一寸先は闇

北瓜 彪

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第6章 クローゼットになった木

7つのピニャータ人形

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 「大丈夫か!!」
 マツナガ先生の叫び声が聞こえた。
 目の前では逆さまの3、4年生が数人、教科書やら資料集やらを抱きしめたまま引きつった顔でわたしを凝視している。
 踊り場の壁に掛かった抽象画が僅かに視野に入った。そこに廊下を走り回る同級生達の馬鹿騒ぎの声が重なり、わたしはこの怪我で済んだことが嬉しくて思わず笑みをこぼしてしまった。


 
 あれは先週の日曜日のことだった。
ーーピーンポーンーー
我が家に突然の来客があった。
「やあ、どうもどうも。」
「ああトシヒロさん、お久し振りです。」
 母の声が電話をしている時みたいなよそ行きの感じだったから振り返ると、ドアの前にトシヒロ叔父さんがいた。
「あっ、トシヒロ叔父さん!」
「やあマチコちゃん。やあ、みんな。」
「わーい、トシヒロ叔父さんだ!でも今日はどうして来たんですか?」
 わたしはトシヒロ叔父さんが大好きだ。叔父さんは結婚してないし子供もいないから、ほぼ1年中趣味で海外旅行に行っている。叔父さんの旅行の土産話は小説よりも面白いから、わたしはいつも親族の集まりを楽しみにしている。
「あっ、ごめんなさいトシヒロさん。突然のことでマチコに話し忘れちゃったわ。」
「えっ?お母さんトシヒロ叔父さんが来ること知ってたの?」
「そうなのよー、ほら、今度はメキシコに旅行されてたって話したでしょう。そのお土産を持ってきて下さったんですよね?」
「そうだよマチコちゃん。一刻も早く今回の旅の話を皆さんにお聞かせしたいと思ってね。」
「わー!メキシコではどんなことがあったんですか?」
「ハハハ、そんなに僕の話を楽しみにしていたなんて、マチコちゃんはいい子だなあ。」
 「トシヒロ、あんまりマチコを甘やかすんじゃないぞ。」
そこにお父さんが現れた。
「マチコちゃん、お父さんはいっつもプンプン怒って鬼みたいだねえ。」
「だって、お父さん!」
「本当にマチコはトシヒロが好きだなぁ。」
お父さんはソファに深く腰掛けてから言葉を繋いだ。
 「あ、そうそう。トシヒロ、お土産は?まさか可愛いマチコに何もやれないなんてこたぁないよなあ?」
「もちろん!ほうら…」
 そう言って叔父さんは手に持っていた大きなギフトショップの袋を開いて、中から片手サイズの人形を取り出した。
「ほうら、珍しいピニャータ人形だ!あのお店でしか売ってないらしいぞ!」
 その人形は、原始人が作った土人形みたいな見た目をしていて、何だかロボットみたいだった。両足を前に投げ出して、お尻で座っている。頭からは何本かずつ分かれてまとまった髪の毛がピンピン生えていて、その色は赤だった。
 「えええ?その可愛くない人形が1つだけか?」
お父さんが本当に嫌そうな顔をして吐き捨てた。
「いやいや1つだけじゃない、7つもあるんだ。」
「げえっ、7つもか!?」
 叔父さんは袋の中からさらに1つ、2つ…と全部で7つの人形を出し、客間のテーブルの上に出した。どれも同じ見た目をしていたが、つんつん頭の髪の色だけは7つ全部が違っていた。オレンジ、黄色、緑、水色、青、紫。そう、虹の7色だった。
  「おいおい、ホントにそれだけなのか⁉︎マチコもこんなもの貰っても困っちゃうよなぁ?」
「そんなことないよねぇ、マチコちゃん?これはねえ、ピニャータ人形っていって、メキシコ名物のピニャータを模した人形なんだ。」
 叔父さんによると、ピニャータとは子供の誕生日祝いのお祭りなどで使われるくす玉のことで、中にお菓子やおもちゃを詰めてひもで吊るし、それを目隠しをした子供が棒でたたいて割るのだそうだ。
「ピニャータには色んなタイプがあるが、中には人形の形をしているものもあるんだ。これはその人形型のピニャータを模した人形なんだ。」
叔父さんが誇らしげに説明する。
 「なんだ、そんなことなら本物のピニャータを買ってきてほしかったものだ。」
お父さんが不満そうに言った。
 正直、わたしは今回ばかりは叔父さんのプレゼントを心から喜ぶことが出来なかった。確かにお父さんの言う通りだと思ったのだ。
「珍しいな、お前に限ってこんな下らない物を摑まされるなんて。」
 叔父さんはお父さんにブーイングされて本当に残念そうな顔をした。笑ってばかりの叔父さんが今までに見せたことのない、心底不本意そうな顔だった。
「そうかなぁ…でもぉ、ほんとにあの店でしか売ってなかったんだぞ。」
 その後叔父さんはお父さんとお母さんにメキシコの有名メーカーの時計と化粧品を渡し、わたしへのお土産はやっぱりその人形だけだった。叔父さんの土産話は今回もすごく面白かったけれど、わたしはそのピニャータ人形を自分の部屋に持って行きたいとは思えなかった。

