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パーティーの二日後、杏奈はドリス子爵家を訪れていた。あの日限られた時間で話をすることが難しいことから、シオンにドリス子爵夫人のお茶会に参加するよう指定されたのだ。
「お話は伺っておりますわ。ちょうど中庭のアナベルが見頃ですので、そちらも是非楽しんでくださいね」
ドリス夫人はメイユ夫人の友人で、温和な印象の老婦人だ。少し前から隠居生活を送っているため貴族の柵がなく、自由で快適な日々を過ごしているのだと言う。クロードに話したところあっさりと許可が下りた理由はそのせいなのだろうと杏奈は思った。
庭に出ると既にシオンは到着しており、その視線は少し離れた場所で談笑している令嬢たちに向けられていた。その眼差しは思いがけず優しいもので目を瞠っていると、こちらに気づいた途端にシオンは笑みを保ちながらも社交的な表情へと切り替える。
ほとんど表情を動かしていないその器用な変化に杏奈は感心しながらも、シオンを選んだことを後悔し始めていた。
聡明な上に社交にも長けたシオンは自分が敵う相手ではない。
「貴女に声を掛けたのはクロードへの嫌がらせになると思ったからですよ」
形式的な挨拶を終えると、シオンはあっさりと目的を明かした。
「この場を設けたのもその一環ですか?」
「それはアンナ嬢の話の内容次第ですね」
優雅な所作でカップを口につけ笑みをこぼすが、親しみのこもったものではなく優位に立つ者の余裕の笑みだ。
元より頼む側の杏奈の立場は弱く、促されるままに杏奈は伯爵家での扱いと現状について語ることとなった。
「幼い頃から冷遇されていたとしても、今は違うのだよね?そのままクロードの婚約者でいればわざわざ苦労する必要もないのに、あいつのことが嫌いなの?」
シオンはつまらなそうな表情で至極当然な指摘をした。恐らくシオンは杏奈の話に何の興味も覚えていない。言葉遣いを変えたことからもそれがひしひしと伝わってくる。何とか自分の価値を売り込まなければと考えながら、杏奈は返事を返す。
「そもそも私はクロード様と婚約を交わしていませんわ。婚約届には当人たちの署名が必要なはずですが、記憶を失う前も後もそのような書類に署名をしておりませんの」
クロードとの関係を説明するために誤ってベランダから転落したことにより一時的に記憶喪失だったこと、またそれをクロードには告げていないことも打ち明けなければならなかった。
頬杖をつきどうでも良さそうな態度のシオンだったが、顔を上げると杏奈の目をじっと見つめて言った。
「アンナ嬢の事情は分かったよ。だけど、君は一体誰なのかな?」
驚きのあまり固まってしまった杏奈にシオンは冷淡な笑みを浮かべる。
「君の思考や行動には一貫性がない。記憶を失い行動に変化が生じたとしても、記憶が戻った時点で過去の影響を受けるはずなんだよ。それに君は何度か自分のことを名前で呼びそうになっていたよね。アンナ嬢が転落する前と後でそれが顕著なのだと僕は思っているんだけど、どうだろう?」
シオンの瑠璃色の瞳が輝いているが、それは獲物を前にした肉食獣のような凶悪な光で杏奈は息を呑んだ。
「交渉相手を騙そうとするのは得策じゃないよ。だけどその点が唯一僕の興味を引いたのだから、素直に話すなら聞いてあげてもいい。自立したいという君の手助けをしてあげるかどうかは別問題だけど」
シオンの洞察力に驚嘆したものの、これ以上話をしてもシオンが納得するような提案はできないだろう。そんな落胆と傲慢な態度への意趣返しになればと、杏奈は半ば捨て鉢な気持ちで中身が入れ替わったことを告げたのだった。
(でもそれが正解だったなんて、本当に何が起こるか分からないものね)
シオンは杏奈の話を信じてくれただけでなく、強い好奇心を抱いたようで杏奈への助力を約束してくれたのだ。
貴族令嬢である杏奈が問題なくヴェルス伯爵家から離れられるように、計画を立て実行するまでに必要な根回しや準備を全て整えてくれた。
(さすがに婚約するのは行き過ぎだと思ったけど……)
一年間の期限付きであり、シオンとしても縁談を断る方便になるからと言われれば、手助けをしてもらっていることもあり最終的には了承した。
