彼は誰時の窓下

桜部ヤスキ

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第1章

7. Recall : 穴があいた日

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 あのね、これ以上悲しむのはやめよう。母さんの心がもたないよ。俺だって、今にも気がおかしくなってしまいそうだ
 だから、忘れよう。父さんが亡くなったことは
 父さんは今単身赴任で家にいない。しばらくは帰ってこない。そう思い込むんだ
 父さんのことは考えない。部屋にも入らない。ただ、いつかは家に帰ってくるのを待っている。そう思い込むんだ
 ずっとじゃない。一時的にだ。いつか、心が落ち着いて向き合える時がきたら、その時はきっと
 だから今は、忘れよう。あの事件のことは】




 月曜日。
 こんなにも昇ってくる朝日が憎いと思ったことはない。毎日律儀に顔を出して地上を否応なく白日の下に晒しやがって。
 闇に埋もれたままでいいものだって、隠されたままでいいものだってあるんじゃないのか。
 重い体を無理矢理引きずってベッドを下り、のろのろと制服に袖を通してリビングへ下りる。
 朝練に行く時間はもうないだろう。
「おはよう累人。今日は遅いわね」
「……うん、おはよう……」
 いつもと変わらない母。その顔を見るだけで胸が痛くなる。

 ……母さん。俺達は大切なことを忘れてたんだよ。俺のせいで……俺があの時…………。

「どうしたの、ぼーっとして。早くしないと遅刻するわよ」
「うん……」
 テーブルについて箸を持っても食欲がまるで湧かない。でも余計な心配をかけて詮索されたら困る。今はうまく誤魔化せる自信がない。普段通りを装うんだ。普段通り…………普段なら…………。
 テーブルの右隣、空いたままの席。
 そうだ、いつもなら、俺より少し後に起きてきてそこに座る。朝練頑張れよと言って食後のコーヒーをすする。そんな父の姿があったはずだ。
 あの日までの、普段通りならば。
 こんな違いに、どうして数か月間、何の違和感も持たなかったんだ。
「……ごめん母さん。時間ないからもう行く」
 味噌汁だけは何とか胃袋に流し込めたが、これ以上は受け付けなかった。
 箸を置いて洗面所へ駆け込み、乱雑に歯ブラシを口に突っ込む。
 目の前の鏡に映る顔は病人のようにやつれて見えた。砂色の髪は所々はねている。佐々蔵たちに何か言われたらどう言い訳するべきか。
 誤魔化し。言い訳。
 今までずっと真実を捻じ曲げておいて、まだ偽るのか。
 自分の身勝手な都合で、他人の記憶を、感情を弄ぶのか。
「…………うるさい」
 喉からかすれ出た声が、まるで呪詛のように狭い室内にこだまする。
 自室のリュックを掴んで玄関へ行くと、後ろから母が声をかけてきた。
「もう行くの?昨日の夜から全然ご飯食べてないじゃない。まだ具合悪いんだったら学校休んでもいいのよ」
「いや、大丈夫。ほんとに大丈夫だから。……行ってきます」
 逃げるようにその場を後にし、自転車にまたがって家を飛び出した。
 全身に吹き付ける風がいつもより強い。
 4月に痛い目に遭ってから安全運転を心掛けていたが、今日ばかりはそんな余裕はなかった。
 少しでも早く、遠く、あの家から離れたい。あそこにいたら、あの顔を見たら、心が引き裂かれそうになる。
 内側に渦巻く、真っ黒い何かに。
 これはきっと、俺の負の感情なのだろう。
 どこにも向けられず押し込められた強い思いが、ぐるぐる、ぐるぐると内側で燻っている。これは、何と呼べばいいんだろう。
 でも、名前を付けてしまったら、言葉として声に出してしまったら、より強大なものになって外側まで溢れてしまいそうな気がする。あるべき形を、意識を捻じ曲げてしまいそうな気がする。
 あの時のように。
 ふと目の前の赤信号に気付き、車道ギリギリ手前でブレーキを握り停止する。
 数十センチ先を、大型トラックが轟音を立てながら通過していく。
 このままブレーキをかけなかったら、どうなっていただろう。
 信号を待つ間、普段なら絶対しないグロテスクな想像を広げる。
 あんな重力の塊とぶつかったら、頭も腕も胴体も全部ぐちゃぐちゃになって、誰なのか判別できなくなるのだろう。

