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第1章
Reappear : 穴をあけた日
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午後。
北棟5階、美術室。
「君さぁ、ひょっとしてマゾなの?」
5限目の授業中、隣の席の佐々蔵が突然そう発言した。
9月にある高校生主体の総合体育大会、その宣伝ポスターを制作するというのが今回の授業の取り組みである。出来上がった作品は総体主催の連盟へ送られ、優秀作品は正式にポスターとして採用、というものらしい。
「何の脈絡もなくいきなりする質問がそれなのか」
「今ふと思ってね。朝あれだけ不調そうな顔してたのに昼からの授業には参加するって、普通なら早退するでしょ。具合が悪いのに無理してる時があるとか、トラブルに見舞われやすいとか、君ってそういうところあるじゃん。自分を逆境に置くことが好きなのかなって」
「いや、前半の方は認めるが別に好きで無理したり怪我したりってわけじゃないからな」
正直今もだるさが少し残っている。だが、あのままずっとベッドに横になっていたくなかった。授業でもいいからとにかく何かに集中して気を紛らわせたかった。清川先生は呆れ顔で復帰を許可してくれ、昼食は必ずとるようにと釘を刺された。
それに、数学や英語などの頭を使う授業以外なら何とかできそうだし。
1年次限定の芸術選択で俺と佐々蔵は美術を選び、伊志森は音楽だった。彼いわく、破壊的に絵のセンスがないことは小学生の頃から自覚してる、とのこと。
おかげでこの授業時間では、佐々蔵の変化球どころか死角からのストレートパンチのようなアプローチを直接受ける羽目になっている。ある程度の受け流し方は分かったが、未だ変に身構えてしまう。伊志森、改めてお前の精神的強さを思い知らされているよ。
「でも辛いのや苦しいのは承知の上で取り組むって、そういう状態に少なからず快感を抱いていないと難しいと思うなー。僕の中では苦しいとか痛いとかってまず避けるべきものだから」
「無理でもしないと成し得ないものなんていくらでもあるだろ」
「そうだよねー。だからスポーツとかやってる人はすごいよ。ああいうの、結果を出せない限りただ苦しいだけじゃん」
佐々蔵のポスターの進捗状況は半分程色塗りが終わった具合だ。陸上の選手らしき人物が中央に描かれ、その周りを真っ赤な炎が囲んでいる。もはや熱血的なオーラというより火炙りにされてる図にしか見えない。
「だからこそ、結果が出せた時の達成感がすごいんだろ」
「それ経験者としての意見?」
「どうかな。俺がいた中学は部活の強豪校って程じゃなかったし、俺個人も大して強くなかった。県予選で勝って、地方大会行けたらラッキーって感じかな」
「ラッキーって、運任せみたいだね」
「最初の予選でどこと対戦するかはくじで決まるんだ。1試合目で優勝候補校なんかと当たった時は、あっ終わったなって感じ。でも運がなかったんだっていうのは、慰めにはなっても諦めにはならない。やるからには全力で。それがスポーツだよ。まぁどの分野でも言えることだろうけど」
「へぇー、何か今名言っぽいの出たね。後で伊志にも言っとこ」
会話の最中も筆が止まることはなく、A4サイズ程の画用紙の大半が真っ赤に染まっていく。文化祭の時といい、どんだけ赤好きなんだよ。
一方俺はまだ下書きの段階。大方のレイアウトは描けたから、後は具体的に文字や絵を入れていく。だが、さっきからほとんど鉛筆が進まない。体がまだ本調子じゃないから、という理由だけじゃきっとない。
自分のせいだと叫び、罪悪感に歪む柳の顔。
いつもお帰りなさいと言ってくれる、温かい母親の笑顔。
卒業祝いを買って帰るからと慌ただしく出かけていった、父親の最後の姿。
様々な光景が頭の中を飛び交い、次々とクローズアップされていく。それぞれに抱く異なる感情が入り混じって混沌と化していく。
これじゃあ、また内側にどす黒いものが生じてしまうかも。
「ねぇ累人君、今何か悩んでる?」
またもや唐突に尋ねてくる。
「えっ、あー…………やっぱそういうのって、見てて分かる?」
