Besides you 上

真楊

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9.

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 夏休みが終わっても悠哉の日常は以前となにも変わることは無かった。あれから木原とは会っていない、向こうも社会人なのだから仕事が忙しいのだろう。正直もう会いたいとは思わない。
 あの人が母以外の女との間に子供を作っていたなんてショックだった。母もあの人もいない今、悠哉にとって血の繋がった家族は木原だけなのかもしれないが、血の繋がりなど悠哉にとってはどうでもいい事だった、所詮は他人なのだから。
 授業が終わり帰り支度をしていると、いつものように彰人がずかずかと教室に入り悠哉の席へと向かってくる。最初の頃は上級生が教室に無断で入ってくることを不審に思っているクラスメイトもいたが、今ではこれが日常になっているため誰も気にしなくなっていた。
「陽翔は今日も部活か?」
「ああ、夏大は終わっても秋があるからな」
 そう言って立ち上がり荷物をまとめ教室を出ていく悠哉の後ろを、当たり前のように彰人も付いてくる。
 彰人はあれから木原についても、あの人についても何も聞いてこない。最初はあんな話を聞かされて幻滅されたのではないかと不安に思っていたが、彰人の態度は以前と何も変わりないため悠哉の不安が当たることはなかったようだ。木原について触れないのは単に彰人が気を遣ってくれているのだろう。
「あっ、そうだ。ちょっと用事を思い出したから玄関で待っててくれるか?」
 立ち止まった彰人は何かを思い出したようで、悠哉にそう頼んだ。悠哉が「わかった」と返事をすると「ありがとな」とだけ応え彰人は反対方向へ足早に行ってしまう。
 気がついたら彰人と帰ることが自分の中で当たり前になっており、一人で先に帰るという選択肢が悠哉の中に存在しなくなっていた。自分にとって確実に彰人の存在が大きくなっている、だからこそあの人のことも彰人にしっかりと話さなければと思うのに、あの時の話をすることが怖くて悠哉はなかなか切り出せないでいた。
 彰人が戻ってくるまでまだ時間があるだろうと思い、悠哉は普段あまり使わない一階のトイレへと入った。ことを済まし、手を洗っていると入口から人の気配を感じる。
「お前涼井だよな?」
 悠哉が声の方を向くと、そこには見覚えのない三人組が立っていた。内履きの模様が赤いことから、恐らく三年生なのだろうと推測できる。
「なんですか?」
 不審に思った悠哉は、眉を寄せ怪訝げに問いかけると「お前最近神童と仲がいいよな」と真ん中に立っている金髪の男が口にした。神童、彰人のことを言っているのだろう。何故こんなことを聞いてくるのか相手の意図が分からなかったため「なんの事です?」と悠哉はとぼけてみせる。
「とぼけんじゃねぇよ、さっきだって神童と一緒にいたじゃねぇか」
「何が言いたいんですか?俺、連れをまたせてるんで」
 これ以上相手にしてもろくな事にならないだろうと考えた悠哉は、その場から離れようと男たちの横を通り外に出ようとした。しかし一人の男に腕を掴まれてしまいそれは叶わなかった。
「おい、どこ行く気だよ」
「まだ俺たちの話は終わってねぇよ」
 三人に出口を塞がれてしまいどうすることも出来なくなる。しつこい奴らだな、とだんだん苛立ちが募っていきキッと腕を掴んでいる男を睨みつけた。
「だから何が言いたいんです?」
「お前神童とデキてるだろ」
 悠哉は「は?」と思わず目を見開く。
「あいつがゲイだって噂は前から耳にしてたんだ、実際にあいつに抱かれたやつも知ってるしな。だからあいつが最近よく一緒にいる涼井お前が新しい相手なんだろ?」
 ニヤついている男の顔が気持ち悪く、悠哉の不快な気持ちがよりいっそう強くなる。
「彰人と俺はそんな関係じゃないです、勝手なこと言わないでください」
「嘘つけよ、神童は色んな男を食いまくってる噂だぜ?それに男に飽き足らず女にまで手を出してる最低野郎だ。どうせお前もすぐに捨てられるさ」
 彰人のことを散々に言われ、腹立たしさから悠哉の拳がプルプルと震えた。込み上げてくる怒りに抗えず「いい加減しろよ…」と悠哉は男の顔を睨みあげた。
「彰人はそんな人間じゃない、お前らの方がよっぽど最低野郎だ」
