上 下
109 / 124
第二部 3章 手を伸ばして

第5話 不穏

しおりを挟む
「いや、それは期待されてるんだよ。良かったな、ユースケ」
 その顛末をレイに話したところ、第一声がそれであった。ユースケとしてはもっと労いや擁護するコメントを期待していただけに、その言葉を聞いてユースケはますます机に深く突っ伏した。
「も~疲れたっすよ~俺~」
「普通に休め休め。今日はもう帰って寝てろ」
 シンヤが凄まじい速度でパソコンのキーボードをカタカタと鳴らしながら加勢してきた。ユースケはレイに向けていた首をぐるりと回してシンヤの方に向ける。
「疲れた頭で考えたって効率良くねえし、卒業研究の提出も全然余裕あんだから今のうちに休んどけ」
「うーん、でもこのまま帰るのもちょっとってのも感じてるんすよ~」
「めんどくせえ!」
 シンヤはよほど難しい作業をしているのか、眉間に皺を寄せてパソコンを睨んでいた。口数もいつもより少なく、ユースケたちの会話に対する反応も遅かった。
「……それじゃあ、本格的にやるのは明日からってことで、今日のところはとりあえず明日から本格的にやるために予定を立てるぐらいに留めとけば良いんじゃないか?」
「それ、いただきっす」
 レイの提案に、ユースケは再び首をぐるりと回してレイの方に振り向く。レイは机の上を整理したかと思うと、ノートを持って立ち上がり、そのまま研究室を出て行った。そのレイの提案を受けて、その日結局ユースケは、自分の研究目標を再確認し、それを実現するための過程を細分化し、今量子コンピュータで行っている計算結果の次にどんな結果があれば良いかを考え、次にやる実験のリストを作り、それから明日やることの予定を軽く立てて、研究室をいつもよりだいぶ早く出た。
 フローラとの夕飯もまだまだな時間帯で、手持無沙汰となったユースケは、もしかしたら遅めの昼食を摂っているリュウトやユキオがいるかもしれないと考え食堂に向かった。しかし、やはり二人はいなかった。疲れていたユースケは、どうしようかと考えながらとりあえず適当な場所に座った。
 春休みが明けてからもしばらく残暑ならぬ残寒が続いていたが、流石に五月を過ぎると遅れて春の気候となってきた。食堂の中は寒すぎず暑すぎず、校内を照らす陽光がぽかぽかと暖かそうで眠気を誘われたユースケは、そのまま食堂のテーブルに突っ伏して微睡んだ。
 どれくらいうとうとしていただろうか、急に足元に冷たい風が流れ込み、その寒さに足を震わされたユースケは顔を起こした。食堂の扉では誰かが出て行くところで、その際に冷たい風が流れ込んできたのだろう。思ったよりも長い間眠っていたようで、その冷たい風が証明するように外はすっかり暗くなっていた。寝惚けた頭で外の景色をぼんやりと見つめていたユースケだったが、ふとあることに気がつき、食堂内を見回す。
 寝惚けていた頭も段々とはっきりしてきて、何度も何度も食堂内を目を凝らして見渡すが、それでもフローラの姿はなかった。日も長くなった最近では、これぐらい暗くなっていればとっくに来ていてもおかしくはない時間のはずだった。言いようのない不安が、途端に魔物となって胸の内で暴れた。ユースケは椅子が倒れるのも気にしないで食堂を飛び出た。
 念の為寮の付近に戻ってみても、フローラらしき人は見当たらない。ユースケは寮の貸し出しの自転車を借りて、次に工学府棟に向かった。しかし、そこにもフローラの姿はなかった。それから、迷った挙句に、ユースケはかえで倶楽部へ向かうことにした。
 しかし校門を出たところで見た光景に、ユースケは頭を殴られたような衝撃にバランスを崩しそうになった。何とか倒れないように地面に足を着けて自転車を落ち着けるが、目の前にいる警察官たちは険しい顔で互いに話し合っていた。
 ユースケの視線に気がついたのだろうか、警察官がちらちらとユースケの方を見てきて、ユースケは怖くなって必死にその場から離れた。
 でたらめに飛び出したせいでどこに向かっているか分からなかったユースケだったが、それでも何故かかえで倶楽部に辿り着いた。しかし、かえで倶楽部のある噴水広場でも、警察官たちが数名いた。違うとは分かっていても、まるで先ほどの警察官たちが先回りしてきたような気がして、恐ろしさにユースケは足が竦んだ。
 ユースケはそのまま、何も見ずに寮の部屋へと戻っていた。かえで倶楽部に訪れる勇気が持てなかった自分が情けなくて、ユースケはその日、実験が一息ついたというのも忘れて、身の竦むような想いに苛まされながら、生まれて初めて眠れぬ夜を過ごすことになった。