 父がそうなったように。



 3月某日。午後4時頃。
 家に1本の電話がかかってきた。
 中学校の卒業式の後同級生とのお別れ会を済ませた俺は、リビングで卒業アルバムを広げながら思い出にふけっていた。テレビでは夕方の地方ニュースが流れていた。
 すると棚の上に置かれた子機が鳴り、母が取って隣の部屋へ入った。それにつられてアルバムから顔を上げ、テレビへ目を向けた。
 画面には速報が映し出され、どこどこで事件が発生したという情報が表示されていた。犯人を現行犯逮捕、死傷者13人という赤いテロップに否応なく目を引かれた。
 ふと電話の受け答えが途切れたため目線を移すと、子機を持ったままテレビ画面を見つめ、魂が抜けたように立っている母の姿があった。


 病院に着くなり案内されたのは、地下1階の霊安室だった。
 蛍光灯にぼんやりと照らされた廊下を進み、部屋に入った。そこは白く狭い部屋で、中央に台があり、上には白い布がかけられていた。
 それが、変わり果てた父の姿だった。
 遺体の損傷が激しく、顔の判別ができない。所持品にあった運転免許証から身元は判明したが、改めて家族の方からも確認をとってほしい。案内者から言われたのはそんな内容だった。
 顔以外で確認できる場所は1つしかなかった。
 布の下から覗く赤黒く汚れた左手、その薬指にはめられた銀色に光る指輪。翠色の天然石が埋め込まれたそれは、俺が始る限りこの世に2つしかないものの片割れだと、一目で分かった。
 それは紛れもなく、父ものだった。


 後に警察官から聞かされた話では、父は他殺だった。
 あの時テレビで報道されていた事件の、被害者13人の内の1人だった。犯人は逮捕されたが、凶器は不明。動機も不明。被害者との接点も不明。無差別の衝動的犯行。逮捕されたとはいえ不明な点が多いため、最悪不起訴となる可能性がある。
 説明を受けている時、聞いた言葉がそのまますとんと頭に入ってきた。
 脳がきちんと情報処理を行う一方、胸の奥底にはぽっかり空洞ができていた。霊安室で父を、つい今朝まで言葉を交わしていた人間の成れの果てを見た瞬間に、そこにあったものは崩れ落ち、暗い穴だけが残った。
 そのせいか、泣き崩れる母のそばに無言で立っているだけで、涙は出なかった。事件の詳細を聞いた時も、葬儀の最中も。
 ただ、出棺し火葬の段階に入った途端、固く閉められていた蛇口がようやく開いたかのように一気に溢れ出た。
 拭っても拭っても止まることはなく、喉が枯れるまで叫び続けた。
 その時だったのだろう。
 ぽっかりあいた穴に、黒い渦が生まれたのは。



 1限目終了後。
 朝は俺が始礼ギリギリに登校してきたせいか、2限目開始までの10分休憩中に佐々蔵が机に飛んできた。
「累人君、昨日大丈夫だった?1人で盛り上がっててごめんねー。バス停で合流した時すごい顔色悪かったけど無事に家に帰れた?今はもう治ったの?」
「……ああ、平気だよ」
「そんな生気のない顔で言われても説得力ねぇぞ累人。夜あんま寝れなかったのか?」
「……うん。かつてない程の悪夢を見たから……」
「どんな?チェーンソー持ってピエロ仮面被った死神が追って来る夢?」
「何だそのミックスホラー」
「はは、まぁそれくらいわけの分からないものだったよ…………」
 本当にただの悪夢だったら、どんなにいいだろうか。
 全て夢の世界での出来事で、目が覚めたら父がいて、隣で母が笑っていて、昔と変わらない日常が続いていて。
 そうだったらどんなにいいだろう。この悪夢から目覚めるためだったら、喜んで身投げでも何でもする。
 でも、これが現実だ。
 目を逸らし続けたツケが、今回ってきたんだ。
「次物理室だよね。行こうか」
「でも、見るからに具合悪そうだよ。保健室行く?」
「いいって。大丈夫だから。大丈夫、だから……」
 大丈夫、なわけない。
 苦しい。辛い。痛い。吐きそう。
 体の中がミキサーでぐちゃぐちゃにかき回されているみたい。普通に立って歩いていられるのが不思議なくらいだ。でも多分、苦しいのは体じゃない。
 じゃあ何だ。分からない。