 「ピニャータ人形………ぴ、に、ゃ、ー、た、ピニャータに、ん、ぎ、人形っ、それっ。」
 結局わたしは7つもの人形を自室の机の上に置いた。可愛ければ別だが、こんな土人形みたいなのを7つも置いて場所を取るのはーー叔父さんには申し訳ないがーー勿体ない。わたしはピニャータ人形をネットで調べてみたが、1つの検索結果もヒットしなかった。
「叔父さん、本当にお店に騙されちゃったんじゃないかなぁ…。」
 わたしは目の前の赤い髪の人形を見つめ、親指の腹に引っ掛けた人差し指でその鼻先をピンと弾いてやった。

 その次の日、わたしはテレビを見ていて夜更かししてしまったせいで、1日中睡魔と戦っていた。
 6時間目、国語の授業中に眠気がピークに達し、
「ガシャン!」
大きな音がして顔を上げると、机の下の床にわたしの水色の筆箱と鉛筆が散らばっていた。
「お、大丈夫か?」
タジマ先生の声がして、クラスのみんながくすくすと笑い出した。
「あ…すいません。」
「おいおい、集中してないんじゃないのかぁ?じゃあコイケ、今ヤグチに聞いた質問に答えなさい。」

 「あぁー……最悪………!」
「どーしたの?マチコ何か今日元気ないよ?」
 下校中、わたしは親友のサチコに心配されてしまった。朝からずっと眠かったこと、気づかれていたようだ。
「昨日夜更かししちゃってさ…そういえば、昨日うちに叔父さんが来たんだけどさ。」
「あー、世界中旅してるんでしょ?」 
「そうそう、その叔父さんがね…」
わたしは叔父さんから貰った変な人形の話をした。
「えーっ……でもまあ、男の人だから仕方ないかもね。その人、変わってんじゃない?もしかしたらほんとに価値ある人形なのかもしんないし、ありがたく貰っとけば?」
 確かに、叔父さんが訳もなくプレゼントを選んでくることも考えられなかった。わたしはサチコの意見に相槌を打ちながら、自分の中で納得した。


 「ただいまー。」
 リビングのドアを開けて部屋に入ったわたしは、何だか違和感を感じて足を止めた。何というか、すごくスパイシーな匂いがするのだ。
「…あっ!」
 程なくして、その発生源を見つけた。わたしのアップライトピアノの上に、破れて壊れたピニャータ人形が座っていたのだ。
「これ……どうしてここに………。」
人形は頭が割れたようで、茶色い破片が鍵盤蓋の上にも落ちていた。お母さんがわたしの部屋からここに移そうとして落として割ってしまったのだろうか…。わたしは破片をそっと集めると、首のない人形と共に自室のゴミ箱に捨てた。もし誰かが壊してしまったとしても問い詰めるつもりはなかったし、むしろこうなってくれてよかったとさえ思っていた。

