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第一部 1章 ラジオ

第16話

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 母親が直に帰ってきて、ユリは夕食の手伝いに台所へ向かった。ユリが移動するのに合わせて、ユースケはソファの上にぐでんと寝転がり、引き続きテレビを眺めていた。母親もソファでテレビを眺めているユースケを一瞬だけ珍しがったが、ユースケの顔を覗き込み、テレビを見ているユースケの目が死んでいることを確認すると安心したように台所へ向かった。二人が夕食の準備に取り組んでいる間、ユースケはずっとソファの上でくつろぎ、テレビを眺めているうちにうたた寝し始めた。
 眠気に圧倒的に支配されていたユースケであったが、やがて夕食の美味しそうな香りがしてくると、現金なもので徐々に食欲が睡眠欲に勝り、ユースケはソファから起き上がって身体を猫のように伸ばした。そんなユースケを胡乱な目つきで見ていたユリは、ユースケに夕食を手渡していった。培養肉のハンバーグに豆腐の味噌汁の匂いにユースケは軽やかな足取りで運んでいった。
 三人で一緒に夕食が始まるも、ユースケは顔だけは眠そうなまま、パクパクと勢いよく食べていった。その横でユリは、ユースケの横顔をちらちら見ながら、ユリのために別に作られた豆腐ハンバーグをゆっくり食べていた。頬にチクチク刺さるユリの視線にユースケが不思議そうに振り向く。
「どうした、ユリ」
 ユースケが呼びかけるも、ユリは浮かない顔のまま視線を目の前の食事に下ろしたままだった。ユースケが優しく肩を揺らしてみても無反応でユースケの手をどけることすらしなかった。いよいよユースケは母親を見るが、母親は我関せずとばかりに黙々と食べているだけであった。ユリがおかしいぞ、と目で母親に訴えかけるが、わざと無視してるのか意地でも顔を上げない母親に「なんだこの冷淡おばさんは」とユースケは心の中で毒づいた。やがてユースケもユリの肩から手を離すと、それを契機にユリもようやく口を開いた。
「ねえお兄ちゃん。何で最近勉強してるの?」
「え? そりゃあ……」
 それまで反応の薄かったユリがいきなりユースケの方に振り向き、神妙な面持ちで尋ねてくるものだから、ユースケも一体どうしたのかと動揺した。ふざけたような答えが一瞬浮かぶも、ユリがあまりにも深刻そうにユースケを見つめてくるものだから、ユースケもその言葉を飲み込んで思考の闇へと放り込む。
「そりゃあ、皆苦しんでるってのに俺だけバカのままじゃやばいだろって思ってな……」
「皆苦しんでる? 俺だけバカじゃヤバい? お兄ちゃん、そんなこと気にしてたの?」
「お前は俺を何だと思ってるんだ。俺はいつだって真面目にこういうことも考えてるんだぞ」
 心外だとでもいう風にユースケは鼻を鳴らすが、ユリの表情は依然として曇ったままで、やがて再び視線を落とした。一向に表情が優れないユリにユースケは心配よりも先にどうすれば良いのかと、まるで見知らぬ女性を相手にしたような手持無沙汰さに襲われた。手をあたふたさせてしまうユースケに、母親から「箸持ったまま暴れないでよ、危ないから」と諫められユースケもとりあえず素直に箸を置く。
 視線を落としていたユリだったが、しばらくして渋々と夕食を再開し、ちまちまと口に運んでいた。それでも時折思い詰めたようにその手を止め、ユースケの方をちらりと見る。
「遠慮せず、言いたいことあるなら言って良いぞ? ユリこそどうしたんだ?」
 ユースケが声を高くして優しく話しかけると、一瞬だけユリの表情がくしゃっと歪んだ。しかし、すぐにさっきまでの神妙な顔つきに戻った。
「なんかさ……なんか最近、お兄ちゃん変わったなって……急に勉強真面目に取り組んじゃったりして、疲れた顔で帰ってくるし……」
 ユリはそこまで言うと、もごもごと口を動かしもどかしそうに言葉を詰まらして「うーん」と唸っていた。そんな風になるユリの様子が珍しくて、ユースケはぼうっとその様子を見守っていたが、唐突に悟った。もどかしそうなユリも、表情を曇らせていたユリも、ユリがどこか変わったからでもなく、ユリに何かおかしいことが起きたからでもなく、ユースケ自身が変わったことに戸惑っているからなのだと、ユースケはようやく気がついた。
 それからも言葉を選んでいるようであったが、そのうちに頭がオーバーヒートしたのか、ユリは頭をくしゃくしゃにしながら抱えた。そしていきなりユリが箸を持っていない方の手でユースケを指差してきた。
「とにかく、急に勉強に目覚めるお兄ちゃんがらしくないってこと! いや、良いことなんだけどね、急にそうなるからちょっと不気味だったっていうか……」
「だから、真面目な兄を不気味がるな不届き者め」
「どうでも良いけど、あんたたち早く食べなさいよ」
 ユースケとユリが揉めているところに、母親の冷ややかな声が飛んできて二人とも母親の方をはっと見る。母親は静かに手を合わせて「ごちそうさまでした」と言ってそのまま食器を台所へ下げていった。ユースケとユリも、互いを睨み合いながら、黙々と食べ勧めた。好物のハンバーグを咀嚼しながら、ユースケはユリに言われたことを頭の中で何度も思い返しながら、会話に参加せず最後の最後に水を差してきた母親への呪詛を心の中で唱えていた。