「見て分かるっていうか、ぶっちゃけ君はいつも悩んでるように見えるよ。そうじゃない日がほとんどないくらい」
「えぇっ、そんな感じなの俺。んーまぁ……否定はできない、かな」
「前にそれ伊志に言ったらさー、お前が悩まな過ぎなんだって溜息吐きながら言われた。そんなことないって返したら嘘吐けって。ひどくない?僕だって悩むことくらいあるよもちろん」
「例えばどんな?」
「先週妹と喧嘩したこと。あれはすごく後悔したよー。何やってんだ僕!って感じで」
「兄妹喧嘩か。俺一人っ子だからあんまりピンとこないけど、きっかけは何だったの?」
「晩ご飯で大皿に残った最後の唐揚げを取り合って30分くらい口論した」
ほんとに何やってんだ。完全に幼稚園児レベルの意地の張り合いじゃん。何十分も皿の上に1つ放置されて油が回っていく唐揚げの身にもなれ。
「それからなんか気まずくなっちゃって、お互い部屋に籠ってた。でもねー、やっぱりこのままじゃだめだなって思った。喧嘩してすれ違ったままって、悲しいじゃん。だから寝る前に妹の部屋に行って、ごめんって謝った。試験週間で頭フル稼働してるから唐揚げがいつも以上においしそうに見えてついむきになった、最終的に譲ったけどずっと根に持ってったんだって」
結局譲ったんかい。口論の意味まるでないし。
「そしたら妹は、別に気にしてないって。どっちが唐揚げの魅力をより多く挙げられるか対決で、久々に僕と熱弁できて楽しかったって。向こうも毎日部活で忙しいからねー」
口論っていうか討論じゃね?兄妹同士ってそういうことするものなの?
「楽しかったって言ってくれたからすごくほっとしたよ。相手が何考えてるかなんてまず分かんないから。顔合わせ辛いとか、かける言葉が見つからないとか思ってもね、話をするしかないんだよ。言葉はすごいよ。色んなものを表現できるし読み取れる。全部じゃないけど。何を言うか迷ったらひとまず、自分の思いをそのままぶつけてみるのが1番かな。変に迂回したり誤魔化したりするよりよっぽどいいと思うよ僕は」
「……それが、俺へのアドバイスなの?」
「喧嘩した後の妹と似た顔してたから、そんな感じの悩み抱えてんのかなーと思って。的外れなら聞き流しといてー」
軽い雑談のような調子で話してはいるが、作業する手元を見つめる目は真剣そのものだった。こっちが冗談かと思うような発案をする時も当人はいつだって大真面目だが、それとはまたベクトルの違った意志があるように感じる。方向は違えど作用する思いの大きさは同じ、ということだろうか。
話をするしかない。確かにそうだ。話し合えば必ずしも分かり合えるわけではないが、話さなければ何も分からないし伝わらない。もうこれ以上、逃げるわけにはいかない。
差し当たって向き合うべきは、母だろう。
授業が終わったら家に帰る。すると否が応でも顔を合わせることになる。今朝の時点でまだ呪いは解けていないようだった。俺と連動してるわけではないのか。恐らく封じた記憶と関連が深いもの、俺の場合は父の墓だった、それを見る又は聞くことで閉じられた蓋が開く仕組みだろう。その衝撃は想像できない程で、あの人の心が耐えられるか分からない。それでも、伝えなければ。
いつかはほどける、仮初の日常。
だったら、今俺自身の手でほどく。
どれ程の悲しみや絶望が押し寄せて来ても、俺が母さんを支える。それが、4ヶ月もの間あの人から大切な記憶を、現実と向き合う機会を奪った俺の責務だ。
「佐々蔵。ありがとう」
「ふえ?どしたの急に」
「さっきの言葉、すごく身に染みたよ。とことん俺は誰かに助けられてばっかだな。お前が友達としていてくれてよかった。もちろん伊志森もな。感謝してもしきれないよ」
すると、視界の端に映っていた佐々蔵の肩が小さく震え出した。
何事かと思って顔を向けた途端、高照度のLED電球を真正面から当てられたような衝撃を受ける程の笑顔がそこにはあった。
「そんなこと思ってくれてたなんてーっ!君はなんて清廉潔白で純粋無垢な人なんだ!僕こそ君と友達になれてすごく嬉しいよ!いや、もういっそ弟にしたいくらい」
「あ、ああ。そうか……」