 フローラに会えない日々が続いた。結局警察官たちが何をしていたのかも分からずじまいだったので、ユースケは気を許せば悪い想像をしてしまい、研究も集中できていなかった。そのことに気がついていながらも、流石にユースケの心境までは見抜けていないソウマはマイペースにユースケのことを急かすが、ユースケも気が急いて却ってミスばかりが増えてしまう。
「おい、お前何かあったんだろ。休んどけ」
 そう心配してくれたのはシンヤだった。レイも、無口ながらもユースケを心配している節は伝わってきて、量子コンピュータ室の掃除や鍵の管理もレイが代わってくれたことがあった。そんな先輩たちがユースケは何よりありがたかったが、それでも動揺した心は落ち着いてくれそうになかった。
 朝食のときにもいつもは美味い美味いと感じながら食べていた白米も重たく感じられ、そんなユースケを「何か気味悪いな」とナオキが不気味がりながらもじろじろと見てきた。昼食のときにも、珍しくユキオやリュウトに出会うことがあったにもかかわらず気分が高揚せず、そんなユースケの顔を二人とも心配するように覗き込んできた。何とか明るい顔を見せようと無理に笑顔を作ってみると、ユキオには「無理しない方が良いよ」と無慈悲に言われ、リュウトにも「お前笑顔作るの下手だよな」と何故か感心される始末である。
 しかし、そんな不安定な日々も長くは続かなかった。五月末、休日明けの平日の初日になって、フローラが再び食堂に現れた。
「本当にフローラか? 偽物じゃないよな?」
「何言ってるのユースケ」
 そう言ってクスリと笑う仕草は、紛れもなくユースケの惚れ込んだフローラのそれであった。まるで長い悪夢から目が覚めたように曇っていた心がすっきりしていった。
「会いたかった。ずっと会いたかった……」
 感極まったユースケは、食券も買う前にフローラに抱き着いた。ユースケの勢いが強すぎて、フローラが仰け反り後ろに倒れそうになるのに気がついて、ユースケは慌ててフローラを抱き寄せる。
「私も、ユースケに会えなくて寂しかった。こんなに寂しくなるなんて、私思わなかった」
 フローラもそっとユースケの腰に手を回す。最近ではフローラのユースケに対する想いを疑ったことなどなかったが、それでも素直にフローラが甘えるようにしてくることなどなかったため、ユースケは恥ずかしさに動きが固まった。顔が熱くなって、冷たい空気を吸おうと外に目を向けてようやく、いかに人の少ない時間帯の食堂とはいえ、人目も憚らずにやる行為としては恥ずかしいことをしていることに気がついた。しかし、今日のフローラはしおらしく、しばらくユースケに抱き着く手を離さなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

就職面接の感ドコロ!?

フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。 学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。 その業務ストレスのせいだろうか。 ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

スケートリンクでバイトしてたら大惨事を目撃した件

フルーツパフェ
大衆娯楽
比較的気温の高い今年もようやく冬らしい気候になりました。 寒くなって本格的になるのがスケートリンク場。 プロもアマチュアも関係なしに氷上を滑る女の子達ですが、なぜかスカートを履いた女の子が多い? そんな格好していたら転んだ時に大変・・・・・・ほら、言わんこっちゃない! スケートリンクでアルバイトをする男性の些細な日常コメディです。

処理中です...