ドリス夫人のところで見かけた令嬢に好意を持っていたのではと確認すれば、妹だと笑われた。
ちなみにクロードと犬猿の仲になったきっかけは、妹に冷淡な態度を取ったからだと言う。そのシスコンぶりに聞かない方が良かったかもしれないと思ったものの、そういうところもシオンらしい気がする。
妹であるルフィナは可憐な愛らしい少女で、仲良くなれたらいいなと思う。
今日一日のことを思い出しながら、杏奈は痛ましい姿のクロをそっと撫でた。シオンに同じ素材の生地を手配してもらったので、届き次第自分の手で修繕していく予定だ。
ボロボロになった姿を見た時には泣きそうになったが、これからはアンナの代わりにクロを守ってあげたいと思う。
「アンナ、今少し大丈夫?」
「ええ、もちろんよ」
ヴェルス伯爵家を出た杏奈は一時的にファルケ伯爵の屋敷に滞在することになった。またしても居候になってしまったが、生活基盤が整うまではいてもらわないと心配だと言われて甘えることにしたのだ。
「シオン、今日はありがとう。結局何から何まで助けてもらって本当に何て言ったらいいか分からないわ」
「僕も楽しかったから気にしなくていいよ。それよりもアンナはよく頑張ったね。だからもう我慢しないで大丈夫だよ」
シオンの言葉の意味が分からずに、その真意を問い質すように見つめれば、瑠璃色の瞳が優しくアンナを見つめ返した。
心の奥底に沈めたはずの感情が込み上げてきて杏奈が息を詰めると、シオンは無言で杏奈の背中をあやすように叩く。
手放したのは自分なのだから泣く資格なんてない。それでもクロードの笑顔や優しい言葉が脳裏に浮かび、杏奈の瞳から涙が溢れる。
許せないと思うのにどうしても嫌いにはなれなかったのは、アンナにとってクロードは初恋の相手であり、杏奈もまたクロードに恋心を抱いてしまったからだ。
そんなことはシオンにはとっくに見抜かれていたに違いない。
知られていることで、甘えを許されていることで、杏奈は身体の力を抜いて涙を堪えるのを止めた。
(クロードを想って泣くのはこれが最後だわ)
全ての感情を洗い流すように嗚咽を漏らす杏奈に、シオンは静かに寄り添ってくれたのだった。
「お話は伺っておりますわ。ちょうど中庭のアナベルが見頃ですので、そちらも是非楽しんでくださいね」
ドリス夫人はメイユ夫人の友人で、温和な印象の老婦人だ。少し前から隠居生活を送っているため貴族の柵がなく、自由で快適な日々を過ごしているのだと言う。クロードに話したところあっさりと許可が下りた理由はそのせいなのだろうと杏奈は思った。
庭に出ると既にシオンは到着しており、その視線は少し離れた場所で談笑している令嬢たちに向けられていた。その眼差しは思いがけず優しいもので目を瞠っていると、こちらに気づいた途端にシオンは笑みを保ちながらも社交的な表情へと切り替える。
ほとんど表情を動かしていないその器用な変化に杏奈は感心しながらも、シオンを選んだことを後悔し始めていた。
聡明な上に社交にも長けたシオンは自分が敵う相手ではない。
「貴女に声を掛けたのはクロードへの嫌がらせになると思ったからですよ」
形式的な挨拶を終えると、シオンはあっさりと目的を明かした。
「この場を設けたのもその一環ですか?」
「それはアンナ嬢の話の内容次第ですね」
優雅な所作でカップを口につけ笑みをこぼすが、親しみのこもったものではなく優位に立つ者の余裕の笑みだ。
元より頼む側の杏奈の立場は弱く、促されるままに杏奈は伯爵家での扱いと現状について語ることとなった。
「幼い頃から冷遇されていたとしても、今は違うのだよね?そのままクロードの婚約者でいればわざわざ苦労する必要もないのに、あいつのことが嫌いなの?」
シオンはつまらなそうな表情で至極当然な指摘をした。恐らくシオンは杏奈の話に何の興味も覚えていない。言葉遣いを変えたことからもそれがひしひしと伝わってくる。何とか自分の価値を売り込まなければと考えながら、杏奈は返事を返す。
「そもそも私はクロード様と婚約を交わしていませんわ。婚約届には当人たちの署名が必要なはずですが、記憶を失う前も後もそのような書類に署名をしておりませんの」