 でもあれは、胸の奥は空っぽのままのはずなんだ。あの時から、ずっと。

「あ、いた。そこの君、名神君だっけ」
 1階に下り廊下を進んでいると、通過しようとした保健室のドアが突然開き、清川先生のご登場。
「そんな体調不良の権現みたいな状態でこの部屋を素通りしようとはいい度胸ね。私個人としては君の好きにすればいいけど、医者としては放っておけないのよ。ということだから」
「へっ?」
 腕を掴まれたと思ったら一瞬で室内に引き込まれ、気付けばソファに座っていた。何あの怪力。
「君達クラスメイト?じゃ担任に伝えておいて。彼は私が一旦お預かりするから。元気になるまでね」
 そう言ってピシャリとドアを閉めた。頼むから言ったそのまま伝達するなよ佐々蔵。
「あの…………何ですかこれ」
「何って私が聞きたいんだけど。どうなの君」
 先生が促す先に顔を向けると、脳内にクエスチョンマークが飛び交う俺とは対照的に、冷静な態度で立っている人物が1人。

「や、柳!?何してんの?何でいんの!」

 叫ぶ俺に一瞬目線を向け、こちらに近付いてくる。
「ありがとうございます、先生。そのままそいつ掴んでいてもらえますか」
「はいはい。このままでいいのね」
 俺の左腕を背もたれに押さえ付けたまま、先生はソファの後ろに立っている。
 何、俺これから何されるの?
「いきなりやってきて、今から蒼白面の奴が通るから確保してくれって何事かと思った。ほんとに通ったからなおさらびっくりだし」
「確保って……逃亡中の飼い猫か何かなの俺」
「猫の方が世話焼けねぇよ」
 柳は俺の目の前に立ち、目線の高さまでかがんで肩を掴んできた。
 この時の俺の心境は、大型客船が一波で転覆するレベルの大嵐だった。だって2人共「置く」よりも「掴む」と表現するしかないような握力だし、逃げようにも物理的圧力と緑眼からにじみ出る精神的圧力に拘束されて動けない。
 誰か今の俺の状況を詳しく説明してくれ。できるなら一刻も早くこの状況から脱させてくれ。
「……まだ残ってるか。先生、こいつに先生なりの明るい話題振ってください」
 じっと俺の目を凝視していた柳が唐突に言った。
「ふぅん、そうね…………好きな異性のタイプは?」
「へっ!?と、突然何?何でその質問?」
「私なりの明るい話題だけど。同性でもいいわよ」
「さっさと答えろ、名神」
「えっいやっちょっと待っ」
 答えろって、今どんな状態だと思ってんだ。
 質問してきた先生は俺の後ろに立ってて、目の前にはお前がいるんだぞ。おまけに2人掛かりで押さえ付けられてるからほぼ身動き取れないし、このままお前に向かって恋愛トークしろってのか?互いに数センチの距離感で?相手梃子でも動かないくらいの真顔なのに?もうこれ罰ゲームどころか斬首刑なんだけど。頭上にでかいギロチンセッティングされてんだけど。
「な、何でんなこと言__」
「いいから答えろ。普通に会話していればいい」
「普通って、こんなカオスな状況……」
 拒否権はない。なら従ってさっさと終わらせるしかない。
 目の前を意識するな。誰もいない。そう思い込め。
「…………、……………………、………………お……大人しめの人、ですかね……」
「ふぅん?熱血系より物静か系が好きってこと?」
「そ、うですね…………」
「リードしたい派?されたい派?」
「……さ……れたい派…………かな……」
「目閉じるな。開けろ」

