
「これ、蜜成の歌ね?」
一枚のプラスチックケースを、運転中の僕を気遣いながら彼女は示す。
不透明の、膝で叩いたらすぐに割れそうな安っぽいケースで、曲のタイトルどころか、自分たちのバンド名すら表記していないものだ。
「そうだよ。何が入ってたかな」
「かけてみよう」
僕の質問に気分を害したふうでもなく、そして、さして興味もなさそうに、彼女はそれをカーステレオに差し込んだ。
結果から言うと、僕は彼女が言い出したゲームにのった。
彼女を送り届けた日の二日後、僕は彼女のアパートへと引っ越した。
引っ越しと言っても、彼女の部屋には男性もののスリッパから、食器、バスタオルに至るまで必要なものは一通り揃っていたので、僕がそれまで住んでいたアパートから運んだのは、衣類と、タブレットだけだった。
それらがいつまで使われていたのかなんて、野暮なことは訊かない。
まさか本気で一生一緒に暮らす気はないのだろうし、部屋の解約はしないでおいた。
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