こんなに上機嫌になるとは思わなかった。いや別に迷惑ってことじゃないんだけど。でも正直、俺にはその笑顔は眩し過ぎる。あとお前が兄になるのは勘弁。
「と、ところで、どうだポスターの進捗は。大分ペース早いよな」
「うん!イラストは大体終わった。あとは文字を塗るだけ」
そう言って筆を置き、画用紙をこちらに掲げる。
「今こんな感じ。どう?どう?」
「えー……っと…………うん。いいんじゃ、ないかな。ちなみにテーマはあるのか?イラストの」
「あるよー。題して、“闘心を燃やせ!”。かっこいいでしょ」
…………頭身を燃やせ?ああ、確かにその通りだな。
自信満々そうに掲げられたほぼ真っ赤のポスター。地獄絵図コンクールだったらいい賞獲れそうだ。
苦笑いを返し、未だ鉛筆の線しかない白い画用紙に向き直る。俺も早く追いつかないとな。
放課後。
今日は数学の総復習をするぞと張り切る佐々蔵講師を何とか説得し、現在帰宅中。
勉強会の欠席申請は普段からなかなか通らないが、代わりに明日早朝に教室集合で渋々承諾してくれた。
校舎を出る前に少し見て回ったが、柳はいなかった。
あの時逃げるように保健室から出て行った様子は、正直気がかりだった。だが、一度に複数の事柄を解決できる程俺は器用じゃない。まずは目の前のことをきちんと片付けないと。
自然とペダルをこぐ足に力が入る。
一刻も早く離れたくて出て行った今朝とは真逆だ。一度決断すれば案外ひたすら進んでいけるようで、ここまで来たらもう引き下がれないという観念にも似た心境に至っている。
それでもいい。下手な時間稼ぎは必ず後で辛くなる。それは身に染みて分かっているから。
家に着いた頃にはすっかり息も上がり全身汗だくになっていた。
特に終盤の直線道路はちょうど西日に向かって伸びているため、影が全くない。部活がある時はほぼ日が沈んでから帰宅していたが、夏の夕方4時頃という時間帯はとことん暑くて眩しい。ああくそったれ。
頬を伝う汗を拭い、玄関ドアを開け中に入る。
外気より少しひんやりした空気に包まれる。
「お帰りー。今日は早いのね。暑かったでしょ、冷蔵庫にお茶冷やしてあるよ」
リビングに入ると、キッチンから母が声をかけてきた。
いつもと変わらない、夕飯の支度に取り掛かろうと調理器具や食材を用意する姿。
……俺は今、この平穏を壊そうとしている。今までの日常は嘘だったんだと、残酷にも突き付けようとしている。
あの人は、どんな反応をするだろう。悲しませることは必定だ。
でも伝えなきゃ。これ以上先延ばしにしたっていいことない。……ほんとにそうなのか。知らぬが仏って言うだろ。このまま忘れたままで……って何言ってんだ。俺のせいでこんなことになったんだろ。俺が引き起こした事態だろ。ここまで来て逃げようとするな。
「あ、あのさ…………母さん。ちょっと、いいかな」
声が震える。目を合わせられない。
これから話すことは母さんを傷つける。俺にその意思がなくとも。
「なぁに?暗い顔して。もしかしてまだ具合悪いの?大丈夫?」
「いや、大丈夫。あのさ母さん。話があるんだ。大切な話」
一つ息を吐いて顔を上げる。目は見れなくても正面から。
「落ち着いて聞いて…………父さんのこと、なんだけどさ__」
ゆっくり話し始める。
父はもう決して帰って来ないこと。生きているというのは思い込みに過ぎないこと。それに至った原因は自分かもしれないこと。これから、ゆっくりと現実と向き合ってほしいということ。
それらをほぼ一方的にまくし立てていった。俺は、その時どんな表情をしていたんだろう。
どこまで話した時だったか。キッチンから金属製の何かが床に落ちる甲高い音がした。
「母さん…………?」
しばし沈黙が流れる。
そして、母が発した言葉は__
卒業式出てやれなくてごめんな。納期間近の案件があって休めなくて。母さんにはしっかり写真撮っておくよう頼んだから、それを後で見るよ。あと卒アルもな
見なくていいよ別に。どうせ全部ぼけっとした顔してるから。それより急ぐんでしょ仕事
おっとこんな時間か。ほんとに今日はごめんな。せめてお祝いに何か買って帰るからな
ほんと?やった。じゃあこの前買ってきたケーキおいしかったから、あれがいい