 無茶言うな無理嫌だもう何なんだよこれ。

 顔が熱を発しているのが自分でも分かる。
 教室で同級生と雑談するくらいなら全然平気なのに、このわけの分からない状況で言うとあり得ないくらい恥ずかしい。至近距離で見つめられているから?眼前の相手が内容に反して重大会議中みたいに真剣な表情だから?相手が柳だから?もう何が何だか分からない誰か助けて。
 このまま目を瞑っていたら無理矢理指でこじ開けられそうな気がするので、思いっ切り目線を横に逸らしたまま恐る恐る瞼を開く。ピントが合ってなくても、想像以上に目前に顔が迫っているのが分かる。いつまで続くんだこれ…………やばい……なんか心臓やばい。
「…………いいか。先生、もう離してもいいです」
 心拍が限界までいく寸前で、柳が手を離した。
 圧迫感が一気に抜け、代わりに脱力感がどっと押し寄せてきた。
「ハァ…………何なんだ…………くそ……ハァ……」
「それで、何だったのさっきのは。えらく熱烈な視線を送り合っていたようだけど」
「目は口よりも物を言う。色々分かるんですよ」
「会話も何か意味があったの?」
「単純な心理操作です。人の感情はいくらでも上書きできる」
「そう。面白いことするのね」
 そんな会話をして、先生は向かい側のソファに腰を下ろす。
「ハァ……今の説明で分かったんですか、先生」
「ん?そうね、ろくに説明する気はないってことは分かった」
「……いいんですかそれで」
「いいも何もそこまで興味ないから。それに手順はどうあれ、目的ははっきりしてたしね」
 すると間のローテーブルに大きく身を乗り出し、収まりかけた心拍数がまた上昇する程の美顔を近付けて囁いた。
「友達を助けにきた、協力してほしい。そう言ってた。えらく真剣な表情でね。これは断る方が野暮ってものよ」
 そう言ってソファに戻り、思い出したように人差し指を立てた。
「あ、これ内緒にしろって言われてるから。恩着せがましくなるのは嫌いなんだって」
「……今更ですね」
「何話してるんですか」
 柳が睨むような目線を向ける。残念だがこの人には守秘の概念がほとんどないようだぞ。
「別に?ところで、私はもう用済みかしら。名神君も少しは顔色良くなったみたいだし」
「え?あっ、そういえば……」
 胸の苦しみも吐き気も収まっている。多少胃に違和感は残っているし、まだ心臓が高鳴っているが。
 助けるって、こういうことだったのか?柳。
「熱計っとく?念のため」
 表面温度計をデスクから取って、俺の額にかざす。ピーと電子音が鳴り、表示された値を見るなり言った。
「あー、7度5分。微熱だね。どうする?休んでく?」
 …………それ絶対あんたらのせいだろ。


「説明してくれるんだろうな」
「何をだ」
「さっきのことだよ。俺は先生程適当主義じゃないからな。誤魔化されてもとことん追及するからな!」
「言われなくても知ってる。ったく面倒くせぇ」
 今年度2度目の保健室ベッド行き。大人しく寝ていろと清川先生に半強制的に連行され今に至る。だが寝てる場合じゃない。
 一旦被った毛布を跳ね除け、ベッドに腰掛ける柳と対峙する。仕切りのカーテンに囲まれたこの空間なら話もしやすい。先生も気が休まるなら2人で雑談してていいと言ってくれた。単にさっきみたく奇怪なことに付き合わされるのは勘弁だから放っておきたいだけかもしれないが。
「そもそも何でお前と先生が結託してるんだよ」
「別にしてない。頼んだら協力してくれただけだ。お前と違って詮索主義じゃないから助かる」
「うるさい。で、何だったんだよさっきのは」
「簡単に言えば掃除だ。お前の内部に充満していた汚物の除去、と言えばいいか」
「何、汚物って」
「よくないものだ」
「何その漠然とした名称」
「存在も漠然としているからな。まぁ呪いと言っても差し支えはない」
「え…………呪い?」
「お前がお前自身にかけた呪いだ。自分なんか壊れればいい、変に力のある人間が本気で思うと本当に壊れる。……それが他者に向けられた場合でも同じだが」
「壊れるって…………どういう」
「吐き気にめまい、息切れ、初期症状は軽いが徐々に悪化して、最悪多分死ぬ。扱いとしては原因不明の病死になるんだろうな」
「死ぬ…………というか、やけに詳しいんだな。こういうのって分析できないって、前言ってたのに」
「今回のに関しては、経験がある。あの時は自力で何とかできたが……あの時抗わなければ、俺は…………」
「え?な、何」
「いや、何でもない」
 寿命が切れかけている蛍光灯のような光の宿る目。
 消えていった言葉の先には、何が続いていたんだろう。
「それで、俺の中の自家製の呪いを消そうと、あんなことしたのか?」
「全部その場の思いつきだったが、うまくいっただろ」
「は!?思いつき?」
「この手のものはマニュアルがない。だから試せるものを試した。先生の呪いに対する耐性を利用し、お前の心理状態を負の面から一時的に引き離す。完全ではないが、大方の汚れの除去はできたはずだ」
「よく分かんないけど、清川先生の存在は必須だったんだな。でもあの話題である必要性あった?」
「あれはあの人の趣味だろ。何か問題あったか?」
「大ありだわ!……いや、ここで深く突っ込むとかえってこっちの心情が露呈するからもういいですスルーしてください」
 こっちは動揺しまくって発火しそうな程赤面してたってのに、2人共始終能面顔で突き通していた。どんな肝の据わり方してんだ。
「そうだ、柳、助けてくれてありがとう。俺ピンチになってばっかだな。にしても…………そっか。俺、また自分を呪ったのか」
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「前にさ、言ってたよな。俺達が教室で会う前から、呪いが張り付いているって。…………あれ、昨日解けたんだ」
「昨日?何で分かる」
 柳の怪訝そうな表情を真っ直ぐ見据える。……言ってもいいんだろうか。
 吐き出しだい。1人では抱えきれない。そんな心の叫びを無視して抑え込んだから、こんなことになったんじゃないのか。
 1つ深呼吸をして、少しだけ目を伏せながら口を開いた。
「俺の、父親のことなんだけどさ。前に単身赴任で家にいないって話したのは聞いた?」
「ああ」
「あれさ…………嘘だった」
「嘘?」