 火曜日。その日は家庭科で調理実習があり、わたしの班は結構上手くいっていた。この調子だと一番早くに出来上がるかな、と壁の時計を見た時、
「プシュウウー…!」
「マチコ!何よそ見してんのよ!」
班員のカノンの声が飛んで、びっくりして振り向くと、鍋から沸騰したお湯が溢れていた。
「あっ!!ごめん!」
 わたしは急いで火を止め、水浸しになってしまった机を拭いた。
「全くもー信じらんない!!何でそういうことするわけ!?……あー、これで一番乗りじゃなくなった!」
カノンが聞こえよがしに言った。
 必死に拭きながら、他のクラスメイト達が好奇の目でわたしを見ているのを背中で感じた。


 「ただいまー。」
 リビングのドアを開けて部屋に入ったわたしは、昨日と同じスパイシーな匂いが部屋に立ち込めているのに気づいてぎょっとした。
「うそでしょ……。」
そしてアップライトピアノの上には、昨日と同じように頭が割れたピニャータ人形が座っていた。
「また?……」
 こんな偶然、あるだろうか。怖くなって、わたしはまた破片を集めて人形と共に自室のゴミ箱に捨てた。

 水曜日。
 「じゃあ今日はここから弾いてみようかー。」
 毎週水曜日はピアノのレッスンがある日で、今は地域のコンクールに向けて練習しているのだが、この日はどうも調子がよくなかった。
「あっ。」
「んー…今日はどうもここで引っかかっるみたいだよねー。先週までは全然問題なかったのに、どした?何かあった?」
「大丈夫です…。多分、ちょっと今日調子悪いだけだと思います……。」
 先生にそう言いながら、わたしは心の中であのピニャータ人形のことを考えていた。今日学校から帰ってきた時、家のピアノの上に人形はなかった。でもその代わり、ピアノ椅子のクッションの上に、赤い毛とオレンジの毛が1本ずつ散っているのを見つけたのだ。そういえば月曜日に最初に人形が割れた時、あれは赤い髪の人形じゃなかったか。そして昨日割れたのはオレンジ色の髪の人形じゃなかったか……。


 「ただいま…。」
 リビングのドアを開けるなり、わたしは鼻に入ってきた匂いにぞっとした。またあのスパイシーな香りがするのだ。
 そしてアップライトピアノの上には、やはり頭が割れた人形が座っていた。
 周りに散らばった破片には、黄色の毛が付いている。これがこの人形の髪の毛であることは疑う余地もないだろう。
「もうだめ……どうして、どうしてこんなことになってるの…。」
 わたしはお母さんを呼んで人形を見せた。お母さんは壊してないと全力で否定し、わたしが人形を壊してしまったことを隠そうとしているのではないかと言ったが、2日前からの話をすると神妙な顔つきになり、お寺に持っていって供養してもらおうとまで言い出した。

 木曜日。
「あ、マチコさ、雑巾がけやってくんない?」
 掃除の時間、わたしはカノンに頼まれた。カノンはわたしの胸に雑巾を押し付け、掃除用具のロッカーを開けながらぼそっと言った。
「アンタ得意でしょ、一昨日も同じことやってんだから。」
 わたしは自分の耳を疑った。確かにカノンは苦手なタイプだったし、クラスでもいじめっ子のリーダーみたいだったけど、自分がその標的にされるなんて思ってなかった。調理実習で吹きこぼれを起こしちゃったことが原因だとはすぐに分かったけれど、そんなことでいじめられるなんて、実感が湧かなかった。
 「あ、この辺ゴミ多いねー。」
そう言いながら、雑巾がけしているわたしの近くで、カノンが派手にほうきを動かす。それに合わせるように、他の班員もわたしに向かってほうきを振った。廊下のほこりがわたしの顔の前で舞い、わたしは咳込みながら涙が出そうになるのを我慢した。