駅前の店のか。分かった、必ずな。じゃ行ってきます
うん、いってらっしゃい。父さん。
北棟5階、美術室。
「君さぁ、ひょっとしてマゾなの?」
5限目の授業中、隣の席の佐々蔵が突然そう発言した。
9月にある高校生主体の総合体育大会、その宣伝ポスターを制作するというのが今回の授業の取り組みである。出来上がった作品は総体主催の連盟へ送られ、優秀作品は正式にポスターとして採用、というものらしい。
「何の脈絡もなくいきなりする質問がそれなのか」
「今ふと思ってね。朝あれだけ不調そうな顔してたのに昼からの授業には参加するって、普通なら早退するでしょ。具合が悪いのに無理してる時があるとか、トラブルに見舞われやすいとか、君ってそういうところあるじゃん。自分を逆境に置くことが好きなのかなって」
「いや、前半の方は認めるが別に好きで無理したり怪我したりってわけじゃないからな」
正直今もだるさが少し残っている。だが、あのままずっとベッドに横になっていたくなかった。授業でもいいからとにかく何かに集中して気を紛らわせたかった。清川先生は呆れ顔で復帰を許可してくれ、昼食は必ずとるようにと釘を刺された。
それに、数学や英語などの頭を使う授業以外なら何とかできそうだし。
1年次限定の芸術選択で俺と佐々蔵は美術を選び、伊志森は音楽だった。彼いわく、破壊的に絵のセンスがないことは小学生の頃から自覚してる、とのこと。
おかげでこの授業時間では、佐々蔵の変化球どころか死角からのストレートパンチのようなアプローチを直接受ける羽目になっている。ある程度の受け流し方は分かったが、未だ変に身構えてしまう。伊志森、改めてお前の精神的強さを思い知らされているよ。
「でも辛いのや苦しいのは承知の上で取り組むって、そういう状態に少なからず快感を抱いていないと難しいと思うなー。僕の中では苦しいとか痛いとかってまず避けるべきものだから」
「無理でもしないと成し得ないものなんていくらでもあるだろ」
「そうだよねー。だからスポーツとかやってる人はすごいよ。ああいうの、結果を出せない限りただ苦しいだけじゃん」
佐々蔵のポスターの進捗状況は半分程色塗りが終わった具合だ。陸上の選手らしき人物が中央に描かれ、その周りを真っ赤な炎が囲んでいる。もはや熱血的なオーラというより火炙りにされてる図にしか見えない。
「だからこそ、結果が出せた時の達成感がすごいんだろ」
「それ経験者としての意見?」
「どうかな。俺がいた中学は部活の強豪校って程じゃなかったし、俺個人も大して強くなかった。県予選で勝って、地方大会行けたらラッキーって感じかな」
「ラッキーって、運任せみたいだね」
「最初の予選でどこと対戦するかはくじで決まるんだ。1試合目で優勝候補校なんかと当たった時は、あっ終わったなって感じ。でも運がなかったんだっていうのは、慰めにはなっても諦めにはならない。やるからには全力で。それがスポーツだよ。まぁどの分野でも言えることだろうけど」
「へぇー、何か今名言っぽいの出たね。後で伊志にも言っとこ」
会話の最中も筆が止まることはなく、A4サイズ程の画用紙の大半が真っ赤に染まっていく。文化祭の時といい、どんだけ赤好きなんだよ。
一方俺はまだ下書きの段階。大方のレイアウトは描けたから、後は具体的に文字や絵を入れていく。だが、さっきからほとんど鉛筆が進まない。体がまだ本調子じゃないから、という理由だけじゃきっとない。
自分のせいだと叫び、罪悪感に歪む柳の顔。
いつもお帰りなさいと言ってくれる、温かい母親の笑顔。
卒業祝いを買って帰るからと慌ただしく出かけていった、父親の最後の姿。
様々な光景が頭の中を飛び交い、次々とクローズアップされていく。それぞれに抱く異なる感情が入り混じって混沌と化していく。
これじゃあ、また内側にどす黒いものが生じてしまうかも。
「ねぇ累人君、今何か悩んでる?」
またもや唐突に尋ねてくる。
「えっ、あー…………やっぱそういうのって、見てて分かる?」
「見て分かるっていうか、ぶっちゃけ君はいつも悩んでるように見えるよ。そうじゃない日がほとんどないくらい」
「えぇっ、そんな感じなの俺。んーまぁ……否定はできない、かな」