「死んでたんだ。3月に」

 途端、細く端麗な目が大きく見開かれた。
「昨日、偶然霊園に行ったんだ。そこに、父さんの墓があった。……あの時の衝撃は忘れられない。後頭部にハンマーを思い切り振り下ろされたみたいだった。夢であってくれと、何度も思った」
 喉が枯れるまで叫んでも、地面に強く爪を立てても、目の前の現実は変わらなかった。
「何でそんなことになったのか、後で分かった。俺が呪ったんだ。自分を……母さんを。父さんがいないという現実に耐えられなくて。悲しみに沈む母さんの姿を見続ける日々に耐えられなくて。思い込んだんだ。あの人は生きていると。思い込ませたんだ。あの人はいつか帰ってくると。……意味のない時間稼ぎだよな。間を空けたところで悲しみが薄まるわけじゃない。より深い絶望となって押し寄せる。俺のしたことは……何だったんだ。誰のためだったんだ」
 シーツの上の握り締めた手が震える。
「……母さんは、父さんのことについて触れなくなった。俺のせいで、父さんはいないも同然の存在になってしまった。母さんにとってどれだけ大切な人だったか、俺が一番知ってるのに。忘れていい存在なんてないってお前に説教しておきながら、自分は都合のいいように記憶を変えて……現実から逃げてたなんて……卑怯だよな」
「……逃げること全てが悪いわけじゃないだろ」
 こちらへ向けていた顔を戻したまま、柳がぽつりと言った。
「一旦間を置くことで、向き合えることもある」
「……確かに間は置けたかもしれないけど、結局仕向けた本人まで忘れてたんだ。このままずっと偽った記憶で過ごす可能性だってあったはずだ。そんなの……母さんは……」
「お前はどう思ってる。記憶が戻って。目を逸らしていた現実を突き付けられて」
「どうって……一言で言えないよ。最初はわけが分からなくて、でも目の前の墓石には確かに父さんの名前が刻まれていて。何があったかも全部思い出して…………辛かった。それに申し訳なかった。母さんに自分の勝手な都合を押し付けて。…………だから、今度こそ向き合わないといけない。現実と」
「何で、そう思う」
「何でって、ほぼ無意識だったとはいえ記憶を捻じ曲げるっていう反則技を使ったんだ。だからちゃんと自分の感情を受け止めて__」
「何で、そうする必要がある。それに何の意味がある。辛いことは知らない方がいいだろ。忘れていて、何か不都合があったのか。忘れたままでいたかったとは、思わなかったのか」
 独り言のように呟かれる言葉。表情に差す影が濃さを増していく。
 忘れたままでいい。何となくその言葉が、柳自身のことを指しているような気がした。
 俺が見えなくて、存在を忘れていて何か不都合があったのか。そう訊かれているような。
「都合がいいなら忘れてもいい。お前はそう思ってるのか。確かにその方が合理的かもな。でも、自分の感情を事務作業みたいに片付けるのは、間違ってると俺は思う。忘れたいとか思い出したいとか……思い通りになんかいかないんだ。それに、苦しんでるのは俺達だけじゃない。あの事件で大切な人を失った人達はきっとたくさんいる」
「事件?」
「ああ。それに巻き込まれて父さんは亡くなった。3月の……あの日に__」
 途端に柳がベッドから立ち上がった。
 こちらに向けられた目に浮かんでいるのは驚愕というより、怯え。
「柳?どうしたんだ」
「その、事件…………3月の、隣町で起きた……」
「ああ……そうだよ。大規模殺人事件。10人以上の死者が出て、犯人は逮捕されたけど動機も凶器も分かってない。有罪になるかどうか怪しいって今でも…………柳?」
「…………その、犯人の名前は……」