 「………。」
 今日のリビングの匂いは、鼻を詰まらせていたためあまりよく分からなかった。ピアノの上には緑の繊維や茶色い破片が散らばっているようだったが、ほとんど見ないでゴミ箱に捨てた。しかし緑の髪の毛の1本が潤んだ視界の床の上に落ち、わたしの顔は勝手に歪んでいった。
 なんで、どうして。この人形も、ピアノも、カノンのことも…どうして最近こうも悪いことばっかりなんだろう………。
 今日のことは、当然お母さんには話さなかった。


 金曜日。
「え………。」
 まさか、まさかこんなドラマか何かみたいな展開、自分に起こるはずはないと思っていたのに。
 朝、登校して下駄箱を覗くと、上履きがなかった。失くしたなんてことはあり得ないし、昨日ここに入れて帰ったのは確かだ。だとすれば…。
 わたしは真っ先に他の人のところを確認し、自分の上履きがないかチェックすることにした。ゴミ箱に入れられているなんて考えたくなかったし、他の人がいる前でゴミ漁りなんてできない。
 そうしている間にもクラスメイト達が登校してきて、おのおの自分の上履きを取って階段を上がっていく。どうにか見つけなければと焦り始めた時、
「………!」
上履きを入れるスペースと土足を入れるスペースをそれぞれ使って、2足の上履きが入っている人がいた。                                          
 そこにその上履きの持ち主が現れ、本来上履きを入れる方に入っている上履きを取った。その子はカノンの腰巾着であるミヨリだった。
「ねぇ、ミヨリ、どうして上履き2足も持ってるの?」
 わたしが聞くとミヨリは突然固まって、直後、もう1足の上履きを持って走り出した。
 「ちょっと待ってよ!ミヨリ!返してよ!わたしの上履き返して!」
 わたしは逃げるミヨリのランドセルを追いかけ、階段を駆け上がった。
「ドン!」
「キャッ!!」
「ごめんなさい!!」
途中、誰かに肩がぶつかったが、気にしている暇はない。
 2階に上がったところでミヨリがさらに上へ上がっていくのが見えたので、わたしはその背中に向かって言った。
「今返さないなら、タケウチ先生に言っちゃうからねー!」
タケウチ先生というのは担任の先生のことである。それを聞いたミヨリは階段の途中でピタッと止まると、わたしの方を振り返った。憎悪に満ちた形相でわたしを睨むと、彼女は手に持っていた上履きをこちらに放り投げ、また階段を駆け上がっていった。

 上履きが自分のものであることを確認していると、
「マチコ……?」
後ろからサチコが歩いてきた。
「あっ、サチコー。おはよ。」
「マチコ…ミヨリとどうかしたの?」
「えっ?…な、なんで?」
 わたしはいじめられていることをサチコに悟られたくなかった。だからさっきの様子を見られてしまったと分かった時、頭が真っ白になってしまったのだ。
「わ、わたしが…?何でよ?」
「だってあれ、ミヨリのこと追いかけてたんじゃない?わたしにぶつかっても脇目もふらないでさ。」
 サチコの体が傾いて、天井と壁と床が傾いて、わたしはその場に崩れ落ちた。自分は親友に謝りもせず、自分は親友に謝りもせず……。


 「ただいま………。」
 日に日に自分の正気が吸い取られていくように感じる。帰るなり、ピアノの上で割れている水色の髪の人形を捨てると、わたしの脳裏にある推測が浮かんだ。
 このピニャータ人形が、呪いの人形だったとしたら?
 1日目、睡魔に襲われて筆箱を落とした日、ピアノの上で赤い髪のピニャータ人形が壊れていた。
 2日目、調理実習で失敗してカノンに目をつけられた日、オレンジの髪のピニャータ人形が壊れていた。
 3日目、ピアノのレッスンで上手く弾けなかった日、黄色い髪のピニャータ人形が壊れていた。
 4日目、カノンにいじめられた日、緑の髪のピニャータ人形が壊れていた。
 5日目、ミヨリに上履きを盗まれかけ、サチコにも迷惑をかけてしまった日、水色の髪のピニャータ人形が壊れていた…。
 あの後わたしはサチコに昨日のことと今朝のことを話し、それを聞いたサチコがタケウチ先生に言いつけてくれた。チクるといじめは悪化するともいうからこれが良かったのかは分からないが、今はサチコの行動に感謝すべきだろう。
 「ピンピンピンピーローリン…」
その時、スマホが鳴った。サチコからの着信だった。
 「今日大丈夫だった?この間言ってた叔父さんからのプレゼントの人形、どんなのなの?それが実は不吉な何かだったりしないかな?わたし親戚にそういうの詳しい人いるから、紹介しよっか?」
 わたしはサチコの優しさに感激したが、サチコをこの件に巻き込んでしまうような気がして、紹介は断ることにした。