クロードとの関係を説明するために誤ってベランダから転落したことにより一時的に記憶喪失だったこと、またそれをクロードには告げていないことも打ち明けなければならなかった。
頬杖をつきどうでも良さそうな態度のシオンだったが、顔を上げると杏奈の目をじっと見つめて言った。
「アンナ嬢の事情は分かったよ。だけど、君は一体誰なのかな?」
驚きのあまり固まってしまった杏奈にシオンは冷淡な笑みを浮かべる。
「君の思考や行動には一貫性がない。記憶を失い行動に変化が生じたとしても、記憶が戻った時点で過去の影響を受けるはずなんだよ。それに君は何度か自分のことを名前で呼びそうになっていたよね。アンナ嬢が転落する前と後でそれが顕著なのだと僕は思っているんだけど、どうだろう?」
シオンの瑠璃色の瞳が輝いているが、それは獲物を前にした肉食獣のような凶悪な光で杏奈は息を呑んだ。
「交渉相手を騙そうとするのは得策じゃないよ。だけどその点が唯一僕の興味を引いたのだから、素直に話すなら聞いてあげてもいい。自立したいという君の手助けをしてあげるかどうかは別問題だけど」
シオンの洞察力に驚嘆したものの、これ以上話をしてもシオンが納得するような提案はできないだろう。そんな落胆と傲慢な態度への意趣返しになればと、杏奈は半ば捨て鉢な気持ちで中身が入れ替わったことを告げたのだった。
(でもそれが正解だったなんて、本当に何が起こるか分からないものね)
シオンは杏奈の話を信じてくれただけでなく、強い好奇心を抱いたようで杏奈への助力を約束してくれたのだ。
貴族令嬢である杏奈が問題なくヴェルス伯爵家から離れられるように、計画を立て実行するまでに必要な根回しや準備を全て整えてくれた。
(さすがに婚約するのは行き過ぎだと思ったけど……)
一年間の期限付きであり、シオンとしても縁談を断る方便になるからと言われれば、手助けをしてもらっていることもあり最終的には了承した。
ドリス夫人のところで見かけた令嬢に好意を持っていたのではと確認すれば、妹だと笑われた。
ちなみにクロードと犬猿の仲になったきっかけは、妹に冷淡な態度を取ったからだと言う。そのシスコンぶりに聞かない方が良かったかもしれないと思ったものの、そういうところもシオンらしい気がする。
妹であるルフィナは可憐な愛らしい少女で、仲良くなれたらいいなと思う。
今日一日のことを思い出しながら、杏奈は痛ましい姿のクロをそっと撫でた。シオンに同じ素材の生地を手配してもらったので、届き次第自分の手で修繕していく予定だ。
ボロボロになった姿を見た時には泣きそうになったが、これからはアンナの代わりにクロを守ってあげたいと思う。
「アンナ、今少し大丈夫?」
「ええ、もちろんよ」
ヴェルス伯爵家を出た杏奈は一時的にファルケ伯爵の屋敷に滞在することになった。またしても居候になってしまったが、生活基盤が整うまではいてもらわないと心配だと言われて甘えることにしたのだ。
「シオン、今日はありがとう。結局何から何まで助けてもらって本当に何て言ったらいいか分からないわ」
「僕も楽しかったから気にしなくていいよ。それよりもアンナはよく頑張ったね。だからもう我慢しないで大丈夫だよ」
シオンの言葉の意味が分からずに、その真意を問い質すように見つめれば、瑠璃色の瞳が優しくアンナを見つめ返した。
心の奥底に沈めたはずの感情が込み上げてきて杏奈が息を詰めると、シオンは無言で杏奈の背中をあやすように叩く。
手放したのは自分なのだから泣く資格なんてない。それでもクロードの笑顔や優しい言葉が脳裏に浮かび、杏奈の瞳から涙が溢れる。
許せないと思うのにどうしても嫌いにはなれなかったのは、アンナにとってクロードは初恋の相手であり、杏奈もまたクロードに恋心を抱いてしまったからだ。
そんなことはシオンにはとっくに見抜かれていたに違いない。
知られていることで、甘えを許されていることで、杏奈は身体の力を抜いて涙を堪えるのを止めた。
(クロードを想って泣くのはこれが最後だわ)
全ての感情を洗い流すように嗚咽を漏らす杏奈に、シオンは静かに寄り添ってくれたのだった。
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