「それはあんたが悪いでしょ」
 翌朝、登校途中にユズハに昨夜のユリとのやり取りのことをユースケが話すと、ユズハはじとっと粘っこくユースケを見てきた。
「勉強少し真面目にやってるだけでそこまで言うか」
「普段のあんたがあんただからでしょ。百八十度違う人間になるようなもんじゃない、あんたの場合」
 ユズハの相変わらずな物言いにユースケも憤ろうとしたが、ユズハの言葉を反芻してピコンと光るものがあり、憤るのも忘れて指を鳴らした。ユズハはそんなユースケの様子に気がつかないでつまらなそうに石を蹴っている。
「確かに、それだな。流石は俺の幼馴染み」
「はあ……どういたしまして」
 ユースケが何故お礼を言ってきたのか分からなかったユズハは、顔も上げずに曖昧に答えて石を蹴飛ばした。勢いよく飛んだ石は茂みの方に消えていった。ユズハはユースケの話に興味をすっかり失ったようで、視線を落としたままきょろこきょろと地面を見渡し、次の石を探していた。そのせいで、隣を歩くユースケがほくほく顔で何かを企んでいるような顔になっているのに気がつかなかった。
 その日、それまで放課後に図書館に通い続けていたユースケは、珍しく図書館に寄らずに、授業が終わるとすぐに、これまでのようにタケノリたちを帰りに誘った。タケノリたちも、勉強に真面目になったユースケにもたまにはこんな日もあると、あまり深くは考えず、タケノリも部活がなく、セイイチロウも図書館は今日はいいやと答え、一緒に帰ることになった。そのまままっすぐ家に帰るにも早く、タケノリたちはぼんやりとどこかに寄って駄弁ろうかなどと考えていた。
 しかし、最近タケノリはフットサルの調子はどうだとか、セイイチロウは何で図書館に行く日と行かない日とがあるのかとか、カズキの家での愚痴など、他愛もない話をしているうちに、タケノリたちの予想を裏切り、ユースケはそのまままっすぐ自宅に通じる森へ入ろうとしていた。タケノリとセイイチロウは互いに顔を見合わせ「お、このまま帰るのか?」と不思議に思い、カズキも一瞬驚いた顔になったものの、やがてしたり顔に変化して「ははあ、さては今日はユースケの家で集まって駄弁るってことか」と予想してそのままユースケについていこうとすると、ユースケが困惑したようにタケノリたちの顔を見渡した。
「え、俺このまま帰るけど?」
「え?」
 カズキが納得いっていないように大袈裟に肩を竦めて口をすぼめた。ユースケもふざけてカズキの真似をしてみるが、セイイチロウが黙って森に入っていこうとするとユースケは慌てて、まるで森を守る番人のようにセイイチロウを突き返した。セイイチロウがとぼけた顔でもう一度森へ入っていこうとするが、ユースケがうざったそうに手で払ってきた。
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