 悠哉が吐き捨てるようにそう言うと、男は眉を釣りあげ「こいつ…っ」と悠哉の腹を蹴り飛ばした。勢いよく背中を壁にぶつけたため、ガンッと鈍い音が鳴る。腹と背中にじんじんとした痛みを感じ、悠哉は思わず眉を顰めた。
「もういい、早くやっちまおうぜ」
「そうだな。おいお前ら、こいつ暴れないように押さえつけろ」
 金髪の男が指示を出すと、二人の男に悠哉は体を押えられ身動きが取れなくなってまう。これは本格的にやばいのではないかと思い始め、嫌な汗がつーっと悠哉の肌を伝った。
「離せっ、何すんだよ…っ!」
 なんとか抜け出そうともがいてみるものの、二人がかりで押さえつけられているため全くもって無意味だった。
 金髪の男が悠哉の髪をガッと掴む。
「神童は俺の彼女を寝とったんだ、だから俺もその仕返しにお前を今から犯す」
 男の言葉に体が硬直した。男に対する怒りの感情が恐怖へと塗り替えられていく。なんて下品な笑みなのだろうか、気持ち悪さで悠哉の背筋にはゾッとした寒気がおとずれた。
 男はカチャカチャとベルトを弛め「こいつの下脱がせ」と押さえつけている一人に指示した。すると、男にベルトを外されズボンのチャックを下ろされる。途端に「やろめっ!離せっ!!」と悠哉は抵抗するが、状況は一変として変わらない。
 ふと悠哉の脳裏にあの時の光景がフラッシュバックする。三年前の記憶のはずなのに、その記憶は現実として目の前に映し出されていた。あの人に襲われる、俺を愛してくれなかったあの人が、母さんの影を重ね俺を抱こうとしている。そんなの嫌だ、そんな愛され方されたってちっとも嬉しくない。嫌だ…嫌だよ父さん…っ。
 悠哉の瞳には涙が溜まり、視界がぼやけて何も見えない。抵抗することすらやめ、大人しくなった悠哉を見て男は「はははっ、なんだ怖くなっちまったか?」と下品に笑う。
 そんな男の言葉など今の悠哉には届かなかった。男の姿なんて見えていない、今の自分は三年前のあの時に戻っているのだから。
 
「悠哉、お前俺の事嫌いだろ」
「なに急に」
「だってお前、俺に対する態度があからさまに冷たいだろ?」
 目の前の男はそう言うと不服そうに頬杖をついた。
 これは昔の記憶だ。父さんと交わした何気ない会話の一部、何故今更こんな記憶が自分の中に流れているのだろうか、と悠哉は今の状況を不審に思う。
「…好かれたいと思うならホストなんてやめて家族のために働けよ」
「働いてるだろ、俺が働いてるからお前は生きていけるんだぞ」
 「子どものために親が働くなんて当たり前だろ」と悠哉は呆れた態度で言い返す。この頃の悠哉は自分自身でも自覚するほど可愛くない子供だった。だって素直になんてなれるはずがなかったのだからしょうがないだろう。それでもこうしてたまに父さんと話せることが嬉しかったんだ、一見平気な態度で冷たい視線を向けているが、内心は嬉しさで悠哉の胸の内側はドキドキと静かに音を立てていた。この人の特別になりたい、悠哉は密かにそう思っていたんだ。
「俺はお前のことが好きだぞ悠哉」
 『好き』その言葉に悠哉の心臓は驚くほど大きく跳ね上がった。悠哉のことを見つめるその熱い眼差しは、悠哉の鼓動をバクバクとより一層駆り立てる。
 好きだ、あの頃から自分の中に確実に存在していたこの熱い想い。俺はずっと忘れようとしていた、父さんに対する気持ちごと、俺は父さんのことを忘れようとしていたんだ。だってもうあの人は俺の傍にはいない、だから嫌いだと自分に言い聞かせてあの人を心の底から嫌った。俺は父さんの気持ちごと蓋をしていたのだ。そうしてしまえば傷つくこともないから。
 それなのに今になってどうしようもなく父さんに愛されたいと思ってしまう自分がいた。胸の奥がズキズキと傷んで苦しい。
 ――愛されたい、俺はこの人に愛されたいんだ…。

 悠哉が目を開けると見慣れない天井が映し出された。すると突然「悠哉…っ!」と声がしたかと思ったら、がばりと陽翔に抱きつかれる。
 陽翔に抱きつかれながらまだ覚醒していない頭で先程の光景を思い出すが、だんだんとその光景は薄れていき、悠哉はずっと夢を見ていたんだとぼーっとしながら考える。過去の記憶が夢として再現されたのだろう。
 悠哉が起き上がろうとすると陽翔は身体を離し「起きれる…?」と心配そうな声色で問いかけた。
「ここは?」
「保健室だよ」
 「保健室…」と呟き悠哉が辺りを見渡すと、白い壁に白いカーテン、確かに言われてみれば保健室だな、と納得する。しかし未だに状況を掴めていない悠哉はふと陽翔の顔を見てぎょっとした。