「前にそれ伊志に言ったらさー、お前が悩まな過ぎなんだって溜息吐きながら言われた。そんなことないって返したら嘘吐けって。ひどくない?僕だって悩むことくらいあるよもちろん」
「例えばどんな?」
「先週妹と喧嘩したこと。あれはすごく後悔したよー。何やってんだ僕!って感じで」
「兄妹喧嘩か。俺一人っ子だからあんまりピンとこないけど、きっかけは何だったの?」
「晩ご飯で大皿に残った最後の唐揚げを取り合って30分くらい口論した」
ほんとに何やってんだ。完全に幼稚園児レベルの意地の張り合いじゃん。何十分も皿の上に1つ放置されて油が回っていく唐揚げの身にもなれ。
「それからなんか気まずくなっちゃって、お互い部屋に籠ってた。でもねー、やっぱりこのままじゃだめだなって思った。喧嘩してすれ違ったままって、悲しいじゃん。だから寝る前に妹の部屋に行って、ごめんって謝った。試験週間で頭フル稼働してるから唐揚げがいつも以上においしそうに見えてついむきになった、最終的に譲ったけどずっと根に持ってったんだって」
結局譲ったんかい。口論の意味まるでないし。
「そしたら妹は、別に気にしてないって。どっちが唐揚げの魅力をより多く挙げられるか対決で、久々に僕と熱弁できて楽しかったって。向こうも毎日部活で忙しいからねー」
口論っていうか討論じゃね?兄妹同士ってそういうことするものなの?
「楽しかったって言ってくれたからすごくほっとしたよ。相手が何考えてるかなんてまず分かんないから。顔合わせ辛いとか、かける言葉が見つからないとか思ってもね、話をするしかないんだよ。言葉はすごいよ。色んなものを表現できるし読み取れる。全部じゃないけど。何を言うか迷ったらひとまず、自分の思いをそのままぶつけてみるのが1番かな。変に迂回したり誤魔化したりするよりよっぽどいいと思うよ僕は」
「……それが、俺へのアドバイスなの?」
「喧嘩した後の妹と似た顔してたから、そんな感じの悩み抱えてんのかなーと思って。的外れなら聞き流しといてー」
軽い雑談のような調子で話してはいるが、作業する手元を見つめる目は真剣そのものだった。こっちが冗談かと思うような発案をする時も当人はいつだって大真面目だが、それとはまたベクトルの違った意志があるように感じる。方向は違えど作用する思いの大きさは同じ、ということだろうか。
話をするしかない。確かにそうだ。話し合えば必ずしも分かり合えるわけではないが、話さなければ何も分からないし伝わらない。もうこれ以上、逃げるわけにはいかない。
差し当たって向き合うべきは、母だろう。
授業が終わったら家に帰る。すると否が応でも顔を合わせることになる。今朝の時点でまだ呪いは解けていないようだった。俺と連動してるわけではないのか。恐らく封じた記憶と関連が深いもの、俺の場合は父の墓だった、それを見る又は聞くことで閉じられた蓋が開く仕組みだろう。その衝撃は想像できない程で、あの人の心が耐えられるか分からない。それでも、伝えなければ。
いつかはほどける、仮初の日常。
だったら、今俺自身の手でほどく。
どれ程の悲しみや絶望が押し寄せて来ても、俺が母さんを支える。それが、4ヶ月もの間あの人から大切な記憶を、現実と向き合う機会を奪った俺の責務だ。
「佐々蔵。ありがとう」
「ふえ?どしたの急に」
「さっきの言葉、すごく身に染みたよ。とことん俺は誰かに助けられてばっかだな。お前が友達としていてくれてよかった。もちろん伊志森もな。感謝してもしきれないよ」
すると、視界の端に映っていた佐々蔵の肩が小さく震え出した。
何事かと思って顔を向けた途端、高照度のLED電球を真正面から当てられたような衝撃を受ける程の笑顔がそこにはあった。
「そんなこと思ってくれてたなんてーっ!君はなんて清廉潔白で純粋無垢な人なんだ!僕こそ君と友達になれてすごく嬉しいよ!いや、もういっそ弟にしたいくらい」
「あ、ああ。そうか……」
こんなに上機嫌になるとは思わなかった。いや別に迷惑ってことじゃないんだけど。でも正直、俺にはその笑顔は眩し過ぎる。あとお前が兄になるのは勘弁。
「と、ところで、どうだポスターの進捗は。大分ペース早いよな」