「ああ、柳彰也あきやだろ?」

 ____あれ。
 自分で言った言葉に違和感を抱いた。
 それは徐々に嫌な予感として膨れ上がり、同時に柳の表情にみるみる影が差していく。なぜか、刑事ドラマの終盤で犯人が自供するシーンがふと頭に浮かんだ。
「……や、柳?お前…………まさか」
「……あの事件の犯人…………大勢を、お前の父親を殺したのは」

「俺の父親だ」


 父親。
 耳に飛び込んだ言葉が脳内を駆け回る。
 そしてバラバラに散らばっていた欠片と結び付き、はっきりとした形となって表れた。

 加害者家族。殺人犯の息子。“いない者”にされた1人の生徒。

 俺のいない入学直後の3組で何が起きていたのか、やっと合点がいった。
 あのクラスの生徒は柳に“異常者”のレッテルを貼り、孤立させていたんだ。親が人殺しだからという理由で。
 情報化が進む現代社会において情報の拡散は光速並みに等しい。規制されてもどこかで漏れ出てあっという間に広がる。3組だけじゃない、もう学校中に知れ渡っていたのかもしれない。
 本人達に価値観を他者へ強要する意思がなくとも、同じ考えを持つ者が多数となればそれは同調圧力になる。集団に反発すれば今度は自分へ矛先が向けられる。その恐怖心にはそう簡単に打ち勝てない。結果柳を異端者とする明確な意思、特定の1人を集団から疎外しようという共通認識が生徒の間で確立した。
 そこに桐塚は目をつけた。周囲から軽蔑され疎外されるくらいなら、いっそ忘れられる方が彼にとっていい。恐らくそう考えて。
 柳自身にもそれに同調する思いがあったのだろう。だから現状を変えようとする俺の姿勢に難色を見せていた。さっきの言葉もきっとその表れだろう。なぜ現実と向き合う必要がある。それに何の意味がある。
 沈黙する俺の様子をどう受け取ったのか、辛そうな表情をさらに歪め途切れ途切れに言葉を発する。
「黙っていて、悪かった…………知られたら、お前も態度が変わるんじゃないかって…………でもこうなった以上隠しているわけにも…………。名神、こんなことを言っても意味はないし、許されることはないのは分かってる。それでも、言わせてくれ…………すまなかった」
 今にも土下座しそうな勢いで頭を下げる。前に同じ場所で話した時と比べて、より言葉に重みを感じる。
 対する俺は、ただただ反応に困っておろおろするばかり。
 ちょっと待って、一旦整理させて。俺今、何について謝られてる?
「そ、それは……その……黙ってて悪かったって、そんなの、言いたくないことを黙ってるのは当たり前だし。俺も、嫌なら訊かないって言ったし。それとも……俺の父親のこと?でも、それだって、別にお前が謝ることじゃな__」

「俺のせいなんだ!俺が、あの時っ…………」

 俺のせい。またそれを言うのか。
 俺だってさっきまでずっとそう思ってた。でも、そこで思い込みに閉じこもったらだめなんだ。
「お、落ち着けってとりあえず。その、話が見えてこないからまず説明を……」
 少し宥めようと伸ばした手に、柳は怯えた目を向け後退る。
 これ以上何も言うな。もう俺に関わるな。そう訴えているようで。

 そのまま、何も言わずにカーテンの向こうへ消えた。

「待て柳っ!柳!」
 慌ててベッドから下り仕切りを跳ね除けた時、ドアがバタンと閉まり廊下を駆けていく足音がした。待て。まだ、まだ話が。
「えらく堂々とした逃亡ね。そんなに捕まえてほしかったの?」
 駆け出そうとしたところを首根っこを掴まれ引き止められる。やはり清川先生の腕力は見かけによらずかなり強い。
「いや違っ、でも行かなきゃ」
「具合悪い時に無理に体動かすと、後でしんどくなるよ。まだ顔色悪いし足元もふらついてる。このところまともに食事とってないでしょ。多分睡眠も。そんなに追いかけっこしたいなら体調が治ってからにしなさい」
「でも、このままじゃ、また会えなくなったら……」
「はぁ、若い子ってほんとに元気ね。そんなに運動したいなら、私が直接ストレッチしてあげようか?関節技なら結構得意よ。疲れが一気に落ちるわよ」
「……いやそれ意識落ちてますよね」
 早くも首に腕を回し本気で気絶させにかかってきたため、やむなくギブアップを宣言した。
 てか殺す気か。
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