 土曜日。その日はお父さんとお母さんが外出してしまい、わたしは家で留守番していた。残った2体のピニャータ人形は自室の机の上にあり、今日こそ人形がピアノの上にどうやって移動するのか見てやろうと思っていた。
 お昼になって冷蔵庫から取り出した作りおきのご飯を食べていた時、
「ガシャン!」
すぐそばからガラスが割れる音がして振り向くと、なんと窓が割られ、覆面の男が部屋に入ってきていた。
「キャー!!」
「落ち着け、落ち着け、僕だ。」
 男はわたしの方を向いて覆面を取った。その顔は…トシヒロ叔父さんだった。
「…ど、どうして……叔父さん………。」
「実はな、この前あげたピニャータ人形、あれ、大変な物だったんだよ。」
「大変な物?…」
「ああ。事情は後で説明する。あれ今どこにある?早く回収しないと、大変なことになる。」
「わかった!!」
 わたしはすぐに自室に行き、机の上から2つの人形を取ってリビングに戻った。
「叔父さん!」
「ああ、これだ!ありがとう。代わりの土産は後日渡しに行くから…」
 ところが、叔父さんが言い終わらないうちに窓の外に制服のお巡りさんの姿が見えた。銀の自転車をそこで止めると、すごいスピードで走ってきて、叔父さんを捕まえてしまった。
「強盗の現行犯で逮捕する!」
「違うんです!叔父さんはわたしを守るためにこの人形を!」
「そんな嘘をついて弁解しようとしたって無駄だ!お前はもう既にこの地域で3件の強盗を行って高価な人形を盗んでいるじゃないか!!」
 わたしはお巡りさんの言葉に絶句した。世界旅行をしていてほとんど国内にいない叔父さんが、そんなことをしていたはずがないからだ……。


 日曜日。
 昨日の騒ぎでお父さんもお母さんも憔悴し切ってしまったため、家の中は恐ろしく静かだった。
 その夕方、
ーーピーンポーンーー
インターホンが鳴ってお母さんが出ると、警察の人が立っていた。
「こちら、義弟様がお宅から強奪しようとしたお人形です。実は、大変申し訳ないのですが、我々の不手際で1体だけ破損させてしまって…。」
 そう言う男性が持っていたダンボールの中には、紫の髪のピニャータ人形と……頭の部分だけが粉々に砕け散った青い髪のピニャータ人形が入っていた。

 「えーつまりぃ、ここの長方形の面積が…。」
 月曜日。わたしは緊張しながら算数の授業を受けていた。
 この1週間、悪いことがあった後、必ずピニャータ人形が割れていた。
 それは逆に、ピニャータ人形がやって来てから悪いことが起き始め、その後にピニャータ人形が壊れたとも言える。
 ならば、悪いことがある前に、このピニャータ人形を壊してしまえばいい。そうすればもう人形の呪いはそこで終わるし、壊した人形が元に戻ってるなんてこと、これまでの1週間で1度もなかった。壊して、ゴミ箱に捨てて、そうすれば全てが終わるのだ…。
 どこに行っても、壊れなければ人形の呪いは持続する。昨日わたしはわざと残り1体の人形を受け取り、それを自分の手で壊そうとした。でもその後も夜まで警察の人がお母さん達と話し込んで、その後に壊そうとしたら「明日お寺に持っていくからやめなさい。」と言われてしまった。ほんとは昨日のうちに2体ともお寺に持って行って供養してもらうはずだったのに、土曜日の事件でそれどころではなくなってしまったのだ。
 今、わたしのランドセルには紫の髪のピニャータ人形が入っている。この2時間目が終わったら、中休み中にトイレに持っていって、自分の手で壊すのだ。