「うん!イラストは大体終わった。あとは文字を塗るだけ」
そう言って筆を置き、画用紙をこちらに掲げる。
「今こんな感じ。どう?どう?」
「えー……っと…………うん。いいんじゃ、ないかな。ちなみにテーマはあるのか?イラストの」
「あるよー。題して、“闘心を燃やせ!”。かっこいいでしょ」
…………頭身を燃やせ?ああ、確かにその通りだな。
自信満々そうに掲げられたほぼ真っ赤のポスター。地獄絵図コンクールだったらいい賞獲れそうだ。
苦笑いを返し、未だ鉛筆の線しかない白い画用紙に向き直る。俺も早く追いつかないとな。
放課後。
今日は数学の総復習をするぞと張り切る佐々蔵講師を何とか説得し、現在帰宅中。
勉強会の欠席申請は普段からなかなか通らないが、代わりに明日早朝に教室集合で渋々承諾してくれた。
校舎を出る前に少し見て回ったが、柳はいなかった。
あの時逃げるように保健室から出て行った様子は、正直気がかりだった。だが、一度に複数の事柄を解決できる程俺は器用じゃない。まずは目の前のことをきちんと片付けないと。
自然とペダルをこぐ足に力が入る。
一刻も早く離れたくて出て行った今朝とは真逆だ。一度決断すれば案外ひたすら進んでいけるようで、ここまで来たらもう引き下がれないという観念にも似た心境に至っている。
それでもいい。下手な時間稼ぎは必ず後で辛くなる。それは身に染みて分かっているから。
家に着いた頃にはすっかり息も上がり全身汗だくになっていた。
特に終盤の直線道路はちょうど西日に向かって伸びているため、影が全くない。部活がある時はほぼ日が沈んでから帰宅していたが、夏の夕方4時頃という時間帯はとことん暑くて眩しい。ああくそったれ。
頬を伝う汗を拭い、玄関ドアを開け中に入る。
外気より少しひんやりした空気に包まれる。
「お帰りー。今日は早いのね。暑かったでしょ、冷蔵庫にお茶冷やしてあるよ」
リビングに入ると、キッチンから母が声をかけてきた。
いつもと変わらない、夕飯の支度に取り掛かろうと調理器具や食材を用意する姿。
……俺は今、この平穏を壊そうとしている。今までの日常は嘘だったんだと、残酷にも突き付けようとしている。
あの人は、どんな反応をするだろう。悲しませることは必定だ。
でも伝えなきゃ。これ以上先延ばしにしたっていいことない。……ほんとにそうなのか。知らぬが仏って言うだろ。このまま忘れたままで……って何言ってんだ。俺のせいでこんなことになったんだろ。俺が引き起こした事態だろ。ここまで来て逃げようとするな。
「あ、あのさ…………母さん。ちょっと、いいかな」
声が震える。目を合わせられない。
これから話すことは母さんを傷つける。俺にその意思がなくとも。
「なぁに?暗い顔して。もしかしてまだ具合悪いの?大丈夫?」
「いや、大丈夫。あのさ母さん。話があるんだ。大切な話」
一つ息を吐いて顔を上げる。目は見れなくても正面から。
「落ち着いて聞いて…………父さんのこと、なんだけどさ__」
ゆっくり話し始める。
父はもう決して帰って来ないこと。生きているというのは思い込みに過ぎないこと。それに至った原因は自分かもしれないこと。これから、ゆっくりと現実と向き合ってほしいということ。
それらをほぼ一方的にまくし立てていった。俺は、その時どんな表情をしていたんだろう。
どこまで話した時だったか。キッチンから金属製の何かが床に落ちる甲高い音がした。
「母さん…………?」
しばし沈黙が流れる。
そして、母が発した言葉は__
卒業式出てやれなくてごめんな。納期間近の案件があって休めなくて。母さんにはしっかり写真撮っておくよう頼んだから、それを後で見るよ。あと卒アルもな
見なくていいよ別に。どうせ全部ぼけっとした顔してるから。それより急ぐんでしょ仕事
おっとこんな時間か。ほんとに今日はごめんな。せめてお祝いに何か買って帰るからな
ほんと?やった。じゃあこの前買ってきたケーキおいしかったから、あれがいい
駅前の店のか。分かった、必ずな。じゃ行ってきます
うん、いってらっしゃい。父さん。
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