「お前なんで泣きそうになってんだよ…?」
 陽翔の大きな瞳には涙が溜まっており、今にもこぼれ落ちそうだった。「だって…っ」と口を開いた陽翔は鼻水を大きくすすった。
「…悠哉、さっき起きたこと覚えてる…?」
「さっき起きたこと…」
 そういえば俺は何をしていたんだっけ…悠哉は自分の記憶を辿っていった。するとだんだんと思い出してくる。そうだ、上級生三人にトイレで彰人の事をあれこれ言われて…それから…。
「う”っ…」
 途端にゾワっとした憎悪が悠哉を襲い、込み上げる吐き気を抑えるために口元に手を当てた。
「悠哉!?」
 陽翔は声を荒らげ、心配そうな瞳を揺らめかせながら悠哉の背中を優しく撫であげた。
 思い出すだけでも気持ちが悪い、知らない男が自分の素肌に触れようといやらしく手を動かしていた、ニヤついた顔がなんとも下品で今すぐにでも悠哉は脳裏から消し去りたい気分だった。
「俺は…どうなったんだ…?あの男達に襲われたのか…?」
 悠哉が震える声で陽翔に問いかけると、陽翔は悠哉の身体を優しく包み込むように抱きしめる。
「すんでのところで神童先輩と慶先輩が助けてくれたんだよ。悠哉は途中で気を失っちゃったから覚えてないと思うけど、だから大丈夫」
 悠哉を安心させるような陽翔の声色、そして何もされていないという事実に先程まで抱いていた嫌悪感が薄まったような気がして、悠哉はそのまま陽翔に体を預けた。
 陽翔の話をまとめると、以前から彰人に恨みを持っていた男が最近彰人の近辺を嗅ぎ回っていたという。そのことを難波は不審に思っており、放課後彰人に伝えるつもりだったらしい。先程彰人が用事があると言っていたのもそのことが原因らしく、難波からその話を聞いた彰人はすぐさま悠哉のことを探しに行ったという。そしてトイレで悠哉が数人の男に襲われそうになっているところを彰人が見つけたようだ。
「慶先輩に聞いた話だけど、悠哉のことを見つけた時の神童先輩の顔が見たことないぐらい怖かったらしいよ。それで一人の人をずっと殴ってたって」
「あいつ手を出したのか?」
 殴ったという言葉を聞いて、悠哉は反射的に陽翔に聞き返した。
「うん、でも悠哉が気にすることないよ、あの人たちは殴られて当然のことをしたんだし。それに僕は殴られたぐらいじゃ全然足りないと思ってるよ、悠哉がされたことに比べたら全然足りない、もっと罪を償ってもらわないと」
 悠哉を安心させるように笑顔を浮かべ優しい声色でそう口にした陽翔だが、瞳には光がなく狂気的な笑顔に見えてしまう。その様子だと陽翔も相当怒りを感じているらしい。
「お前ってたまにすげぇ怖いよな」
「え?何が?」
 たまに出る陽翔の狂気的な部分を指摘すると、当の本人はまるでわかっていないような態度で首を傾げる。こういう奴を怒らせると一番怖いんだ、と悠哉は心の中で苦笑した。
「そんなことより、悠哉気分の方は大丈夫そう?こういう時って一回病院に行ったほうがいいのかな…」
 顎に手を当て神妙な面持ちで考え込んでいる陽翔に「そこまでしなくても大丈夫だ」と悠哉は答える。
「なぁ陽翔、俺彰人に何か言ったか?」
「え?!」
 悠哉の質問に陽翔は目を泳がせ「べ、別に何も言ってないんじゃない…?」としどろもどろに答えた。
「お前ほんと嘘つくの下手だな」
「う”っ…」
 悠哉に嘘を見抜かれた陽翔は俯いてしまった。悠哉は陽翔の様子を横目で見ながら、やっぱりなとぎりっと奥歯をかみ締める。
 今になってあの時のことがうっすらと思い出してくる。鮮明には覚えていないものの、何故だか傷ついた彰人の顔だけが、悠哉の脳裏に色濃く浮かんでいる。
「俺は…また彰人を傷つけたんだな…」
「悠哉…」
 力なくそう言った悠哉に対して、陽翔は「悠哉が気に病むことじゃないよ」と悠哉の手にそっと自分の手を重ねた。それでも悠哉の気持ちは晴れなかった。これは悠哉の憶測にしか過ぎなかったが、男たちに襲われそうになった自分は三年前と状況を結び付けてしまいパニックになった、そして自分の元に駆けつけてくれた彰人のことをまた拒絶したのではないだろうか。
「俺は未だに父さんのことを忘れられないんだ、いつまで経っても父さんに囚われてる」
「それはしょうがないよ、だって悠哉にとってはたった一人の肉親だったわけだし、それにあんなに辛い経験をしたんだから忘れられないのも無理ないよ」