 ところが、授業は予定の時刻を5分過ぎても終わらない。みんなのそわそわした雰囲気が教室内に充満しているのに、先生は鈍感で全然気づいていないのだ。
「ということで、明日はカッコ5番からやっていきますねー。ハイじゃ号令。」
 よし!やっと終わった。わたしはランドセルのロックを外すと、礼をして頭を下げた体勢のまま中からピニャータ人形を引っ張り出した。

  "タッタッタッタッタッタッタッタッ…"
 授業が長引いたせいで、廊下にはクラスのみんなが一斉に出てきてしまった。ここでこの変な人形を抱えてトイレに向かうわけにはいかない。わたしは2階へ続く階段を下りて1、2年生用のトイレに行こうと走っていた。
  "タッタッタッタッタッタタダッ!"
「……!!」
 アッ!と思った時にはもう遅く、わたしは右半身を階段に打ちつけ、両手でピニャータ人形を抱えながら不恰好に階下へ転げ落ちた。
「ドサッ!」
 回転が止まって、全身がじんじん痛む。
 「大丈夫か!!」
 理科のマツナガ先生の叫び声が聞こえた。
 目の前では逆さまの3、4年生が数人、教科書やら資料集やらを抱きしめたまま引きつった顔でわたしを凝視している。
 踊り場の壁に掛かった抽象画が僅かに視野に入った。そこに廊下を走り回る同級生達の馬鹿騒ぎの声が重なり、わたしはこの怪我で済んだことが嬉しくて思わず笑みをこぼしてしまった…。

 「……………あ………ここは…」
 気がつくと、わたしは保健室のベッドで寝ていた。天井から下がるピンクのカーテンが、仰向けのわたしの前後左右を囲んでいる。
「これで……終わっ…!」
 つぶやきながら、わたしは我が目を疑った。カーテンの隙間から見える白いプラスチックの丸テーブルの上に、わたしと一緒に階段から落ちたはずの紫の髪の人形が置いてあったのだ。その人形の右足が動き、左足でも立ち上がり、胴体がまっすぐに直立し、支えていた手がテーブルから離れ……人形が2本足で立った。その人形の紫の髪がゆらゆらと持ち上がり始め、何かに引かれるようにふわあっと体が浮遊して、カーテンに影を落としたままわたしの左を通過して、真横を通って…。
 「まって!………どこに行くの………どこに行くのよ…」
 わたしはベッドから起き上がってカーテンを開け、窓の方へ向かうピニャータ人形を見た。呼応するようにその窓が開いて、その間にも人形は窓の外へと滑ってゆく。
「だめ…わたしが壊すの……なくなったら困るのよ!」
 わたしは窓から身を乗り出した。今ピニャータ人形を逃したら、もう2度と取り返せない。空へと右手を伸ばしたその時、フッと風の音がして、校庭が目の前に来た。何が起こったかすぐに分かった。
 ああ、そっちかぁ。
 わたし、ずっと勘違いしてたんだ。
 月曜日、眠くて筆箱を落としたりそのせいで先生に当てられたのは、わたしが夜更かししたからだ。でも、それ以外の悪い出来事って、みんなただの不運なのだ。うっかりお湯を吹きこぼした後にオレンジが壊れ、何だかピアノが上手く弾けなかった後に黄色が割れ、火曜日のことでいじめられた後に緑が割れ、水色が割れ、叔父さんが強盗で逮捕された後に青
が割れ…。
 でも、それだったら、急いで階段から転落した後に紫が割れないのはおかしい。つまり、順番が逆だったのだ。
 赤が割れた後にうっかりお湯を吹きこぼして、オレンジが割れた後にピアノが上手く弾けなくなって……そして昨日青が割れた後に、さっき階段から転げ落ちた。
 何でそんなふうに思ったかって?
 だって、地面に落下しながら一回転した時、上空で紫が割れたんだもの。
 


 
 
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