 陽翔は悠哉の手をギュと握ると、力強い瞳を輝かせ訴えた。しかし悠哉は首を振り「違うんだ」と俯く。
「昔の夢を見たんだ」
「夢…?」
「忘れようとしてた父さんとの思い出。だけど辛い記憶じゃなくて幸せな記憶なんだ、あの人と他愛のない話をしてるだけだったけど俺の心は満たされているような気分だったよ」
 悠哉は昔を懐かしんでいるように目を細めながら陽翔に夢の内容を打ち明けた。悠哉の話に陽翔は口を挟むことなくただ黙って耳を傾けてくれている。
「それなのに俺は幸せな記憶ごと消そうとしてる、だってあの人の事を思い出すとどうしようもなく胸が苦しくて辛いから。今でも俺は父さんのことを嫌いになれない、あんな事されたって嫌いにはなれなかったんだ。それでもあの人のことを思い出すと辛くて苦しくてどうしようもないから俺はずっとお前に依存しようとしてたんだ」
 悠哉にとって父親とは唯一無二の存在であって、そんな父へ悠哉自身特別な感情を抱いていた。けれど結局あの人は自分のことを愛してはくれず、母の事しか見ていなかった。父の事を思い出す度に突き立てられるその事実が悠哉を絶望させた。だから陽翔に依存した、陽翔に依存すれば父の事を思い出さずにすむのではないかと考えた悠哉は、陽翔に対する好意を恋愛感情だと理由付けたのだ。そうすれば父さんへの気持ちが無くなると思ったから。
「俺は結局お前を利用して父さんのことを忘れようとしたんだ。辛い記憶をお前で補おうとした、ごめんな」
 悠哉が力のない笑顔を浮べ陽翔に謝ると「悠哉は悪くない、だから謝らないで」とすぐさま陽翔に否定される。
「いや、俺が悪いんだ。彰人にだって中途半端に干渉して結局は父さんの事を思い出すのが怖いから見捨てた。俺は彰人の事だって忘れようとしたんだぞ?」
 それなのに彰人は悠哉のことを嫌悪するわけでもなく、逆に好意的に接してくれている。そんな彰人に悠哉は甘えきって自分が彰人に対して犯した罪など最近では頭の中から抜けていた程だった。彰人がどんなに自分のことを好きだと言ってくれても、自分は彰人に愛される資格などない、そんなことずっと前から理解していたでは無いか。
「やっぱり俺には彰人のそばにいる資格なんてないんだ、またあいつのこと傷つける」
 あんなにも自分の事を強く想ってくれている彰人に対して何も返せないどころか、傷つけてしまっているそんな自分が嫌いで許せない。悠哉はギリっと下唇を強く噛み、昔のトラウマにいつまでも縛られている自分の愚かさを悔やむ。
「悠哉はどうしたいの?」
 すると突然、悠哉の目を真っ直ぐと見つめた陽翔が悠哉に問いかけた。
「俺がどうしたいか…?」
「うん、悠哉は本当にそれでいいの?」
 陽翔の言葉に悠哉の胸はザワりと動いた。本当にそれでいいのか、俺はまた彰人から逃げるのか?結局は彰人を傷つけること、そして自分が傷つくことが怖いんだ。だから今もこうして逃げようとしている。
「そばにいる資格とかそんなの関係ないんじゃないかな、悠哉が神童先輩のそばに居たいって思っているならそれだけでいいと思う」
「俺が彰人のそばに居たいか…」
「悠哉は彰人さんのことどう思ってるの?」
 予想もしていなかった陽翔の質問に「え…っ?」と悠哉の口から反射的に声が出る。何故だか動揺してしまい上手く言葉が出てこない。
「…嫌いではない、それだけは言える。だけどよく分からないんだ…あいつへの気持ちが…」
 三年前、初めて彰人に会った時はいけ好かないやつだと思ったが、そんな彰人のことが放っておけ無かった。その理由として、陽翔と出会う前の自分自身に似ていたからだと思っていたが、本当は父に似ていたからなのだろうと今になって悠哉は気づいた。だから彰人のことを身近な存在だと感じてしまって、変に干渉してしまったのだろう。そんな悠哉は未だに父と彰人のことを重ねてしまっている、けれども彰人と一緒にいるうちに別の感情も抱き始めた。
「だけど…俺は彰人のそばに居たい…今度こそ彰人のことを受け入れたいんだ」
 彰人への自分自身の気持ちは未だに分からなかった。けれど彰人のそばに居たいという気持ちは自分の中で強く存在している。またあの時みたいな弱い自分には戻りたくなかった。悠哉は彰人からも、そして自分自身からも逃げたくはなかった。
 悠哉の言葉を聞き、陽翔は「だったら神童先輩に悠哉の本当の気持ち伝えないと」とふっと微笑んだ。
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